2話『アベルのお手伝い』
「くそ......」
丹精に育てた作物が荒らされた後は精神が昂り、些細なことでも苛立つものだ。
(今回は思ったよりも被害が大きい)
麦の三分の一が食われている。
完全にカインの畑はアベルの家畜からは採食の場と認識されている。これもすべてアベルの管理能力の甘さのせいだと、カインは心の中で毒づいた。
故意ではなくとも、こうも再犯を繰り返されては今後は弟の管理能力は信用できないとカインは考えた。
(そろそろ獣害対策の柵を設けるべきだな)
これ以上自分の大事な畑の作物で奴らを餌付けをするのは御免である。
いや。それだけでは意味がない。
あの家畜たちの餌への執念を侮るべからず。これを機に、とっておきの罠でも仕掛けて置くべきだ。
一度でも、獣害の被害にあってからそれを防ぐのは実は至難の技。
その場所で美味しい思いをした動物は事後に人間が様々な防除策をしてみても、その恐怖以上に「美味しい思い」に対する執着の方が勝る場合が圧倒的に多い。
だから、この際畑を荒らす侵入者を駆逐する目的の罠じゃないと歯が立たない。
ともあれ、
(今はまず後片付けが先だ)
いつまでも畑と睨めっこしていたところで埒があかないと、カインは大きくため息を吐いてから作業へ取り掛かろうとした矢先、またしても遠くからアベルの呼ぶ声が聞こえた。
「兄さん!」
「おい。羊たちはどうした」
「安心して!ちゃんと畑から離れたところで今はぼくのカリスマで大人しくしているよ」
「……フン。だといいがな」
「やっぱり、怒ってるよね……?」
「逆になぜ怒らないと思う?」
「そ、そうだよね、こんな何回もやらかしちゃえば、ね……」
アベルは基本的に放牧をする際、畜群は家畜囲いに入れたりせず、草原にある天幕の周辺に放し飼いにしているのだ。
ゆえにあまり長期間目を離していると、餌となる場所を求めて天幕からバラバラに散っていってしまう。そうしてアベルの羊たちの散る先の終点がカインの畑になることが多い。
「一回ならまだしも、こうも度々となればもはや過失とはいわん。家畜どもが勝手にどっか行かないよう制御するだけだろ?お前には《神の遊牧》というカリスマがあるのに、なぜこうもミスを重ねる?」
「制御するだけって……、うぅ……カリスマを発揮するのってものすごく集中力がいるというか、神経を使うんだよね」
「そんなこと知ってる。だからなんだ」
「ぼくってまだカイン兄さんみたいに自分のカリスマを使いこなせてないから、二つの業務を同時にしちゃうと集中力が散漫しちゃうんだよね……」
牧畜業をワンオペすることが多いアベルが一日にいくつかの業務を同時進行することはよくある。
「だからその、今日だって牛の乳搾り作業してるときに、放牧していた山羊と羊たちへの指示効果も知らないうちに解けちゃって……」
アベルが一つの言い訳を零すたびに、カインの眉間に一本、また一本と皺が増えていく。
「それはお前が未熟者だからだ。己が神より授かったカリスマを完全に我がものにしないでどうする。一人ですべての牧畜業務やるのが大変なら、アワンやアズラにも手伝ってもらえ。とにかく遊牧民の役割を果たすなら家畜の放牧ぐらいちゃんとしておけ。オレに迷惑掛けるな」
「……うぅ」
「他人に迷惑かけておきながら、そんな言い訳が出る時点でお前は責任感皆無だ」
「……ごめんなさい」
怒涛のごとく吐き捨てられる──正論でしかない舌鋒に、アベルは項垂れた。そんな落ち込む弟を見て深く息を吐いたカインは再び畑に向き合った。
やがて居た堪れずも視線を上げたアベルは穏やかな瞳に罪悪感の色を灯したまま、どこかカインを気遣うように声を震わせた。
「えっと、兄さん。荒らされちゃった畑はこのままにしておけないよね?」
「…………そうだな」
「このあと……どうするの?」
「どうもなにも、やり直しだ」
「やり直し?」
「食い荒らされた畑をもう一度耕して、作物を植える。それだけだ」
農耕というのは人間の仕事だ。
畑を作るというのは、常に人の手が大切になってくる。
それは生きとし生ける者が築き上げていくべき「農」という文明──それが父アダムの教えであり、今のカインの常套句であった。
