7話『夕餉の団欒』★
カインは謝るという行為が嫌いである。
「謝る」という行為は一見すると殊勝でいじましい態度に思えるが、相手に赦免を求めて、自らが許されようとする押しつけがましいエゴの発露である。
楽になりたい。許されたい。
罪悪感から解放されたい。
そう思っている弱い心根の人ほど、無闇に謝罪を口にしたがるのだ。
──ごめんなさい。
その言葉は相手を慮って言っているのではなく、自分を哀れんで慰めているものに過ぎない。所詮、ただの自己満足なのだ。そう思っているからこそ、カインは謝るという行為が嫌いだった。
謝るのも、謝られるのも、だ。
手を繋いで(いるように見える)帰ってきた幼い兄弟が天幕の入り口に下ろされた厚い毛氈を潜ると、一人の女性が二人を迎えた。
「あらあら。遅かったわね」
開口一番にそう言ったのは、二人の母エバである。そう言った割には不機嫌という訳ではなく、口調はいつも通り穏やかだった。
「お母さん。心配させてごめんなさい。アワンとアズラは?」
「私がなんとか言い聞かせて寝かせてあるわ。うふふ。アズラなんてあなたが帰ってくるまでは寝ないって駄々ゴネて大変だったのよ?
「そっか。ありがとう。お母さん」
「いいのよ。それよりも、畑は大丈夫だったの?カイン」
「それは、」
「なんだ、ようやく帰ってきたのか!!」
説明しようと口を開くカインは、大きな声で遮られる。
背後へ振り返ると、天幕の出入り口の近くに大柄の男性がズカズカと入ってきた。
体は自分達よりもかなり大きい。背も高く、立派な筋肉をこれでもかと見せびらかすような格好となっていた。
「いつもより帰りが遅かったから、野獣に襲われたんじゃないかと、わしは心配だったんだぞ!」
それは、アダム──二人の父だった。
アダムは、輪郭を縁取るように顎髭を生やした精悍な顔つきの持ち主ではあったが、実に純粋な目で息子たちを見た。
「にしても、カインの仕事がこんな時間まで手間取っていたとはな!ガハハ!さては〜!作物の成長具合が芳しくないのか?不作は残念だが、だからと言って無茶は体に悪いぞ」
アダムとしては悪意はなく純粋に息子を労っての言葉だったが、それがカインの矜持を傷つけたなんて思いも寄らない。
「ちがう!!!」
カインは息を大きく吸い込み、叫んで否定した。
アダムは目を丸くしていた。
代わりに反応を示したのは──間接的な原因である弟のアベルだった。
「お、お父さんっ、違うんだ。あの兄さん作物はいつも完璧なんだよ!調子悪いなんてあるはずないじゃないか!ただボクの羊がっ、」
「──?どういうことだ?わしはてっきりカインが珍しく不作で苦労しているとばかり......、」
アダムの勘違いに、カインはジロリとアベルを睨み、彼の胸倉を掴む。
「おい!お前!さては今日のこと隠してたんだな!?自分がやらかしたことを親父にバレるのがの怖くて、隠してたんだな!」
きつく睨まれて、アベルは一度きょとん、とした。それからすぐに、兄の言わんとしていることに気づいて釈然としない顔になった。
「うぐっ......、ぼ、ぼく、そんなつもりは......!」
「事情をちゃんと説明してなかったんだから、隠したと変わらないだろう!」
痞えるアベルの声に、返すのはカインの苛立ちだった。
「お前が自分の失態を隠すやつだなんて!見損なったぞ!」
「あ、その......っ、父さんに説明するタイミングが、なかったというか、......っ、ご、ごめん!ごめんなさい!カイン兄さん!」
アベルがますます怯えた気配が伝わってくる。それがまたカインの苛立ちを加速させた。
ああ。まただ。すぐそうやって怯える。こういう時は決まって無条件に謝るのだ。
通常の時には自分に屈託なく笑うアベルだが、負の感情を纏うカインには、いつも遠慮がちで、びくびくしてはいつも謝ってばかりいた。
その声を聞くのは、昔から耐えがたく嫌だった。訳もなくさらに不愉快に感じる。こういう時のアベルの眼差しには不自然な必死さと懺悔のようなものが滲んでいるからだ。
「お、おいおい。どうしたお前たち、帰って来て早々喧嘩なんて良くないぞ?」
面を食らったアダムはデカい図体の割に、長男と次男を交互に見てオロオロするばかりであった。
「はい。そこまでよ」
場の空気を叩き壊すように、文字通りに手を叩いたのは今まで静かに傍観していた母エバであった。
