1話『カインとアベル』★
瞼が熱い。
閉じた目の皮膚の色が透過し、温かくて眩しい光が伝わってくる。
少年が目を開くと、褪せた空は朝日を迎え、茜色を溶かして青色を濃くしていき、雲が白へと色を取り戻していた。
「変な、夢見た気がする......」
鮮明に見て感じたあの夢が、ぷつりと光が途絶えてしまったように記憶からすり抜けてしまっている。『夢を見ていた』ことだけ何となく思い出せるけれど、その内容は霧の中。
そんなことよりも──、
「仕度しなきゃ」
太陽も空高く昇ろうとしている。
この世界に、自分たちに、新しい光の息吹を与えてくれる。
ずっと積もっていた雪も溶けて大地が顔を出す。それは春が来た合図。
──始動の時だ。
また、新しい一日が始まった。
先ほど彼が見た夢の世界は、目が覚めれば覚めるほど、遠く薄れていき、そして消失した。
スゥ。
背がしゃんとしているからか淀みない澄んだ空気が肺に送りこまれる。
寝ていた台座から降り、足を地に着けてもう一度は胸いっぱいに空気を吸い込む。その何でもない行動の一つ一つに、彼自身の中の高鳴るの感情が湧き立つ。
「──行くか」
今日もその少年──カインは日課の仕事へ向かう。仕事とはもちろん、彼の本分である農耕だ。
荒れ果てた「楽園以外の地」は掘り返し均さなければ人類が住む地にはならない。
故に、鍬で土を掘り種を植えるのがカインの仕事だった。
己と家族が生きるため。ひいては人類が繁栄するための居住域を増やすため。
楽園にはそこら中に食べ物になる動植物があったらしい。カインはそれを知らなかったが、彼の父母から僅かに伝え聞いた。
手に豆を作り、足を石で傷つけ、血を流さなくても生きられる場所。毎日食糧や飢饉について気を病む必要もなく、ただ享受だけが許される楽園。
自分の両親は罪を犯した故に追放された。カインは思う。罪を犯さず清廉に生きていれば、いつか楽園に戻れるんじゃないだろうか。なにせ、犯したのは父母であり、己では無いのだから。
敬虔に、真面目に働いて、自分だけの力で成果を出せば…...きっと、神は見ていてくださるから。
(今日は麦の様子でも見に行こう)
優しい風と日の光を全身に感じる。
長かった冬も終わって春になってきた。そして春は草木が芽吹き花をつける季節だ。
麦などが身をつけるのはまだ先だが、今の時期に出穂が順調なら初夏の麦の収穫期も問題ないだろう。
収穫の時期が待ち遠しいのは、農耕民の性のようなもの。実ったからには収穫しないといけない。最良の時期を逃せばそれだけで作物の味は落ちてしまうし、そのまま熟した作物を放置すれば、野生動物にとっては確固たる餌場となり、畑の周辺に繁殖して棲みつくリスクがある。
ツンツンとした硬い髪を靡かせる心地よい風が吹き抜け、緑の波となって草原を揺らし遠ざかりながら、カインはそのまま丘に駆け降りた。
そこにはどこまでも続く畑が広がっていた。それらの畑からは太陽の光を受けて艶やかに輝く緑がたくさん生えている。──実はこれらすべてはカインが所持している畑である。
父であるアダムから譲り受けた最初はほんのちんけで小さな畑だった。この数年でカインは頑張って開墾して、今や畑の規模も倍以上になり、田んぼや水路もある。まだ子どもだからとかそんなのは関係ない。カインには生まれつき神の能力を授かっていたのだから。
──《神の豊穣》──
それがカインの生まれし得た力の通称だった。
植物が育たない死の土をも土壌改善でき、土の持つ可能性や植物の潜在能力を限界以上に引き出し、いや、むしろ潜在していないものまで引き出す能力。──それが発揮されることで、カインが触れた土は限界以上の性能になり、作物となる芽を遥かに早く芽吹かせる。ゆえに彼が育てたあらゆる作物はすべて通常よりも生育がが著しく早く、収穫量もとにかく多く高品質なのだ。
そんないわゆる、生まれながらに神から与えられる超自然的・超人間的・非日常的な驚異的力を、神の賜物ということに因んで──【カリスマ】と呼ぶ。
その恩恵を駆使しつつ、カインは呪われたこの大地でもザクリザクリと土を掘ることができる。石を除き、苗を育て、葉を観察して、実を選別して。広い土地も、荒れた土地も、全て耕してみせた。
そうして得られた大地の恵みは、カインの働きに呼応してとても豊かに成った。まさに農業に従事する者にふさわしい能力である。おかげで今では、カインは既に父のアダムの腕前よりも遥かに超える農耕民となった。
(天候は問題ないが......)
