13話『一番大切なもの』★
初めは味見のつもりの、ほんのひと口──それが運命の決定打となる。
どれほど甘美な味であろうとも、禁断の果実に手を出してしまえば、後はただ堕ちていくばかりなのだから。
その場の静けさと反比例するように、アダムの心臓の鼓動がドッ、ドッとうるさく響き、呼吸が乱れる。
停止しかけた思考が、軋みながらゆっくりと回り始めるが、それでも頭はまだ混乱したままで、理解したくない現実との乖離に眩暈がした。
聞きたくない。知りたくない。
それでも、エバから告げられる残酷な現実はアダムの耳を突き抜ける。
「私、【知恵の実】を食べてしまったの」
それが脳に届いた瞬間、彼の目が零れ落ちてしまいそうなほど大きく見開いたのが視界の端に映る。
「なん、だって……?」
ぽつりと、ふいにアダムの唇が呟いた。
立ち尽くすアダムの前で、泣いていたエバが顔を上げて彼を見る。
その表情が、その瞳が、アダムの感情のあまりの大きさを物語っていて、
「……っ、」
それ以上の反応を見るのが怖くて、エバはギュと目を瞑った。それに伴いまた一筋の大粒の涙が流れ落ちた。
「【知恵の実】を食べてしまった……?エバ──君、が?」
「違う」と言って欲しかった。
素直で聞き分けの良い女が、そんな恐ろしいことを、神の禁忌に手を染まっただなんて信じたくなかった。
だが、そんな薄い望みは、呆気なく砕かれた。
「……、私が……っ、ごめん、なさい」
「……ッ」
言葉を選ぼうとしてくれたのであろうエバの口から音が発せられることはなく、ただ悲痛に歪んだ表情をそっと伏せるだけだった。
その無言の返答が、なによりの『肯定』の証だった。
刹那、
「っ!どうして!なぜ!!そんなことをっ!?」
エバの罪過を弾劾するように、目の前の悪夢を否定するように、アダムは彼女の両肩をやんわりと掴み、揺さぶりながら問わずにはいられなかった。
熱い。痛い。
力加減はされてはいるものの、アダムの手のひらから伝わる熱が彼女には痛かった。まるで皮膚がヒリヒリと剥がれていくようだった。
「エバッ!自分が何をしたのかわかっているのかい!?君のしたことは神への裏切りだッ!!」
目の前に迫るアダムの顔は哀しみと絶望と、そして微かな今の現状が虚構ではないのかという望みを織り交ぜたかの様な表情に崩れている。
何気に目線を移せば、「エバのために」と編んだ花の冠が寂しげに地面に横たわるも急に萎え尽く凋んで散っていった。
それを目にしたエバは一度目元に溜まる涙を拭い、悲痛な思いを込めて訴えた。
「…っ、先に裏切ったのはお父さまよ?【知恵の実】を食べたら死ぬだなんて嘘をついて……っ」
「まだそれを言うのか。そんなわけないと言っただろう!」
「本当よ?お父さまは……っ、私たちが、神になるのを恐れているのよ!」
「神に、なる?話が見えないのだが……?」
「アダム。よく聞いて?さっきも言ったように、【知恵の実】と言うのはね、食べたら死ぬなんていう恐ろしいものではなかったの。むしろその逆。不思議で偉大な力を秘めているのよ」
「食べたら危険な果実ではないと、言いたいのか?」
「そうよ。【知恵の実】を食べるとね、今よりもさらなる進化を遂げられるの。私たちヒトは知恵を身につけ、善悪の区別ができるようになって、ようやく【ヒト】から【人間】になれるのよ」
ああ。今日のエバはやけに饒舌だ。これほどアダムの言葉に意見する女の姿なんて未だかつてあっただろうか。
「そうなれば、私たちもお父さまと同じようになれるのよ!でもお父さまにとってそれが恐ろしいから私たちに【知恵の実】を食べさせたくないから嘘をついたの」
「そんなバカな……」
「本当よ?現に最初にそれを口にした赤いヘビさんもその【知恵の実】のおかげで、私たちヒトのような声と心を与えられたのよ」
エバの口から「赤いヘビ」という名を聞いた瞬間、アダムは反射的に苦い顔をした。
「赤いヘビだって……?あの薄気味悪い動物のことか?アレとは関わるなと言ったはずだ。まさか、今日やけに帰りが遅かったのもそのせいなのか?お前に【知恵の実】を唆したのも──」
「アダムはヘビさんを誤解しているわ。確かに見た目は少し不気味だけど、とても思いやりがあってやさしいのよ?」
