8話『気持ち悪い』★
カインはしばらく、何も答えなかった。
しばらくすると、ようやく乾いた舌の根を動かすと、
「オレがアベルと絡むだけでこのご馳走って、大袈裟だろ」
「あら、あなたたち兄弟の日頃の関係性を考えたら、ものすごく喜ばしいことなのよ」
「......こいつがどうしても手伝うって、仕方なくだ」
あくまで自分は、不本意ながらアベルと行動してたとアピールしておく。
しかし、「いつものあなたなら頑に拒絶していたでしょう?」と言葉を寄越すエバを軽く睨んでカインは顔をそらす、
「そんなこと──」
「ないと言い切れる?」
「......。ただの気の迷い、だ。それも今回だけ」
鷹揚の無い声でそう言うと、カイン目の前のパンをお無造作に手を取り、はむっと齧りついた。が、すぐにその手を止めることになる。
「そのパンは、カインの畑から収穫した小麦から作ったものよね」
呟くような、歌うような声。なんの脈絡もない母の言葉に、カインが怪訝そうに眉をひそめた。
「次にこのミルクスープとチーズ、ラムはアベルが育てた家畜達から生まれたもの」
「お母さん......?」
「そしてこのイノシシの肉は、お父さんが狩りから命がけで戦って得たもの。最後にそれを私とアワン、アズラがおいしく調理するの」
「......急になんだよ」
妙に遠回しな改まった話し方に違和感を感じ、カインはじろりとエバ睨んだ。その視線を穏やかに跳ね除けて、エバは続けた。
「あなたたちの日々の労働のおかげで、こうして家族は食べていけるのよね。うふふ。お母さんの伝えたいこと、わかるかしら?」
──私たちはね、みんな支え合って生きているのよ。
「ぁ......」
「......」
気まずそうに歯噛みするアベルの傍で、カインは睫毛を伏せて内心舌打ちをした。
「まぁその、つまりだな、ワシも母さんももういい加減にカインとアベルがまた以前みたいにお互いに仲良くやってほしいんだ」
そんな長男の不機嫌さをいち早く察したアダムが、気を遣いながらカインの肩に手を置いて、真剣な眼をしてはっきりと言った。
「......またその話か」
カインは心底から辟易した。
こんなゆったりした夕餉の時まだそんな事を言うのかこの親らは。
実際、カインがアダムにこう言われたのは初めてではない。成長するにつれて弟のアベルによそよそしくなるカインは、今では機会さえあれば何度も、何度もこうして両親から同じ事を繰り返し諭されるのだ。
「いや、ワシもな?飯の時にこういう話をするのもどうかなと思ったんだが。カインはこういう家族での飯以外は常に一人でいようとするだろう?」
「別に。改まって話すことでもないだろ」
どうでもいいと言わんばかりの適当な返答をアダムは咎めるわけでもなく、ただ笑みを保ったまま呟いた。
「ここだけの話。母さんはな、お前たちのことをずっと心配してるんだぞ。最近のお前たち兄弟は特に衝突が多い。わしが見る限り、ほぼカインからふっかけているが」
「ふっかけたつもりなどない。コイツがいつも馴れ馴れしくオレに絡んでくるからだ。オレのことさえ放ってくれれば済む話だ」
「お前はアベルの兄だ。弟が兄に親しく声を掛けることの何がおかしい。アベルはお前の事を弟として慕っている。兄のお前がそれを過度に邪険するのはどうなんだ」
そこで一度区切り、アダムは不安げな表情を隠すことができなかった。言うべきか言わざるべきか迷い、結局、口を開く。
「───はっきり言って、今のお前は“異常”だぞ?」
途端──恐ろしいほど、カインは静まった。いや、静まったのは、声の大きさだけだ。
カインの目は異様な色でアダムを見据え、空気がまるで彼を押しつぶそうとしているように重い。
「はあ?」
逆鱗に触れたというに相応しい、取り付く島もなさそうな怒りの気配に、だがアダムは焦らずカインに言った。
「そうだ。お前の弟、アベルに対する態度が異常なのだ」
「異常?オレが?」
まずい。完全に怒ってる。
これはまた見事にカインの地雷を踏んでいる。傍に座るアベルは内心冷汗をかいた。