「今は夜中よ?二人とも声が大きいわ。妹たちが起きちゃうわよ?」
「あ、ごめんなさい...」
「............っ」
「カイン。まず、あなたはおそらく誤解しているわ」
「......誤解?」
「アベルは今日あなたの畑を荒らしてしまったことを隠そうだなんてしてないわ」
「──知って、」
「ええ。もちろん知ってますよ。アベルが帰ってきてすぐに私にそう教えてくれたもの。ただ夕方に近づいてもあなたが帰ってこないものだから、この子が心配してまたすぐ飛び出すようにあなたのお迎えに行ったの」
「────」
「ちなみに、お父さんは狩りからつい先程帰ってきたばかりだから、あなたの事情を知らないのは無理のないことだわ。アベルは反省しているし、私の口から今日のあの子の失態をわざわざお父さんに告げ口みたいな事をするのもどうかなって思って、とりあえずは黙っておいたのだけれど、どうやら私が配慮を誤ったようね」
「────」
「カイン。そこまであなたを怒らせるとは思ってもみなかったの。でも誤解はしないであげて?アベルは自分のやってしまったこと隠した訳ではないもの」
「────、」
眉を下げ宥めるエバに、どことなく決まり悪くなって、カインはむっつりと押し黙ったが、特に謝罪する様子はない。
予想外に気まずい空気に、アダムが慌ててフォローに走った。
「いや!誰も悪くないぞ!わしにデリカシーなかったのだ!すまんのう!カイン。よくよく考えれば何事も卒なくこなす完璧主義なお前の作物が不調なんて、それこそある訳ないしな!ガッハハハ!」
そう言って豪快に笑えば、カインの小さな肩を叩いたあと、優しくわしゃわしゃと頭を撫でてくるアダムに、カインは口を噤むしかなかった。
そして、申し訳なさそうに俯く弟と困ったように微笑む母から目を逸らして、
「......フン」
小さく鼻を鳴らした。だがそれはカインなりの機嫌を直した証拠だとみんなわかっていた。
「それとアベル、お前というやつはまたカインの畑をやっちゃったのかー!立派な遊牧民になるためにも、そろそろカリスマで羊たちをきちんと管理下に置かないとダメだぞ?」
「ごめんなさい。お父さん……。反省してるよ。もう同じ失敗が起きないようにするし、なんなら今までの償いに、責任をもってぼくもこれからカイン兄さんの畑を守るね!」
「お前がオレの畑を守る?フン。とりあえず期待しないでおく」
「カインは相変わらず辛辣じゃのう......」
アベルの意気込みをカインが素っ気なく鼻先であしらうと、アダムは左手を腰に当て、呆れた顔で言った。
「はーい。もうこの話はおしまいよ!ちょっと遅くなったけど、夕餉にしましょう」
辛気臭い空気を切り上げるようにエバは両手をポンと手を合わせると、屈託のない笑みと共に食事を運んでくる。
「さあさ、カインもアベルも座りなさい」
「おう!そうだな!二人とも腹減ってるだろう?父さんもお前たち待ってたらお腹ぺこぺこだ!そして喜べ!!なんと今日は【ご馳走の日】だぞ!」
「ごちそう......?もっ、もしかしてあの日!?」
「ああ!数月に一度しか食べられない、“肉”だ!」
「やっ、やった────!!!」
大袈裟に喜ぶアベルに鬱陶しそうに眉を顰めるカインだが、弟の気持ちを決して理解できない訳でもない。
アベルがここまで喜ぶには理由がある。常日頃、アダム一家は肉を滅多に食べられないからだ。
アダムとエバが楽園に住んでいた頃こそ絶対的な肉食を禁じられていたが、まだ何もない地上へ追放されてからは、飢えを凌ぐためにやむを無しに動物を狩って食しても神からは特段罰則もなく、お咎めなしだった。
それでも、今でも神から正式に肉食を許されてはいないことには変わらないので、基本的人類にはやはり草食を求められている。故に、アダム一家はあまりそう頻度多く肉を食べるのは憚れるのだ。
ちなみにアダムの日々の狩る動物も、牧畜に従事するアベルの家畜も、食用というより、主に毛皮や道具作り、そしてミルクを得るためといってもいい。
だから、月に一度こうして母から肉料理という“ご馳走”が振舞われることになっている。まだまだ育ち盛りのカインもアベルも毎月一度だけのそれを密かに楽しみにしているのだ。
「今日はね、イノシシの肉を調理してみたの〜」
「え!?あのくっさーいお肉!?だ、大丈夫かなぁ?」
「心配ないわよ。ちゃんと下処理はしたから。アワンとアスラにも手伝ってもらったのよ〜」
