13話『花咲く日を信じて』★
人は誰しも変わっていく。
それは、カインもアベルも例外ではなかったが、殊更にカインに関しては、その変化がとにかく著しかった。
昔は優しかった彼も、多くの経験を経て、今の排他的で厳格な性格へと変わった。それには必ず「理由」があるはずだとアワンは思っている。
(カイン兄さんがおかしくなった、理由......)
アワンの問い掛けにアベルは目を細める。それは遠い昔を思い馳せるような目つきだった。
懐かしくも愛おしい過去のカインとの記憶が流れていく。
(そんなの、)
変わってしまったすべて。
二度とは戻れない思い出。
アベルが心の奥底で取り戻したいと願う光景は、もう見れるものではない。
「────」
一旦目を閉じて開けたアベルには、一瞬感じさせた不穏な雰囲気はもうなかった。
「──ごめん。ぼくも、よく覚えていないんだ」
「・・・・・・そうですか」
アワンは元より期待薄なので、想像通りの返答に落胆はない。しかし、アベルの返答に一瞬の間があったことが気になった。それを問い質す前に、
「さて!羊たちの健康状態チェック完了!」
アベルが立ち上がって作業終了の宣言したために、それに関する話は打ち切られてしまった。
「......お疲れ様です。見た感じ、問題はなさそうですね!」
そうだね!そう言ってにこりとアベルが笑みを浮かべれば、アワンもそれ以上追求することはせずに口を閉ざした。
──まだ納得がいってなさそうな顔をしていたけれど。
「よし!じゃあ、次は乳搾り作業に入ろうか!」
「──はい」
そこから、二人は特に会話することなく、淡々と羊たちの搾乳作業へ没頭するのであった。
搾乳作業は、かなりの力仕事である上に、長時間にわたるため辛いものとなる。しかし、アベルはこの作業が苦ではなく、むしろ好きだった。
羊のほわほわした柔らかい毛に触れることができるし、何より搾乳時に触れる家畜の乳房の温かさや柔らかさがアベルを落ち着かせる。
そう、いつもならアベルにとっては癒しの一時。なのに、今日は、気遣いを求められるただの気まずい時間と化している。
(なんだろう......落ち着かない)
これも、アワンが変なことを言ったせいだ。
「────」
「────」
落ちたどことなく重い沈黙に二人で無言でいられるより、喋っている方が気が紛れて気分が楽になるものだとアベルは痛感した。深呼吸してから、今度は彼から口を開いた。
「アワンは......、カイン兄さんが変わってしまっても、ずっとそばにいるんだね」
「え?」
投げられた言葉の内容にアワンが少しだけ驚いた表情を見せた。
振り向いた先には、アベルが俯きがちにこちらを窺い見ていた。
「ぼくとしては正直アワンが羨ましいよ。カイン兄さんを怒らせるところ見たことないし、一緒にいること許されていて、信頼もされているから。ぼくとは大違いだ」
「羨ましい?」
アワンは顔を上げると、無表情の中にも怒りと悔しさが滲む表情で見上げてきた。
「──それは、こっちのセリフです」
「え?」
アワンは心外だと言わんばかりに顔を背けた。その短い返答の意味が理解できず、アベルは訊き返した。
アワンは、今度は言葉を増やして答えてくる。
「だから、羨ましいのはこっちの方です。いえ、嫉妬さえもします。だから今朝は柄にもなく八つ当たりをしてしまったのです」
「えっ、と?ごめん、どうしてアワンがぼくに嫉妬なんて......間違いなくぼくは家族の中で一番カイン兄さんに嫌われているのに」
いかにも解せぬと言う表情をするアベルに、アワンは緩く首を振り、明後日の方向へ向きながら答えた。
「嫌われるリスクを背負ってまであの人と懇親を深めようとするのは、わたしには到底ムリですから......アベル兄さまの目にわたしたちがどういう関係性に見えているのかはわかりませんが、もし勘違いしているようであれば訂正します」
