12話『遊牧の朝』★
羊たちは草を食んでいた。
「さて、搾乳といっても、まずは羊たちを集めるところからですね」
アワンの言う通り、家畜を搾乳するにはまず住居周囲に放牧していた羊の群れを見つけるところから始めなければならない。
基本的に早朝から畜群は囲いに入れたりせず、住居の周囲の牧草地に放し飼いにしているからだ。
羊の場合警戒心が強く群れを作り、危機を察知した一匹が動くとみんなそれに従うので、あまり長期間目を離していると新たなる餌となる牧草を求めて牧草地から群れごと離れていってしまう。
「ひっ、羊のみなさん!集〜合〜!」
初々しい動作でアワンが羊を招集にかけるも、当然ながら全くの無反応だった。
「だめでした。こちらを振り向いてもくれません......」
「あはは、もっと声を張らないと、あの子たちには届かないよ」
「そう、なんですね。これでも大声を出したつもりだったのですが」
「うん。こればかりは場数だからね。アワンは今日が初めてだから、大声で羊を招集するのまだ慣れていないからしょうがないよ」
「情けないです.....」
「恥じらうことないよ!でも牧畜って仕事はさ、家畜を導く状況ってよくあることだから、声って案外大事な仕事道具なんだ。だから少しずつでも家畜たちに声が通るようになれば、これからお手伝い役としてアワンも楽になると思うな」
アベルは物心ついた頃から、主に羊の飼育を手伝わされていた。農業を本分とする兄カインと同様に、アベルも自由な時間はなかった。
朝から晩まで羊の世話。羊の数を数え、羊に散歩をさせ、羊の小屋を掃除し、また羊を小屋に戻す日々。
家族が安定した生活を得るためには、羊を知り、羊と共に生き、羊に愛を持たねばならない。
自分たちの生命線が、この羊の群れなのだと理解し、そこに愛情を注いで育て上げ、最後には何の感慨もなく生きる糧とする───それが、羊飼いの仕事だ。
「わかりました。わたしももう十才になりますし、そろそろ家族のお役に立てるため、まずは牧畜のお仕事を習得できるようがんばります」
アワンの本音としては、本当はもう一人の兄であるカインの仕事──農業のお手伝いをしたいのだが、きっとそれは本人に拒まれるだろう。
「アワンは真面目だなぁ......とりあえず今日はぼくがお手本見せるから、アワンは見学としようね」
「アベルお兄さまはベテランですものね。お願いします」
アベルは屈託なく笑うと、
「ヒイーーーーーーーー!」
草原に響き渡る、まるで歌唱するような澄んだ大きな声であった。
アベルが発した言葉は──【クルニング】という羊を操る羊飼いの言葉であった。
このクルニングを使って、放牧で遠くに行った羊を呼び戻したり、移動の列を乱さないよう家畜に話しかけたり、狼や熊などの捕食者を追い払ったりする効果がある。
「ヒィー!!ヒィイイ~♪ティ~~キティキティキティキ!」
数キロ先まで届くほどの、リズミカルで驚くほどの声量。それに呼応してか、家畜達がピタリと動きを止める。
「す、すごいです。アベル兄さま!みんな反応してます!」
このどこまでも続く草原の中、アベルの声音が広く響き渡っている。
先程「声は仕事道具」だと言っていたアベルの言葉の意味をアワンは理解した。これであれば確かに羊飼いには羊を操る声は重要なものだ。喉を枯らしてしまったら、仕事にならないだろう。
「驚きました。あのアベル兄さまからこんな大きな声が出るんですね...」
「あはは、褒められるのは嬉しいけど、ここだけの話。ぼくに与えられた《神の遊牧》の効果も上乗せされていると思うんだよね」
「そうなんですか?」
「《神の遊牧》は牧畜に関わる作業すべてに役立つ能力なんだ。ぼくもアワンと同じ元々声が大きい方じゃないからね。このカリスマがなかったら、ぼくも家畜たちの招集に苦労したと思うよ」
「なんだかずるいですね」
「あはは、確かにぼくも偉そうな事を言った割には自分のカリスマに頼り切っているよね。だから、尚更ぼくにとって仕事上《神の遊牧》は欠かせないものなんだ」
「それはよくわかりました。──あら?」
何かに気づいたアワンは疑問を音にした。
アベルたちのいる丘の方へと徐々に集まり始めたのは、山羊だったからだ。
「えっと、アベル兄さま。今日は山羊ではなく、羊の搾乳をする番ですよ?」
なんで山羊を召集するのか、困惑したアワンを見て、アベルは説明した。
「実はね、山羊は羊を誘導するのにもってこいなんだよ?」
「どういうことです?」
「まぁ見てて、」
百聞は一見にしかず。
説明よりも実際に見た方が理解が早い。アベルはそう言いたいのだろう。言われた通りにアワンは事の成り行きを見守った。
しばらくすると、
メェエエ〜!
