18話『死の大地』★
アダムとエバは呆然と佇み、眼前に広がる世界を見ていた。彼らは今、楽園の追放の残酷さを思い知った。
つい先程までに緑や青で描かれていたはずの世界は、一面の殺風景へと変貌していった。
空は曇天。視界を支配する広大な荒野。
風は激しく吹き荒れ、大地も頻繁に激震を伴い轟音が鳴り響かせていた。
砕けた地面は血が乾き固まったものを思わせる程の赤黒さに染まり、ひび割れた裂け目からは煙なのか蒸気なのか噴出しているのが見て取れる。
木々は痩せ細り、生命力の象徴である雑草ですらもぐったりしていた。
かろうじて流れている細い川も、その水はやけに異臭を放ち濁っていて、瘴気じみた燻んだ空気が素肌に伝わる。
さらに遠くへ眺めれば地平の向こう、いくつにも連なる山影の至る所で噴火を繰り返しては、周囲に溶岩と火山灰を撒き散らし、見渡す限りの炎熱と旱魃 した土地に降り注ぐ。
何もかもが恵み豊かであったエデンの楽園とは天と地ほどに違っていた。
何もない。
まさしく、生と呼ばれるものが等しく存在を許されない境地なのだ。
──そう、そこには「無」のみが広がっていた。
言うなれば、まるで今のアダムとエバのように──神から見離された土地──【死の大地】と言ってもいい。
「アダム。エバ。今から話すことは私から君たちへの最初の導きとしてよく聞くんだ」
遡ること一日前。
楽園追放が決定された直後、天界より舞い降りたミカエルから直接アダムたちの今後について語られる。
「蛇に騙されたとはいえ、【知恵の実】を食べてしまった君たちはもうエデンの楽園にいる事を許されず、追放しなければならない。楽園を出た後、外の世界ではたくさんの酷な試練が君達を待ち受けている」
「外の世界......?この楽園とは違う場所があるのか?」
「そうだ。エデンの園には出入り口の門がある。そこを通り抜けば外の世界──すなわち【地上】になるのだ」
さて、問題はそこからだ。と前置きすると、ミカエルが一つ指を立てば、
「外の世界はまだ未完成ゆえ、大陸の三分の二は不毛の地に占められている。楽園とは違い、そこには食糧も水もない。厳しい世界が君たちを迎えるだろう」
「食糧も水もない......?そんなところで私たちは生きれるのかしら......?」
「......いや、無理だ。一日も持つはずもない!」
楽園の外でもなんとか生きていける──そんな見通しの甘さに挫かれ、光明が全く見えない気配にエバは危惧と憂慮を感じざるおえない。
その様子をちらと見ながら、アダムも思った以上にこれから自分たちを取り巻く環境が劣悪に満ちているのを実感する。
そんな彼らを不憫に思ったのか、ミカエルは「しかし」と思案げに、
「君たちを身一つで何もない荒野へ放り出し、ただ飢え死するだけの覚悟をさせるほど、神は無慈悲ではない。幸いなことに外の世界には生きた大地も一部は存在する。無論、楽園には到底及ばないが、僅かな生物や植物であれば生息している。そこを拠点に生活できるように開拓するといい」
「開拓......?」
「つまり、君たちはそこで何もない土地を切り拓き、荒地から自分たちの棲家を作り、畑を耕し、君たち人間なりの生活を築き上げていくのだ」
切り出したミカエルの言葉に、人類の二人はそれぞれの反応を見せる。
凝然と唇を引き結び思考するアダム。驚いたように目を見開き、アダムの様子を心配げに伺うエバ。
やがて、口火を切ったのはアダムだった。
「それを私たちだけでやっていくのか......?」
「その通り。幸か不幸か君たちは【知恵の実】を食べた事で、《神の知恵》のカリスマを授かった。そのスキルを上手く活用できれば、君たち人類の存続への道を切り開くことができるだろう」
「《神の知恵》?カリスマ?」
「それについては自ずと分かる日が来る。とにかく、カリスマを掌握する事で君たちはあらゆる苦難を乗り越え、自らの生活の糧を得るために──知恵を振り絞って労働せねばならない」
そこで、ミカエルは立った姿勢のまま、視線だけを微かな憐憫を滲ませてアダムを見る。
その見下した視線が、態度が、哀れみを浮かべた表情が、アダムに現実を突きつける。
「アダムよ、【男】である君は、これから生きるための食物を得るには苦労を強いられよう、獰猛な獣にも襲われよう。それが君の贖罪だ」