アワンは急にアベルを見上げた。そこにはいつもの無表情が少し崩れている。
むしろ悲しそうで、切なそうで、アベルは驚いてしまった。
「カイン兄さまは、わたしにそばにいることを望んでいるのではなく、正確的に言うと、わたしが勝手にカイン兄さんのそばにいるだけなんですよ。わたしは、カイン兄さまに対しては当たり障りのない言葉しか掛けられない。いえ、それしかできないからです」
何もしない方が、あの人から嫌な顔をされずに済む。
何もしない方が、あの人のそばに長くいられる。
何もしない方が、あの人との関係はうまく回る気がした。
だから追及もしない。深追いもしない。
本音を見せず、建前のみ。
一定の距離はずっと縮まらない。
きっとカインにとっては心地よく、そしてアワンにとっては少しだけもどかしいような、そんな関係。
「だから、あの人にとってそんなわたしが側にいても、いなくてもどうでもいいのですよ」
まったく眼中にない存在──それがカインにとってのアワンと言ってもいい。
「初めは、それでよかったんです。あの人の側にいれるだけで充分に幸せですから」
期待をして失意に叩き落とされないよう、無駄に傷つかないように。
それがアワンなりの線引きであり、優しさであり、一種の自己防衛だとしても、それで彼女は満足だった。
一方、アベルは、
(アワンに悪いこと言っちゃったな)
アワンからの感情の吐露を受け止めたアベルは、今朝無責任にアワンに告白を勧めた事を後悔した。
フラれるどころか告白する土俵にすら立つことなく終わる事を受け入れていたアワンには大きなお世話だったのだ。
だからアベルは、謝罪の代わりに「うん。そうだね」と静かに同調した。
「ですが、日々全力であの人に向き合って、ぶつかっていくアベル兄さまを見ているうちに、最近、少しだけやきもきする自分がいるのです」
そう、確かに最初は表面上の関係を甘受していた。
なのに、今ではこんなにも口惜しい──。
(欲張りになっては、だめなのに、)
その度にアワンは雑念を振り払い、見て見ぬふりをした。
兄妹以外の余計な感情や関係は、カインにとってはきっと足枷にしかならないだろうから。
ふわりと浮ついたこの想いに、名前は付けない方がいい。
兄妹という崩れはしない絶対的不変な関係の方が、きっとずっと楽だ──そんな葛藤の日々に苛まれることになるなんて、
そんなアワンの内情を知ってるか知らずか、アベルは口を開いた。
「......アワンは強いね。そこまで苦しんでるのに、まだカイン兄さんの側にいようとするんだね」
「逆ですよ。わたしは強いなんてありません。むしろ弱いのです。あの人とぶつかり合うこと、そして嫌われるのはとても怖い。真摯に向き合うことに逃げている。どうしようもなく、わたしは臆病者なのです」
アベルを見上げる黄金の瞳は悲壮さを帯びており、笑んだ唇に歪められてしまった泣きそうな目元が、ひどく痛々しいものに見えた。
どこか遠くを見るような眼差しをして、アワンはほんの少しだけ泣き笑いの表情で言った。
「今のカイン兄さまは畑以外のことには無関心です。家族ですらあの人にとっては気にも留めないものに過ぎない、他人には本心をもって接するに値しないんです。だからあの人は自分以外に距離を置いて、拒絶して、自分の世界に足を踏み込ませないのですよ」
アワンは言い立てたが、ふと語調を弱めた。一瞬の間をおいてから、ふてくされたように続ける。
「でも、わたしが思うに、アベル兄さまは例外です。──カイン兄さまの心を開かさせることができるのは、あなたしかいません」
「ぼく、が?」
アワンが自分に向かって言われた言葉が上手く飲み込めない。
カイン自身から最も遠ざけられて、関わる事すらも拒絶された自分がどうしてカインに心を開いてもらえるのか。
アワンは山羊の乳を搾りしながら背を向けてアベルに答えた。
