12話『エバの誘惑』★
エデンの楽園の温かな陽光も通さぬ真昼を小暗くする森の間があった。中央には透き通る小さな池が広がっており、その周辺は花模様が繰り広げられている。
上空には傍らに囁くような葉ずれの音を静かに立て、青く澄み渡る大空を覆い隠さんばかりに相互に枝を広げた繁げた木々が立派に交わられた。
まるで二人だけの世界に閉じ込めるかのようなこの場所がそこがアダムとエバの棲家だった。
「とても楽しかったさ!」
生き生きとした声が響きわたる。
「今日は今まで以上に凛々しさと愛らしさを兼ね備えた動物に出会えてね、仲良くなれたんだ!奴らは群れで行動するんだが、とても温厚なのさ!」
「そうなの?まだまだこの楽園には私たちが知らない生き物が生息しているのね」
「そうだとも!他にも面白い動物がたくさんいたよ。首がとてもとても長い動物。君にも見せたかったなっ!」
アダムは大げさに両腕を大きく広げ興奮気味に説明して語った。
「子どもでもこんなに首が長いんだ!」
「まぁ!それはすごいわぁ!」
それをエバは満面な笑みで、相槌を打ちながら嬉々として話を聞いていた。
その日がそろそろ暮れる中、ヒトの棲家では既にアダムがいた。
エバの帰りを待ち侘びながら彼女の髪を飾るために、美しい花を選んで花の冠を作っていた。そのうちエバが帰って来ればどんなに喜ばれるか、その期待に胸を弾ませていた。しかし、なかなか帰ってこないエバに幾度なく心が不安に陥るのを禁じ得なかった。
ついにいても立ってもいられなくなり、エバの出迎えに行こうとした時に、遠くから彼女がひとりで辿った道から歩いてきたのを見た時の安堵感はどんなに大きかったことか。
そのあとはエバが採集してきた果物を勢いよく食べ、エバが川から汲んできた水をきれいに飲み干したアダムは今、交じり合う木の枝でできた壁にたれ掛かりながら、今日の出来事を語っていた。
それはいつもの光景だった。
「それだけじゃないぞ!ラファエル先生からいろんな興味深い話が聞けるんだぞ!」
「うふふ。私も行けばよかったわね」
「ああ!今度はエバも来るといい!先生もきっと喜ぶ」
胸の前に両手を合わせて、興味津々に自分の話に食いつくエバを見ていると、もはやこの頃のすれ違いがまるでなかったかのような錯覚に陥る。
(まだ何も“ご機嫌取り”していないのに、わたしたちは仲直りしている......のか?)
つい今朝まではアダムが何を話してもエバは取り繕った笑顔をして、心がここに在らずな様子だったが、今はそれすらもひどく懐かしく感じさせる。
「......なぁ、エバ」
「うふふ......なぁに?アダム」
陽だまりにも似た優しくも甘い声が心地よく耳を打つ。人懐っこい目でアダムを見上げて、エバは可愛らしく首を傾げた。
(今日一日で何かあったのだろうか?)