「君は我らの神が嘘をついていると言ったな。なら逆に考えたらどうだ?それこそわたしたちを騙しているのはヘビとは考えないのか?ヘビが嘘をつく可能性だってあるじゃないか」
アダムの鋭い指摘に、一瞬エバは面を喰らった。【知恵の実】を食べていないにも関わらず、アダムは「疑う」ことを知っていた。
実としてここ最近ラファエルからは程度の教育を施されたおかげなのか、アダムが当初より多少は物事への思考力を培ってきたのを彼女が気づく由もない。
しかし、
「ヘビさんが私たちヒトを陥れる理由なんてあるのかしら?少なくともお父さまに比べれば、彼が私たちに嘘をつくメリットないわ」
そんなアダムが知恵を得た状態のエバの言葉にまんまと丸め込まれずに済んだものの、やはり【知恵の実】の恩恵無しでは限界がある。
「与えられた賜物を私にも分かち与えようとした。そんな彼が嘘や悪巧みなんて程遠いとは思わない?」
「うむ……、」
勢いが衰えないエバの口舌に苦戦することになるのが変わりはない。アダムはすっかり目を伏せて、眉間に皺を寄せるしかなかった。
「ね?この通り、【知恵の実】を食べたヘビさんも、そして私だってこうして死なずに生きているのよ。これで証明されたじゃないかしら。──嘘をついているのはお父さまだって」
「……だめだ。頭が混乱している」
これもエバが【知恵の実】なんてものを食べてしまった影響だろうか。
明らかにいつもよりも彼女と言葉交わすのにアダムはまだ知恵が芽生えない脳を全稼働させなければならない気でいる。
少しでも油断すれば、知恵を得たエバの巧言に惑わされてしまいそうだから。
「……アダムもお父さまのこと大好きだものね。今とてもショックなのはわかるわ。私も初めはそうだったもの」
ふるり、首を緩く振って薄く笑みを浮かべるエバ。その表情はとても痛々しく、どこか自嘲しているようにも見えた。
アダムは静かに呼吸を繰り返した。どうしようもない衝撃に感情を掻き乱されないように。
そして数分後、口を開いた。
「…….その実を食べてしまって、本当に君はなんともないのか?」
「ええ。ヘビさんに説得されて、私も【知恵の実】を食べてしまったけど、効果はまさに聞いての通りだったわ」
「そう、か」
禁忌を破ったエバの身に大事に至っていないことにアダムが内心安堵しながらも、彼女の次の言葉に心を曇らせる。
「あのね、アダム。あの【知恵の実】を食べてからね、曇っていた私の目はよりはっきりと開き、心がもっと広くなって、意志も感情もさらに豊かになったわ。今ならヘビさんの言ったことがわかるの。自分の神性が高められたことがこんなにも素晴らしいなんて。そしてそれを隠したがるお父さまの気持ちも」
──罪が、アダムの前に展開されている。
恍惚と語る女の姿に、アダムは悟った。
神への服従心はもはやエバの中には存在しないのだと、
「……すまないが、私には理解できない。したくもない」
「どうして?情報を共有してくれてヒトに従う動物よりも、アダムはそれでも嘘つきでヒトを支配するお父さまをまだ信じられるというの?」
「もういい加減にしないか。エバ。神を悪く言うものじゃない!一体どうしたというのだ?いつもの君なら決してそんなことを言わないのに」
「……どうして、」
これだけ弁明しても、最愛の男に否定されることを受け入れることが出来ず、エバは現状を認識させようと言葉の限りを尽くした。
けれど、どれだけ言い分を主張し続けても、全て跳ね除けられて一向にアダムに届く気配はなかった。
「私はただ、あなたと一緒にいたくて……あなたのために──、」
「……わたしのためだって?」
全てはアダムのためであると、そんなのを大義名分として振りかざして、エバは踏み躙ったと言うのか。
神と交わした約束を、つまりは、アダムの信頼を。
「よしてくれよ!こんなこと、わたしは一度だって望んでいないッ!!」
「──っ」
堪え切れない理不尽に感情が炸裂し、それがそのまま舌に乗って吐き出された。
怒声を張り上げるアダムにエバは驚いたように身を竦め、
「ち、違うの!そうじゃなくて、このままアダムが何も知らずにお父さまの言いなりのまま生きていくのを、私……いやで、」
「それの何が悪いと言うのだ!?わたしたちは今のままでも充分幸福のはずだろう!?神にさえ逆らえなければ、わたしたち二人はいつまでも一緒にいられるはずだ!」