「......ああ」
忸怩たる思いに駆られ俯くアダムを見届けると、今度はエバに視線を向けた。そこには憐憫の色が薄まり、微かな難色が上書きされる。
「エバよ。【女】である君は、そこから子を産まねばならぬ。その度に想像を超える痛みに襲われよう。それが君の贖罪だ」
「私が、子を......?」
「以上が、【知恵の実】を口にした人間へ下された罰のうちの一部。そして、神からの試練と言ってもいいだろう」
「なら......とりあえず私たちはまずその生きた大地に行けばいいんだな。やり残す事がないよう今のうちにでも準備しないとな」
顔を上げてそう断言したアダムは固唾を飲んで、こちらを見るミカエルに頷きかける。
方針は決まった。
本来は今すぐにでも楽園外へ追放なのだが、ミカエルの温情による猶予で、少なくとも明日中には楽園から出ていかなければならないだろう。
「その通りだ。なにせ、生きる地へ辿り着くには三十日は歩まないと辿り着けない距離になる。ある程度の心の準備は不可欠となる」
「三十......!そ、そんなに、遠いのか!?」
「それだけ地上の生きる部分の割合が少ないのだ。その間君たちが死の大地を抜け出すまでは食料の目処がない。目的地まで激しい飢餓や疲労に苛まれるであろう」
「待ってくれ!やはり無理な話だ!それでは、目的地に着くまで、三十日......いや、三日すらもたないっ、私とエバは餓死するに決まっている!」
「アダム。落ち着くんだ。先程申した通り、神は無慈悲ではない。酌量の余地は充分にある」
「と、言うと......?」
「確かに今の君たちは不死ではなくなった。だが、神の温情により、死の大地を脱出するまでの間は、君たちの肉体は飢饉を耐え凌ぐように強化されている。つまり、君たちが生きようとする限り、神のご加護は君たちを餓死から遠ざけるのだ」
そこで、一度言葉を区切り、今度は少し険しさを帯びて口調でミカエルは続ける。
「無論、生きた大地に辿り着くまで君たちが諦めてしまった場合は、そこで神に見限られ、酷だが当然加護も消える。そうなれば君たちが恐れていた通り最期は餓死へ至り、その身も朽ち果てやがて土へ還るだろう」
「安心......していいのか微妙な話だが、何も食べずに生きた大地へ辿りつけるかどうかは、私たちの根性と覚悟次第ってことか」
「逆に言えば、辿りつかなければ私たちの未来は無いってことね」
諦めて何もせずに野垂れ死ぬか、
飢餓と疲労に耐え可能性の地へ歩むか。
まさに人類の存亡が関わっている神の試練に、アダムもエバもそれ以降は閉口する。
「どちらにせよ、君たちには相当な覚悟が必要だ」
そんな人間二人に、ミカエルの抑揚が欠けた忠告が落とされた。
◇◇◇◇◇◇◇
行く手を阻む流砂に歩きづらいと思いつつも、二人はとりあえず歩みを始めた。
疲れては歩き、歩いては走った。
地平線はどこまでも空と大地を分け、いくら進んだところで、雲も丘陵もその果ては無かった。──行き先なんてわかるはずもない。
足元に広がる砂の粒は、彼らの存在を飲み込もうとするかのように、じわじわと浸食していく。その足跡はすぐに消え、彼ら自身も、やがてこの広大な無限の空間の一部となって消えてしまうのだろうか。そんな漠然とした不安と恐怖に駆られるのは一度ではない。
それでも、とにかくアダムとエバは支え合って前へ進むしかなかった。進んでいる限り、少しでもこの過酷な地から抜け出せるかもしれない──そんな最後に与えられたわずかな希望に縋った。
それからどれだけの間、流砂と瘴気をその身に浴びたのか。気にすることすらも億劫になる。
幾日も歩き続ける荒廃の世界の先は未だに見えず、休息もしないままの二人の意識はだんだんと揺れ動く。
無意識に眠るのか怖かったのかもしれない。次に目覚めた時には、変わらない絶望に囲まれた世界にいるのが恐ろしかったから。
しかし、いくら神から並外れた頑丈な肉体を与えられたとはいえ、それでも残念なことに人間にはやはり「限界」というものがある。餓死状態へは簡単には陥ることはなくとも、疲弊には打ちひしがれる。
「ぐっ......、」
「もうダメだわ......、」
とうとう体力が完全に尽きて彷徨った果てに、アダムとエバは途中で崩れ落ちるように背中合わせでその場にへだり込んだ。
