10話『愛しさを罪過へ』★
不思議だね。どうして人ってすぐに守れない約束をするのだろう。
エバはいつものようにひとりで樫の木の下にいた。
今日も昼からアダムは日課である動物たちの名付けの仕事に出掛けている。常時のエバであればそれを寂しく感じるも、今ばかりは彼女にとっては好都合だった。
あれから数日が経った。
アダムとは変わることなく仲良くはやっている──表面上は。実際にはエバとエダムのの間には気まずい感情が蟠っていた。
エバの態度が明らかにぎこちないのは、アダムもさすがに気づいているが、敢えていつも通りに接していた。
そんな日々が続き、時間だけが穏やかに過ぎていった。──エバの心の中とは対照的に。
「はぁ……」
大きな嘆息をついて、沈んだ表情でエバは蹲って座った。彼女は自己嫌悪の沼に浸かっていた。
(何かあったらちゃんと話すって、アダムと約束したのに…)
ヘビとは他言無用と約束した。
だがヘビよりも先にアダムとは「ひとりで抱え込まない」という約束をした。
ヘビから聞いた例の話をすべてアダムに話すか、内緒にするか。果たしてどちらとの約束を守るべきか、散々悩んだ結果、とうとう話す勇気がなくて今に至る。
(わたしってば、甘えてばかりね……)
エバが話すまで健気に待ってくれているアダムには後ろめたさを感じざるおえなくなった。
そして、いつしかアダムと同じ空間にいることさえも居た堪れなくなり、ここ最近昼からのアダムの不在に安堵感すら感じてしまう。
(このままで、いいのかな……)
アダムのことは愛してる。どうしようもないほど。しかし愛してるからこそ、ヘビから聞かされてアダムの隠された真実がエバの胸を蝕む。
放り出したいのに、いつまでも棲みつくこの黒い感情にずっと振り回されてながらも、どうすればいいのか正直お手上げ状態だった。
今度は小さくため息を漏らし、膝を抱えて丸まった。
(ヘビさんと出会ってなかったら、こんなに悩むこともなかったのかしら)
結果的見れば、あのヘビがエバの悩みの種を運んでいるのだ。
これまでヘビはあらゆることを教えてくれた。けれど、教われば教わるほどエバに与えるのは衝撃と混乱ばかりで──なぜなら、それを理解して吸収するための【知恵】が与えられていないから。
ヘビが教えてくれ多くの知識や道理はエバの頭の中で糸のように組み合い、それを解こうとすればするほど余計に絡まってしまう。そういうもどかしさに苛まれる。
──【知恵】さえあれば。
悩めば悩むほど、その邪念がどんどん強まっていくことに気づく。
やはり、アダムの言うように、もうあのヘビには関わらない方がよかったかもしれない。
あのヘビに出会ってから、二人の関係が明らかによくない方向へ進んでいることだけは確かなのだから。
(そう、わかっているのだけど…)
それなのに、今もこうして心のどこかでヘビが現れるのを待ち望んでいるのはきっと、【答え】が欲しかったから。
悩みのもとであるアダム本人に打ち明けるなんて論外である。かといって、内容が内容だけに全知全能の父なる神に尋ねるのもまた気が引ける。
だからもうエバにはあの赤いヘビに頼ることしかできない。
無い知恵を絞ろうとしても、思考はいつまでも平行線を辿るまま。だがあの賢いヘビなら、そんな自分に打開策をくれるのかもしれないという僅かな期待もあった。
(やっぱり、わたしが今頼れるのはヘビさんしかいない……)
そう自分に言い聞かせる。
この、誰を頼ることすらもままならない息詰まる状況の中で、赤いヘビという存在は確実に、そして着実にエバに“安心“を与えることのできる唯一の心強い存在だった。
そう思っていたところを狙っていたかのように──、
「随分と考え込んでいるな。この吾輩の存在に気づかぬほどに」
気がつけばエバの傍には赤いヘビがいた。
あまりに絶妙なタイミングに、エバはどきりとした。
「へ、ヘビさん。いつからそこにいたの?」
「結構前からだ。なのにうぬはしけた顔してずっと上の空だ」
「…….」
「まぁ、無理はないか」
悲しそうな顔で押し黙るエバに対して、ヘビ特に気にする風もなく、いつものように淡々としていた。まるですべてわかっている、とでもいうような態度だ。
お互いに黙ったまま、しばらく時間が過ぎた。不意にヘビはエバを一瞥した。
俯き加減でいるためにその表情は窺えない。けれど、二本の筋が頬を伝っているのが見える。──彼女は泣いていた。
「苦しいのか」
先に口を割ったのはヘビの方だった。
コクリと項垂れたままエバは控えめに頷いた。
「ヘビさん……、わたし、どうすればいいと、思う……?」
「………….」
縋りつくような問い掛け。そこには隠しきれない切実さがあった。
しかし、ヘビは鼻先を少し落として黙っている。すっかりと失意の底に沈む彼女の状態に対して思うところがあるのだろう。それも至極当然なことだと思った。
エバ自身がアダムの真実を背負うと覚悟を決めたのに、今は見ての通りこんな有り様だ。
自分勝手に塞ぎ込んでいる彼女を、ヘビは煩わしいと思ったとしても不思議ではない。
(ヘビさんは、ちゃんと忠告してくれたのに……)
そう。傷つくと分かっていても真実を知ろうと決めたのはエバの方なのだ。ヘビはただ選択を委ねただけに過ぎない。
今こうしてエバが傷心しているのも自業自得でしかなく、この期に及んで助けを求めるなんてどこまでも都合が良い自分に内心自嘲した。
そう考えていたところで、やや間をおいてヘビの大きなため息が聞こえてきた。やはり呆れてしまったのだろうか、とエバはさらに肩を落とした。しかし、
「助けて欲しいか?」
「うん……っ」
「なら、──ちょっと見て行かないか」
頭上から降ってきた静かな声に、エバは視線を上げ首を傾げた。
「……どこに?」
「うぬの苦しみを解放してくれるところだ」
それは一体どういう意味なのだろう。
(苦しみを、……解放するところ?)