「っ!それじゃだめなの!!!」
「なぜ!?」
「だってアダムには…..!…….。っ、ごめんなさい。これ以上は言えない約束なの」
「……エバ?」
急に口を噤み、どこか様子のおかしいエバを、不審を抱いたアダムは悲しげな顔でじっと見ていた。
無口の時が空間を支配する。
やがて、彼女の方から細々と声が聞こえて来る。
「……、これ以上何を言っても無駄よね。【知恵の実】を食べていないアダムには、今の私とはきっと分かり合えるはずがないもの」
「エバ。それは、きっと違う……」
悲観的に自己完結しようとするエバに、アダムはゆっくりと首を振り、静かに諭す。
どうやら少しばかりの沈黙の時間が彼の激情を少し鎮めてくれたようだ。
「君のしてしまったことはそれだけ罪深く、許されないことなんだ。たとえわたしも君と同じ【知恵の実】を食べたとしても、きっと君に共感することはないだろう」
「……そんなの、わからないで「わかるんだ」」
遠慮がちに反論しようとするエバを遮るようにアダムは続ける。
「わたしはまだ【知恵の実】を食べていないから何がいいことで、何が悪いことなのか、今の君と違ってそれを正常に判断する力はないかもしれない。それでもあえて自信を持ってこれだけはわかると主張する!」
アダムは大きく息を吸い、吐き出した。
「約束を破るのは悪いことだと!」
「──っ!」
胸を張り、断言した。
力強く言い切るアダムに、エバが弾かれたように顔を上げる。その瞳にはほん僅かな悟りの色が走り抜けていた。
アダムの言葉が、どれほど彼女の琴線に触れたかはわからない。だけど、アダムはようやくここで初めて彼女と話が通じた気がした。
「我々は神に食べないと約束しただろう?でも、エバ、君は約束を破って【知恵の実】を食べてしまった。ならエバも“嘘つき”になるんじゃないか?」
「そ、それは…..、……っ!」
そこでエバは言い淀む。否定の言葉が出ない彼女の表情はますます歪む。
それは怒りを堪えているようでも、涙を流すのを堪えているようでも、何か例えようのない感情を表に出さないようにしているようでもあった。
ともあれ、ここで初めてエバはアダムに言い負かされたのだ。
「エバ。神を裏切った代償は必ずついてくる。だからきっと……君はっ!この幸福の楽園にはもういられなくなるんだ!」
アダムは首を横に振りながら、拳を叩きつけられる地面が、硬い音を立てて爆ぜる。
そこに血が混じるのは、殴りつけたアダムの拳も一緒に割れたからだ。拳から血を滴らせる彼は無念の余りに唇を噛み切っていた。
「わたしにはやはり理解できない!エバ!なぜ神を裏切った!ここにしかない至高な幸福を捨て去ってまで、従うべき神の禁忌を破るほどの価値がその【知恵の実】にあるのか!?」
激情を露わにするアダムを正面に、いよいよエバもやり切れない顔で彼を見下ろしている。
彼女はようやく思い知ったのだ。──取り返しのつかない仕打ちを、エバはアダムに対して叩きつけたのだと。
やがて、重たいその唇を開いだ。
「……アダム。最後にこれだけは聞いてほしいの」
「…………」
アダムは押し黙ったままそれ以上何も反応を返さない。肯定もないが、否定もない。
少なくともそれが耳を傾けてくれるという意思表示なのだとエバはこの際解釈して、顎を引き小さく息を吸った。
──どうせ、これがもう最期なのだから。
「あなたの言う通り、エデンの楽園には誰もが羨む幸福があるわ。だけどね、それもあなたと一緒でなければ取るに足りないものなのよ」
「わたしと……?」
そこで隠しきれない戸惑いの滲んだアダムの声が控えめに耳朶を打つ。その様子にエバは曖昧に笑い返すと、身を守るように膝を抱え小さくなって、
「ねぇアダム。あなたの一番大切なものはなに?」
「……わたしの、一番……」
「ええ。アダムの一番大切なもの。それはお父さま?妻である私?それとも──」
そこで言葉を切ると、「なんでもない」と彼女は膝を強く抱き寄せる。
心なしか彼女の纏う空気がより柔らかさを増した気がした。あまりにもこの場には釣り合わない程に。
「私が一番大切なのはね、アダム──あなたなの」
その一言に、ドクンッと、アダムの心臓が脈打った。
欲を掻き立てるようなその表情に心拍数が上昇する。彼は思わず胸元を強く握りしめた。
(このわたしが、“一番”大切?)