そう言いながらエバは住居の中心に石鍋を火にかけながら中身をかき回している。頂部には排煙や換気のための「穴」──いわば、換気口のお陰で焦げ臭さや煙たさは無い。
「わぁ〜、美味しそう!」
「ガハハ!相変わらずエバの作る料理は美味しそうだな!」
「おい、まだがっつくなよ。食う前にきちんと“お祈り”を捧げるんだろう」
「カインの言うとおりだぞ!アベル!お祈りはとても大事なんだからな!」
「あ......!そうだった。ぼくとしたことが」
エバが席に着いたのを確認し、アダムが両手を合わせて目を閉じた。
それに倣い、エバもアベルも、そしてカインも同じように手を合わせて目を閉じる。
天におられる我ら父よ
皆が聖とされますように
みくにが来ますように
御心が天に行われる通り
地にも行われますよう
願わくは我らを祝し
主の御恵みによりて
我らの食せんとする
この賜物を祝福し給え
アダムが唱える、神への祈りの言葉に、静かに耳を傾ける。
「我らの心と体を支える糧と給え」
神に祈りを捧げるこの文句は、食事前の大事な儀式なのだ。
「ふふ、さあ、お祈りも終えたことだし、どうぞ召し上がれ」
祈りの言葉が終わり、エバが軽く手を叩く音を聞いて、アベルたちは目の前の料理に手を伸ばした。
夕飯は小麦を粉にした未発酵のパン。
強火で一気に焼き上げたイノシシの肉。
スープは山野から採取される香草を牛乳で煮出したところに、砕いた岩塩を加えて味を調えられているようだ。
ほくほくの白い湯気が立ち上がるそこに乾酪チーズと子羊肉がちょっと浮いている。
空腹に響く香ばしい匂いで、男たちの腹は抗議をあげっぱなしだった。
「すご〜い、イノシシの肉やわらか〜い!生肉の時はあんなに臭かったの嘘のよう!」
アベルは感動して目をキラキラと輝かせた。それに追随してアダムも同様に大きく肉に一口齧り付いた。
「ぬぅうううううう!」
アダムは思わず仰反る。
「ガハハ!さすがわしの妻だな!いつもながら絶品だな!」
「お父さんもそう思うよね!」
二人は幸せ、とばかりに頬を膨らませ、肉に酔いしれる。そんな二人の過剰とも言えるリアクションを傍目に呆れつつ、スープを飲んでいたカインも続いて肉に木の串を刺す。
「──!」
アベルが感動するのも、分からなくはない。串は躊躇なくスルリと肉の中へと潜っていく。
イノシシの肉なんてカサカサして硬いイメージなのに、思ったよりも全然柔らかい。カインは思わずごくりと唾を呑み、早速それを口にしてみた。
(うまい)
素直にそう思った。
表面はサクサク、中身は甘くてとろける。
濃厚でありながらしつこくない脂の旨味をしっかりと閉じ込めていて、噛んだ瞬間に口の中に溢れる。噛めば噛むほど、味が深まり飽きが来ない。
カインはじっくりと咀嚼する。
上下左右に、味を吟味しようと顎だけでなく舌も全力に動かす。
喉が頑なに肉を飲み込むことを拒み、ギリギリまでに味わい尽くそうとしている。
「うふふ、カインもご飯に夢中になることあるのね〜私も作り甲斐があったわ」
カインはハッとなった。
気がつけば、取り皿の上の肉は消えていて、自身が夢中で次の肉に手をつけようとしていた。
表情こそいつも通りだが、カインが黙々とひたすら食べ続けるのだから、それはそれで分かりやすかった。
「どうやらカインもイノシシ肉を気に入ったようだな!母さんの料理はいつも文句なしにうまいが、今日のは一段とうまい!」
「ボクもそう思うよ!お母さんの料理は世界一だよ!」
カインの目の端にうんうんと、大袈裟に同調するアベルはやかましいが、偏屈な彼でも母の料理の美味さについてはさすがに否定はできなかった。
「あらあら。どうもありがとう。私としてはちょっと張り切りすぎたなと思ってけれど、喜んで貰えて何よりだわ〜」
「張り切った?今日は何かいい事でもあるのか」
母のエバは何かめでたいことが有れば、その日の夕餉は豪勢のものであることが多いのだ。
だが、今日一日めでたいところかむしろ災難だったカインにはまったく心当たりがない。
「あら、聞いてくれる?ふふ、実はお母さんね、今日カインとアベルが珍しく二人一緒でいるから嬉しくて、ね」
沈黙。
エバの発言に、びしりという音が立ったと思えるほどわかりやすく、カインが固まる。
刹那、空気がピリピリし始めたのを、その場の誰もが感じた。




