14話『末妹のアズラ』★
太陽が山々の影に隠れつつある頃、暗闇が覆いつつある草原に向けて足を進める。
やがて見渡せる葉っぱが広がっている丘。涼やかな風が吹けば野の花を揺らして木々の葉がこすれる音が聞こえてくる。
そこには山羊と向かい合って遊んでいたのだろうか、夕日に照らされて長い長い二つの影がこちらに向かって伸びてきていた。
「おーい!アズラ〜!」
今少し距離が隔てていたため、注意を惹くために大声を上げた。
振り返った幼い少女が目を細めてこちらを見ると、やがて寄ってくるアベルを認め、遠間からでもわかるほどパッと顔を明るくし、大声を上げた。
「アベルおにいちゃ〜ん!!」
ブンブンと両手を頭の上で勢い良く手を振るのは十歳の割に痩せたアベルよりもさらに幼く、小さい少女だ。
可愛らしい顔立ちで、その笑顔は子供らしい天真爛漫な明るさに満ちている。両親や姉のアワンから自然と可愛がられる愛嬌があった。
そして、手を振るだけでは収まらず、ぐんぐんと勢いよくこちらに駆けてくる。
そのまま走り寄ってくる勢いを殺さずに真っ直ぐにアベルに向けて突っ込んだ。
「んもう!遅いよ〜!」
突っ込んでくるのが体重が軽い少女とはいえ中々の衝撃ではあるが、走り寄ってくる姿に心構えをしていたこともあり、なんとかその勢いをアベルは己の華奢な体で抱き止めて抑え切った。
少女はそのまま「えへへ」と無邪気に笑み、抱き着いたアベルのお腹にぐりぐりと頭をこすりつけ、全身で親愛の情を表してくる。その様子は人懐っこい子犬さながらだった。
この人懐っこい幼い少女こそ、アベルの二人目の妹──アズラであった。
一頻りのスキンシップをしっかり堪能したあと、アズラは若干の不満を込めた非難を兄に向ける。
「アズラもう待ちくたびれちゃった!このまま夜になってもおにいちゃん来ないと思ってたんだから!」
「申し訳ないね。ごめんよ、アズラ」
悪気はないとはいえ、昨日の自分が約束を破った自覚があり、アベルが妹にあまり強く出ることが出来ない。
そこでアベルは、アズラのそばでむしゃむしゃと静かに草を食べていた大きな山羊にも声をかける。
「やあ!ケレン。今日は見かけないと思ったら、アズラと一緒にいたんだね」
アベルは少女の隣に横たわり草を時折食べている山羊を可愛らしく思い、喉を撫でれば心地いいのか目を細めている。
周囲の山羊たちと比較してひと際大きい「ケレン」と呼ばれた山羊は、首が逞しく、顎髭を生やし、四肢もスラっとしている。
大人しい性格だが、何よりも目立つその四本の立派な大角を備えるさまは貫禄すらも感じさせる。
メエェェッ!
アベルのスキンシップに応じて、山羊のケレンは親愛を示すように鳴き声を上げる。
そして、そのままアベルと合わせるように自身も距離を詰め──三日月のように反り返った角を容赦なくぶつけてきた。
「わ!待て、待って!痛いっ、こーら!ケレン!元気なのはわかったから痛い!」
決して嫌われているわけではなく、悪戯好きな性格をしたケレンのちょっと過激な愛情表現なのだが、ぶつけられている側としては結構洒落にならないくらいに痛い。
戯れる一人と一頭に、アズラは半眼で見つめ、横槍を入れる。
「起きたら一人でここに来ようとしたけど、お母さんがケレンと一緒に行きなさいって、アズラ一人でも大丈夫なのに......」
「ダメだよ。アズラ。猛獣に出会ったらどうするの?大自然は危険がいっぱいなんだよ?」
放牧において山羊は賢くリ─ダ─シップの強い生き物だが、狼などの外敵が襲い掛かって来た時も真っ先に騒いでその存在を知らせ、時には果敢に立ち向かっていく頼もしさも持ち合わせている。
その中でもケレンは群を抜いていた。アベルはそんな特技を持ったケレンを主に護身用に役立てていた。
「どうしてもひとりで行動するならせめてケレンをお供にしないと」
「むぅ、確かにケレンはすごく頼りになるから、いざってときは守ってくれるけどぉ〜」
不貞腐れながらもアズラもケレンの強さを認めている。それだけケレンはこの家族にとっては心強い存在で、遊牧民を目指すアベルにとってケレンは欠かすことのできない相棒でもある。
だからこそ畜獣に名前を滅多につけないのだが、アベルはこの山羊には特別に──巨大な双角に準なぞらえて──【大角】の名を与えた。
「ほらほら。ケレンもいい加減に落ち着いて?そろそろボクの体が保たないよ?」
齢こそ十歳を数えているものの、少食であまり栄養状態の良くないアベルは痩せ細っていた。そのため年齢よりも二、三歳は幼く見える。
山羊らの中で体格のいいケレンの顔がアベルの顔と並行すると言えばその小柄さが一目瞭然だろう。
さらに体重で言えばケレンの方がアベルの倍近くある。
そんな巨体から大きな固い角をガシガシと容赦なくぶつけられると考えればその恐ろしさはもはや凶器といってもよい。
メェエ〜!
