20話『新たなる小さき命』★
砂塵が吹き荒び、風は渦を巻く。
未だ人類が地に満ちたことのない、時代。
古き世より新しき世へ移りし者たちよ
知り栄え、文明を築くがよい。
時が過ぎていった。
アダムたちが開拓地に移り住んで、結構な日にちが経った。
太陽が東から昇り、西へ落ちた。月は満ち欠けを繰り返した。
開拓が進んでいくうちに木々が繁殖し、森が出来上がり、そこから生まれる豊富な山の幸がさらに二人の私生活の充足に貢献した。
木々を伐採しては資材を確保し、岩石あればそれを破壊した。その結果、木材、樹脂、木の枝、木の皮はもちろん、木を飾る果実も手に入れることができた。そうなればそれまで二人が住んでいた石の洞穴住居は質的に淘汰され、現在の棲家は木造竪穴住居に変わり、飢えを凌ぐために使用できる食材の種類も多くなった。
長いことずっとおざなりにしてきた「衣」の問題も、今では動物皮や、亜麻や綿花などを繊維衣料にしたことで解決した。
そうしてようやく楽園の外の世界でも普通の生活するためには困らないぐらいの程度に──ここは豊かな大地と遜色ない状態へ発展していったのだ。
──そして今日は、
◇◇◇◇◇◇◇
来きたる夜明け。
外は轟々と大きな音を立てながら風が吹いている。
降り頻る雨が植物の茎を束ねて作った屋根を伝う。
地面を平らに掘った床に木の柱を立て、葦あしや茅かやの茎を束ねただけの一見みすぼらしいその建物に、人類最初の夫婦が住んでいた。
「エバ。気分はどうだ?」
「今日は少し楽よ。でもずっと外の様子を見てないから少しだけ退屈かしらね」
「そうだな。エバの体調が落ち着いたらまた外の空気でも吸いにいこう。といっても、散歩はこの嵐が去ってからになるが」
アダムは外の状況にしばし腕組みしてからまた口を開いた。
「だが、食糧調達くらいはなんとかなりそうだな。すぐ戻って来るよ。エバ。何か食べたいものはあるかい?」
「アダム。気持ちはとても嬉しいのだけれど、今は外出るのはとても危険よ。あなたも嵐がやむまでは外出を控えた方がいいわ」
エバの美しい白銀の髪を撫でながら訊ねるも、彼女は軽く首を横に振って、欲しくないと掠れた声で言った。
「だ、だが、今日の食糧の調達せねば」
「嵐が来る日は無理しないの。あなたに何かあったら心配だわ。そうね、当面の食糧は保存食で済ましましょう。こういう時のための備蓄でしょう?」
そんなエバの言葉を聞いて、アダムはがっくりと項垂れた。
本当は今日の狩りに出かける予定だったのに、確かにこの風では矢が真っ直ぐに飛ばせるかも怪しいと、アダムは内心溜息を吐いた。
しかし、いくら残念がったところで、神でもない限り──自分一人なんかのちっぽけな存在のために天候が左右してくれるはずもない。
(仕方ない。今日素直に大人しく家に篭もろう)
それに屋内の隅っこに並べてある薪をまとめたり、狩りの道具の手入れしたり、夕食の支度をしたり、それなりにやることはある。
そうだ。嵐が去った後の狩猟に備えて、まずは矢作りにでもしよう。狩りが上手くいけば、妻のエバに美味しい肉料理を食べさせることができる──なにより“今の彼女”にはスタミナ補給が必要なのだから。アダムが内心張り切っていたときだった。
ミシリッッ
横薙ぎの強風のせいで竪穴住居が大きく揺れ、時おり大きく音を立てて軋んだ。
アダムはい天井の庇をそっとはずし外を見てみれば、雨が狂ったように地面を叩きのめし、窓の横をすごい勢いで木の枝や石が飛び去って行った。
いよいよ本格的に嵐がやってきた。
このままだとこの家と諸共吹っ飛ばされてしまうのでは、とアダムは大きな不安と共に冷や汗を流さずにはいられない。
しかしシンプルで質素な作りとはいえ、この竪穴住居の安全性と居住性はなかなかのものであると作ったアダムは自負している。
壁や屋根は、カヤなどの植物を幾重にも束ね、通常の雨風は通さない密封性が高い構造になっている。
さらには棟木や梁が頑丈に支えとなっていて、内部も丁寧に木材を敷き詰め、地面からの放射冷却を防ぐ。
中心部分の床には穴を掘ってあり、石材を詰め囲炉裏のようなものを作った。おかげでこの嵐の夜でも室内はとても暖かくかなり快適である。
家の扉にもしっかりと丸太で支え閉じられている。これで外敵はもちろん、暴風や猛雨をそう簡単に招き入れないはずだ。
(それでも、早くこの嵐が過ぎ去って欲しいものだ)
