14話『共に堕ちよう』★
間違っていた。勘違いしていた。
『エバを信頼するのと、こうして自由放任し、彼女を関知しないのは別問題なのだよ』
ふと脳裏に昼のラファエルに言われた言葉が甦る。
今なら、その言葉の意味が分かる気がした。ラファエルに相談する光景が脳裏を掠める。
『手遅れの事態になってしまう前に、アダム。本来君はエバのそばから頑なに離れるべきではない』
それに追随して諭すようなラファエルの声が耳の奥で反響する。
──ごめん。先生。もう手遅れだったよ。
アダムが臆病だったせいで、傷つきたくないがためにエバと向き合う事を避けたから。
きっと時間が解決してくれる。そうすればまたいつもの彼女に戻るという軽率な考えがそれを助長し、神とラファエルの忠告を軽視する結果を招いた。
──その隙にエバは悪魔に誘惑され、禁忌を破ってしまったのだから。
だけど、
『最悪な場合、大切なものが君の手元から零れ落ちることもあるのだ』
──それだけは、絶対にさせない。
今なら、まだ間に合うと信じて、
「あなたの妻になれたことが幸せでした。それなのに、私は妻としてアダムを支えるどころか、自分の醜い欲望のために巻き込もうとした」
───それは、小さな懺悔だった。
「お父さまの言いつけを破るとどうなるかだなんて、【知恵の実】を食べなくても、よく考えたらわかるはずなのに......」
この期に及んでエバは怖くなった。
苦しくて、堪らなかった。
アダムに嫌われて当然の自分も。
この期に及んでまだ彼に嫌われたくないと願ってしまう自分の醜さも。
(罪深いわたしにそんな資格ないのに)
結局はアダムに嫌われる覚悟すらもできない己の弱さに、今度こそエバは絶望する。
「やっぱり彼の言った通りだったわ。私はアダムの女としてふさわしくなかったみたい」
だけど、今になって後悔しても遅い。遅すぎたのだ。
「もう私は、あなたの傍にいられないわ」
そう言ったエバは穏やかな笑顔のまま、その目から一筋の涙が流れ落ちた。
最後に出したその声は彼女自身も驚くほど小さく震えていたが、アダムには届いていたようで、ピクリと彼の体が反応を示した。
「ああ......私はなんてことをしてしまったの...っ」
もうアダムとは一緒にいられないという現実を受け入れた瞬間、今まで抑え込んでいた激情が無限に湧き出てしまう。
ボタボタと零れ落ちる涙を止めることもできず、エバは視線は徐々に下がっていった。
「ごめんなさい…、ごめん、なさい…っ」
アダムの顔を見るのが怖くて、どんな表情をしているのか、それを見る勇気もなくて、エバは涙を流しながらもキツく目を瞑った。
「ごめんなさい...…、ご、めんな、さい…...っ、......」
もはや誰に謝ってるのか、エバ自身ですらわからない。それでも壊れた人形のようにただ謝罪の言葉を繰り返すしか術を知らない。
「ごめんなさい、ごめんなさい......!」
閉じた瞳の隙間から溢れる雫は止まらず、自身の膝の上へとポタリ、ポタリと落ちていった。
「ごめんなさい…...っ、ごめんなさ、」
「──いい加減にしてくれ」
頭上から降ってきた静かな声に、蹲ったままエバは視線を上げた。気がつけば、彼女の前には膝をつき身を屈めたアダムがいた。
視線の高さも近くなった彼は本当にすぐ目の前にいて、その瞳を久しぶりに真っ直ぐ見つめることができた気がした。
「わたしの話を聞きもしないで、またそうやって一人で決めつけて、抱え込んで、」
彼女の予想と違って、ぶつかったアダムの瞳には嫌悪や煩わしさの色は無く、厳しくもどこか穏やかに凪いていた。
「そして最後は自分を傷つけて、追い詰めるのか」
静かに口を開いたアダムの言葉にエバは思わず首を傾げる。言葉に詰まる彼女を見たアダムは苦笑いをして、
「......はは、自覚はなし、か。【知恵の実】を食べたとしても、君のそういうところは変わらないようだな。エバ。君はわたしの気持ちを聞く気はないのかい?」
(......アダムの......きもち?)
ひくりと喉を鳴らしながら、ぼんやりと彼の気持ちを反芻する。
「......、聞いて、どうするの?っ、どのみち私はもうここにはいられない。遅かれ早かれ、......この後お父さまからっ、この楽園から消されるわ......」
「では残されたわたしはどうなるのだ?」
「そ、それは......、アダムは......、きっと今まで通り、この幸福な楽園にいて、そして......お父さまは今度こそ従順な新しい女を、あなたに与えるじゃないかしら」
「ほら。またそうやって決めつける」
キッパリと力強い声で言い切られ、流石のエバも少しだけむっとした。
「だってそうでしょう?お父さまにとっても、男にとっても、約束を破る悪い“女”なんて必要な───」
「だから!!」
ふいに、ガクンッと大きく体が揺れた。
強い力に引き寄せられるように、自身の意思と関係なく動いた体に驚き、エバは思わず目を見開いた。
「勝手に決めつけるなと、言っただろうッ!!」
強く引き寄せられたその先で受け止めてくれたのは、温もりのある分厚い素肌だった。
(な、に......?何が起こって......)