アベルに優しく宥められたケレンはすぐに過激なスキンシップをやめた。
その代わりにアベルが呼んだ名に頷くように首を下げ、彼の顔に頭を近づけた。
「っ、ふ、うははは」
舌で柔く撫でるようにぺろぺろと顔を舐められ、くすぐったいのかアベルは声を上げて笑っている。
そのうちに彼も手を伸ばし、ケレンの頭に手を伸ばした。
「ありがとうね。ケレン。ぼくが来るまでアズラのお守りをしてくれたのだろう?」
アベルの細く白い手が、形を確認するようにその輪郭をなぞると、ケレンは何かに応えるように額をすり寄せてくる。
そのパタパタとさせる尻尾を見るに喜んでいると見える。
「あはは、この様子だとたくさん待たせちゃったかな?」
「たくさんどころじゃなーい!今日だけじゃなく、昨日だってアズラは一日中ずーーと、ずーーっとアベルお兄ちゃんのこと待ってたんだよ!!?」
「う......それはね、アズラ」
「朝の放牧終わったら、アズラと花摘みしてくれるって言ってくれたじゃん!なのにカインお兄ちゃんと一緒にいるし、今日だってここに来るまでアワンお姉ちゃんと一緒にいたでしょ!」
どうやらアズラは自分だけが蚊帳の外であることにひどくご立腹のようだ。
「そういうお話だったよね。正直に言い訳すると、実は昨日の放牧中に色々あって“私用”ができちゃったんだ」
「“しよー”?」
「えっと、“自分のための用事”ができたってことだよ」
難しそうに首を捻るアズラに思わず苦笑するアベル。
膨大な知識に目覚めつつあるアベルとは違ってアズラは見た目通りの幼子であるため、語彙がまだまだ足りていないのだ。
それでもそんな妹が可愛らしいと思うアベルはいつも丁寧に対応する。
「ふ─ん。まぁいいや。とりあえず早く例の場所!連れて行ってよね!」
「もちろん。埋め合わせはちゃんとするよ。じゃあケレン、ここからぼくがアズラを面倒見るから、先に帰っててね」
メェエエ〜!!
山羊のケレンはまるで快く返事をするように鳴くと、ゆったりとした足取りで棲家の方向へ歩いていく。
本当に頼りになる上に、賢い子だ。
「アベルお兄ちゃん!」
「ん?」
「おんぶして!」
「ふふ、はいはい」
アズラのおねだりが微笑ましくて、アベルは後ろを向いて手招きすると、すぐに覆い被さる勢いでアズラは彼の首に両手を回して、背中にピタッとくっついた。
「じゃあ、いこっか」
「うん!」
今日一番の、アズラからの元気な返事だった。
◇◇◇◇◇◇◇
「うわぁあ〜!」
そこには、軽やかに蝶が舞い、可憐な花が一面に競うように咲いている。
まさに「百花繚乱」。
美しい風景がそこにあった。
「すごい〜!お花がすごくたくさん!きれ〜い!」
アベルにおんぶされたアズラは、大地に足が着くと一目散に駆け出した。
この頃は丁度春で、様々な植物が育ち、美しい花畑で遊ぶのにもってこいな日だった。
夕日の下、赤や黄色、白色に水色等に染まった花が陽光を反射し、いつもより輝いて見えた。
たくさんの花咲く花たちがその空間を「花の海」へと飾っていた。
「アズラ!走ると転んじゃうよ?」
「きゃ、」
そう注意された途端、ころりと転ぶのがお約束である。
「だからいったのに.....」
苦笑い気味に慌てて駆け寄って来たアベルが、寝転んだままのアズラに手を差し伸べてくる。
しかし、アズラはその手を取らず、空を仰ぐために体の向きを変えると、くすくす笑い出した。
「アズラ......?」
「すごい!すごい!お花のベットにねるの、ゆめみたい!」
くせっ毛の白銀の髪に葉っぱをつけ、少し湿った土で頬を汚しながら、アズラは無邪気な笑い声を上げ続けた。
「春の匂いがする!空も青くて、すごくすごく綺麗。風も気持ちがいい〜!タンポポって思っていたよりも柔らかいし、あんまり匂いはないんだね。知らないこと、たくさん!」
アズラはまたころりと反転して、ようやく半身を起こした。
