4話『土を耕す者と羊を飼う者』★
生まれてからカインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。
この時代の農業は生活も安定している上、豊かな生活を保証される生業で、それに対して、遊牧は厳しい労働こそ農業に劣らないものの、アベルのカリスマなしでは本来は一箇所に定住できない不安定なものとされている。
ゆえに、アベルは兄ほど己の仕事に誇りを持てなかった。
「実際、ぼくの《神の遊牧》なんかよりも、兄さんの《神の豊穣》の方がたくさん家族に貢献しているからね」
その髪と同じようにふわふわしていて、浮世離れする雰囲気も相まって、アベルは綿毛みたいな微笑みでそう言った。
「だから兄さんのカリスマはすばらしいんだよ!」
「────」
そう。アベルはこんな風に笑うやつなのだ。
悪意も敵意もない。
言うなれば「人好きのする」笑顔。
もう何度も見た。
それなのに──今だけは、なにかが引っかかった。
なんだろう、なんだろう。
カインは繰り返し頭の中をさぐってみるが、答えは見つからない。
なにがどこに引っかかったのかすらわからない。落ち着かない感覚だけが残った。
それが、とても、
「もういい、やめろ。気持ち悪い」
昔はそんなアベルの表裏のない笑顔は嫌いではなかった気がする。しかし、今はそれを目にすると無性に癪に障る。
何かあったわけではない。理由なんてものもない。
この目は純粋な好意的過ぎて苛立つのだ。弟に非がないのはわかっているのに。
それでも、いつしか拒否感を催すほど、カインは弟の笑顔が苦手になってしまったのだ。
「き、気持ち悪いはひどいな。ぼくは兄さんを心底から尊敬して褒めてるだけなのに......」
「初めから己の可能性を捨てる臆病者からそんな褒め言葉もらっても嬉しくない」
そう吐き捨てるカインの横顔をアベルはそっと見つめた。
カインの瞳はどこか違うところを見通しているようだった。自分には分からない感覚があるのだろうと思うと、アベルは苦笑いしながらも逃げるように顔を背けた。
「......あはは、可能性もなにも、ぼくがカイン兄さんに劣るのは事実なんだよ......」
無論、アベルもかつてはその状況を変えようと努力をしたこともあった。
幼い子どもの浅はかで稚拙な試行錯誤に過ぎなかったが、アベルは自分なりに努力を尽くして、試しに要領が良く完璧な兄へ一歩でも近づこうと足掻いた。
しかし足掻けば足掻くほど、心にこびりつく劣等感が強くなっていくばかりだと気づいたとき既にアベルは兄に追いつこうとするのをやめていた。
兄に並ぶことはできない。
いつでも前に立つ兄。その兄の背中から体を小さくするのが自分の立ち位置。
そんな風に割り切れば、日々の苦悩も全てを水を受け流すように認めてしまうことができて、諦めを甘受さえすれば意外と楽だった。
「フン。まぁお前がそう思うのは勝手だ。そんなことよりそれを食べたら羊どもを連れてそろそろ家へ帰ることだな」
「(そんなことよりって......)カイン兄さんは帰らないの?」
「オレにはまだまだやることが残っている」
「え、でも...荒らされた畑の処分はもう終わったでしょう?」
「序の口だ。これからが本番」
そう言ってカインは片付けられた空き畑に目を向ける。
「ここに今から代わりの作物を植えることにする」
「代わりの作物?今度は何を植えるの?きゅうり?にんじん?それとも...じゃがいもとか?」
「どれでもない。これまでにないものだ」
「?」
「お前がさっき貪るように食ったトマトみたいなものだ」
「ああ!トマト!それって......また新しい野菜とかを開発するってこと?」
「ああ、これを機会にな。まぁ次はどんな作物が実るのかはまだ考案段階だが、夏野菜が望ましいだろう」
「へぇ!すごいすごい!味わったことのない野菜をまた食べられるんだね!今から考えるだけでもワクワクしちゃうよ!」
「今度は成功するかわからんのに、気が早いやつめ」
「カイン兄さんならきっと成功するよ!でも、少しは休憩した方がいいんじゃない?」
「必要ない。農作業は時間と体力の勝負だ。ちょっとやそっとで休憩しては作業は進まん」
いくらカインとはいえ、これだけ広大な畑を一人で耕すのは数時間で終えるような作業量ではない。
農業とはタイミングが命なのだ。本来であれば畑で育つ作物は、収穫までにそれなりの時間が掛かるものだ。
播種時期を逃せば一年を棒に振ることもあるし、種の種類によっては一年保たないものもある。そうなってしまえば、二度と手に入らない事態も考えられる。
ましてや、カインの畑は家族全員の自給自足も生活に貢献しているのだ。
収穫が順調でなければ、自分たちの食糧問題にも影響をきたしてしまうとカインも自負している。
「でも、それは兄さんの《神の豊穣》さえ有れば簡単に解決できるんじゃないの?だって作物を早く成長させれるんでしょう」
「わかってないな」
「え?」
「確かにオレのカリスマに掛かれば造作もないことだ。だが、このオレが何から何まですべて神の能力に甘えきっているとでも?」
「違うの......?」
不思議そうなアベルの表情を見て、カインをハァ〜ッと呆れたため息をついて言った。