上空には目も眩むような真っ青な空と、太陽と日中でも見える青白い月が有り、真っ白な雲も所々にある。ここのところ快晴がずっと続いていて、最近の生活はのびのびとした長閑なものである。しかし、
(こんな日に限って、嫌な事が起きるんだよな)
この時カインが感じた悪い予感は、少しも経たないうちに現実のものとなる。
◇◆◇◆◇
「やっぱり......ッ!」
四面いっぱいに広がる『丸麦』の青々とした圧巻の光景を期待したが虚しく、畑の様子を見に来たカインの目が捉えたのは、悍ましい惨状だった。
本来であれば、今の暖かい春に柔らかい茎が育ち、やがて実がなり、これから迎える初夏で収穫となる丸麦なのだが。先日新たに広げた畑へ植えた全ての丸麦が、何者かに食い荒らされてしまったのだ。
「柔らかい部分が片っ端から食われてる……」
食い荒らされた丸麦を手に取って見ると、明らかに動物の犯行と思われる食べ方だとわかる。
カインは眼下に広がる光景に、思わず憎々しくそう悪態をついた。──彼の目に映ったのは、沢山のモコモコ。
その正体は──。
「あのバカ。自分の家畜の管理くらいはしっかりしろよ......」
そう。この白いモコモコたちは、カインの弟が牧場で飼っていた迷える羊たちである。普段は無表情なカインが顔を顰めるほど、畑の一部がもうすっかり白の群れに覆われていた。
間違いなく、こいつらの犯行だ!
(いい加減にしろ)
これで何回目だと思ってる。なにもこのような事態は初めてのことではないのだ。
アイツの管理が甘いせいで、牧場から抜け出した羊たちはよくこうしてカインの畑を狙うのだ。カインの畑が蹂躙された回数はもはや数えるのも馬鹿らしいほどに。
「......とりあえず追い出そう」
いつまでもこうして突っ立てても仕方ない。そう深くため息つくと、カインは目障りな白い群れに近づこうとした時だった。
「にいさ────ん!」
遠くから風に乗って、背後から騒がしくも柔らかい声がカインを呼びかけた。途端にカインは苦虫を噛み潰したような顔をして、心底鬱陶しいという感情を隠さず振り向いた。珍しく凪いでいた心地を駄目にされた腹いせに、ありったけの不満を込めて相手の名前を紡いだ。
「──アベル」
「ごめん!!っ、カイン兄さん、ぼくの羊が、っ、またぁ......っ!」
見慣れた白銀の跳ね毛をゆらゆらと揺らしながら、カインよりも一回り背が低い少年が遠くの急な斜面から息を切って駆け降りてくる──手にする杖を振りまわして。
この忙しない少年こそ、兄弟の中でも年の近いカインの弟、アベルだ。
「おい、そんなに走ってると──」
「ぁ!?」
まだ言い終わらないうちに、カクッと足を踏み外して、体のバランスを崩したアベルがカインをも巻き込み、地面へ雪崩れのように倒れてきた。
「いたた......──ハッ!?」
転倒した痛みに呻きながらも、目と鼻のすぐ先には兄の顔があり、一瞬アベルの動きが止まった。
「重い......さっさと退け」
「うわー!兄さんごめん!大丈夫!?」
すぐに我に返りアベルは顔を真っ青にすると、慌てて立ち上がってカインに手を差し伸べた。
「も、もしかして頭を打っちゃった?」
しかし、カインはそれを無言で躱し、若干よろめきながらもゆっくりと立ち上がる。
そして眩暈を堪えるように額に手を当てるカインに、アベルは心配そうにそうっと声を掛ける。
「相変わらずボケとしてんのか、忙しないのか分からんやつだなお前は」
カインはしばらく額を押さえると、感情の滲ませない声で口火を切った。彼の機嫌は底辺にあることは一目瞭然だった。
「見てみろ。今日もお前の家畜がオレの畑を大層お気に入りのようだ」