「ありがとう、アベルおにいちゃん!アズラすごく嬉しい!こんなきれいなところに連れてきてくれてありがとう!」
アベルを覗き込むようにして感謝を述べるアズラの頬は、薔薇色に染まっていた。
潤みがちの黄金の瞳が、春の日差しを受けてきらきらと輝いている。唇からは、惜しげもなく白い歯がこぼれていた。
「ずっと来たがってたもんね......」
ここの花畑はアズラがずっと来たい場所だった。
アベルは、この日をずっと待ち侘びていたきらきらと黄金色に輝くアズラの目が好きだと思った。
「ねぇアベルお兄ちゃん!お花の冠の編み方教えて!上手く作れないの」
「ああ、そこはね、そうじゃなくて葉っぱの所をクルッてするんだよ」
一方で、アズラもこの時を何よりも愛おしく思っている。
森の奥、自分達の他にはない気配。
時折頭上で囀る小鳥と、遊んでとせがむように葉を揺らす風の動き。
「あっ、葉っぱ折れちゃったぁ」
「あはは、力入れすぎちゃったね」
「アズラ、これ向いてない......」
「大丈夫だよ。こういうのは慣れだから」
「でも、さすがにこれはヘンテコすぎ!」
アベルが綺麗に作られた花の冠とは真逆に、アズラはくしゃくしゃとした茎がボロボロで花びらが何枚か散ってしまった。
花の冠には見えない低劣な物体を両手に持って、同時にあははと可愛らしく笑った。
この時が好き。大好き。
この瞬間、アズラの心が満たされているのが分かる。
「そういえば昨日はなんの用事だったの?アズラとの花摘みよりも大事なことなの?」
「う......」
子供らしい舌っ足らずな声音でこてんと首を傾げる幼い妹の仕草に、アベルの罪悪感が増す。
「やっぱり気になる?」
「うんっ!だってその用事でアズラとの約束がパ─になっちゃったんでしょう!?」
「......実はね、ボクの不注意で、放牧していた羊たちが畑を荒らしちゃったんだ」
「畑ってもしかして、カインおにいちゃんの?」
「うん。だから償いとして、畑の後処理の手伝いをしてたんだ」
そのあとは畑の見学の申し出や、日が暮れるまでお迎えに行って山羊の乳の差し入れしたことは、この際内密にしようとアベルは思った。
そこまで白状してしまったら、アズラを蔑ろにしているようなものだと傷つけかねないからだ。
「カインおにいちゃんの畑、まただめにしちゃったんだね」
「うっ、そうなんだ。それでアズラとの約束も守れなかったんだ。本当にごめんね」
「カインおにいちゃんすごく怒ってたでしょ?」
「まぁ、その、そうだね、当たり前だけど......ものすごく怒ってた」
「じゃあ、いいよ」
「え?」
「昨日カインおにいちゃんにもうたくさん怒られたでしょ?じゃあアズラまでがアベルおにいちゃんに怒ったらかわいそう」
「あはは......、アズラはとてもやさしい子だね。そんな理由でボクを許しちゃっていいの?」
「だって、カインおにいちゃんいつもアベルおにいちゃんにだけすごくこわいじゃん。昨日はきっとボロボロなくらいにたくさん怒られたアベルおにいちゃんをアズラは怒れないの!アズラはちゃんとやさしくアベルおにいちゃん許すの!」
「そっか......アズラの気遣いは嬉しいよ。ありがとう。でも、悪いのは畑を荒らしたボクだからさ」
「アベルおにいちゃん悪いことしてなくても、悪いことして謝っても、カインおにいちゃんは冷たいじゃない!」
「アズラは......もしかしてカイン兄さんのことあまり好きじゃない?」
「きらい」
アズラは不愉快そうに鼻に皺を寄せる。
あまりにも直球な評価に、アベルは思わず面を喰らうが、すぐに苦笑いをした。
「あはは......随分と素直に言うね」
「......だってあの人家族の中でも、アベルおにいちゃんにだけ一番やさしくない......アベルおにいちゃんをいじめる人、家族でもアズラが好きになるわけない!」
「そっか......、」
