6話『人間≠ヒト』★
回廊にもなっている城壁を通り、中庭を経た建築内に入った。
大聖堂は白で統一されていた。吹き抜けで、天井はアーチ状のリブ・ヴォールト仕様になっている。正面のステンドグラスからは光彩が射し、神秘的な雰囲気を醸し出している。
「それで、君の本題とは一体なんだ?」
鷹揚に構いながらも、先程のルシフェルの様子からして聞き逃せない内容だと判断したミカエルの仮面の下の表情が引き締まる。
多忙なルシフェルからこうした一対一の呼び出しは極めて珍しい。ただの兄弟の水入らずのためだけにこうしてわざわざ自身の貴重な時間を割くとは考えにくい。
真剣な面差しを向けられながらも、ルシフェル の態度は崩れない。その黄金の瞳を細めると、淡々とした態度でついに核心を突いた。
「......近いうちに、私と貴様を含め、我ら【七大天使】が下界へ降り、そのヒトとやらに謁見することになっている」
そう伝えておきながら、そうすることを拒絶するような態度だった。そのせいか、身分の高い者に会うという意味で使われる『謁見』という言葉をわざわざ使ったことに違和感を感じさせる。
天界では最高位天使を座するルシフェルだと尚更皮肉にしか聞こえないな……と、ミカエルはどこか釈然としない。
そんなミカエルの気持ちに気づかないのか、ルシフェルが変わらぬ調子で続けた。
「──これは主の直々の大命だ。」
静まり返った広間に響くのは、ルシフェルの温度を失った声。それは加速度的に二人の密談の空気を重く淀んだものへと落とし込んでいた。
「謁見......か。そんな情報初耳なんだが」
「今はまだ極秘事項だからだ。つい先程天神殿にて、主が直接このルシフェルに下った新勅令だ。現段階でこの私以外の者が知る由もないのは当然だろう」
「──なるほど」
さっそくにもルシフェルは神からの勅令を承っていたようだ。
生まれたばかりの天使たちが成熟するに連れ、神はなぜか天使と距離を置くようになった。その結果直接顔を合わせることが極端に少なくなり、神の意向はルシフェルを介して伝えられることが多い。
天界では最も神に一目置かれ、全天使の首領としても深い信頼を掛けられているためだろう。まだ公にできない情報や勅令も誰よりも真っ先にルシフェルが受け賜るのも珍しいことではない。それよりも──、
「ルシフェル。君が神よりその勅令を承っているのなら、どうやら我が主は誠にヒトをお目に掛けているようだ」
「.......なに?」
ミカエルは脇腹に手を置き、頷きながら空を眺めたままそう言い放った。───彼の台詞に反応してルシフェルの手が僅かに強張ったことに、一切気がつかない。
「いやな。神がヒトを寵愛なさるあの噂はあながち全くの出鱈目というわけでもなさそうだと、思ってな」
実のところ、ミカエルはまだヒトのことを何も分かっていないし、今のところ大した感情移入もしていない。すべては神の御意のままに従うだけ、それだけなのだ。
ミカエルは感慨深げに天廊下に並ぶ窓を一瞥した。
まず最初に目に入るのは湧き出るような純白の雲。それが波立つように一面と空に広がって窓を飾っている。
雲の向こうには美しいレトロ建築物などが立派に聳え立つ見慣れた天界の風景の一色だった。
──だけど、ただそれだけ。
この天界に身を置く限り、窓の外の景色はそれ以上のものを見せてはくれないだろう。
ただその雲の下へずっと深く潜った向こうの先に、神が創造された新世界──未知なる新たな景色が待ち受けていると思えば、人類の誕生にも少しは実感が湧くのかもしれない。そう思ったミカエルの心はほんの少しだけしみじみとしたものになっていた。
「どうでもいい」
不意に、それは押し黙ったミカエルの鼓膜を鮮烈に叩いた。静かで、冷たく、感情の凍えた声音だった。
一瞬誰がそれを発言したのかと、思った。
つい今まで、この目の前で聞いていたにも関わらず気付くのが遅れてしまった。
少なくとも、聡明で思慮深いルシフェルの口から発せられた言葉とは到底思えなかった。
あまりにも投げやりで、素っ気ない声音が返ってきたことには妙な引っ掛かりを覚えていた。──己の発言に何か気に障ってしまったのかとでも言いたげに、ミカエルは窓へ向けていた視線をルシフェルの方へ戻した。
「......ルシフェル?」
「ミカエルよ。今回の新たなる被造物の誕生。神はどういうおつもりなのだろうな」
ルシフェルは何事もなかったように突然己の疑問を投げかけた。その声に宿るのは普段の思慮深げなそのままであり、一瞬の変貌が嘘のようだった。
「......」
しかし、突然意図を掴めないでいる質問をぶつけられたミカエルとしては困惑でしかない。だが、ルシフェルは気にも留めずに言葉を重ねた。
「我々天使は、神のお側で神が望む世界にすべく日々の任務に従事している。だが実のところ、世界の仕組みや理など、神が何を目指して創られたのか、その真意を我々は分かっていない」
万物の創造。
いわば、この世界を作り上げることが元より神の暗黙の使命である。
ヒトも、そして天使も例外でなくその「万物」に含まれている。── つまり、神の被造物なんてヒトに限った話ではないのだ。
それゆえに、今更「ヒト」という生き物を創造した神の心算などミカエルは考えたこともなかった。せいぜい今までと変わらない「神の日課」といった認識の程度である。
