19話『未知の開拓へ』
歩く。歩く。
人間たちは一心不乱に死の大地を踏破する。
息が切れる。肺が痛み、疲弊で全身が軋み、劣悪な環境に馴染まない肉体の各所が悲鳴を上げているのがわかる。──それでも、彼らが止まることはない。
一秒でも早く、ほんのわずかでも早く、前へ進まないと行けない。
そうでなければ、死の運命が後ろから迫り、人類の危うい命の灯火が食らい尽くされてしまう。
嫌だ。ここで終わりたくない。
生き残りたい、と生存本能が叫ぶ。
そのために、そのために、そのために、前へ歩み続ける。
地を蹴る足は次第に意識していなければ指先から掻き消えてしまいそうなほど弱く頼りないものになっても、ふと弱気に支配されてすぐさま後悔に意識を埋没させてしまいそうになるも、その全てに耐えながらアダムとエバは前へ進んだ。
すっかり摩耗し切った精神で、前を目指して走り続けてどれだけ時間が経ったろうか。
周囲、ふいにそれまで何もなかった風景にポツポツと植物らしき物が混じっていて、次第に蹴る地面からも雑草を踏む感触がした。
「エバ。少しだけ......この辺り草か木が生えてるよな?」
「......そうね。もしかしたら、死の大地が終わりに.......、近づいて来たのかしら」
「......もう少し先へ進んでみよう」
「ええ......」
限界が近い体が今すぐにでもその場に崩れ落ちそうだけど、ようやく見えてきた光明が二人の体を奮起させる。
進めば進むほど、景色が少しずつ豊かになり彩られていく。植物らしき物が徐々に増えてやがて平野に変わる。
川が流れさらに湖が現れる。どれも汚染された様子はなく、見つけた時のアダムたちは大はしゃぎだった。
「やっぱりここがミカエルが言っていた、未知なる地上、か?」
「きっとそうね。だってこれまでの死の大地みたいな嫌な感じはしないもの!」
「なら、私たちはようやく死の大地から抜け出したということなのだな!やったな!エバ!」
「ええ!アダム!」
生への執念が功を奏したのか──気が遠くなるほどの長い道のりの果てに──運命はようやく二人の人間を死の大地から連れ出し、希望の可能性が潜んだ大地へと導いたのだ。
地平の向こうに広がる更地。
確かにエデンの園と比べて殺風景で物足りないが、生命が決して生まれることがない「死の大地」とはやはり雲泥の差だとわかる。
「では、私たちはこの場所からスタートなんだな」
かつて神は「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と仰せになられた。そして、ミカエルの話では、この人跡未踏の地のどこでも自分たちの土地にしていいとのこと。
つまり、追放された楽園の外、謂わば楽園あらざるこの地こそ、人類の生きるべき土地なのだ。
「私たちが力を合わせれば、楽園に及ばずとも、ここを豊かな地にできるかもしれない」
「でも、どうやって......?」
エバの疑問は当然のことだ。この頃の二人にはすぐに地上で生活する技術さえも知らない。だが、
「考えるんだ。間違ってもいい。色々とやってみるんだ。そして、二人で生きていくんだ。神に頼らず自分達の力で生き抜いていこう!」
その代わり、彼らはその貧しい土地で生き抜くための“知恵”を持っていた。もう自分たちはただ神の言う通りに従う土の人形ではない。知恵を持った賢い人間なのだと。
不思議なことに、アダムとエバにはその気になれば生きるためのアイディアがどんどん湧いてくる。人間が人間らしい暮らしをするために最低限必要なものがあると、彼らの知恵がそう教えてくれるのだ。
◇◇◇◇◇◇◇
まずは、衣食住を第一優先で確保することにした。
「なんと言っても最初はやはり食べ物だよな」
「ええ、そうねぇ......さすがにそろそろ何か食べないと体が限界だわ、」