「カイン兄さまがありのままの感情を隠さずに、わざわざぶつけるのはあなただけ。カイン兄さまが唯一自分のままでいられる相手は、アベル兄さまだけなのです。それってどれだけ特別なことなのか、わかります?」
───あの人の瞳に映る、あなたが羨ましい。妬ましい。
アワンの瞳がそう告げていた。
「悔しいけれど、わたしはアベル兄さまにお願いしたいのです。──カインお兄さまを、救ってあげてください」
他人を頑なに拒む心の呪縛から。
他人を遠ざける孤独の沼から。
「......そうは言っても、いくらぼくでも露骨に嫌われたらやっぱり傷つくよ」
そんなアワンの懇願にも似た言葉に全霊を投げ打って答えてあげたいと思う一方で、縋りついてくる彼女を払いのけたい衝動もまたアベルの本心だった。
「だって、もう潮時かもしれないんだ。ついさっきぼくは完全に拒絶された。家族なのに、ぼくはもうカイン兄さんとは疎遠になりそうだよ」
刹那、今朝のカインとの対話がフラッシュバックする。
『もう、オレに構うな』
兄の唇から積み重なる言葉のせいで、あの朝の始まりに言われた言葉が、自分の中で思ったよりも気持ちの悪い感触を残していたことに気づいた。
「なんだか、今更の話ですね」
「い、今更って......」
「カイン兄さまからの拒絶なんて今に始まったことではないじゃないですか。いつものアベル兄さまはそんなのお構いなしでしょう」
「そんなこと、あるけどさ......」
呆れ返りながらも嘆息を吐き出す。そんなアワンの指摘に、アベルはしょぼくれた子犬のように眉を下げていた。
「アベル兄さまが諦めてしまったら、カイン兄さまは本当の意味で一人になってしまいます」
「でも、ぼくはもう、これからカイン兄さんにどう接すればいいのか、正直分からないんだ」
アベルは弱音を吐いた。
家畜のの乳絞りは慣れたものだが、いい知恵は絞っても出なかった。
どれだけ考えても、兄との仲を改善する余地がなかった。さすがにあれだけハッキリ強く拒絶をされてはお手上げなのだ。
「別に無理に接する必要もないんじゃないですか」
「え、どういうこと?」
「絆を深めるのに、言葉を交わすだけがすべてではないですよ。必要なのは相手を思いやる気持ちです。だいたいアベル兄さまはいつもぐいぐい攻めすぎるんです。たまには引いてみて、遠くから見守るのも手ですよ?」
──遠くから、見守る。
そんな考え今までなかった。
───ああ、そうか。
「アワンはいつもそうしてきたんだね」
「......!」
「ずっと、見守ってきたんでしょう?」
「......わたしは、アベル兄さまみたいまっすぐ向き合えませんから。それくらいのことしかできないのです。色々偉そうなことを言ってきましたが、アベル兄さまにはアベル兄さまなりにできることがあるはずです」
優しく諭すような言葉に、アベルの視線がそちらへ動く。
「人の気持ちなんて何処でどうなるかなんて確証はないけれど、ないからこそ…...、育てる事も出来るのだと思います。例えるなら、それは花のように」
「花?」
「そう、花です」
種を蒔き水を与え、芽吹いたら、枯れてしまわぬよう腐ってしまわぬよう、ずっと目を離す事なく傍に居れば、きっといつか…...、
「いつか想いが花開き、実る時が来るって信じて、せめてあの人から離れないでいてあげることくらいは、できますよ」
花に咲き実る。
それはいつなのだろうと、アベルは考えた。
きっと途方もなく、長く険しいものであることには違いない。
それでも、
「そばにいるのです。なんでもいいから、とにかくそばにいるのですよ。ひっそりと目立たなくても」
最後にはやはり、大事な人から疎まれない距離に立つ道をアワンは選ぶ。そんな決意が見られる。
「わたしたちがあの人を心から思ってやれば、それがいつか届くことはあるかもしれません。でもそこで見限ってしまっては、それこそ永遠にあの人は心を開いてくれない。そんな気がします」
