11話『覚醒』★
どこか遠い胸の奥で、自分を呼ぶ愛おしい声が聞こえた気がした。
「──エバ?」
思わず振り向いたアダムは、すぐに我に返り、ひっそりと楽園の【憩いの森】の片隅で苦笑いをした。
「バカだなぁ。彼女が、エバが……ここにいる訳ないのにな」
あの花の咲くような笑顔を思い浮かべようとしたが、うまくいかない。あの日。エバに拒絶されたあの日から見るのは彼女の悲しい顔か、時に無理して笑う顔ばかりだ。
エバはもう心からアダムに笑いかけること無くなったし、アダムのそばにいることを望まなくなった。
その理由は正直心当たりはないけれど。
「どうしたのだ。アダムよ。そのような落ち込んだ顔はこの楽園には相応しくないのだよ」
そんなアダムに声をかけたのは七大天使の一人──ラファエルだった。
人類の堕落を狙う悪魔に注意せよ、と──神の警告を受けてから、ラファエルは数日に一回、定期的に天界から舞い降りて、アダムとエバの様子を見るために楽園に訪れる。
天使は皆神から知恵を授けられているが、このラファエルは特別に聡明のようで、こうしてアダムと園内を巡回しながら──知恵のないヒトにも分かるように──さまざまな知識や神の教えを説いていた。
「ラファエル先生……!いや、その……、エバに呼ばれたような気がして、でも、ただのわたしの勘違いに決まっている」
「ふむ?なぜそう決めつけるのだね?」
「わたしはエバに、嫌われてしまったかもしれない」
「……この幸多き楽園にうぬたちを仲違いさせるものが存在することに疑問を抱かざるおえないな。一体喧嘩の原因は何かね?」
「ケンカ……なのだろうか?だとしたら正直身に覚えはないのだ。ここのところわたしが彼女のそばにいようとすればするほど、エバはつらそうで悲しい顔をするのだ」
痛みを含んだような沈んだ声を漏らすアダムを、ラファエルは静かに見つめ、そして軽くため息を零した。
「なるほど。道理でエバの姿を見ない訳なのだよ。ここ最近彼女が現れないのに疑問を抱いていた。いつも私が来る時は、必ず君たち二人揃っていただろう」
「……今のエバはひとりでいることを望んでいる。それで彼女の心が少しでも休まるのであれば、わたしは彼女の気持ちを尊重したいと、思う」
「その割にはどこか不満げなのだよ。本当は心底より納得はしていないのだろう」
「う……」
アダムの心をあっさりと暴くようにラファエルはそう呟く。そして、静かに彼の視線がアダムに突き刺さる。
「……君たちは神より仰せつかった私の忠告を聞いていなかったわけではあるまい。この楽園は現在完全に平和だとは言い難い状況にある。可能であれば単独行動は控えて貰えると助かるのだがね」
「すまない。ラファエル。ちゃんと分かってはいるつもりだが、だからと言ってその……、さすがに無理やりに嫌がるエバを連れてくるのも気が引けて、な」
「はぁ……、幸いと言って良いかわからないが、我が主が君たちに対しては警告のみに留まり、拘留まで命じた訳ではない。そ一応その先は君たちの自由の意思に任じられる。よって、これ以上はこのラファエルの管轄外であり、過度な口出しは野暮ということになる」
「……ありがとう。ラファエル」
肩をすくめておどけるような仕草のラファエルに、アダムは礼を言って顎を引く。
遠回しで実に分かりにくいが、ラファエルなりのやさしさなのだと、アダムは受け取ったようだ。
「礼は無用。君が己の伴侶を溺愛しているのは元より承知しているのだよ。だが、大切なものに絶対的な信頼を置くのは構わないが、時には疑心を向けることもまた視野を広げるために必要なものだ」
ラファエルの忠言に、アダムが息を詰めて目を見開くのがわかった。彼が何を言いたいのか、アダムには薄ぼんやりと理解できていた
「エバを、疑う……」
エバを愛し。彼女を己の半身として尽くす彼からすれば受け入れ難い答えかもしれない。
「そうだとも。エバを信頼するのと、こうして自由放任し、彼女を関知しないのは別問題なのだよ。現に彼女は己の意思を最優先して、神の意向に反する行動を起こしている。それ自体が褒められることではない。そして、その言動がこれから更なる不義へと繋がらない保証もないのだよ」
それはアダムの怠慢を批判し、自身の考えの合理性を説くような言い回しだった。
実際、ラファエルの発言には否定できる部分が少ない。アダムの判断は軽率であり、現在絶対的平穏が約束されていないこの楽園で長時間パートナーから目を離すのは無用心としか言いようがない。
「手遅れの事態になってしまう前に、アダム。本来君はエバのそばから頑なに離れるべきではない」
「わたし、は」
「エバから嫌われる事を恐れるあまり、彼女そのものを失っては本末転倒だと思うがね、」
「っ、」
「最悪な場合、大切なものが君の手元から溢れ落ちることもあるのだ。そういう結末に辿った者を、かつて私は身近で見てきた」
親しき者に裏切られ、そして失う。──ほんの少し前まで同じ立場だった同志を知る身としては、ラファエルもまたアダムの気持ちは理解できる。
理解できるからこそ、同じ悲劇が起こらぬように言葉を尽くす必要があるだろうと思った。
「だから、このラファエル個人的な思いとしては、君にまでその思いをして欲しくないというのが実情だがね。──精々後悔のないように」
「……すみません。先生。わたしが、考えなしでした」