この地に辿り着くまでの約三十日間アダムとエバは何も食べていない。この土地に着いてからまず真っ先に川の水をたらふく飲んで渇きを癒した。それでも飢餓に侵食された肉体はぐうぐうと悲鳴を上げて限界を迎えようとしている。
「海まであるとはな、これは助かる」
海は青くて、砂浜は白い。
まさに手付かずな自然といった感じである。粒子の細かい砂地を、キュッキュッと踏みしめながら辺りを見渡す。
周りを断崖絶壁に囲まれ、湾曲した形状の入江になっているようだ。海岸線を少し移動しただけで、ゴツゴツした岩場へ変わった。
そういう岩の隙間に、食料にできそうな無尽蔵な宝庫が潜んでいた。
「意外と海の幸があるのね。楽園にしか無いものだと思っていたわ。でもこれでいろんな問題が一気に解決できそうね」
「そうだな。海に潜ればさらに沢山の食料にできそうなものがあるかもしれんな」
海洋の岩の隙間。茂った海藻の影。
小魚や貝類、タコが獲れた時には一番驚いた。
装備や道具の努力次第で海での自給自足をさらに満喫できるかもしれないとアダムは密かに思った。
だが、とりあえず当分は海の幸を採取するのが生きる手段となろう。
「採った小魚、どう食べるんだろう?」
「動物の肉、か......初めて食べるな」
楽園にいた頃、アダムとエバの主食は全地に生えた種持つ草や果物、時には耕して育てた野菜がほとんどで、「肉食」は初めてだった。
正直動物の命を糧にするのは気が引けるけれど、この状況で背に腹は変えられない。幸か不幸か肉食は神からは特別に禁止されている訳ではない。であれば肉を食べても罰則はないはずだ。
ともあれ、
「食べるにしても、さすがに果物みたいにそのまま食べるのは......なんだか抵抗があるわね」
「そうだな......以前ラファエル先生から少しかじった知識だが、“生食が不安な食べ物は加熱するといい”って言っていたな」
「加熱......?」
「要は“火”を使えばいいのさ」
「どうやって火を出すの?」
「うーむ」
アダムが頭をフル回転させ、思考に沈めたときだった。
「!!」
「アダム?」
「そうだ!“摩擦”だ!」
「まさつ?」
「見ててくれ!」
アダムは突然平原に転がっている木の板と木の棒を拾い初め、すぐに木の板の上に棒を急速回転し始めた。香ばしいにおいがしたと思ったら、摩擦面の木屑から煙が出てきた。
「この場合の火口は雑草でいいだろう」
そう言って煙を出す木屑を雑草でキャッチしたアダムがそこに息を二、三度に吹き込むといきなり発火。作業開始から火が着くまで、およそ一分の早ワザだ。
「成功だ!」
「え、え!?アダム!どうして付け木を摩擦で熱を出す方法をわかったの?それもラファエルから教わったの?」
「いや、ラファエル先生はあまり必要以上に多くの事を教えられないんだ」
楽園にいた頃アダムがあまり知識を求め過ぎると先ラファエルから一度諌められた過去があった。
今考えたら【知恵の実】を禁止されていた限り、ヒトがあまり多くの事を知ろうとするのは良しとされなかったのだろう。
「今のこれは誰から教わったとかじゃなくて、その、ただ突然頭の中に火を生み出す方法がこう、頭にぴきーんって閃いてだな、」
「突然......?薄々と思っていたのだけど、もしかすると、それがミカエルが言っていた【カリスマ】......なのかしら?」
「え?今のが?」
「何も学ばなくても、集中して考えれば、どうすればいいのかの方法をあらかじめ伝授してくれる。それが、えっと、《神の知恵》の効果じゃないかと私は思うわ。あくまで今の状況からの推測だけど.......」
確かに、この生きた地上に辿りついてから、何を食料にできるとか、どこの水は飲めるのが安全なのか、アダムたちは最初からわかってるかのように悩まずその知恵に従って行動してきた。