「そもそもオレがカリスマに頼り切るのあれば、今日食い荒らされた麦をそのまま再生させればいいだけだ。わざわざ処分なんて手間は必要はないし、そもそも放棄作物なんて増やすこともないだろう」
「あ、確かに......それもそうだね。じゃあなんで兄さんはあえて《神の豊穣》の能力に頼らないの?楽なのは間違いないのに」
「フン。楽して手に入る収穫物なんてつまらんだけだろう。苦労してこそ収穫した時の達成感があるというものだ」
カインのカリスマ──《神の豊穣》にかかれば、作物の収穫問題は全く取るに足りないものになる。
父親から譲り受けた畑がここまで立派に大きく拡張したのも、ハッキリ言ってその恩恵なのだろう。
だが畑が安定して余裕が出てきた今では、作物の本来備わる自然な成長力に委ね、カインは自分自身の力で育てて行きたいと思い始めたのだ。
「それにだな、急激に成長させたものと違って、ゆっくり育てた野菜の方がより美味しいに決まっているのだ」
「早く成長させる野菜よりも、時間掛けた野菜のがおいしいの?」
「当たり前だろ。カリスマ使って急いで成長させる場合、野菜自体に大きな負担が掛かるんだぞ。そんな状態の野菜では本来備わる本当の旨味を提供できるはずもない」
「そうだったんだね。でも今まで凶作が起きたこともあったでしょ?そういうときはさ、《神の豊穣》を使ってダメになった野菜をまた一から早く成長させるよね」
「それはやむを得ない場合だからだ。でないと食糧不足になってしまうだろうが」
「その時の野菜も充分おいしかったよ?」
《神の豊穣》の恩恵を受けた野菜たちを回想の中で吟味し、アベルはふわふわと上機嫌に笑う。
そんな毒気を抜くような呑気な感想にに、カインの苛立ちも沸々と蘇ってくる。
「勘違いしているようだが、急激成長させても作物がまずくなる訳では決してないぞ。オレのカリスマは当然一般的以上な作物を生み出せる。ただ人の手で丹精を込めて時間掛けるとそれ以上の良い作物ができるというだけの話だ」
そんなアベルとは対照的な不機嫌な表情の中には、カインの譲れない拘りを見た気がした。
「ま、お前には分からんだろう」
「ううん。そんなことないよ。一つ分かったことがあるんだ」
しっかりと自分の力で作物を育てたい。これも本質が真面目なカインの農耕者としての矜持なのかもしれない。
だがそれだけではないと、アベルはどことなく感じた。
「つまり、カイン兄さんは野菜たちが大好きってことだね」
「......なんだそれ。話聞いてたのかお前」
「うん!もちろん聞いてたよ?だって好きだからこそカリスマ能力でズルしたくないし、どんなに手間と時間を掛けてもいいから、できるだけ自分の愛情をたくさん野菜たちに注ぎたいんでしょ?」
「どうしてそういう解釈になるんだ」
「でも、好きなのは否定しないんだね」
「......」
「あ、あのさ!兄さん。もう少しだけボクもここにいてもいい?」
「......?なぜだ?言っておくが、もうこれ以上お前にできることはもうないぞ」
「う......まぁその見学したいというか、その、ぼく、カイン兄さんの仕事を見てみたいなって。大丈夫!ちゃんと邪魔にならないように大人しく端っこにいるから!」
「......今日は一体どういう風の吹き回しだ?今までだってそんなこと言い出すことなかっただろう」
アベルはまごまごと話すも、カインからの反応はやや冷たい。
が、アベルはそんな兄の態度にめげずに胸を張り、
「その、ほら!今までボクたち家族全員の食料にもなる野菜をおいしく食べられたのはカイン兄さんのおかげなんだなって改めて実感したんだ。だからそんなありがたい野菜たちがカイン兄さんの手でどんな感じで出来上がっていくのか、せっかくだからこの目で見届けてみたいんだ!」
これはボクのエゴでもあるけどねと、最後に小さく付け足したアベル。そこまで言われてしまえば農作業に従事するカインとしてはさすがに悪い気はしない。
「......、お前の今日の業務はいいのか」
「大丈夫!ぼくのカリスマで、羊たちにはちゃんと移動しないように遠隔指示しといたからさ」
「......はぁ、なら好きにしろ」
突然随分と融通を利かせるカインに、アベルは内心僅かに驚愕していた。
(快く、まではいかないけど......)
───あのカイン兄さんがぼくの頼みを許してくれた?しかも、二度も。
今日のカインはいつもよりも饒舌な上に、態度も大分軟化させている。
普段のカインはアベルが話しかけても冷たい態度が基本で、話もすぐに切り上げる。機嫌が最悪な時なんて無視はザラにあった。
ましてやアベルの頼みなんて考えもせずに切り捨てられて終わりで、どんなに拝み倒しても頑なに首を縦に振ろうともしないはずなのに。
今日は何が兄をここまで変えるのだろう。
(もしかして、農業の話になるとカイン兄さんって結構甘い?)
ともあれ、
「ありがとう!次は土を耕すんだよね?今からだと今日中に終わるのかな」
アベルは改めて処分済みで空き地となった畑を一瞥した。
「終わるかじゃない。終わらせるんだ」
そうぶっきらぼうに短く言い放つカインは、善は急げと言わんばかりに鍬を振るった。
この畑を完成させる作業は、いつになれば終わるのか。
時間は有限。耕すのも有限。
──つまり、耕し続ければいつかは終わるということだ。




