6話『奇妙な既視感』★
そこからさらにまた数時間後、
ようやく畑の仕事を全部終わらせることができたカインは、消耗した体力を回復しようと、大木の近くに座り幹にもたれかかった。
(さすがに疲れたな......)
休憩なしに本格的な農作業に鍛えられたカインの肉体も流石に疲れを訴えていた。
ポカポカとする暖かい気候。
土や草木の自然の香りを乗せた風が穏やかに吹き、カインはその心地よい空気に目を閉じる。
時間が流れ、少し肌寒く感じカインは目を覚ます。
日が傾いて辺りがほんのり茜色になったのを見て、大体の時間を察した。
(さすがに真っ暗くなる前には帰った方がいいな)
父はともかく、母は意外と心配性だから。......あいつだって。
そんな時に、何かの気配がした。
「......いつからそこに」
カインは地べたに腰掛けたままその方向に視線を向ければアベルが立っていた。
「ついさっきだよ。気持ちよさそうに寝てたから起こすのかわいそうだと思って」
「......先に帰ったのではなかったのか」
「そうだけど、うん。やっぱりカイン兄さんが心配だから迎えにきちゃった」
「余計な心配だな」
カインは端正な作りの顔をあからさまに不本意そうに歪められる。
「余計なんかじゃないよ......お父さんとお母さんもいつもより帰りが遅いって心配してたんだからね。アワンなんかもう飛び出す勢いで、引き留めるのも大変だったんだから」
明らかにカインの近寄りがたいオーラに苦笑いを浮かべながらも、アベルはゆっくりと近づき平然とその横に腰掛けた。
「と言っても、ボクが兄さんの仕事を増やしたせいで、こんな時間になってまで農作業をしなきゃいけなくなったわけだもんね」
「......フン」
そこから二人はしばらく黙って夕焼けを眺めていた。
西の空が赤く染まり、鮮やかな太陽が今にも山の縁へと沈もうとしていた。鳥の影が次々と飛び立っていく。立ち並ぶ木々の陰も、頭上から重く伸し掛かってくる。葉は太陽の光で元の色が分からなくなっていた。
アベルはそっと、カインの横顔を見る。
白銀の髪と金色の瞳が今一度強く輝いて、光に透き通って、そのまま溶けていきそうだった。
空が、葉が、兄が、とても眩しい。
「あの......兄さん。ごめんなさい。本当にぼく、悪いと思って、」
「何度も謝ってくれなくて結構」
ぴしゃりと言って、そっぽ向くカインに、アベルは捨てられた犬の如くしょんぼりとして肩をおろす。
(やっぱり、兄さんまだ怒ってる......)
なかなか機嫌を直してくれない兄に、それ以上声をかけるのもさすがのアベルも気が引けた。そうなれば必然とすぐに二人の間に会話がなくなる。
(き、気まずい......)