人間は案外図星を突かれると怒るものだ。
現にいつもとはレベルの違う冷ややかな雰囲気が出ているのがその証拠。それでもはアダムは黄金の瞳でカインをまっすぐ見据える。
成長するにつれて兄のカインは弟のアベルに頻繁に冷たい言葉をかけるようになった。
それは家族に対しては確かに頻繁にあったし、昔も確かにカインは不用意な言葉を他人にかけることはあったが、故意的ではなかったし、照れ隠しのような不器用な部分が見え隠れしていた。
だが、今の彼は完全に違う。
カインが兄弟姉妹の中でも、アベルを一際冷遇しているのは周知の事実。アベル関連の話になるとなぜかひどくご機嫌を損なう傾向がある。
だが、このカインの心外そうな反応を見るに、どうやらそれを異常とすら思っていないことに、アダムはひどく懸念している。
「逆に聞くが、カイン。お前はなぜそれを普通だと思える?アベルがお前に対して何か許せない事をしたか?」
「......」
「ないだろう?ワシら家族もみんな心当たりはない。ならなぜ、お前はそこまでアベルを嫌う?」
アダムは瞳に慈しみを湛えたまま、だけど、黙るカインを許す甘さも見せず、カインの瞳をじっと凝視した。
カインは諦念を含んだ無機質の声のまま、父を見ることもせずに、
「──アンタらには、わからねぇよ」
そう、言い放っていた。
家族とはいえ、他人に自分の考えの一つ一つを伝えるのは体力の浪費に過ぎない。そう思ったから。
しかし言ってすぐに、カインはこれがどうしようもない八つ当たりの類だと自覚した。
それも相手の理解の姿勢を拒絶し、心を断絶する最低の言い分だと。
沈黙が落ちる。
「えっと、お父さん!もうこの話はいいよ!......ぼくたちは大丈夫だからさ」
そこで、気まずい空気に耐えきれなくなったアベルが仲介しようと横からそう声をかける。
兄の発言がそれ以上の追及を拒む類のものであると知っていたし、父にもそれははっきりと伝わったはずだ。
何より兄弟の異様な確執の理由が執拗に踏み込まれるなんて逆効果だし、避けて欲しかった。
どこを掘り返しても、どこを見返しても、アダムが求める答えをカインが返すことはできない。
これ以上、この話題を掘り起こすことは、互いの傷を深める以外に他ならないのだから。
しかし、アダムもエバもその顔に浮かぶ表情は納得し切れなかった。
「どこが大丈夫だというのだ?今の現状よく見てみろ。お前とカインのギズギズした関係に、家族の空気まで悪くしちゃうのだぞ」
「それは......」
「今までは下手に口出しすることが出来ないから、二人を見守ることに徹していたが、お前たちの関係は悪化するばかりで親としてはもうこれ以上見ていられんのだ」
「......それは、ぼくが、いけないんだよ。いつもぼくがしつこく付き纏うのがいけないんだ。兄さんだって毎日農業で忙しいのに、」
「アベルよ。毎日家族に積極的に話しかけるのをしつこく付き纏うとは言わんぞ。それとこれは別問題だろうに。どんなに忙しくても家族での交流は必要なものだ」
片目をつむり、アダムは「なぁ?母さんや」とエバに同意を求めた。
それにエバも小さく頷いて肯定。
「そうね。家族だもの。コミニュケーションは大事よ。あなたたちあんなに仲良しで一緒だったのに。いつからでしょうね、......二人は口を聞くことが減って、今じゃまるでお互いを避けてるみたいで」
「そ、そんなことはないよ。お母さん!ボクたちは、」
「それはガキの頃の話だろう!親父たちは昔みたくオレたちにベタベタと馴れ馴れしあえって言ってんのか」
徐々に感じる不穏な空気に、アベルは慌ててフォローの言葉を並べ立てた。
しかし、そんなアベルをカインは横から容赦なく遮り、揶揄するような荒く跳ね退ける言葉を投げた。
「オレたちはいつまでも甘たれた子どもじゃねぇんだ」
過去に想いを馳せてしみじみと語る両親に、カインは懐かしさよりも内心苛立ちが積もった。
「ガキの頃の話って......実際カインはまだまだ子どもじゃないか。お前らはいつまでもワシと母さんにとってはかわいい子どもだ」