突然のことに訳も分からず硬直しながら、視界を塞ぐ何かをただ見つめた。そして、身動きを取ろうとするエバの体を、僅かな身じろぎもグッと押さえつけるように封じられた。
いや、違う。
押さえつけられているのではない。
(......抱き、しめ……?)
アダムに抱き締められているのだと、ようやく理解できたのは、驚きで涙が止まった頃だった。
───そんなはずはない。
まるで嘘のような現実に、脳は反射的に否定した。
ついさっきまで、もうアダムとこうして触れ合うことも、近づくことも、二度とないと思っていたのに。
しかし、柔らかに埋もれた鼻先に感じる彼の体温と、仄かに鼻腔を擽る彼の甘やかな香りが、現実だと優しく教えてくれた。
「エバは、わたしがこのままみすみす妻を見捨てるようなヒドイ男だと思ってる訳か」
ギュウッと自分の体を包み込む逞しい二本の腕はキツく、痛いほど強い力が籠っていた。
「──そんな、こと!!でもっ、......たとえアダムが、私を見捨てなくても、お父さまがっ」
「エバ」
黄金の力強い瞳が、真っ直ぐに彼女を見下ろしていた。
「───【知恵の実】を、こちらに渡してくれ」
何かを決意するように、強い感情の篭ったアダムの声が、耳に届いた。
「......どうするつもりなの?」
「もちろん、それを食べるのさ」
── 一瞬、自分が未練から作り上げた幻聴なのかと思ってしまった。
それほどに、今の言葉は信じられないものであり、また、欲していた言葉だった。
「でも、さっきアダムは食べないって.....」
「ああ。はっきりとそう言ったな」
【知恵の実】を食べてくれる、それはアダムがエバの共犯者になってくれることと同義である。
「なのに、どうして...」
──だからこそ、それに対するの疑問を口にするのを許して欲しかった。
「エバが食べてしまったのなら、話は別ということさ」
「そ、そんな簡単に自分の意思を変えていいの?アダムは神の言いつけをを破る気はないのでしょう?私が食べたからって、あなたまでお父さまを裏切る義理なんてないのに......」
「義理ならある。女の君が罪を犯した全ての発端がわたしなら、男として責任を取るべきだ。だから、君が食べてしまったのなら、わたしも食べよう。そうすれば、神はわたしのことも罪深き者と見なすだろう」
元はと言えばエバの闇に気づかなかったのはアダムの罪なのだと。
エバが自身を見失ってしまったのも、悪魔の囁きに耳を傾けてしまったのも、すべて、
「わたしのせいなのだ」
「──っ、違う!それは絶対違う!アダムは何一つ悪くない!私が「それに」」
納得がいかず、取り乱すように否定するエバをの感情を膨らませ切る前に、アダムは被さるように言葉を吐き出す。
「約束したからな」
「───、」
「“何があっても、エバの味方でいる”って」
「!」
そう告げられ、ハッとエバは反射的に息を呑んだ。思わず勢いよく顔を向ければ、覚悟の宿る双眸が彼女を捉えて離さない。
「あ......」
宝石のように煌めく、黄金の瞳。
エバと同じ色なのに、そこに彼女にはない光の強さと清らかさが宿っていた。
それと同時に、あの悪夢を見た日──アダムに言われた言葉を思い出した。
『心配するな。たとえこの先どんなことがあってもわたしはエバを見捨てない!ずっとエバの味方だ』
あれは約束なんて大層なものではなく、てっきりエバを安心させるための一時的な慰めだと当初は思っていた。
「おや?もしやエバは本気にしなかったのか?わたしなりの覚悟を込めた誓いだったのだがな」
「でもそれって、神よりも、神を裏切った私の味方でいてくれる、ってことだよね?」
「そうなるな」
それは───この世で一番素敵なことだと思った。
まさにエバの理想である、ずっと、ずっと欲しかったアダムの答え。でも、心のどこかでありえないと諦めていた彼の答え。
しかし、
「それじゃあ......アダム、あなたも嘘つきになってしまうわ」
「そうだ。これでわたしも嘘つきだ。嘘つき同士でお揃いだな?つまり、わたしたちはお似合いの夫婦という訳だ」
なにそれ。
思わずおかしくてそう言いたかったけど、泣きそうになる声を飲み込むことに必死で、下手な笑顔を浮かべるだけで精一杯だった。
「まぁとにかく、君と夫婦になった以上はわたしたちは固い絆で結ばれているということだ。君が罪を犯したのはわたしにも責任がある。だから、エバ。君ひとりだけ罰を受けさせるつもりはないさ」
夫婦とは一蓮托生の身ではないか、というアダムの主張に、エバはあまりにも今更ながらに浮かんだ懸念を彼に示した。
