5話『正反対な兄弟』
ザッシュ、ザッシュと鍬が土をえぐる。
あっという間に耕される土たちはこんもりと盛られていた。
ちょうどいい感じにある切り株に座り、膝に頬杖をつくアベルにカインはもうすでにまったく見向きもしない。
(カイン兄さんらしいけどね......)
物心ついた頃から、兄のこういう傍若無人ぶりには慣れていた。
畑畑畑畑......と、カインは常に畑のことばかりだった。時には家族よりも畑を最優先していると言っても過言ではない。
言うなれば、カインは農業以外のことには基本無関心なのだ。
アベルはせっせと土を耕すカインを眺めた。
畑を耕し、肥やしを撒き散らし、鍬でさらに耕していく。太陽がギラギラと照らす中の炎天下の作業。
(本当に、兄さんは農業が好きなんだな)
あんなマメだらけの無骨な手であんな繊細で優しい味の野菜が作れるのだから実に不思議だ。
そこでアベルはカインの横顔を見つめた。
その表情は余裕たっぷり淡白で無愛想ではあるものの、その目は柔らかくも真剣な眼差しで、見え隠れするひたむきな情熱がその向こうで揺れていた。
(その目をボクたち家族に向けたことはないのに......)
少し寂しさを覚えながらも、アベルは一途に畑と向き合うカインの姿が嫌いではなかった。──なぜなら、農作業する時の兄が一番人間らしく感じられるからだ。
今日見学を申し出たのだって何も突発なことではなく、実は以前から思ってのことだった。
ここだけの話。農業のなにがあれほど兄を魅了するのか、アベルはずっと気になっていた。
「おい」
「──!な、なに?」
「気が散る」
「え?」
「オレに対するその鬱陶しい視線をやめろ。畑でなくオレを見てどうする」
流石にアベルの不躾な視線が不快になったらしく、農業に勤しんで無表情だったカインがきゅっと眉を寄せる。
「あ......つい、ぼーとしちゃった......」
「チッ、変に余所見するなら帰れ」
「......ごめんなさい」
いけない。つい農作業の見学をそっちのけで兄自身を見つめたまま一人思索に耽ってしまった。
だが、そんな事を素直に白状してしまっては、仏頂面で怒られるか嫌味言われるのが目に見えてるから、なるべくアベルはあまり口答えをしないように心掛けている。
伊達に数年兄弟をやっていないのだ。アベルにだって兄の怒るパターンをなんとなく理解してきたつもりだった。
──それでも気が抜いている時はそのつもりはなくとも兄を怒らせてしまうことは未だに少なくないのだが。
(それよりも、)
アベルは先ほど兄に呼ばれた時を思い出して眉毛を八の字に下げた。
アベルが知る限り、兄が彼を未だに名前で呼んだことは無い──厳密に言うと、もう長年呼んでいないのだ。
“おい”、“お前”。この二つが、弟を呼ぶときの彼の言葉だ。
呼び捨てさえもしないそれはアベルを自分の弟だと認めないという強い意思なのだとすら思わせた。アベルはそれがひどく嫌なのだが、それでも兄の行為に苦言を呈することは無い。
なぜならアベルはカインに対してある過去の「負い目」のようなものが無意識に働いているからだ。だが建前の理由としては、ただ単に兄が怖いからである。
兄のカインは怒ると厄介だ。
暴力こそはないが、下手をすると数週間はありったけの罵詈雑言を浴びせられたり、よくても嫌味の数々だったり。それはもう痛い。心の問題的に。
今でこそ多少は慣れているものの、初めの頃アベルとしては当然傷心状態なわけで、母の作る食事も口に通らず、その後でへろへろになって、また、やれだらしがないだの、やれ体力が無いだのといちゃもんをつけられるのである──全て経験済みなあたりが涙ぐましい。
ともあれ、そんな兄に名前を呼んでほしいと要求した暁には、もうこうした数少ない最低限の会話すらも叶わないと思っていいだろう。
(あ、気がついたら終わってる)
そんな間にもカインはすでに畑の耕し作業終えたようだ。
周囲は彼が鍬で耕したので、土が柔らかくなっていた。耕す作業とは並行して、肥やしは土を混ぜることにより畑の体積を上げてられている。