「──はぁ」
断言すると、カインはぱっと顔を上げた。年相応の子どものように振る舞って欲しいなら、そう口にすればいいのに、と内心悪態をついた。
もっともカインはこの通り不愛想な子どもだから、アベルのように屈託なく振る舞うのは自然災害から作物を守るよりも難しいかもしれない。
「いつまでもガキ扱いしてんじゃねーよ。今のオレの本分は農耕。コイツの本分は牧畜。それはさっき母だってそう言ってたろ」
「ええ。言ったわね。あなたたちはまだ幼いのに随分と家族を支える一員になってくれて、お母さんはどんなに心強いか。私もお父さんもあなたたちの成長をとても嬉しく思っているのよ?」
「だったら今のオレたちのすべきことは馴れ合いなんかじゃない。今受け持つ役割をきちんと果たすことに専念するべきなんだ」
カインはあきれ返った顔で反論したが、アダムは同調するように穏やかに応じる。
「そうだな。お前の言うことの一部は正しいぞ。きちんと自分の本分を完璧に全うするお前はとても立派だ。お父さんは誇りに思う」
しかし、とアダムは組んだ腕の上で右手の指をひとつ立て、聞き分けのない子どもに接するような寛容さで、
「──それだけではダメだ。はっきり言って今のお前に足りないのは“協調性”だ。お前だけ独走しては家族はうまく成り立たないんだ」
「......オレは、」
正論でしかない批判の言葉に、さすがのカインは否定できず、唇を噛んで黙りこむ。それでも、父の目を見返すことを躊躇しなかった。
「己の農作業以外はほぼ単独行動。キョウダイたちがお前に話しかけても知らんぷりか、冷たくあしらう。これの協調性の欠如以外になんと言うのだ」
カインは変わった──それは家族の誰から見ても一目瞭然だった。
幼少の頃は愛想こそはないものの、キョウダイに対しては彼なりの思いやりを持ち合わせていた。
しかし、カインが成長するにつれて、人からの好意に無関心で、両親も含め他者と関わることをひどく忌避するようになった。
一方で、アベルは昔とまったく変わらない態度で親身に彼に接している。
───排他的な兄と友好的な弟。
少しずつ必然と生じる兄弟の仲違いに、アダムもエバも親としてもどかしい思いをさせながらもずっと見守ってきた。
初めこそは本人同士の問題と見なして何も言わなかった。いや、言えないのである。
剛の者であるアダムは、実はこういう問題に上手くはない。だが、いつまでもそれを放っておけるほどアダムは親をやめていない。
「最近のお前の言動にはさすがに目が余るものがある」
気がつけば、当初カインを宥める穏やかな声音も今では叱りつけるような厳しいものに変わっていた。
その厳しい指摘にカインは、
「............なら態度を改める。家族の輪を乱さない程度に最低限の会話も善処する。それで満足か?」
反省したかのような言葉とは裏腹に、カインが向けてくる目はひどく冷たいままだった。
「カイン。お前は話の趣旨を理解していないようだな......」
無視こそせずとも、淡々と最低限な会話しかしない事務的なカインが脳内に浮かぶ───そんな形式上だけの改善など求めていない。
「この際単刀直入に言おう!ようはお前に“愛”を以って家族に接してほしいのだ!少なくともアベルとアワンは日頃カインの冷たい態度に傷つていたはずだぞ」
──気持ち悪い。
「くだらない。だいたいオレなんかに冷たくされたぐらいで、なんで傷つく必要があるんだ。意味なんてないだろ」
──愛なんて、気持ち悪い。
「意味がない?そう思うのか。お前はオレの息子の一人。アベルたちの兄。大事な家族の一員なのだ。意味なんて充分過ぎるほどある」
引くつもりは微塵も感じさせない、この上なく冷静なアダムの指摘を受け、頭に血が上ってカインは我を見失いそうになる。
そして、
「カイン。覚えておけ。理由なき思いやりのなさは、まさしく悪意となんら変わりはない」
アダムが「悪意」と言ったそのセリフ、それがあるいは、カインの最後の理性だったのかもしれない。
「アベルだってな、お前と──」
バッキィイイッッ!!!