「私が言うのもなんだけど......もしかしたら今まで味わったことのない苦しい罰かもしれないわよ?【知恵の実】自体を食べて死ななくても、それこそ、お父さまからの直々に“死の罰“だってある、かも」
「ならばそれも良かろう。君だけが死んでもわたしには生きる意味がない。神が君に死を望むのなら、わたしも死のう」
「っ、」
手にある艶やかな知恵の果実にエバは爪を立てる。
「アダムは......、“死ぬ”のが怖くないの?」
かつて彼は怯えていた。
“死”というまだ体験したことのない未知なる恐怖を。だからエバよりもずっと神の言いつけを守ろうとしたのに。
「ああ、怖いさ。今でも考えるだけでどうにかなってしまいそうだよ」
「なら──っ!」
「だが、それよりも断然怖いのがエバ、君を失うことだ」
「!!」
「君がわたし無しには生きれないように、わたしだって同じだよ、エバ」
エバの言葉を封じておいて、アダムは無邪気にニカっと笑った。
「たとえ神がもう一度わたしの肋骨から新たな女を創って下さったとしても、君という女を失った痛みは決してわたしの心から消え去ることはない」
「────」
赤い果実の肌に、女の爪がさらに深く食い込んだ。
「わたしの骨の骨。肉の肉。私の妻は“君だけ”なのだから」
「......私、だけ?」
「その通りだ」
ざあっ、と朝焼けに染まる森には珍しい強風が、アダムとエバの間を通り過ぎていく。
風はアダムの髪をまきあげ、風が止むと同時に、エバは咄嗟に閉じた目を開き、言葉を失った。
「エバ。君を離すつもりないよ。ずっと一緒にいよう」
アダムはエバに手を差し伸べていた。
「……こんな私でも、いいの?」
エバはアダムの顔を捉えると、弱々しく頬を綻ばせた。
わなわなと震え始めたその唇から漏らした掠り声は濡れていて、あと一度でも瞬きをすれば、目の際からまた大粒の涙が零れ落ちるだろう。
アダムはその気の抜けるような微笑に釘付けになるのを自覚しながら、何かを確かめる様子でエバの頬に触れる祈の指先をしたいようにさせてやる。
その動きはまさに愛しい者に触れるような、ひどく繊細な手つきだった。
「エバじゃないとダメなんだ」
───じわりと、世界が歪んだ。
全身が波打つように細かく震えていた。
覚悟したはずなのに。罪を犯した代償が、彼の温もりと笑顔なのだと。
それなのに、エバの大好きな、太陽のようなアダムの笑顔が今もなお、失わずに目の前にある。
アダムはエバのために神の怒りを、いや、忌避していた死さえも受けようとしているのだ。
それほどまでに貫こうとするアダムの無償な愛情に気づいた途端、エバはさらに目頭が熱くなって、ついには涙がぱたぱたと落ちた。
それはもう決して悲しみや絶望によるものではない──堕ちた罪深きエバを、アダムはそれでも受け入れてくれた喜びだった。
エバはなんだかようやく、少しだけ自分の醜さを許せたような気がした。アダムの覚悟がそれほど彼女の心を救ったのだ。
「愛してる。エバ──共に堕ちよう。」
ザァっとエバの心に風が吹く。
一瞬だけ、本気で時間が止まり世界に二人だけしかいなくなったかのような錯覚に陥った。
(ああ......本当に、)
どこまでも真っ直ぐで、草原が風に凪いで柔らかな波を作るように優しく、透明度の高い水晶のように無垢で気高い人。
そうだ。そんなアダムだからこそ、エバは誰にも渡したくなかったのだ。
そしてどこまでも執心した果てには、今ある幸福を捨て去ってでも、堕落の道を選んだのだから。
「私も、愛しています......アダム!」
愛の囁きを返しながらもエバは涙を流し続ける。
嗚呼、彼女はこんなにも美しく涙を流すのか。
木の枝の隙間から注がれる月光に照らされ、透明な雫を流しながらアダムに触れてくる彼女を、この世界のどんなものと引き替えても手放したくない。
──心で形を成すこの感情を、なんと呼べばいいのだろう。
「────」
もう余計な言葉なんていらない。
あとは差し伸ばされたアダムの大きな手に、静かに【知恵の実】を乗せられるだけ。
「────」
緊張か、はたまた逡巡か。
その手は微かに震えていた。
これを渡してしまったら、もう完全に後戻りはできない。
そんな恐怖心に気づかぬフリをしつつも、アダムは安心させるかのように上からエバの手を優しく重ね、そして強く覆い握りしめた。
その温もりに触れたエバは、勇気をもって手に乗せた【知恵の実】からそっと手を離した。
「────」
そして、爪痕を飾られた罪の果実を受け取ったアダムは、なんの躊躇いもなくその赤い肌に白く綺麗な歯を立てた。
シャリ......っ
耳に快くも心に苦い、
確かな破滅の音がした。
甘い、あまい、罪の味。