「知性が足らぬ人ではここまで考えが至るのは厳しいと分かっている。そのために天使の私が君を導くためにここにいる。もし君が私の話に少しでも耳を傾ける気があるのなら、それは幸いなことだ」
七大天使としての貫禄が重々しい態度に溢れていて、自然と畏まる態度になるアダムは目を泳がせ、「えっと」と前置きし、
「もちろんです。ラファエル先生のありがたいお教え、肝に銘じておきます」
「よろしい。ではアダム」
指をひとつ立てて、ラファエルはどこか熱を込めてアダムへ指を振り、
「今日中にエバと仲直りをしたまえ」
「え!?」
腰を折り、唐突な提言をするラファエルに、アダムは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「数多の被造物の中でもヒトは神から最も愛されし存在。主は君たちヒト同士愛し合うことを何よりも望んでおられる。よって主の御心を叶う行いをする点では、もうこれ以上君たちの仲違いの状況を放置せず、一刻もでも早く関係を修復べきなのだよ」
「し、しかし、どうすれば…!頑張って考えてもどうすればエバと仲直りできるか、情けない話わたしにはその方法が思いつかないのだ。彼女がわたしを避ける理由もわからないし」
「ふむ。一理あるな。知恵を授かっていない君には確かに限度があるな。これは失礼」
「ラファエル先生……」
愛する妻とすれ違うことに傷心しているアダムの気も知らないで、能天気そうでいるラファエルに、がっくりと肩を落とした。
「まぁまぁ、そう落ち込むことはない。そのかわり私が君にささやかな知恵を授けよう」
「──!本当か!」
好感触の返答に前のめりになるアダムに、ラファエルは快く応じる素振りを見せる。
「ああ。言っただろう。人を導くのも天使の役目なのだよ。いいかね、喧嘩理由がわからぬ限りでは、それをいつまで考えても時間の無駄というものだよ。エバが何をもって君を避けるのか、その理由は彼女のみぞ知るからさ」
「まぁ、……それもそうだな」
「うむ。というわけで別の方法を実行するのだ」
「別の方法……?」
「簡単に言えば、相手が仲直りする気を起こさせるようにする、ということさ。まぁ、ようは“ご機嫌取り”だな」
「エバのご機嫌取り……」
「エバの好きなものをあげるとか……それは君が一番詳しいのではないかね?」
「エバの好きなものをあげる……。それでわたしたちは以前みたいに仲良くなれるのだろうか」
「可能性は決して低くはない。エバはやさしい子だ。君がそこまで誠意を示せてなおも許さぬ理由が彼女にあるとは思えないのだがね」
両手を広げて、ラファエルは「そうだろう?」と同調を求めるような仕草でアダムに向き直る。
「それに君はすぐにでも彼女と仲直りしたいのであろう?であればどんな方法でも試してみるべきなのでは?」
彼はそんなラファエルの態度と言葉に却下できるはずもなく、片目をつむり、「ふむ」と小さく吐息を唇から漏らしたあとで、
「そう、だな。わたしはこれからも彼女と笑い合いたい。共にいたい」
「ならここで迷う必要性はどこにもない」
「ああ。ありがとう、ラファエル!今からエバの好きなものを探して今日は早めに帰るよ」
「では、私は君たちの健闘を祈るのだよ。今日はここでお暇するとしよう。うまくやりたまえ」
そう言って、ラファエルは自身の「風の翼」を広げて、上空へと飛び立った。
アダムはラファエルの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
やがて見送りを終えると、
(今なら、ちゃんとエバとゆっくり話せる気がする)
ただもう、何もかもが吹っ切れたようにアダムはその場を立ち去った。
早くエバに会いたい。
そして、微笑まれたい。
アダムの心は、もはやそれしか望まない。
◇◇◇◇◇◇◇
アア オイシイ。
アア キモチイイ。
青白い一筋の稲妻がひらめいた。
アあ、頭がすごく、冴えわたる──。
それはまるで、深い眠りの底から覚醒させられたかのような感覚だった。
突如これまでの世界が、夢であったことに気づいた【覚醒者】。
あぁ、あのみずみずしい果肉なのだろう。
もう無我夢中だった。
優しくそっと、歯を立てて、
舌に感じる刺激は蕩けるような熱を持っている。
甘い禁断の蜜は誘われるように胃の中へ。
粘膜に冷たく消えていくのと同時に、
幸福が、脳に染み渡り、世界を満たしていく。
甘美な風味に、我を、忘れて、しまいそうだ。
あぁ、もう、夢中になって、その香しい弾力を噛み知る。
まさしく、「私はあなたの虜」。それに尽きる。
エバは頭の芯が痺れるような愉悦の余韻に浸った。
禁断の世界に踏み込んだからこそ得られる喜びであり強烈な快感だった。
「もう遅い。もう取り返しがつかぬ──」
悪意に塗りた嘲笑が、陶酔の沼から意識を勢いよく引き上げた。
「うぬは堕ちたのだ。人類最初の女よ」
開き直ったように突き放した言葉を吐き捨てたヘビに不思議と嫌悪感を抱かなかった。
──「堕ちた」。
未知のものを、声に出してみる。素敵な響きだと、エバは素直にそう思った。
そこには秩序への執着も罪過への怯えも、遥か彼方へ置き去りにした透明な表情があった。
「気分はどうだ?」
「ええ……、そうねぇ」
この世の幸福をすべて溶かし込んだ微笑みを結ぶと、彼女は恍惚に歪んだ声で甘くうっとりと答えた。
「───とっても、いいわ」
野草の群れが風にそよいで、柔らかく揺れた。
その様は罪深きエバを優しく甘く非難しているようだった。