アダムはチラりと、家の奥にいる妻を横目で見た。エバは床の上の動物の毛皮の敷物に座り、淡々と夕餉の準備として木の実の皮を剥いでいた。
嵐に揺れる家に、一見怖がっている様子は見られない。
「なぁ、エバ」
「なあに?」
屋内は焚き火で充分に暖かさはあっても、アダムが彼女の手を握ると石のようにひんやりとしていた。
「怖くないのか?」
「怖くないと言ったら......嘘になるけど、少しは慣れたのかもね。アダムもいるし。それに、この嵐なら猛獣も襲撃してこないし」
「無理もない。ここの地上には楽園に無縁なものばかりがあるもんだ。私たちが楽園にいた頃はこんな怯えて過ごすことなんて無縁だったしな」
「そう、ね」
そう。楽園の外の世界はあまりにも「危険」が蔓延していた。それは「死の大地」に限らず、この開拓土地にも言えることだった。
猛獣が跋扈する、災禍が頻発する、様々な危険が彼ら人類を襲う。そのすべてが、人間たちの生活を脅かすものとなる。
「確かに、初めて嵐に遭遇した時はとても怖かったわ。あの時はアダムがそばにいなかったら、私多分耐えられなかったわ」
エバの言葉にアダムは初めて体験する嵐のことを思い出すした。
楽園の外へ追放されたばかりの頃。エバがひどく怖がってアダムから離れないと強くしがみついていたのだ。
豪雨と強風が吹き荒れ、それがなぜ起きているのか、なぜ自分の身に降り注ぐのか理解できぬないまでも、二人で身を寄せ合い耐え抜いた日は今でも記憶に新しい。
時折襲い来る大地が揺れる地震や猛吹雪などの天災にもそうして徐々に経験し、本能的な恐怖も慣れていく事で少しずつ緩和されるものの、その脅威性を感じないわけではない。
天罰にも似た天災は今もこうして容赦なく人間の生活のリズムを崩してきて、二人にとっては物理的にも精神的にも大きな打撃であった。改めて、地上での暮らしの厳しいを痛感させられる。
「それでも、私たちは乗り越えてここまできたし、今ここはもう何もない地ではなくなったわ」
そう言ってエバはさらっと屋内を軽く見渡した。
ヤシの枝を用いた入れ物としての籠や笊。
穀物やナッツをすりつぶすための石皿と磨石。
料理と暖房を行うための炉、穀物や野菜などを貯蔵するために籠を吊るす天井から吊るされた木のフックもある。
「楽園には負けるかもしれないけど、私たちが初めてこの地上に足を踏み入れた時と比べれば、色々と生活も便利になってとても楽になったもの」
これらの道具や設備もすべて、二人のカリスマ──【神の知恵】がもたらした結果なのだ。
万物を瞬時に生み出すことができる万能な神の力を借りれるはずもない状況下で──二人だけの力ではどこまでも無限に続く貧しい未知なる土地の開拓にはあれからかなりの長い年月が掛かった。
開拓を進めるうちに、何もないと思われたこの土地でさまざまな新しい発見を見つけたのだ。
まず、エデンの園は常に暖かかったが、外の世界は四季がある。
草が生え始める春があり、暑さで汗を流し、木々がすくすくと成長する夏があり、実りの多い秋があり、雪が降って凍える冬があった。
そんな四季がもう何回も何十回も繰り返されるうちに、少しずつ新たな生命が地上へ誕生し繁殖を始めたのだ。
「そうだな、海だけでは無い、この土地にも少しずつ生き物が繁殖するようになるなんて......あの時のミカエルの言葉を疑っていたわけではないけど、本当だったとは」
今では人間の貴重な食料は海の幸や畑の作物の収穫だけではなく、時には獣の狩猟も中心となっている。そのため、アダムは弓の腕も磨くのを怠らない。
「とはいえ、動物を狩るのはいろんな意味でやはり骨がいる」
アダムの狩りの対象は猛獣がほとんどだった。
弱肉強食のない平和なエデンの楽園では、小動物も猛獣も互いに争うことなく共存していた。
しかし、楽園に生きる穏やかな猛獣たちとは大きく違い、この地に生きる猛獣は非常に警戒心が高く、人間を見れば容赦なく襲いかかってきて攻撃的だった。
初めは生き残ることで精一杯だったが、地上に来てもうそれなりの年月を経つし、アダムもそれなりに弓を駆使できるようになった。
生きている獣を狙って矢を放ち、命を狩り取ることに対して最初は罪悪感でいっぱいだったが、結局は割り切るしかない。
それでも猛獣たちにとどめを刺すたびに、楽園に置いていった動物たちを思い出してしまうため、アダムは心を痛んできた。
「ごめんなさい。アダム。動物が大好きなあなたに、狩りを任せるのは本当の心苦しいけど......」