「うぅ......ぼく、また......、カイン兄さんに迷惑掛けちゃったね......」
「フン!」
本当にごめんなさいと、泣きそうな顔で深く、深く頭を下げるアベルの姿は本当に故意ではないことが窺える。その後に上げられた顔からは悪い事をしたと後悔の色も見てとれた。
そこまで反省が見られる態度をされたら、普通は沸点を少しでも下げてもいいはずなのだが、カインの機嫌は下がる一方で、怒りは全く払拭されない。
なぜなら、アベルのこれが初犯ではないからだ。
「それよりもさっさと羊たちを回収してとっとと失せろ。こうしてる間にも、オレの畑が食い荒らされているのだぞ」
「そ、そうだよね!ごめん!とりあえず今はこの子たちを退かせることが先決だよね!」
そう言い、アベルはいそいそと杖を振り上げ、それを使って羊の群れを誘導し始めた。
放牧する者は、杖を持つ。先端が丸く曲がっており、鈴が付けられている。これを【羊飼いの杖】と呼ぶ。
羊飼いの杖は、小高い丘を上がる時に突いて歩いたり、崖に落ちそうになった羊の首に引っ掛けて救ったりする。
また、鈴の音は家畜の道標にもなるので、まさにアベルにとっては大事な仕事道具である。
「いくよ。──《神の遊牧》!」
アベルが頭上に羊飼いの杖を掲げ、カリスマを込めて数回鈴を鳴らした。
すると、目の前にある採食対象から、鈴の音のする方へ羊たちが一斉に注目し始めた。
「さぁ、みんな!こっちへいらっしゃい!」
アベルが元気よく合図を出す。
これは山羊たちに移動を促すかけ声だ。
アベルが丘のほうへと走っていくと、彼のカリスマに導かれた羊たちがどんどん先へ進む。これほど円滑に畜群を移動させることができるのも、アベルのカリスマのおかげなのだ。カイン一人であれば、きっと一筋縄にはいかなかっただろう。
作物や植物を著しく早く成長させる《神の豊穣》という能力を持つカインに対し、アベルもあらゆる家畜を従える《神の遊牧》という神の能力を授かっていた。
家畜たちの居場所がすべて把握できる上に、口笛や声に魂の波長を合わせることによって家畜を思い通りに手懐けることができる── 今のところカインが知る弟アベルのカリスマでできる事は、放牧をしていく上で役に立つものばかりだ。
(しっかりとやればいいものを......こう何度もしくじるのは怠慢だとしか考えられん!)
だからこそ肝心な時にカリスマを充分に発揮せずに家畜を野放した結果、カインの畑を荒らしたアベルにはますます腹が立つのだ。
そんな兄の心情を知る由もなく、アベルはそのまま羊たちを引き連れて、カインの畑からある程度離れた牧草地に辿り着く。
◇◆◇◆◇
羊たちはメエメエと鳴きながら、バリバリと葉を食べている。
「はぁ〜、君たちいっぱい食べてくれることはいいことなんだけどね......」
目の前の長閑な光景を眺めながら、アベルは嘆息した。
(どうしてこの子たちはいつもよりにもよってカイン兄さんの畑を狙うんだろう)
羊たちは秋から冬にかけて妊娠し、気温が上がり草が多く生えてくる春先に子どもを産むのだ。出産に向けてたくさん食べるのはいいが、さすがにそれで兄が育てた作物が犠牲になるのは困る。
「ここで大人しくしててね?頼むよ?」
今度は失念しないよう、アベルはカリスマを発動し確実に家畜たちに指示を与えた。
アベルのカリスマ《神の遊牧》の継続効果により、山羊と羊たちも勝手にまたどこかへ移動する事はないだろう──過失による解除をしない限りは。
「よし。これできっと大丈夫だよね」
そう確信したアベルは踵を返し、急いでまたカインの畑のある方向へと丘を駆け降りた。
軋みながら、油を差された歯車は、
ゆっくりと回り始める。