時間にすればほんの十数秒で、けれどもアベルにとってはなんだかとてつもなく長く思える沈黙に、途方に暮れていた時だった。
グゥー
腹の虫が鳴いた。それはカインの方から聞こえる。
「兄さん、お腹空いたの?」
「......、」
カインは答えなかったが、アベルは気にせずゴソゴソと懐に手を入れ、取り出した筒のふたを外し、カインへ差し出した。
「......なんだそれは」
「これ?放牧中に飲み物を携帯するのに重宝しているんだ」
竹に似た、節のある植物を切り出して、栓をしただけの物だが重宝している。ただし草なので乾燥すると脆くなるため、ほぼ使い捨てなのだが。
アベルは懐に入れてある同じ草で作った器に中身を注いで、カインに差し出してやった。
「はい。どうぞ。羊の乳だよ。搾りたてだから美味しいから飲んでみて」
「......」
「今日の兄さん昼から何も食べていないでしょ?さすがに少しはお腹満たさないと倒れちゃうよ」
アベルの言葉に同調したかのようなタイミングでカインの腹の音が主張し始めた。
「............頂く」
強がったところでもう誤魔化しようがないと諦めたカインは革袋の蓋を解き、口へ運んだ。
「......!」
直後口の中に広がったのは、得も言われぬ芳香。ふんわりまったりした、それでいて春の草原を思わせる爽やかな甘味。
カインは思わず手元の革袋を見下ろしもう一口飲むと、草の香りと優しい味わいが口いっぱいに広がる。やはりサラッとさっぱりしていて何より飲みやすい。
搾りたてというのも相まって、労働後の山羊のミルクは格別と感じる。
「お気に召してくれた?」
無言でもあっと言う間に飲み終えたカインの様子にアベルも顔を綻ぶ。
「この乳、......お前の家畜の、」
「そうだよ!あの子たちが兄さんの畑を荒らしたお詫びで、ね」
「......」
「本当に、ごめんね。こんな差し入れで許してもらおうとするのズルいとはわかってるけど、.......ごめんなさい」
居た堪れなくなって、目を伏せる。
これ以上言葉を重ねても、弁明ではなく出来の悪い言い訳にしかならない。だから謝罪だけを口にして以降アベルは黙っていた。
カインは顔を上げてアベルを見る。力なく地面に目を落としながら、自分の体を両腕で抱きしめていた。そこで、カインは深くため息をついて、
「......もういい」
「え?」
意外にもカインの声は穏やかだった。冷たい響きも、責める響きもない。いうなれば疲れきったため息のような声だった。
「処分済みの畑はなんとか今日中に耕し直した。結果的に解決した」
「えっと、」
「いつまでも過ぎたことをネチネチ言うほどオレは女々しくない」
意外な成り行きについていけていないのか、明らかに頭の働いていないアベルに、カインはわざと難しい顔をつくって言った。
「もしかして......今日の失態を許してくれるってこと?」
「次またやらかしたら殺す」
「あはは......さすがに今は冗談に聞こえないや」
「ああ。本気だからな。また俺の畑を荒らしてみろ、次は容赦しない。その時は泣くなよ」
「うん。本当にごめんね。それは勘弁だから気をつけるね」
恫喝を込めて言った言葉に、アベルは再び謝罪と反省を寄越す。
それでも、それが上っ面やその場しのぎの軽い気持ちで発されたものではないことを、カインにはわかっていた。
言い方はどうあれ、アベルは本心からカインにすまなかったと思ってくれている。そういう声音だった。
だから、いつもお決まりの詰るような言葉がカインから放たれず、「ああ、そうしろ」とだけの簡潔な言葉で終わらせられた。
「そういえばまだ作業終わってないの?」
「違う。作業終わってなかったら休憩なんぞしない」
「じゃあどうして帰らないの?」
「帰る前に最後にやることがある」
「やること?」
「ああ。“仕上げ”だ」
「?」
「まぁ、ついてこい。百聞は一見にしかず、だ」