「……それで?用件はなんだ?」
「え?」
白々しく惚けるアベルに、カインは湧き上がる苛立ちを抑えて重い溜息をついた。
「オレに何か頼みたそうにしてるのが見え見えだぞ。妙によそよそしいのもそのせいだろ」
「え、えっとぉ〜」
「そのまま家畜と一緒にどこかへ立ち去ればいいものを、わざわざ戻ってきたからには何かあるんだろう」
「そ、それはぁ〜」
「まさかオレとこうして無意味なやり取りするために引き返した訳じゃないよな?」
「う〜……あはは、バレちゃった?」
「フン」
勘付かれたのはカインの優秀な観察眼のせいではなく、単に気まずそうに瞳を揺らすアベルのわかりやすい態度のせいだろう。
「あのね、えっと…」
「オレはお前と違って忙しいのだ。言いたいことがあるのならさっさと言え。でなきゃ帰れ」
素っ気ないカインの態度に、友好的接触を求めるアベルは早くもボロボロだ。兄は表面上は話を聞く姿勢を作りつつも、価値のない話題ならば即座に打ち切ると仰せだ。
「───っ、ぼくにも手伝わせてほしいんだ!カイン兄さんの畑仕事を!!」
アベルは気の抜けた愛想笑いを浮かべ、緊張気味にカインを真っ直ぐ見て口を開いた。
「……今、なんと?」
突然の申し出にピクリと眉を顰めたカインに、アベルは慌てて言葉を付け足した。
「ほ、ほら!元はと言えばボクの管理不足のせいで、兄さんの畑がこんなに荒らされたんだし」
「ちゃんとわかっているじゃないか。だがそれは今に始まったことではないだろう」
「うっ!」
痛いところ突かれたアベルは一瞬言葉に詰まるも、誤魔化しきれない恥ずかしさを滲ませながら、あははと笑った。
「実は前にさ、アワンに怒られたんだよね。こう何度もカイン兄さんの畑を荒らしてしまっては、それなりの誠意が必要だって……だから、ね?」
そんな苦笑するアベルにカインは渋い顔をする。
「フン、償いのつもりか」
「ぼくもさ、その通りだなって思ったんだ。だから兄さん、畑の後処理の手伝いを──」
「だが断る」
「あれ!?まぁ、うん。なんとなくそう言われると思って、今までなかなか言い出す勇気なかったんだ……」
「そもそもお前に何ができる。本業である放牧すらまともにできないお前に」
「それは、そうだけど……」
「アワンもアワンだ。余計な事を言いやがって、」
「え、いや、アワンは悪くないよ!あの子の言い分は正しいし、アワンなりにカイン兄さんのことを思ってのことだから」
「それが大きなお世話って言ってんだ。お前の農業手伝いなんてたかが知れてるだろ。大した戦力なんてならんに決まってる」
「そんな、……冷たいこと言わなくても、」
「オレは事実を言ったまでだが?農業は体力勝負だ。お前みたいな軟弱なやつがいても足手纏いなだけ。それは昔お前だって一度は思い知らされたはずだぞ。自分は農業向いてないとあの時は弱音吐いたじゃないか」
言い方は酷いが、実際にはカインの言う通りだった。昔アベルがカインを真似て興味本位で彼の農作業を携わってみたところ、すぐに挫折を味わったのがアベルにとって苦い思い出だった。
「お前がオレの畑を気にする暇あるなら、自分の家畜の管理強化に専念してもらいたいものだ。その方がオレも畑の仕切り直しせずに済むし、オレの助けになると思うが」
カインの容赦ない正論の数々に、心に重いダメージをくらいながら、アベルは兄をここまで怒らせた事を後悔していた。
「まぁ、これまで一度ならず、何度も結果としてオレの畑を荒らしてしまうお前なんか、もはやオレの邪魔がしたいとしか思えないがな」
ここまで追撃されて当然だと思ってる故にアベルは何も言い返せないが──いい返したところで火に油だが──この嫌味の連発はさすがに重い。
「ま、まぁまぁ……カイン兄さん。そう言わずに。素人のぼくでも何か手伝えることがあるはずだよ」
「だから何度も言わせるな。素人に何かできるほど農作業は甘くはない」
「どんなことだって人手は多いに越したことないはずだよ?」
「しつこい」
「ねぇ!お願い!手伝わせて!でなきゃボクの気が済まないよ」
「…………」
真正面から嫌味を、持て余した感情をぶつけたつもりだった。それでも引き下がらず必死にお願いする弟を見てカインは内心迷っていた。