「......その様子だと、考えもしていなかったようだな。」
「──」
図星だ。
ルシフェルの言う通り、今まで問題視していなかったミカエルは、当然ルシフェルを納得させるだけの明確な答えを持ち合わせていない。ゆえに、言葉を詰まらせた。
だが、さして期待していないのかまるで想定通りと言わんばかりに、ルシフェルはミカエルの返答を待たずに言葉を続けた。
「──単刀直入に言う。今回のヒトの創造の件だが、このルシフェルはどうも納得がいかぬ」
一瞬、ルシフェルが何を言ってるのか理解できなかった。
脳内が理解を拒んだゆえ、ミカエルは彼の言葉を噛み砕くために数秒の時間を要した。
だがその言葉に潜む僅かな脅威性を察した瞬間、努めて表面上平静を保ちつつも、ミカエルの忠心が自身の沈黙許さなかった。
「ルシフェルよ。主の御心に反する発言は感心しないな」
相手の内懐を探るよりも先に──ほぼ反射条件に近い──すかさずミカエルは鋭く叱咤した。
【神は唯一で絶対であり、
そこに決して誤りはない】
それが全ての神の被造物が持つべき行動理念であった。被造物は神が行われるすべての御業に対して疑問を抱くべきではない──なぜならそれは、己の存在に疑問を持つことと同意だからだ。
当然神の創造物の一つにあたる天使も、神が創り出したこの世界のすべてを受け入れるべきで、神に対して一切の疑問を抱いてはならない。常日頃ミカエルも常にそう自戒し、それこそが当たり前なのだと認識していた。
「──まあ。話は最後まで聞くものだ。」
感情を抑え込んだ淡白な宥めの声とは対照的に、こちらを見据えるルシフェルの金色の瞳には一瞬だけ明確な嫌悪の色が走ったかと思えば、その双眸はすぐに乾いた地面に落ちた。
「神の創造性は常に進化を遂げている。だが、遺憾なことに、今回神が生み出した【人】という被造物はいわゆる“失敗作“というものだ」
「失敗作、だと?」
「そうだ。元より、神は“人間“という種族を創造する所存だったのだ」
「人間......?ヒトとはまた違うのか」
「ああ。大違いだな。本来であれば主は我々天使と同格あるいはそれ以上の能力を持つ人間を作りたかった。だが結果、我々天使のような栄光なる羽も冠輪もない。そして理性も知性も申し訳程度のもので、力だってない。生み出されたのは中途半端な“ヒト”だ。神の御加護がなければ自力では到底生きてはいけない......、未熟で弱小なる被造物。まさに我々天使の“劣化版”。いや、そもそも比較対象にする価値すらも及ばない、よって──」
【人】は、神の失敗作だ。
叩きつけるようなそれは紛れもなくそれは神の「全能」を否定する言葉。ただの憶測にしては、あまりに全能なる神への冒涜と言っても過言ではない。
「いい加減にしろ。ルシフェル。無礼がすぎるぞ」
「フン。信じていないようだな。無礼もなにも、私が拝謁で直にこの耳でお伺いした神の告白だ。あくまで噂とやらから得た貴様らの憶測の情報とは訳が違うのだ」
「主より直接......?それは、.......」
崇高なる偉大な神の姿は、実は今となっては誰も知らない。
天使を生み出した神は彼ら天使にとって敬崇する対象であり、神の御姿を拝謁するのは勿論、その声すら耳にすることも畏れ多いとされている。神が存在すること自体に有り難みを感じるが故、その存在価値を下げない為の決まりだ。
神の御前に立つことが許される七大天使の一人であるミカエルであっても大命を賜る際に神の玉音を拝聴するが、神のものだと思っている声が果たして本当に神の声かはわからない。存在自体がヴェールに包まれていて輪郭しか確認できないのだから。
誰もが真の神を知らない──神が寵愛する天使長ルシフェルを除けば。
そう、唯一ルシフェルだけが神の真の姿を知っていて、その声を直接聞くことができる。
「それでも、俄に信じがたい話だ。我が主がそのようなことを......念のため確認するが偽りは──」
「それこそ愚問だな。私は嘘が嫌いだ。嘘つくのも、つかれるのもな」
間髪入れず嗤笑にも似た揶揄の視線が送られミカエルは一瞬で言葉に詰まった。
そんな目を泳がせる様子を追い立てるように「偽りかどうかなんぞ貴様が一番よくわかっているはずだ」とルシフェルはミカエルの疑心を一蹴りした。
ルシフェルが神に直接謁見して聞いた話であれば、確かに彼の話は一気に信憑性を帯びてくる。そんなルシフェルだけの優越性を理解して、ミカエルは応えた。
「ルシフェルよ。君の言葉が真実だとしても、【ヒト】が神の被造物であることに変わりはない。ましてや主はそのヒトを寵愛されているのだろう?では我々天使が祝福するべきではないか」
「──祝福?」
ミカエルがそう返すや否や、ルシフェルは今度は射抜かんばかりに彼を睨みつけた。
「なぜそのようなめでたい思考に至るのか。実に理解できんな」
鋭利な眼差しに串刺しされ、ミカエルの身体は不覚にも張り詰めてしまう。
だがそれもすぐに己の忠心で振り切り、迷いを置き去りにした真摯な目でルシフェルを見据えた。
「今日の君はやけに突っかかるな。私は天使として正しい発言をしたまでだ」
「ミカエル。貴様はさっきこう言ったな。神がヒトを寵愛されている、と。ああ!奇しくもその通りだ。今になっては、神は我々天使よりも、出来損ないのヒトを特別視して優遇するのだ!だが、それって──」
──非常に不合理なことではないか?