いつになく上擦った声と、兄の少し和らいだ態度に、ますますアベルの好奇心を擽った。
◇◇◇◇◇◇◇
二人は耕したばかりの畑の隅まで足を運んだ。
そこでカインは左手を畑の土に当てて、右手を胸に当てて何かをブツブツと呟き始めた。
「あの......?カイン兄さん?」
「邪魔するな。集中できん」
しばらくするとやがてカインの胸元は輝きを放ち、大きく広げた右手からは流星のような煌めきが畑へと降り注いでいく。
それは息飲むほどの幻想的な光景である。
「何をしたの?」
「“祈り”だ」
「?」
「おまじないみたいなものだ。オレがイメージした通りの未知なる作物が無事に生み出せるように、てな」
「へぇ〜!それも《神の豊穣》の力?」
「まぁそんなところだ」
「今までも兄さんはそうやっていろんな野菜を作り出しているんだね。正直羨ましいぐらいだよ」
「......他人を羨むくらいなら、お前も自分のカリスマをもっと使い道増やしたらしたらどうだ?」
「うん。実は兄さんに指摘されてぼくなりに考えてみたけど、ぼくの《神の遊牧》が役に立てるのって、せいぜい牧畜と、......あと酪農ぐらいしか思いつかないんだよね」
それ以外に有効活用しようというのはさすがに無理難題なのだ── アベルは暗にそう言っていた。
「フン。そうかもな」
そんなアベルのささやかな反論に、なんともはや優しいのか冷たいのかわからない返答をして、不意にカインには気になることがあった。
「......待て。お前酪農までやっていたのか。それって確か母さんが担当じゃなかったか?」
「うん。最近母さんから任されるようになったんだ。なんかボクが接すると山羊や牛がいい乳が出るようになるんだって。お父さんがね、それもぼくのカリスマのおかげなんだって言ってくれているけど、」
「......やっぱり充分な能力をじゃねーか。アホ」
この弟はよく自分を卑下するが、実際彼の《神の遊牧》も家族の生活の礎の一つになっているのは事実。
つまりはアベルは己を過小評価しているのだ。実際はしっかりすればいざとなればできるやつだし、唯一足りていないのは「自信」。
とはいえ、カインがそれを気づかせてあげるのも癪な話なのでこれまでは黙っていたが──、
「確かに......ヤギの乳の味、悪くなかった」
静かな声で発された言葉には、お世辞や気遣いでない、感情の伴ったなにかがある。
アベルは非常に意外な気持ちでカインの横顔を見つめた。そんな弟の反応に深くため息をついて、カインはすっかり中身が空っぽになった革袋を見下ろした。
「家畜からこんな良い味のミルクを生み出せるのもお前の実力なんだろ」
──せめてその功績だけは認めてやろう、とカインは非常に柄にもないことをした。
「カイン兄さん......!ぼくっ、」
「さて、そろそろ帰るか」
言葉尻を遮って、ついっと背を向けカインは立ち上がった。
地面に足爪を固定すると、ゆっくりと歩き出した。アベルの歩幅に合わせるような、緩慢な足取りで。
「カイン、兄さん?」
アベルは思わず兄を呼びかけるも返事はない。しかし、どこか恥ずかしさを誤魔化す様子のその背中に、アベルははっとなった。
(今のって、ぼく褒められたんだよね?──あのカイン兄さんに?)
滅多に他者を評価しない兄に褒められたことに、アベルは内心舞い上がるほど嬉しかった。
だがそれを指摘したらどうなるかなんて、想像しなくても分かることなのでこの喜びは胸に秘めておこうと賢明な判断をするアベルであった。
それにしても、カインを迎えに行く前───母からの助言により───わざわざ自分の飼う山羊の乳搾りをしてまで差し入れをした甲斐があったと心底思った。
(ありがとう......お母さん)
母の「お腹がいっぱいに美味しく満足なればみんな優しい気持ちになるのよ」という信条は、あながち間違いでもなかったのである。
(少しだけ兄さんと仲良くなれる、かな?)