身を竦ませ、その場で亀のように体を縮こまらせた。
そんな事をしたって何の意味もないと分かっている。分かっているのに、それだけの事しか出来ない。
ああ、人間とはなんとちっぽけで脆弱な存在なのだろうか────・・・・・・
「............アダム、大丈夫?」
この過酷な環境でどういう風に接していいのか探る雰囲気の中、口火を切ったのはエバだった。
彼女は不安そうにアダムを覗き込んでいた。とてつもない疲労で声を発するのも億劫なはずなのに、心配を隠さない変わらない優しげな声色に、アダムは密かに安堵した。
「......ああ。たださすがに、少し疲れたけさ......、」
「......そう。無理しないでね?」
「ありがとう。エバの方こそ、今はとりあえずちゃんと休んで体力をなるべく温存してくれ」
「......ええ。そうね」
また沈黙が訪れる。
互いに何かを話したくて、それでいて本題に切り込むことができない。
アダムの方は項垂れるエバの様子を見て、今度は自分が口火を切るべきかと迷っていると、
「......このまま、二人でここで死ぬ、のかしらね」
「エバ......縁起でもないことを言うもんじゃない」
絶望感と無力感に打ちひしがれながら、一度思考が悪い方向へ転がり始めると、あとは底辺まで一気に転がるだけだった。
「アダムだって、本当は後悔......しているよね?」
エバは僅かに疲れを滲んだような沈んだ声で問いかけた。その声にアダムは罪悪感を抱きかけて、なんとか堪えた。
自分たちが選んだ場所に、自分はいるのだ。
しかし、
「私がお父さまの言いつけを背かなければ......っ、アダムに【知恵の実】を食べさせなければ、誘わなければ......っ!こんなひどい所に追放されることもなく、今頃はあの楽園で......っ、」
神に叛いたすべてが、今の苦境の原因だとすれば、やはり【知恵の実】を食べたのが間違いだったのだろうかと、一度固めたはずの決意が揺るがずにはいられない。
ずっと、あの楽園に暮らせたらよかったのだ。
ずっとずっと、人間の歴史はあの楽園の日々に埋もれていればよかった。
──後悔に先に立たずと分かっていながらも、エバはこの時ばかりはそう思わずにはいられない。
「あの時、神とラファエルの忠告をちゃんと聞いていれば......っ、なのに、私は誘惑に負けて、」
「エバ。よせ」
「ごめんなさい。私......、こんなことになるなんて、覚悟したはずなのに!でも、それでも、アダムを、こんな苦しい思いをっ、させるつもりはなかったの......!ああ、やっぱり私なんて、あなたのそば立つ女としてふさわしくなんてっ」
自分は、アダムの傍にいるべきじゃない。傍にいる資格なんてない。
──それなのに、浅ましくともこうしてエバはアダムの傍にいる。
自覚があるのに離れられないのは、アダムを手放したくないという、自分の欲に負けているからだ。
だからこそ、そんな女としての自分の罪深さにエバは今絶望している。
「言うな。頼むからそんな悲しいことを言わないでくれ。後悔はしないって私は言ったはずだろ?罪はちゃんと背負うと」
「でも......ここには食べるものも、飲む水もなくって......っ、たまにすごく暑くて、でもすぐにとても寒くなって、アダムが辛そうにしているの、見てられない......!」
「エバ......、落ち着いて」
「全部、全部私のせい......っ、私のエゴで、アダムを酷い目に......っ、ごめんなさい......!!」
体が奥底から震えてくる後悔と自責の念に、エバは早口で自責の言葉を吐き出す。
今すぐに沙汰を受けてしまいたかった。己で己の心が砕き切られる前に、傍にいるアダムにそれを叱責してほしかった。
共に罪を背負うと決めておきながら、出だしの一歩目から早々に挫けるエバの弱さを、罵倒して欲しかった。
「エバ」
──なのに、罰を求めるエバに与えられたのは、優しく包むような抱擁だった。
「確かに今の私は腹も減ってる、喉もとてつもなく乾いている。この状況を辛くない......といえば確実に嘘になる」
苦しい。
──対となる幸福を、あの楽園で知ってしまったから。
怖い。