畳み掛けるような返答に今度こそ顎を引いて黙ってしまったアベルを、アズラは困った顔で見上げていた──身長差があるので、この近距離だと不本意ながら見上げるしかない。
もっともそのおかげでアベルの表情はよく見えた。なにか考えているようだが、あまりよくないことのようだ。証拠に顔が暗い。
アズラが出方を決めかねていると、
「......実はね......、アズラが生まれる前はね、カイン兄さんはとてもやさしかったんだよ」
「──え!?あのカインおにいちゃんがやさしい!?信じられなーい!」
「あはは、まぁ......昔のカイン兄さんを知らないとそういう反応になるよね。気持ちはすごくわかるよ?」
だって今のカインはアベルを嫌い、いつもそっけなくしていたし、ほんのたまにこちらの気持ちを無碍にできないお人好しな部分が見え隠れしていたけれど、基本的には酷薄に徹することのできる人物には変わりはないのだ。
「確かに特別に愛想があったわけじゃないけど、そこには家族への愛は、ちゃんとあったと思う」
「ふ〜ん。アズラには全然想像つかないな〜」
カインが本当は優しい兄だった、なんて言われたところで信じられないのは無理もない。
他者の話した過去の話より、自分の目で見た現実のほうが、遥かに説得力のある事実だ。
話したアベルだって、ふとあの頃の兄は実は夢だったのではないかと思うほどだった──それだけ過去と今のカインの人物像がかけ離れているのだ。
それでも、どこかの遠くにあったはずの記憶が幻影を否定してくれている。アワンがカインに恋慕な気持ちを抱くのも、あの頃のカインの優しさに触れたからなのだろう。
「だからカイン兄さんって本当はやさしい人なんだ。アズラにはそれだけは知っておいてほしい」
「......うーん、知ってもアズラは何も変わらないよ。過去のカインおにいちゃんがどんな人って知っても、今の冷たいカインおにいちゃんがアズラにとってそれがすべてだもん」
「大丈夫だよ。アズラ。きっといつか兄さんは昔の兄さんに戻ってくれる。そうすればアズラだってカイン兄さんを好きになれるさ。──だから、きっと大丈夫」
はは、とアベルが笑う。
楽しそうに見えるように、けれど本当は寂しそうに。
大丈夫、大丈夫。そうして笑って自分に言い聞かす彼はどれだけの無理をしてきただろう。自分のことはいつも後回しで他人のことばかり優先させて。
アベルはいつだって笑っている。
面白ければ笑うし、愛しいければ笑うし、悲しくても笑う。
いつも何でもない風を装って笑っている。
その裏でどれだけ傷ついているかも感じさせずに。
──それはたぶん彼が本当に強い人だからだ。
だが強い人といっても、結局は心ある人間だ。
明るい感情と同じだけ暗い感情があれば、浮かべた表情の後ろに曇りがあれば、それは自然と透けて見える。アベルをよく見つめる者ならそれが尚更よくわかる。
しかしそれを指摘すれば、きっとアズラの大好きなアベルは笑うことすらできなくなる。──それがわかったからアズラは幼いながらもそれを忖度した。
「......アベルおにいちゃんは、カインおにいちゃんに元のやさしいお兄ちゃんに戻ってほしいの?」
「そう、だね。あの頃のカイン兄さんに戻ってくれるなら、ぼくもアワンも、そしてお父さんもお母さんもみんな望んでいるはずだし、アズラだって、カイン兄さんが今よりも優しくなるなら、そうなってほしいでしょう?」
「う、ん......」
アベルはずるい。
そう言われて、否定する者がいるだろうか。
かと言って肯定することで、自分の内情を欺瞞できるほど大人ではないアズラは煮え切らない態度で頷くしかなかった。
「ねぇ......アズラ」
不意に今まで柔らかかったアベルの声が、陰鬱に沈む。
「アベルおにいちゃん......?」
不思議な気分で声をかけると、アベルは顔を動かさないまま、とつとつと彼らしくない調子でアズラに言った。
「ぼくはちゃんと、カイン兄さんと兄弟でいられるのかな」