こちらに近づく山羊たちに気づいたのか、今度は羊達が頭を上げ方向転換し、山羊達へ追従し移動し始める。
「羊たちが山羊の後を......!」
「羊の群れにはね、上下関係がないから特に決まったリーダーっていないんだ」
羊は群居性が強くて、先を歩くものに従う習性がある動物である。故に羊にとっては自分だけ別の行動をすることは非常に不安なことで、一頭だけになるとパニック状態になってしまうことは少なくない。
「その習性で、群れの中のどれか一匹の羊が何かに気づいて反応すると、その他の羊たちもそれに付いて行っちゃうんだよね」
その割には羊自身はなぜ周りと同じ行動しているのか理解はしていなかったりする分、行動パターンも移動範囲も気まぐれで不規則なため、本来羊は本来放牧するには大変骨が折れる家畜なのだ。だが、そうした事態を避けるための知恵も遊牧民としてアベルは昔から心得ている。
それは、
「だからね、羊の類縁である山羊を二、三割ほど混ぜておくと、活発な山羊がリーダーになるんだ。それで群れの全体の統制が保たれるってこと」
結論として、山羊だけをコントロールすれば、人間はどんな大きな群れでも一人で思うままに動かせることが可能なのだ。
「なるほど。山羊のおかげで放牧の負担も一気に軽減されるのですね」
「そうそう。だから羊は基本山羊と一緒に放牧させてあげてね」
「はい。とても勉強になります。さすがはアベル兄さま。牧畜を生業とするだけありますね」
「えへへ。褒められると照れちゃうなぁ〜」
「ですが、日頃わたしが見るに、アベル兄さまは直接羊を放牧したり、招集してますよね?」
「それはね、自慢のつまりないけど、ぼくの場合はカリスマで自力で羊たちをコントロールできるから、山羊を使わなくても問題ないけど、アワンの場合はそうはいかないからね。ちゃんとコツを教えておこうと思って」
「なるほど。アベル兄さまなりに配慮してくれたんですね。ありがとうございます。カイン兄さまの《神の豊穣》はもちろんですが、アベル兄さまの《神の遊牧》もまたすばらしいカリスマですね」
アベルにしか与えられない──声一つでどんな家畜でも指定した場所に移動させることができる《神の遊牧》はやはり便利だと、アワンは改めて思った。
「あはは、そう改めて言われちゃうと照れるな。まぁぼくの取り柄ってこれぐらいしかないから......」
そう言って照れ隠しなのか、アベルは駆け寄って羊たちの間を練り歩く。それがアベルにとっての羊の健康状態や発育を確認する作業だ。
そこで、
「......あの、アベル兄さま」
「ん〜?なぁに〜?」
確認作業に勤しむアベルの背中に向かって、そこでアワンはそっと声を掛けた。
「その......、さっきはごめんなさい。意地悪なことを言ってしまいました」
「んー、なんのこと?」
「その、......往生際悪いとか、やけに刺々しい物言いをしてしまいました」
「ああ!別に気にしてないよ。それにあながち間違ってもいないかなって」
「え?」
投げられた返答にアワンは思わず目を見開く。
「改めてアワンに言われてよく考えたんだけど、確かに今までのぼくって結構しつこいのかもって思ってね、」
アワンに一瞥すると、アベルはそのまま羊たちの状態チェック作業を続けながら言った。
「カイン兄さんが嫌がってるのに、仲直りしようと躍起になって、たくさん話しかけたりして、」
「......」
「何度かカイン兄さんの畑を荒らしちゃったことだって、それ自体はぼくの不注意で起きた偶然だけど、でも結果それが兄さんとまともな会話ができる唯一の機会だって心のどこかで好都合と捉えていて──」
「......、アベル兄さま」
アベルへ向けるアワンの視線が鋭さを増す。
「あ、ごめん......これでも反省してるんだ。そんな怖い顔しないで」
なによりカインを大事に思うのがアワンのスタンスだ。
そんなカインの畑をまたしても荒らしたアベルの発言がアワンの顰蹙を買ったのだろう。
「カイン兄さまの畑荒らしの常習犯でその発言はさすがにどうかと、」
「ついこの間それでアワンに怒られたもんね。本当にいけないことだってちゃんと自覚してる......ボクがどうかしてたんだ。もうしない」
「......ならいいです。わざとじゃなくても同じ過ちを繰り返すことを甘んじているようでは故意と変わらないですし、何よりカイン兄さまに迷惑ですから、それはわたしが許しません」
「......あはは。耳に痛いな。恥ずかしいことにカイン兄さんにも同じ事を言われたよ」
顔を開いている手で覆い、アベルは絞り出すように、言葉を継いだ。
「アワン。ぼくって悪い人間なんだね。きっと家族のみんなが思っているほど真っ直ぐでもないし、どこまでも自分勝手で、どこまでも押し付けがましいんだ。結局変に空振りして、同じ轍を踏んで余計なを迷惑かけてばかり。そりゃカイン兄さんに嫌われても仕方ないなぁって、今更気づいちゃったんだ。あはは......なんかぼくって滑稽だよね」