──対となる希望を、あの楽園で分かってしまったから。
だけど寂しいはない。
だって──、
「エバがいる」
「......、」
──対となる愛おしい存在を、あの楽園で得て、こうしてそばにいてくれるから。
「辛いけど、エバがこうしてそばにいてくれている。それだけで不思議と今の状況平気でいられるんだ」
「......。【知恵の実】を食べて嘘まで上手くなっちゃった?」
「ははは!私が気を遣って強がってるように見えるか?でもこれは紛れもない私の本音だ。なんでと理由聞かれると、これといった根拠はないけど」
「うふっ、なぁにそれ」
「ようやく笑ってくれたな」
「え.....!」
「君が泣いていると、私だって胸がとても苦しくなる」
下唇をきゅっと噛んで、アダムの指先がエバの頬に伸びる。四本の指をエバの顔を当てて、親指でそっと頬をなぞられて初めて──彼女は自分が涙を流していることに気づいた。
「え、私、なんで……」
慌てて自分の頬に触れる。
両方の瞳から、輪郭をなぞるように涙が溢れていた。
「覚えているか。【知恵の実】を食べた理由を私が聞いた時、君はなんて答えたのかを」
「......!」
『あなたとなら、そこにどんな苦難の試練の罰を与えられたとしても乗り越えられるの』
「あの時はただ漠然と聞いていたが、今ならそれがとても身に染みてよく分かる。それって多分、私も君と同じ気持ちだってことじゃないかな」
アダムの声に、強い意志を感じる。疲弊しているとは思えない、力強い、声。
「エバ。私だって君と一緒なら、どんな苦難も乗り越えていけそうだよ」
今度はそっとアダムは自分の両手をエバの両頬を優しく包む。ひんやりとした低い温度の皮膚が、彼女の温度になじむ。
「こんな状況でもそう言ってくれるだなんて......っ!こんなに嬉しい気持ち、楽園にいた頃でさえ感じなかったもの。でも、嬉しいのに涙が止まらない、おかしいわよね?ふふっ」
それでも涙なんて霞んでしまうほど、エバの顔には幸福な笑みが映えていた。
その優しげな憂いを帯びた瞳を見つめれば、アダムも同じく泣きそうになった。
狂おしい程の渇望。
それは灼熱の荒野の渇きを癒やす一滴の水。──まさに自分にとっては目の前の女だと、アダムは理解した。
彼を温めているのは、天から降り注ぐ暖かな太陽の光だけではない。
彼の耳に心地よくさらさらと流れるような音を立てるのは、地を走る風と、木の葉の擦れ合う音だけではない。
彼の乾ききった身を柔らかく潤うのは降り注ぐ小雨と、流れる川だけではないと。
「やっぱりエバには笑顔が一番似合う。しばらくなかなか見れてなかったからな」
アダムの心の支えはエバであり、希望は彼女と共にいること。おそらくあの楽園に浸かったままでは当たり前すぎて気づかなかったこと。
「さて、もうそろそろ再出発といこう。こんなところ長居しない方がいい。ここさえ抜け出せば、きっとそこには私たちだけの楽園があるさ」
そう。未来が無いのはここだからであって、もっと有望な土地に移れば、未来が拓ける可能性がある。
成功する保証なんてない。うまく行く可能性も決して高くはないだろう。ある意味、賭けといってもいい。
それでも、アダムは確信に満ちた口調でそう言った。エバの目には彼がこの上なく逞しく見えていた。
──この人にはどこまでもついて行こう。
アダムが手を差し伸べて「おいで」と言えば、エバは迷わず手を取った。
その大きな手の冷たさが今はとても美しいものに感じて、彼女はその時何かを得た気がした。
禁忌を犯した自分たちがまたもう一度楽園を求める資格なんてきっと許されない。
けれど、それでも、
望むのではなく、夢見るように思い描くだけなら許されるだろうか。
──そんな淡い感情を心に秘めながら、二人は手を繋いで今度は確かな足踏みでそっとその場を後にした。
男と女は、再び果てなき荒野に足を踏み締める──神から与えられたのではなく、自分たちが作り上げる楽園を思い馳せながら。
人間の生は執念深い──創造主である神の想像以上に。きっと二人は新たな未来を目指して足を進めるだろう。
道の先に何もないというのなら、新しい道を作ろう。その底なしの欲望は時として『開拓』と呼ぶほどに生き汚いのだ。
もはや神でさえも、人類の歩みを止められるはずもない。