「父なる神よりもか」という言葉は辛うじて声にする前に飲み込んだ。
自分と彼女は誰よりも愛し合っていた。それは間違いはない。
だがどんな時でも、お互いの最も愛するべきなのは、──やはり己の存在を創造してくれた「神」だけなのだと、そう思っていた。それが当たり前だとも思っていた。
けれどエバは崇高なる神を差し置いて、アダムを一番だと言ってくれた。
──なんて不敬で、そして恐れ多いことか。
それでも、アダムはそれに難色を示す気にはなれなかった。むしろエバからの一世一代の告白にはどうしようもない喜びに支配されそうになる。
それに気づいた瞬間、今度はギュウッと胸を締め付けるような息苦しさぬ襲われた。
(なんだ……この気持ちは、)
さっきまで失望が一色に染まっていた心の中で新たに込み上げてくるこの感情に、なんと名前をつければいいのかわからない。
知恵を得た今のエバになら、それを問えば答えてくれるのだろうか。いや、彼女に尋ねたところで答えを得られる気がしなかった。
「幸福っていうのはね、あなたと共に味わうからこその私にとっての幸福なのよ。あなたがそばにいなければ、どんな幸福な楽園でもきっと私には退屈ですぐにでも嫌になるもの」
目の前で聞き入るアダムではなく、自分の中にいる誰かと対話するようにエバは目を閉じて静かに言葉を継いだ。
「たとえお父さまからどんな罰を与えられても、二人なら! 一緒に堕ちる相手があなたなら!そこにどんな苦難の試練の罰を与えられたとしてもきっと二人で乗り越えられるの」
「……わたしに【知恵の実】を喰わそうとしたのも、それが理由なのか」
自分を「共犯者」に陥れよう、道連れしようとした女の言葉に、今の感情に更に驚きと困惑が混じり、もはや複雑な感情がアダムの中に渦巻いた。
「ごめんなさい。私にはあなたがいればそれだけで充分なの。一番怖いのは、アダム、あなたと離れてしまうことなのよ」
「エバ。わたしたちは離れたりしないさ。だって、神はそのためにわたしから君を作ったじゃないか」
「いいえ。罪人に成り果てた私では、綺麗なあなたとはもう立場が違うわ。お父さまの手によってこれから私たちの仲が引き裂かれてしまうでしょう。──だから私は!すごく醜い望みだとわかっていてもっ、アダムも一緒にこの【知恵の実】を食べてくれたら、私たちは同じ愛を、喜びを、そして同じ運命を共にできると、思ったのよ」
エバは早口で己の罪を告解する。言葉を選びながら紡ぐそこには今までにない芯の強さが見られ、静かな影の部分には怜悧さが宿っていた。アダムの目に映るエバの姿に偽りや虚飾は無かった。
そこに記憶に残るエバの垢抜けなさ、無邪気でおっとりな雰囲気は微塵も感じない。表情も仕草も、話し方も別人にしか見えなかった。
【知恵の実】を食べただけで、ここまでその者の本質が変わることがあるのだろうか。
それほどまでに自然で、それでいて記憶との相違はあまりにも不自然で、もっと見ていたいような、これ以上見ていたくないような、相反する矛盾な感情に駆られた。
「うふふ、軽蔑したでしょう?こんなズルくてどこまでも自分勝手な私を……」
ゆっくりと立ち上がって一歩後ろへ離れゆくエバの姿を見て、アダムは思った、「彼女はもう戻らない」と。
「あなたが愛した従順で良い子なエバは、もうどこにもいないのよ」
悲しげに思いを馳せるように遠く見つめるをするエバから、彼女の終焉を予感させる──その思考の先触れに、アダムは頭を振って拒絶を示す。そして、彼女から視線を背けた。
「……、エバ……わたしは……!」
今ここで何を言っても彼女を傷ついてしまうような気がして、──その思いがアダムの唇を重くさせた。
エバはそんな彼を見抜いたように、
「こんな時でも、あなたは私を責めないのね。どこまでもやさしい男……」
それがどれほど今のエバにとっては大きな救済だったか、きっと彼は知らないだろう。
「アダムは何も悪くないわ。私が自分の意思で勝手に食べただけなの。あなたのエバを穢してごめんなさい。でも、もうあなたを巻き込もうとは思っていないから安心してね」
どこか寂しげで虚ろな色は瞬く間に消え、エバはすぐにいつものやさしく穏やかな笑みが宿る。
そして、
「──アダム。私、あなたの妻になれて、本当によかった」