「だとすれば、私たちここに辿り着いてから無意識に《神の知恵》を使っていたのかも」
「なるほど!そう言われるとしっくり来るな!つまり、このカリスマさえあれば、私たちは自分たちの力でも生きていけるってことだな!」
「だとしたらそれってすばらしいことだわ!」
キャッキャっと喜びエバを見て、アダムも内心カリスマを与えてくれた【知恵の実】に感謝を捧げた。
「せっかくだし、起こした火で魚を焼いて食べてみるか」
「ええ!私もうお腹ぺこぺこだわ。魚さんたちには申し訳ないけれど感謝を込めて頂きましょう」
さて、食問題解決したので、次は「衣」も重要な問題ではある。【知恵の実】は「羞恥心」を二人の身体に教え込んだのだから。
だが、まだ手付かずなこの大自然には、二人の新しい衣服を作るための素材を獲得する術を今すぐにでも見つけ出すのは厳しいだろう。
「当分は私たちが今着ているこれを川や湖で洗って使い回すしかないな。服の問題はとりあえず後回しでいいか」
「服を乾かす間裸になるのは正直恥ずかしいけど......仕方ないわね」
「エバが嫌なら、私はなるべく見ないようにするさ」
「......なるべく?」
「ぜ、絶対に!......多分。」
「うふふ。エッチね」
となれば、最後が「住」だ。
安全に眠れる場所の確保のため、まずは岩山に洞窟を掘る。
疲れた体に鞭を打って岩山に石で穴を掘り、何とか休める程度の空間が出来上がり、寝床という本拠地を作った。言うなれば、簡易的な「石洞穴」なのだが。とりあえずこれで雨嵐など悪天候を凌ぐには充分であろう。
それからしばらく経って、最低限の衣食住の材料を少しずつ自給自足できる程度になった頃には、いよいよアダムとエバは楽園の外の世界──未知なる無の大地の開拓を決意した。
◇◇◇◇◇◇◇
「開拓すると言っても、どうやって」
「うむ......うまくいくかわからないが、種を蒔いて育ててみようか」
「種って言っても、どうやって手に入れるのかしら?ここは木はあるけれど、果物や野菜を生やした木なんて一本も見当たらないわよ?」
エバは不安そうな顔でアダムを見上げた。
「神にバレるといけないと思って、エバにも内緒にしていたんだが......」
そう言って差し出されたアダムの手に握られたのは── いくつかの種だった。
「これは...」
「柘榴の種だ。あのエデンの楽園からいくつか持ち出してきたんだ。これの種を、この平原の中央にでも植えてみよう」
「まさか、こうなることを想定して......?」
「せっかくミカエルが楽園を出る前の猶予をくれたんだ。だから念のためというやつだな。これもあの禁断の果実の“入れ知恵”なのかもしれないけどな」
「......《神の知恵》。カリスマって侮れないわね」
いよいよこの何もない土地に命を注ぐというレベルの偉業を成し遂げる日がきた。
エバは今、猛烈に感動している。
「どうしたんだ?エバ。いきなり固まって」
「え......あ、死の大地から抜け出して、それからなんか衣食住の確保にすごく苦労して、今はこうして植物を植えるところまで辿りついたと思うと、ジーンときちゃったの......」
「そうだよな、私たち頑張ったな!でもここからが本番のはずだ。種を植えて、育てて、食べるんだ。そうだろう?」
「そうね。食べないと......しっかり育てて、食べてこそ今までの私たちの苦労が報われるものね」
「ああ!」
善は急げと言わんばかりに、大地に転がる石と木の枝を拾って、アダムは早速《神の知恵》を発揮して、思いつくままに道具の製作を試みた。
それが「鍬」と「鎌」であり、のちに農業用具として使われる。
「よし!早速作業に取り掛かるとしよう!」
まず石ころと雑草を鎌で取り除いて、鍬で土地を耕した。