種を植えるのはかなり身体に負担が掛かる作業で、首からカゴを下げるスタイルで一掴みしては、ちゃんと三センチくらいの穴に種を一つ一つ丁寧に落としてやらないといけない。
当然全部手作業なわけで、ずっと屈んだ状態で、埋めて少しずれてはまた植える、植えてはまた場所をずれての繰り返し。
それらの作業を終えれば、空き畑という名の裸地もついに畑になれる。作物を育てるのに適した肥えた畑がようやく出来上がるのだ。
地味だけど非常に忍耐力が欠かせない農業であるゆえに、アベルが過去に挫折したのはまさにそれが大きな理由だったりする。
(こうしてみると、やっぱりカイン兄さんはすごいや)
腰も足にも負担がかかるはずなのに、現にカインは涼しい顔してそれらを淡々とこなしていた。
アベルも幼き頃一度だけ兄の手伝いという名目で興味本位にその作業をやってみたことがある。
ただ適当に種をばら撒くだけのアベルに対して、それではちゃんと芽が出ないとカインに怒られ、そして厳しく指導されたことをアベルは今でも覚えている。
(それで投げ出して、農業ではなく牧畜業を選んだけどね)
それ以来アベルは大雑把な自分に農作業は向いていないとすっかり苦手意識を抱いてた。
家畜との交流や手入れは惜しまない癖に、農業といった繊細で黙々と一人作業を敬遠する傾向があるのがアベルだ。それは彼自身だって自覚していることである。
アベルが不器用という訳では決してないのだが、やはり向き不向きというものがあるのだろう。
カインにだってアベルが従事する牧畜業に関しては、どうやらアベルのように生き物を柔軟に扱うのが不得手であるようだ。ようはお互い様なのである。
親から生まれ同じ環境で育つカインとアベルが、性格も、思想も、やることなすことまるで違う。
(なんだが、ぼくたち兄弟って何もかもが正反対なんだなぁ)
兄の農作業を眺めながら、アベルの内心が最終的にそういう感想に行き着くとも知らずに、カインはただ黙々と作業に励んでいた。
◇◇◇◇◇◇◇
「ふぅ......」
正午を回った今、広大な畑に種を全面に植え直して、ようやくカインは本日の作業の半分を終えた。
「ねぇ、兄さん。今日はここまでにしたらどうかな?」
恐る恐る口火を切ったアベルに、そこでようやくカインの意識が彼へと向けられる。
「いや、まだだ。水やりがある」
汗と泥にまみれたカインは汚れているが、アベルには生き生きとした生命の輝きを感じた。
畑仕事関連でしか見られないその鋭い真剣な眼差しはやはり嫌いじゃない。アベルは兄の澄んだ黄金色を見つめながら笑う。
「でも......いつ終わるか分からないし、遅くなったら家族みんな心配するよ?アワンとか特に、」
「お前一人で帰れ。父と母には遅れると伝えてくれ」
「......夜は危ないよ?」
「獣の対策ならしてある」
「でも、」
「だから、心配は無用だ」
カインは苛立ったような顔でアベルから視線を背けた。むしろ舌打ちが聞こえなかったことが不思議なほどだ。
邪険そうにするカインに、アベルが彼の名前を呼ぶのが聞こえる。
「しつこい。帰れ。問題ないと何度も言わせるな」
心配そうに見つめるアベルをあっさり黙殺し、カインは颯爽とその場から離れる。
相手にしてられるかといった感じに、アベルは苦笑した。ここまで冷たいと逆に清々しい。せめてもうちょっと優しければ、自慢な兄さんなのにな。
「わかった。先に帰るね?」
後ろ髪を引かれる思いだが、これ以上何かを言えばまた兄の逆鱗に触れかねないとアベルはとりあえず大人しく帰ることにした。
「兄さん。あまり無理はしないでね」
背後からアベルの立ち去る音がカインの耳へ入る。
けれどカインは振り向かない。
アベルの方に目を寄越すことはなく彼は踵を返し再び畑へ向き合った。
「さて、さっさと終わらせるか」
最後にそう意気込み、森の水場で汲んでおいた水でテキパキと耕した畑に撒いて、再び農作業に没頭するのであった。