「いや、こればかりは男の本領さ。私たちが生きていくためにも必要なことだってのもわかっている。だからせめて、犠牲になった生き物たちには感謝の心を忘れないようにしないとな」
常に苦労と心労が大きく伴うが、そのおかげで獣たちの血肉と毛皮は今では人間らの食と衣の問題の大きな糧となってもらっている。
エデンにいた頃では、アダムたちは菜食主義で、口にして良いもは植物と果実だけだった。
元よりあの楽園での「肉食」は決して許されない行為。しかし、楽園追放されたあと、それも強く禁じられることはなくなった。
かといって、正式に神から直接許可されている訳でもない。だが、堕落したアダムとエバに神が動物を殺して、その皮を彼らの衣として着せたことが暗に肉を食べる許可を与えたように感じられた。
だからこそ命を狩る側としては、殺した獣の肉はなるべく無駄なく食べきるようにし、意味のない無駄な殺生もしないようにするのがせめてもの情けだ。
「でも、辛い気持ちは変わらないよね......」
「ああ。辛いさ。これからも慣れることはない。これも、神の試練......いや、罰と言ってもいいか。ハハっ、覚悟はしたいたのに、情けないことだ」
未だに疲労の色の濃いアダムの顔には僅かな自嘲な笑みがのぼる。
「私は、アダムとならどこにだって生きていけるわ。これまでも乗り越えてきたじゃない。もっと自信を持ってね」
「自信、か。私はちゃんと、やれているのだろうか.......」
「んもう、そんな顔をしないのよ。あなたがそんなんじゃ、この子まで不安になっちゃうわ」
顔を上げたアダムは、微笑むエバと目が合う。そして次に彼女の言葉に導かれるように、その傍らの木の揺籠の中に視線を投げた。
そこには愛らしい一人の赤ん坊がぎゅっと手を握り締めすやすやと眠っていた。産まれたばかりの息子。
その名は「カイン」。
外の世界をめぐる中で、アダムとエバが愛を育み授かった子。初めてエバが子を身籠ったと発覚した時は、まさに人間にとっては晴天の霹靂だった。
それでも、これほどの過酷な環境の中で、エバが文字通り命懸けで産んだ二人の愛の結晶。
エデンの楽園で罪を犯し初めて互いを知った“あの日”に授かったのか、あるいは楽園追放されてからなのか今や定かではない。
いずれにせよ、エバに「出産の苦しみ」という罰を与えた神はすべてお見通しだったのだと、改めて思い知らされた。
「そう、だな。私としたことが、弱音を吐くなんて......もう私とエバ二人だけの問題じゃないのに、な」
アダムはいまだに夢の中にいる我が子を眺める。
小さな息子は二人にそっくりの黄金の瞳と白銀の髪で、顔立ちはどちらかといえばアダム似だった。
アダムはまだ出来たばかりのこの小さな自分の家族を精一杯守らなければと、いつだって己を奮闘させた。
「ぅう......、ふぇええっ!」
その時、揺籠の中のカインがぐずり出した。どうやら起きてしまったようだ。
エバは作業を一旦中断して、揺籠からカインを抱き上げると、横抱きにしその小さな額にそっと口付ける。
「うふふ、いつ見てもかわいいわね」
「......ああ。人間の子どもというのは、こうも愛らしい生き物なのだな」
「そうね......産む時はさすがに痛みでどうにかなりそうだったけれど、今ではこの子を産んで心からよかったと思ってるわ。それに──あともう少しで、この子にも会えるしね」
そう言ってエバは空いた手で今度は大きく張り出る自身のお腹を愛おしそうにさすった。
「あのままあの楽園にいても、この子たちとも出会えなかったかもしれないもの」
少しばかり虚な遠い目しながら遠い過去に鮮明に残る楽園の残影を反芻するものの、すぐに現実にいる我が子たちに視線を戻すと、幸福な母の顔を取り戻していた。
「だから、私はあの楽園から離れることにもう未練はないわ」
楽園を追放されてから、アダムとエバを取り巻く世界は確実に変化し続けていた。
カインが生まれた時も、今回また新たな小さな命が宿ったことが発覚した時も、エバは今と同じような幸せな顔をしていた。それこそ、エデンの楽園にいた頃のどの瞬間よりも。
「ああ。それは私も同じだ。エバ」
アダムはエバを労わるように抱き寄せた。
昔みたいな大胆で力強い抱擁ではなく、まるで壊れたものを扱うかの如く、優しくそっと抱き寄せる。
「辛くとも、今が一番幸せだ。それは間違いない。しかし、だな......」