地面へ鍬を一振り。
瞬間、サクッという爽快な音と共に、地中の土が噴き出すように上がり畑へと耕される。
畑。ここに種を撒いて、いろんなものを収穫できるようになれば、食糧事情もより安定するはず。
「種ってどうやって植えればいいの?」
「とりあえず指の第一関節ぐらいの深さに種一粒入れて、あとは土を軽く被せよう」
「それだけで実るのかしら?」
「ま、試していけばいいさ」
二人は一粒一粒気持ちを込めて種を植えた。
そのまま雑草に育つなら残念だけど、それが食料に代わる作物になってくれたら儲けものだ。
「頼むぞ。これからたくさん美味しい作物を実ってくれよ」
既に自分の耕した土地に愛着でも湧いたのか、アダムは鍬で手入れした柔らかくなった土を、直にその手で掬い上げる。
そんなアダムの願いが届いたのか、数日後に無事木の芽が出た。思わぬ成果に、アダムとエバは手を取り合ってその場で踊り喜んだ。
「どうだい?エバ!これが知恵の力というやつだな!植物や果実が乏しければ、このように増やせばいい!」
「そうね!そうすればこの地もやがて生まれ変わるはずだわ!」
新たな命が根付く瞬間を目にした時、彼らの瞳に希望の光が宿った。やがて時が経ち、この大地が再び緑に覆われる日を夢見る。
「よし決めた!私はこの偉業を『農業』と名付ることにするぞ!」
「ふふふ、アダムったら相変わらず物事に名付けするのが好きなのね。そういえばアダムが作った道具......、鍬だったかしら?壊れちゃったね」
「ん?ああ、急いで試しに作ったから、質にはこだわってなかったからかな。これも少しずつ研究して強化していけば、今後の農業作業も効率良くなるし、開拓も少しずつ楽になるといいな」
「アダムってとても頼もしいのね。見てるこっちまでなんだか力が湧いてくる。本当にすごいわ......!正直私たちの力でここまでできるとは思わなかったもの」
エバはアダムの言うことを素直にすごいと思った。【知恵の実】を食べて、彼は本当に変わった。
今でこそ何もないが、今まで彷徨っていた死の大地とは違って、ここには「生命の可能性」が秘めている。
おそらく初めの一年くらいは大きくは変わらないだろう。だがこのまま諦めずに少しずつ環境を整っていけば、潜んでいる可能性を発掘していけば、この無の大地もいつかは「人間の楽園」になるかもしれない。
「とは言っても、この世界で生き残るためには、まだまだ苦労が多そうだけどな」
その「苦労すること」こそが神が望んだ自分たちへの罰なのだがなとアダムは内心苦笑をした。
ため息を吐くと同時に、胃袋がまたもや抗議を上げた。
「そろそろお腹を満たしておきましょう。さすがにそろそろ体も限界だわ」
「ああ。そうだな、ここまできて餓死で終わったら笑えないもんな」
「うふふ。と言っても、まだしばらく神のご加護が効いているうちは、そう簡単に餓死しないようにできているけどね」
「だが、それも時間の問題だ。この地に辿り着いたからには、神の加護もそろそろ消えるだろう。それまでに自給自足できる環境を整えなければな」
それからもアダムたちは朝起きて毎日木の芽に水をやりしてから、食料に確保に海へ出かける、という生活を続けていた。
畑の作物はすくすくと成長し、その世話に追われるようになった。正直まだ収穫には時間かかるが、それがどんな作物になるかがとても楽しみだ。
その先には自分たちが求める新たな楽園があると信じて、彼らはそれを繰り返して開拓地を広げていった。
「ここを──私たちの“始まり”にするんだ」
アダムの声は平原に吸い込まれて行った。
これからはまだまだやらなければいけない課題は山積みだけど、不思議と嫌な感じがしないのは、ようやく「生きている」ことを実感できたからかもしれない。
それが後世の文明の最初の一滴だった。