ぽつぽつと胸中の想いをこぼすように続ける。そして、その声は僅かな涙声に変わり、
「あぁ......なんでかなぁ......、どうして、こんなことに......兄さん、あんなやさしかったのに、なんで急にぼくたち家族に冷たくなっちゃったんだろう......」
言葉を切り、アベルは弱々しい光を瞳に宿した。瞳に浮かぶのは涙ではない。ただただ空虚で、諦観に満ちた悲しみだ。
だがアベルの疑問に、アワンは答えることができない。それは彼女にだって知りたいことだったから。
だから、アワンは気の利いた言葉を紡ぐことすらできない。
アベルの寂しそうな背中にも、ただ純粋に家族として寄り添う事が出来ないでいる今の自分の感情に、アワンは黙って目を閉じるしかなかった。
そしてギュっと胸元を握り、アワンは思いを馳せるように視線を地面に落とす。
───そして、
「昔のカイン兄さまはやさしかったですね。不器用ながらも相手の気持ちを大事にし、慈しみ。分かりづらいけど実は誰よりも愛情深かった。お母さまもそうおっしゃってました」
「アワン......?」
唐突に長々と語り出すアワン。彼女は訝しげに瞳の色を変えるアベルを一瞥だけ寄越して、
「でも、ある日を境にカイン兄さまは変わってしまった。人から向けられるどんな好意であろうと、それを疎ましく感じる傾向がある。異常なまでに」
他者を寄せ付けようとしない彼はまるで自分以外との交わりを許さない、独りでどこまでも行こうとする。そんな目まぐるしく急変したカインの心の壁は、そんな簡単に崩れ去りはしないほど、厚く、強固なものに思えた。簡単には心を開いてくれない、すっかり閉じきってしまったみたいに。
そして、
「なにも、変わってしまったのは、カイン兄さまだけではありません」
アワンは独り言のように呟いてから、アベルに向き直り、
「──アベル兄さまも、ですよね?」
どこか疑念を含めた眼差しと共にそう言われて、思わずアベルは目を見開く。
その一瞬の停滞を見透かされまいと頬を掻き、アワンに動揺した顔を見られないようになるべく自然に背を向けつつ、
「あ、あはは......急にどうしたんだい?アワン」
「とぼけないでください。本当は自分が一番よくわかっているじゃないですか」
「どうして、そう思うの?」
「だって、アベルお兄さま。元々個人主義だったじゃないですか」
「......そうかな?」
「そうですよ。わたしあの時四才でしたが、結構意地悪されていたのちゃんと覚えてますよ」
「うむぅ、ごめんね?」
情けなく眉尻を下げて笑うアベルに、アワンは真剣な表情を崩さない。
こんな控えめで、遠慮がちな笑顔をする人ではなかった。どちらかと言えば、我が強く、意地っ張りな気質だったのに、今のアベルにはその面影も見られない。
表面的には、やんちゃだった部分は鳴りを潜めて、時折見せていた穏やかさが前面に出ているような。しかし、ふとした瞬間に卑屈で、感傷的とも言えそうな雰囲気が隠せていない。
さらに長い年が重なるにつれて、今ではアベルもその身に抱え込んだ苦悩を表に出すこともせず、家族に我儘を突き通すどころか、時には自分の意思を貫くことさえも諦めてしまっているように感じられる。
──それが血縁として長年アワンが感じていたこと。
やがては「大人」になることを思えば、子どもらしい無邪気さと意地悪さをいつまでも持ち合わせたままではいられなかったのだろう。けれど、カインとは別に、アワンの知っているアベルもあまりに不自然な形で変わってしまった。
言い様のない不安と疑念がこれまでずっとアワンの胸を覆い尽くしていた。そんなアワンの本意を察したのか、アベルは気まずそうに顔を逸らしてしばらくの間、口元を手で覆う。
何か悔いるように、耐えるように瞳を閉じてから、またフイと明後日の方角を向いて、
「・・・・・・あはは、アワンはちょっと大袈裟じゃないかな。成長すればぼくだって少しは協調性は出るし、性格も配慮深くもなるよ?」
「そんな年月による精神的成長ではなく、もう豹変と言ってもいいほど、二人の性格が急変したっレベルの話です」
アワンはふーっと息をついた。しかし、今度は追及を諦める気はないのか、言葉を続ける。
「カイン兄さまもアベル兄さまも、二人の仲が明らかにおかしくなってしまったのは、──あの日が関係しているのは間違いないです」
淡々としたアワンの述懐には喪失感と不審感が混じり合っていた。
「悔しくもわたしは熱で寝込んでいたから、“あの日”に何が起こったのかわかりませんでした。お父さまやお母さまは明らかに何かを知っているようでした。けれど、いくら尋ねても教えてはくれません」
気がつけば、アベルに小さな人影が差さる。見上げれば、すぐ近くまで歩み寄ったアワンが、真剣な眼差しでアベルを見ている。
「───アベル兄さまは」
不意に呼ばれた。
自然、背筋を正される感覚にアベルが彼女に向き直る。
「もしかしたら、何か知ってるのではないですか?」
二人の視線が絡み合うと、
「カイン兄さまがおかしくなった理由」