実はアダムは先程からずっとエバを観察していた。ここ最近の彼女の異変はすっかり影に潜め、以前の彼女に戻ったような──気がした。
それを嬉しく思うべきなのに、なんだろう。この違和感は。いつものエバのはずなのに、何かが違う。
「その、なんだか今日の君っていつもとなんだか違う気がして、だな。わたしが出かけている間、何かあったのか?」
「いつもと違うって?」
エバの顔には一見いつもの純粋無邪気な微笑みが飾られている。
しかし、その瞳の奥にはどこかあざとく艶のあるものが見え隠れしていた。それと焦点が結ぶ度に、アダムはなんとも言えない謎の熱情に侵されそうになる。
だが、その熱情に押し流されそうになる自意識をせき止めて、アダムはエバの変調にふつふつと嫌な予感を感じずにはいられない。
「あ、いや。その、なんていうか......少し余裕?というか、んんん、すまない。言葉ではなんて言えばわからない」
「うっふふふ!変なアダム!私はなにも変わらないわ」
そう言いながらエバはゆっくりとアダムに近づき、甘えるように肩を寄せ密着した。
「いつだってあなただけのエバで、あなただけの妻だもの......」
エバの瞳にはアダムしか映っていない。熱を持つ瞳が、潤んだ瞳が、彼を見つめている。なのに、どこか悲しみに沈んでいた。
それがますますアダムの心の中にある違和感を擽ったが、すぐにエバは今度こそいつもの無垢な笑みに変わったので、それを指摘するタイミングを逃してしまった。
ともあれ、
(今なら、これも渡しやすいし)
「そ、そういえばエバに渡したいものがあるんだ」
「え?私に?」
アダムは一度立ち上がり背後の草むらに潜った。そしてしばらく経つと戻ってきた。
途端の薫る、鼻腔に広がる花の香り。
「まぁ!!」
そこに立つのは、彼の剛腕でも抱えきれないほどの色様々の美しい花束を抱えて立っていた。びっくりしているエバにそれを差し出された。
「ありがとう!もしかして、私のためにわざわざ......?」
目の前に差し出された小さな花束にエバが目をぱちくりさせる。
やがてにっこりと綺麗な笑みを浮かべると彼女は感謝の言葉と共にそれを受け取った後、大事そうに腕で包んだ。
「まぁ、な。最近エバまたよそよそしくなっただろう?本当は君が話をしてくれるまで待つつもりだったが、ラファエルからはそれではダメだって、」
「そう......ラファエルが......」
「“男なら自分から行動するべし”と説教されてしまったのだ。たはは、情けないが、少しばかり知恵を、な」
「それで、この花たちを......?」
「ああ。好きだろう?花。お前の一番好きなもの。それにほら!」
「これは......お花の、冠?まぁ!これもアダムが編んでくれたの?」
アダムは作った稚拙な花の冠を、丁寧な動きでエバの頭にゆっくりと乗せてみた。一瞬きょとんとしながらも、エバは頭の花冠を優しく手に取り、暫くまじまじとそれを見つめる。
「ハハ!さすがに君ほど綺麗に編めなかったがな......すまない。本当はもっと上手く編みたかったが、今日急に思いついて、その、..................エバ?」
だが、花の冠に注いでいたはずのエバの視線が一瞬、違う方へと向けられる。アダムもその視線の先を追うが、見慣れた棲家の風景にこれと言って気を取られるものがあったようには見えなかった。
アダムの視線がエバに戻ってくれば、エバはもうアダムを見つめている。まさかエバの見ていたものが交わる木の枝の隙間から覗く赤いヘビだったとも考えつかないで、アダムは改めてエバの反応を伺う。
「......えっと、もしかして、あまり気に入らなかったのかい?」
あ、と口を開きかけたエバが、目をぱちくりさせたあと、顔を伏せた。なかなか返ってこない返事に、アダムも不安や焦りが芽生えて、エバの顔を覗き込む勇気が出てこない。
すると、彼女は少し汗の滲むアダムの手を握る。次に顔を上げると、
「......いいえ。とっても嬉しいわ!私だけのためにアダムがわざわざ編んでくれたのでしょう?ありがとう!」
頬を薄く染めながら、本当に嬉しそうなエバの満面な笑顔を見て、アダムは心の底からラファエルに感謝した。
そこで、
「実はね、私からもアダムにプレゼントがあるのよ」
「......え?エバもかい?」
なんと、エバからも贈り物があるだなんて流石にアダムには想定外だった。なのせエバが帰ってくるまでは今日もまた彼女に避けられると思ったから。
「ふふっ、今日は特別なデザートを用意したのよ」