その小さな破壊音はアダムのセリフを遮った。あまりの不快感に力加減が出来なくなり持っていた木のお椀が軋む音と同時にカインの手で割れて弾けたのだ。
「アアっ!!もう鬱陶しいッ!!」
その怒号にアベルは思わずビクつく。怒鳴ったカインの表情は見るからに切羽詰まった様子だった。
珍しいことだ。カインが声を荒げるほど怒ることなど滅多にない。
「に、兄さん......?」
戸惑うようなアベルの声なんて気にする余裕はない。
全身の体液が逆流していく。
(気持ち悪い。気持ち悪い)
平衡感覚がなくなり、視界のすべてのものがぐにゃりと歪みだし、自分を翻弄する。立て続けに、激しい嘔吐感さえも込み上げてくる。
(まただ。また、この気持ち悪さだ)
とても、自分を保っていられなかった。
真っ白でドロドロなスープは床に飛び散り、カインの手からも垂れ落ちた。
だが、彼は痛みよりも腹の奥に湧き上がる怒りが強く感覚を麻痺させいた。
「さっきからグチグチと......!ウルセェんだよ!」
それは、もはや、激的な咆哮だった。
「カイン......!!」
「カイン、あなた......」
かつてないカインの物凄い剣幕に、その場の全員が気圧されてしまって一瞬口籠ってしまう。
「親父もお袋も!!なぜ、そこまで!!!オレとコイツの仲を取り持とうとするんだッ!余計なお節介だってことに気づかないのか!?」
「ちょっ!?に、兄さん!?落ち着いて!」
アベルは慌てて立ち上がり、カインを宥めようとその肩に手を伸ばす。その指先がカインの肩に触れた瞬間、
パシィィィッ!!
渇いた音。荒れた息が響く。
カインへ向けていたはずのアベルの視線が横に逸れた。
そして、徐々に熱を帯びる頬に走る鈍い痛みに一間置いて、ようやく自分が叩かれただとアベルは理解した。
生まれて初めての──兄からの暴力。
いや、違う。
カインはわざとアベルを叩いた訳ではない。──アベルの手を強く振り払うあまり、運悪くアベルの頬にも当たってしまったのだ。
なぜなら拒絶の手がアベルの頬にも当たった瞬間、カインの僅かに息飲む音が聞こえたから。
叩かれた自分の頬にゆっくりと手を当て、アベルは恐る恐る視線を兄の方に戻す。
しかし、露呈した気がした刹那の動揺が嘘であったのように、カインはひどく忌々しそうにアベルを睨めつけていた。
「───オレに、触るなよ」
気 持 ち 悪 い !
それは、呪いの言葉だった。
呪いはアベルに既知感を呼び起こし、彼が遠い過去に閉じ込めてきた罪悪感にトドメを刺した。
──あの日の残像が重なって見える。