もし、そうなら、
「──カイン兄さん!!」
制止の声に足を止めたカインが振り向いた。駆け寄るアベルを怪訝そうな表情で見つめている。
アベルはたどたどしく切り出した。
「えっと、その......もし今回の新種の野菜が無事に完成できたらさ、ボクに最初に教えてくれないかな?」
「......なぜ?」
アベルの申し出に、カインは反射的に訝しげに眉を寄せていた。
問われ、少しの逡巡の後、アベルは線の細い顔にゆっくりと微笑をうかべ、細い声でひそやかに謳った。
「うん、理由は昼間言ってたように、ぼくね、カイン兄さんの生み出す野菜がどうしても興味あるし、なにより今日ずっと見てきた兄さんの努力の結晶をボクも最後まで見届けたいんだ。だめ、かな?」
「......お前は、まだそんなことを言てるのか」
少し呆れた様子でカインは薄い目蓋を少しだけ下ろし、やがて意外にもゆっくりと首肯した。
「お前は意外と頑固だからな。どうせダメと言っても聞かないし」
諦念の色が混じった黄金の双眸がアベルを見据える。
「それっていいってことだよね!?約束だよ!カイン兄さん!」
「おい待て。まだ承諾していないぞ」
「あとで気が変わったとか言って、やっぱなしとかダメだからね!」
「はぁーめんどくせぇ。とりあえず考えとくさ」
「えぇ......」
と言いつつも、そのままうやむやにするのではないか。アベルは不平を申し立てようとして、すんでのところで自分を抑えた。
だがそんな弟が不満に思ったのを感じ取ったのだろう。カインは億劫そうな吐息を洩らした後、渋々と言った様子で方を竦め、
「安心しろ。もしオレが約束したからにはちゃんと守る。今まで俺が約束を破ったことなんてあるかよ」
「ない、ような?いやぁ、そもそもボクと兄さんの間に今まで約束なんてものしたことなかった気がする。あれ......?なんか、それもそれで悲しい気がする」
「喜んだり落ち込んだりと忙しないやつだな。とにかく気が向いたら、見せてやらんこともない」
気が向かなければ金輪際、という風に聞こえるが、それでもアベルは目を丸くさせ、嬉しそうにふにゃりと笑みを浮かべて頷く。
そんな無邪気な弟の笑みにカインはどこか眩しそうに目を細め、ふいにそっと夕暮れの太陽を見やった。
ぼやけた橙色の球体光を地平線に広げながら、その半身を地に沈めている。
空が、雲が、藤色へ変わっていく。
太陽が完全に眠りにつくまで、そう時間は掛からないだろう。
「ほら。帰るぞ」
そう言うと、カインはアベルの手を取った。
それは繋ぐというよりも、手首を掴まれている形で、アベルは歩き出したカインに引っ張られるようにして歩調を速めた。
「か、カイン兄さん!?ちょっと、速いよ!ぼく、一人でも歩けるからっ」
「のろまなお前に合わせると家に着くのは遅くなるだろうが。それにしっかり繋いどかないと、マヌケなお前はすぐそこらの獣の餌になりそうだからな。そうなったらオレが母に......、いや、どっちかというとあの末っ子妹にカンカンに喚きられそうだな」
ぶつぶつと何か言いながらもカインは問答無用でアベルをしっかり引っ張って歩き続ける。
そこまで言われたらここで無理に振り払うのも兄の機嫌を損ねかねないので、アベルは潔く諦め遅れないように必死に足を動かした。
(あ れ?)
ふと、アベルは今の状況に奇妙な既視感を覚えた。
───以前も、こんなことがあった気がする。
誰かに、やさしく手を引かれて歩いた気がする。
それもこうしてぐいぐいと自分のペースで引っ張っていく形でなく、ちゃんとこちらの歩調に合わせて手と手を繋いでくれたような......、
(違う...違う、そうじゃない)
あった気がする、じゃない。
“あった”のだ。
胸に小さな棘が刺さったような、ボタンを一つかけ間違えたかのような違和感。
何か、間違っているような。
アベルは視線を兄と自分の手に向けた。
(そういえば、カイン兄さんと距離を感じるようになったのは──)
な ん で だ っ け ?
あの頃のカインは確かにアベルの名を呼んでた。
だけど、
昔のカインが弟である自分の名をどんな表情で読んでいたのか。アベルには、それだけがどうしても思い出せなかった。
(兄さんが 最後に笑った のは──)
刹那、
(!?)
アベルは振り向いた。
だけど、視界にあるのは静けさを含んだ繁々とした草むらだった。
───ナニかがいた、確かなのはそれだけだった。
解けない疑問が、顔の無いナニカの存在に妙に胸がざわついた。
しかし、そのざわつきを収める術もなく、少年に出来たのはただ大人しく兄に引かれ足早く帰路に就くことだけだった。
もうすでに夕陽は地平線の向こう側に消えて、徐々に家の方へ姿が小さくなっていく二人には夕闇が迫り始める。