エバは本当に素敵な笑顔を浮かべてそう言った。そしてそれを取り出した時、アダムはどこかわくわくした様子で待ち構える。
しかし、その弾む気持ちも、眼前に広げた光景を見て吹き飛んでしまった。だって、
「そ、それは──!」
間違いない。
この鮮やかで真っ赤な色。黄金の輝きを放つ特徴的なオーラ。
「知恵の実じゃないか!!!」
エバに手に収まっているのは、あの禁じられた果実だった。
「これは......どういう、ことなのだ?」
瞠目しながらも、アダムの口から震えるに漏れたのは、そんな当然の疑問だった。
口調は何とか平静を取り繕えているものの、感情面はそうではない。むしろ今にも口を衝いて出そうな激情に頭が煮えつつあった。
「もちろん食べてほしいのよ。アダムに、ね?」
アダムの問いに、何故かエバは嬉しそうな顔をして笑った。ほわほわとした空気を纏い、色が白い頬にほのかな赤みを昇らせる。心の底から湧き上がる温い喜びに身体の芯から浸るようなその姿はアダムにはとても愛おしく感じられてならないが、それはそうとして話の流れが掴めない。
「食べてほしいって......、待ってくれ!エバ。神の言いつけを忘れてしまったのかい?知恵の実は食べてはいけないとあれほど言ったじゃないか」
常に素直で従順なエバの口から出るはずもないその言葉に、動揺を隠せなかった。すると、エバはきょとんとした表情で首を傾げる。
「いいえ。忘れてなんかいないわ。でも聞いて、アダム。この【知恵の実】を食べても死なないのよ。お父さまは私たちに嘘を言われたのよ」
「“嘘”?」
「本当のことと逆なことをわざと言うことよ」
笑みを浮かべて断言するエバに、アダムはかぶりを振って即座に応える。
「エバ、君が自分が何を言ってるのかわかっているのか?それでは神はわたしたちを騙してることになるんだぞ」
「とても悲しいけど、そういうことなの」
「そんなことある訳がない!大体それを誰から聞いたんだ」
「......ラファエル先生がそう教えてくれたのよ」
アダムの詰問に、エバは咄嗟に嘘をついた。ついてしまった。
(ああ......知恵があると、こうも簡単に嘘をつけるようになるのね)
もちろん赤いヘビから聞いた話ではあるが、さすがにヘビを忌み嫌うアダムがそれを信じるはずがないとエバが判断したからだ。
「ラファエルが......?」
言葉尻こそ力がないが、否定の言葉はアダムからはない。当然、今すぐにはそれを確かめる術もない。エバがそうだったといえば、裏を疑うほどの知性もまだないのだ。そのおかげかアダムはエバの嘘を追及してくる様子はない。
とはいえ、
(いくらなんでも今の嘘は納得させるには弱すぎるわね)
エバは内心自分のついたお粗末な嘘を後悔した。同時にラファエルへ不名誉を被せたことへの罪悪感はあったが、エバは首振り一つでその躊躇いを殺すと、
「......アダムは、私の言うことを、信じてくれないの?」
途端に悲しみの表情を見せたエバに、アダムの良心がひどく痛んだ。
だが、すぐに困惑と焦燥。禁忌に触れてしまった絶望感。そして、直後に「もし神にバレてしまったら」という恐怖が一気に押し寄せた。
「この際なんでもいい。と、とにかく今でも遅くはない。戻してくるんだ!エバ!」
いつもの物分かりのいいエバならきっとすぐにでもアダムの言う通りにしただろう。しかし、エバは取り繕うようにニコリと笑う。
「うふふ。そんなに怯えないで大丈夫よ。ほら、見て?全然怖くなんかないわ。こーんなに美味しそうなのよ?これを食べたら死ぬだなんて本当にそう思う?」
艶やかに光る知恵の実は芳醇な
甘い香りを発してアダムの鼻腔をひどく煽り、彼の中のよからぬ欲望を芽吹かせた。その滑らかな曲線はきっと禁断の果実を食す不届き者の口すらも優しく受け入れるでしょう。
アダムは思わず食い入るように【知恵の実】をじっと見つめ、ゴクリと喉を鳴らしました。
「ね?きっと美味しいわ。一口だけ。ほんの一口だけなら、お父さまもきっとわからないわ。」
「エバ。それはない。わたしたちの父は全知全能の神なんだぞ?なんでもお見通しなんだ」
「でも、せっかく私、アダムのためにあの禁じられた場所からわざわざ採ってきたのに......」
「わたしのため......、」
「だから、お願い──」
「 食 べ て ? 」
可憐な顔で、
甘えた声で、
震えがくるような仕草で、
溶けそうなぐらい近くで、
息がかかるぐらい触れ合って、
エバは知恵の実を食べてほしいと求める。
そのまま柔らかな禁断の堕落に溺れてまで、愛おしいエバの望みを応えるのはきっと幸福なのだろう。だが、