実を言うと、彼はを寸暇を惜しんで作業を進行したかった。
いくら農作業はカインの独壇場だとしても、今から彼一人だけで食い荒らされた畑の後処理と、もう一度種蒔きをして、水やりをするのは時間的に非効率ではある。通常、種蒔きというものは、一日遅れるだけでも収穫が十日ほど遅れると言われるほどなのだから。アベルが手伝うことで少しでも時間短縮になるのなら、正直とても助かる。
だから、
「はぁ……もういい。このままじゃ埒があかない。勝手にしろ」
「え!いいの!?ありがとう!」
やや間を置いて、カインはゆっくりと息を吐いて渋々承諾する。それに思わずアベルは破顔して飛びついた。
「ただし、オレが役立たずと判断したらすぐにやめさせるからな」
「うん!がんばるよ!」
「では早速だが、食われた麦は全て取り除いてくれ」
「取り除いてどうするの?」
「獣に荒らされた作物はもう使い物にならんから廃棄する」
「そっか……じゃあとりあえず全部引っこ抜けばいいんだね」
「ああ。それなら素人のお前でもできるだろう」
「う、うん!任せて!」
そういうや否や、アベルは畑にしゃがんで、慣れない手つきで食い荒らされた麦を片っ端から取り除いた。
それでも、三分一の廃棄予定の麦を取り除く事は彼の半日の作業として充分だった。農作業中腰と前傾姿勢がほとんど。ましてや、生来農作業に携わったことない未経験なアベルには、腰が悲鳴をあげるのはそう時間掛からなかった。
「ふ…ふぅ、」
「どうした?もう音を上げるのか?まだ半分も取り除いてないぞ」
「へ、平気!まだまだやれるよ」
「そうか。まぁせいぜい踏ん張るんだな」
「うん……。にしても、ぼくがいうのもなんだけど、結構食い荒らされているね…」
「フン。そこらへんの牧草で満足すればいいものを……お前の牧畜はどうやら相当舌が肥えているらしい」
「あはは、カイン兄さんの育てた作物はどれも一級品だもんね。ぼくたちの食生活もそれで賄っているわけだし」
そしていかにも人畜無害な笑顔のまま、アベルは言葉を付け足した。
「ぼくたち人間が食べておいしいものは、羊たちにとってもおいしいだろうね。狙われるのも無理ないかも」
ブチィッッ!!
苛立ちをぶつけるような麦を引っこ抜く音が、直接にアベルの耳に届く。
ハッと気づいた時には遅かった。
見ればカインの眉間の皺がより深いものになり、顔は既に歪められていた。
「…………お前は、本当に反省してるのか?」
低く唸るように言って、カインの醸し出す雰囲気は鋭くなっていた。透き通った、一切の色が失せた眼差し。カイン。が、本気で怒っている時の目だ。
アベルは純真で屈託の無い故に、時折カインの気を逆撫でることがよくあった。カインが口煩くアベルを叱ったとき、アベルは一時こそ反省の念を見せるが、時が経てばそんなことなど忘れたように笑って兄に接する。
現に今だってそうだ。人の畑を荒らしたくせにどこか他人事な態度に戻るアベルに、カインはひどく機嫌を損ねたようだ。 その鬼気迫る調子にアベルもさすがにビクッと小さく身を震わせ、慌てて顔の横で両の掌を上げると、降参のポーズで即座に謝った。
「ご、ごめん!さすがに今のは、無神経だったねっ」
「言っておくが、お前の家畜でなきゃオレはとっくにあの羊どもを駆除してたんだからな」
物騒な内容が鼓膜を炙る。オレの慈悲に感謝しろよ、と言外の態度を肩のあたりに漂わせている。作物を荒らす動物は農家にとっては敵でしかない。どうやら完全に農家目線でご立腹だ。
「うん……反省してます」
「チッ、とりあえずお前は口を動かすより手を動かすんだな」
カインは舌打ちを一つ落とすと、早々に荒らされた麦を乱暴に引っこ抜き後処理を続けた。
居心地の悪さからアベルは顔を伏せた。咄嗟に、ごめんね、と逃げるような言葉がまた口を衝いた。
(はぁ……、ぼくってば、なんですぐに兄さんを怒らせちゃうかなぁ)
余計なことを口走ってしまったと後悔をすぐに蓋をして、アベルは消耗を微塵も感じさせない顔を取り繕った。
そして兄に言われた通り、今度こそ黙々と作業に専念することにしたのだ。