アワンの飾りのない言葉は、まるで清水のようにアベルの干涸びた心を潤してくれる。
「“実るまで育てる”......かぁ、カイン兄さんが好きそうな例え、だね」
「まぁ、カイン兄さまの場合、たとえ花が咲いてもすぐに枯れてしまう可能性はありますが」
「あははっ、なにそれぇ!」
変わらずの真顔なのに、直前になって冗談に変えてきたアワンがおかしくて、思わずアベルは破顔した。
心なしかそこにずっとこびりついていた憂いが晴れたように見える。
◇◇◇◇◇◇◇
乳搾りの仕事がひと段落付き、周囲を見渡すと起きた時は薄暗かった高原もしっかりと太陽が顔を覗かせていた。
露が落ちた牧草が日に照らされてきらきらと輝き、なんとも気持ちのいい朝を演出していた。
「よし!とりあえず今日はこれだけ搾れれば十分かな!」
アベルは立ち上がり、痺れた体をほぐすようにその場で背伸びをした。
「なんだか少し、スッキリした気がする。少し吐き出せたおかげかな。アワンのおかげだよ。ありがとう......」
「ならよかったです。いつまで経ってもそんな辛気臭い顔されては、わたしも息が詰まりますし、なにより、そんな顔でこの後アズラに会われてはさすがに頂けませんので」
「え、ぼくってそんな沈んだ顔してた?」
「隠そうとはしていてもバレバレです。お母さまも気づいてるはずですよ」
「げ、ぼく一人で空元気やっててなんだかマヌケだなぁ」
「よくカイン兄さまに言われてますもんね」
「うぅう......」
山羊の乳絞りが終わったアワンは立ち上がり、両手に山羊の乳が入った桶を抱えて振り返った。
「さあさ、残りの作業はわたし一人で充分ですから。あなたはアズラに会いに行ってください。あの子もそろそろ起きて先に待ってるはずです」
「え...でも...」
「行ってあげてください。これ以上あの子を待たせるとヘソを曲がりかねませんよ?」
「機嫌が悪いアズラは怖いですから」
「そうかな?機嫌が悪いアズラ見たことないけど」
(そりぁ相手があなただからですよ)
どこまでも鈍感な次兄に呆れた視線を送ると、アベルが申し訳なさそうに言葉を続けた。
「じゃあ......今日だけお言葉に甘えようかな」
「ええ、どうぞ甘えてください。その代わりあの子のご機嫌をちゃんと直してくださいね?」
努力するよ、と伸びをして気を抜くと途端にアベルの育ち盛りの肉体が空腹を主張するようにきゅうきゅうと腹が鳴った。
「アズラの元へ行く前に、ちゃんと腹ごしらえですね」
アワンが肩を竦めておどけて見せると、アベルは小さく笑って快くそれを承諾し歩き出した。
それにアワンが手を振り見送ると、踵を返したアベルはふと立ち止まってアワンに振り向いた。
「あ、アワン」
「?」
「ありがとう」
「──!」
「励ましてくれたんだよね?おかげで花の芽を摘まずに済んだよ。だから、すごく感謝してる」
(敵わないわ)
どれだけ妬もうと、気持ちの良いくらい真っ直ぐで、どんな相手でも真摯に接するアベルの佇まいは、アワンには到底手の届かない代物なのだから。
その言葉にアワンが、いいえと笑い返すと、アベルは拳を軽く握ってガッツポーズをとり、草原の向こうへ走って行った。
「いってらっしゃい」
細いその後姿を見送ると、アワンは青空を見上げた。
すっかり長兄に打ちのめされた次兄。
アワンを通して少しでも立ち直る手助けが出来ればいい、と思う。
後はアベルの心次第、あの難攻不落な長兄に立ち向かう勇気をどう取り戻すかだ。アワンに出来るのはきっとここまで。
最後まで手を貸せないのが悔しくもあるけれど、きっと足りない分はこのあと末っ子の妹が補ってくれることだろう。
──それでも最後に決め手となるのはきっと、アベルの精神力ではあるけれど。
「頑張ってくださいね。アベル兄さま」
少女の呟きは、遠くへ駆けるアベルに届く前に、風に浚われていった。