アダムの大きな手がお腹を当てるエバの華奢な手の上に重ねた。その顔はどうも煮え切らない表情で、眼尻を下げている。
「カインと腹の子の未来を考えた途端にこうも思わざるおえないのだ。もし今もあの楽園にいれたら......俺たちが罪を犯さなければ、この子たちはこれからなんの苦労せずとも生きていけたのではないか?」
「......それは、」
エバの腕の中に埋もれる幼きカインを見つめながら、アダムはそう小さく漏らしていた。
外からの差し込む橙色の夕日が彼の背中を柔らかく照らすせいでより一層哀愁が漂っていた。
「子どもたちにふさわしいのはこの貧しい地上ではなく、あの平穏な楽園じゃないかって、」
そんなアダムの苦渋な言葉にエバは吐息し、それから楽園時代の記憶を手繰り寄せるように瞑目した。
平等の生き物で溢れていた世界。
満ち足りていた世界、平和な世界。
──ソレを最初に壊す切っ掛けとなったのは自分である事くらいエバは覚えている。
パチンと爆ぜる薪の音で、エバは過去の泡沫から現実へと引き戻された。
「......そうかもしれないわね。でも、どんなに思いを馳せても、それはもう過去なのよ」
「過去、か......」
輝かしき記憶にエバはそっと蓋をする。思い出はどれほど美しくとも、あの頃へは決して戻れないのだから。
アダムは目を伏せて、カインの頭と、そしてエバのお腹を撫でる。
「いつか俺たちは恨まれる日も来るかもしれない」
子供達がどんな未来を紡ぐのかはまだわからない。ただそれに連なる道が明るいものではないことは分かる。
「そうね。恨まれる時は二人一緒よ」
そう告げると、エバは柔らかな微笑みを湛えたまま、ゆっくりとした軌道で柔らかな瞳がアダムへ向く。
懐妊してからの彼女は、母性も身につけたのか、かつての天真爛漫さは影に潜め、今では神聖さを含む優しさと慈愛に満ちた雰囲気を醸し出していた。
アダムは不意打ちにもそんな妻の美しさに一瞬言葉を失う。
「......ああ。そうだな」
そんな彼女に対してそれだけ零すだけのアダムの言葉には否定も嘘もなく、空気に馴染んで落ちた。
「うぅ!」
不意に幼い声が響く。
そこに視線を落とせば、カインが精一杯手を伸ばしてアダムの裾を引っ張っていた。
「あーぅ、うぅ」
喃語というものだろう、何かを言おうとしているのか、それともただの赤ん坊の生態反応なのか、アダムにはわからない。
引っ張られているのは腕の部分だ。ギュッと掴んで離そうとはしない。無理矢理引き離させては、まだ柔らかすぎる赤ん坊を怪我させてしまうカモしれない。
アダムは引っ張られている方の腕をカインへと伸ばした。
すると小さな手は掴んでいた服を離し、代わりに父なる彼の指を掴む。思ってもいない我が子の仕草にびっくりしたアダムは目を瞬かせた。
思っていたよりもずっと強い、赤ん坊の握力はこんなにも強いのかとアダムが思わず感心してしまうほど強い力で、カインは小さな手で父の指を握りしめた。
痛いくらいに握られた指の先から伝わってくる温度がひどく心地よくて、彼は自然と体の力を抜いていた。
「ぱぁ、ぱー」
そんなアダムにカインは微かに呼びかけた。
「──!?エバ!見てごらん!この子が、カインが......っ!」
「あらあら、珍しいわね。普段あんまり笑わないこの子が......」
こんな自分にもこの子は笑いかけてくれる。──しかと握られた指は自分を求めてくれているようで、アダムは愛しさのあまり泣いてしまいそうになる。
たとえカインの行動に何の意図もなくても、ただそこにあったから掴んだだけの反射神経でも、それでも、今のアダムにとっては救いだった。
「うふふ、この子なりにあなたを励まそうとしてるのかもね」
「......ああ、そうかもな」
アダムは優しくカインの頭を撫でた。伝わる温度が、幼い笑顔が、彼の胸に優しく沁み込んでいった。
手触りの良いまた短い白銀の髪は自分に似て随分と太いし、目も吊り上がっているような気もするが、こうして目を細めて笑えばエバにもよく似ている。
「なぁ、エバ」
「なあに?」
「それでも、俺は子どもたちの幸福を願わずにはいられないよ」
「......ええ、そうね」
アダムは少しだけ、ほんの少しだけ、自分を許せそうな気がした。
◇◇◇◇◇◇◇
そして、翌月。この貧しい荒地に、
もう一人の男の子が、また産み落とされた────