その瞬間に、ルシフェルの瞳には「憤怒」が宿る。
「よせ!これ以上神への愚弄は慎むのだ!」
ミカエルからの厳しい叱責を歯牙にも掛けず、ルシフェルは飄々と「愚直な奴め」と小さな声で吐き捨てる。
それでも、ミカエルは牽制を込めて言葉を続ける。
「もとより君が主が他種族を御創造されることにあまり賛同的ではなかったのは知っていた。だが、本来であれば主にとって最も特別で信頼置ける右腕の君が一番に理解を示し、その御意向を汲み取るべきでは──」
「何を勘違いしている」
すらすらと流れるようにミカエルの諭しの言葉は最後まで続かなかった。重なるようにしてルシフェルのぶっきらぼうな声が遮ったからだ。
「私は何も主が新たなる被造物を創造されること自体に異存はない。どんなことがあろうと、我ら天使は何にも縛られず、主だけを愛し、主のみに忠誠をもって仕う。そんな我らだからこそ、【天使族】が主にとって最高傑作である──そう信じていたのだ」
ドゴォオオンッッ!!
突如、堂内の柱に大きな亀裂が走った。
「──それなのにだッッ!!!」
ずっと静かに燃えていたルシフェルの怒りの導火線がついに役目を終えた瞬間だった。
やり場のない激情を込めて、砕きかねない勢いでルシフェルは側にある柱に力任せに拳を叩きつけたのだ。
「主の一時の気紛れによって生み出されたに過ぎないッ!我々天使よりも後から造られた被造物の分際どもがッ!!今や最も神の寵愛をその身で得ていることが納得いかんのだッ!!!」
それは、今までルシフェルの中に潜んでいた悪意と、憎悪、──そして、嫉妬だった。
いわば尊厳を傷つけられた天使の苦痛と怒り、そして威嚇が一つに混じり合って、荒々しくも恐ろしい怒号になったというものだった。込められた殺意がサッと空気を凪ぎ、悲鳴ともいえるルシフェルの咆哮は、ミカエルから反論の意力を跡形もなく奪い去った。
それでもルシフェルは昂る憤りを抑えきれないのか、所々低い呻き声が立てていた。それに伴って破壊された柱の部分がパラパラと崩れ落ちて瓦礫と化した。
(──そんなことを、今までずっと思っていたのか)
思えばルシフェルは、初めから人の誕生にはそこまで興味を示していなかった。いや、むしろあまりいい顔はしていなかった。
「どうせ神の気紛れに過ぎぬ」と不満げに独りごちたルシフェルの横顔は虚無そのもので、その奥には一瞬、混濁した狂気が迸っていた時もあったような気さえもした。
──今のルシフェルはその時と同じ、いやそれ以上の感情を吐露していた。今までの深い鬱憤が今日までちり積もって、狂気とも取れる殺意へと爆発したのだ。
生まれながらにして神の寵愛を最も強く受けた天界随一の天使として、ルシフェルはその美しさのみならず、軍事的指導権と戦闘力も常に戦場の最前線で絶大に発揮される。天界の平和と安寧をもたらす彼の数々の偉業に天使たちは皆一様に憧れと畏怖を抱き、中では一部の熱狂的な者たちからは崇拝対象とさえされていた。──ルシフェルが神にすら匹敵するのではないかと謳われる程である。
(まさか、あのルシフェルが、な)
だからこそ、すべてを圧倒するカリスマと恩恵を授かりしルシフェルには「誰かを妬むこと」なんて全くの無縁だとばかりミカエルは思っていた。
にわかに目の前にいる双子の片割れが見知らぬ誰かにとさえ思えてくる── それほど予想外の陳述だった。天使の鑑たるルシフェルの思いがけない激白に、ミカエルは衝撃にも近い呆気に取られて、今ではすっかり押し黙ったルシフェルをただ見つめるしかなかった。
(今は、君に掛ける言葉が、見つからない)
ミカエルは両手を握りしめて、それでもルシフェルをまっすぐに見据えた。
次のルシフェルの言葉を待つことだけが平静さを取り戻す唯一の術のような気がして。