「エバ。どうかわたしを困らせないでくれ」
譲歩する気など微塵もないその直線的な響きを持ちながらも、それは懇願だった。
「......、アダム?」
首を左右に振り、強情な姿勢を押し通そうとするアダムに一瞬だけ動揺を露にするエバを見つめ、明朗に言葉をついだ。
「君の気持ちはとても嬉しいが、わたしは神の言いつけを破るつもりはないのだ......!!」
だから、
「いらない」
アダムは、神すらも惑わしかねないエバの誘惑を断ち切った。このまま曖昧な態度を続けては、やがて彼女の執拗な誘惑に屈してしまう確信があったからだ。
さすがにこれだけキッパリ断れば、エバも諦めてくれるだろう。そう思ったアダムは首を左右に振って拒絶を示した───それがエバにとっては死刑宣告に近い一言とは思わず。
「そんな、.......そんな」
一瞬だけ大きく見開いた彼女の目が絶望の色は過ぎ、視線を自分の両手に収まる禁断の果実に落とした。
「やっぱり、いらないの?」
「......すまない」
エバは固まった笑顔のまま、しばらくその場で立ち尽くした。
「アダムは、これを食べてはくれないのね......、初めからわかってはいたけど、でも、もしかしたらって思うのは都合が良すぎるよね。でも食べてくれないとなると、私は......っ!」
そして、ポロリと女の目の縁に涙が光った。
「エバ!?」
見る間に後から大粒の涙が白く柔らかい頬をポロポロと伝い、彼女の輪郭に沿って雫がポタポタと両手にある実に雨模様を描いた。
「...っ、ふ、ぅ....っ」
その顔は涙に濡れながら、それでもなお笑顔だけは手放さずに。
けれど、少しずつ。まるで指の間から砂がこぼれ落ちていくように、ゆっくりとエバの表情からも笑みが消え、歪んでいく。
そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ち、地面に座り込んだエバに慌ててアダムが駆け寄る。
「す、すまない!ちょっと言い方キツかったか!?君を泣かせるつもりなんて──っ」
大きくて立派な手が泣き崩れる妻の背中を労るようにさすった。予想してなかった彼女の反応に、ジトリとアダムは嫌な汗が滲んだ。
「泣かないでくれ......、エバ」
濡れた頬を腹の指で優しく撫でた。
決して悲しませるつもりはなかった。神の言いつけを破ってはならないと思い口にした言葉が、思いもよらぬほど彼女を傷つけてしまったことに、ただ狼狽した。
アダムはなんと声を掛ければいいのか、オロオロしている間に彼女は再び顔を上げた。
「アダム......私はもう、あなたのそばにはいられない......っ、きっとあなたのそばにいることを、許されないわ!」
「急に何を言い出すんだ!わたしのことを嫌いになったのか!?」
熱のこもった瞳でエバを見ていたアダムは、彼女の鬱々とした口ぶりにその色を失い、不穏な雲行きに眉間に皺を寄せる。
エバが、何を言い出そうとしているのかわからない。わからない。
わからないのだが──その先を、言わせてはいけないような気がした。
「そんなことない!嫌いになるわけ、ないわ!私は......っ!ずっと、アダムのそばにいたい。だけどっ、それがもう......っ!許されないの!だってっ、わた、しっ......悪い子に......っなっちゃったもの...!」
エバは震える声で告げた。その大半は押し殺した嗚咽に飲み込まれ、掻き消える。
「──“悪い子”?」
しかし、聞き取るのも難しい状態となっていた言葉のある単語だけが鮮明に聞こえた。それがアダムにとってはあまりにもエバを評するに相応しくない言葉だったからだ。
「......ええ。そうよ。私は悪い子。だって、」
その直後、俯いていたエバがゆっくりと顔を上げる。
その双眸には湛える涙の雫と合わせて揺れる。彷徨うように、戸惑うように、エバの心と、アダムの心を映し出すように。
胸を嫌な予感が締め付ける。その予感を拭いされないまま、
「エバ──......」
「食べちゃったの」
囁くようにそっと打ち明けた声の揺らぎは、まるで愛を伝えるようだった。
「食べたって、まさか......」
──アダムの心臓が戦慄く。
背筋が凍るという感覚なんて、初めて感じた。彼女の告白であろうその先をアダムは聞きたくなった。
エバの瞳が潤み、唇が力なく微笑みを浮かべて、
「私......知恵の実を、食べちゃったの」
諦観を含んだ涙声で告げられる、絶望への道を差し示す一言。
ああ、神よ。
なぜ、彼女を見捨てたのですか。