意味深なヘビの物言いに、エバの頭上に疑問符が飛び交う。思わず目の前の赤いヘビをジッと見つめてしまう。
たが、ヘビは静かにこう言い放った。
「──ついて来い」
◇◇◇◇◇◇◇
ヘビに導かれるままエバはついて行った。だが目的地に近づくにつれて、彼女の顔は曇っていく。
「ここは……」
「知恵の木だ」
「見れば分かるわ。でも、どうしてここに……?」
「元はと言えば、うぬを苦しめているのは手に余りすぎる感情のせいであろう?であれば、やはりそれをなんとかできるのはここしかあるまい」
「ヘビさん!今までわたしの話ちゃんと聞いてたの?わたしは、禁忌を破るつもりなんてないんだよ!?」
エバの救いを求める声を全力で都合の良いように解釈し、ヘビはエバの望むところとは真っ向から反対の結論に落ち着く。
エバの叫びを無視し、ヘビは平然とエバに向き直ると、
「ほれ、とりあえずもっと近くで見るといい。うぬはいつも遠くからでしか見れていないのだろう」
「で、でも……」
「【食べる】も【触れる】もが駄目でも、【近づく】ことなら禁じられていないのだろう?なら問題ないはずだ」
ヘビの言い分は正しく暴論である。
「言われてみれば……そうかも?」
しかし、知恵のないエバにはそれを屁理屈だと認識できるはずもなく、簡単に言いくるめられてしまう。
そして言われるがままに知恵の木の下まで近づいた。
見上げれは、黄金の光を放つ一つ一つ大きな知恵の果実がたわわに実っていた。
その真っ赤な果実の色は、青く澄み渡る空と新緑の葉とは鮮やかなコントラストをなしていた。
実際こうして直近で見るのは初めてだけど、既視感を覚えるのはおそらくあの時一度夢で寸分違わぬものを見たからだろう。
それでもエバは鳥肌が立つほどに胸が踊った。
「きれい…….!遠く離れたところから見るのとは全然違うのね。アダムにも見せてあげたいわ」
こういう時でもアダムの名前が自然と口から出てしまったことに、昂ったエバの心が一瞬沈んでしまった。
その気持ちを誤魔化すように頭を振り、知恵の木の下に腰を下ろした。
知恵の実は所狭しと生えているのに、不思議と一つも地面に落ちていなかった。そのかわりに地面には落ち葉で覆われていた。
「どうだ。一つもぎ取ってきてやろう」
突然ヘビがとんでもないことを言い出した。
「いけないわ!そんなことしてはだめっ!!」
「なぁに、ヒトではない吾輩が採ってくる分にはなんの問題もないだろう?そこで座っておれ」
エバは反射的に身を乗り出し、すかさずヘビを止めたが、ヘビはそれをあしらうように宥めた。
そして早速と言わんばかりにシュルシュルと滑らかに木へと登り、器用にも長い肢体を知恵の実に巻きつけ切り離すと、【知恵の実】が地面にポトリと落ちた。
すぐに地面に下りてそれを口に咥え、そのままエバに持ってきて、なんの了承もなくいきなり座る彼女の膝の上に落とした。
「ヘビさん!?なんてことを!わたしは知恵の実を触れてはいけないのに!」
「落ち着け。触れるだけでどうにかなる訳あるまい。ほれ、なんともないだろう」
知恵の実を膝上に置かれたまま若干パニックに陥ったエバに、ヘビは平然として宥めた。
(たしかに…今のところ何も起こらない…けど)
「大丈夫だ。エバ。何も悪いことは起こらない。吾輩が保証しよう。だから、その実を手に取ってみろ」
一寸躊躇した後、ヘビの言葉を信じるにしたエバは恐る恐ると知恵の果実に触れてみた。
ひんやりとした感触が直接掌に伝わってくる。
今までずっと遠くから見ていた赤は、直近で見るとさらに目が覚めるほどの鮮やかさだった。
【知恵の実】はエバたちが食べてきたどの実よりも赤く、神秘な紅の光を放っていた──まるで人に流れている血潮のよう。
きっとこのエデンの楽園で一番美しいものに違いない。こんなにも美しきものにに触れることすらも禁じた神の気持ちもわかる気がした。
「これが、【知恵の実】……!」
その禁断の実をまるで宝物のように、壊れぬように優しく両手で包み込みゆっくりと持ち上げた。その果実はすっぽりと手の中にハマって、あまりにも馴染んでいた。
エバは試しに顔を近づけて思いっきり香りを嗅いでみた。
思った通りの、いや、思った以上に芳ばしい香りが目一杯に鼻腔に広がり、エバを陶酔させた。
「どうだ?」
「とっても……すばらしいわ」
「そうかそうか。では一口食べてみろ。味はもっと素晴らしいぞ」
「──!さ、さすがにダメよ!」
「なぜだ?死にはせんと言っただろう。本当は吾輩の語ったことを信じていないんだな」
「そんな、こと……」
「確証が欲しいのだろう?いいだろう。百聞は一見にしかずだからな。いいか。エバ。よく見ておけ」
パクリっ!
そういうや否や、ヘビは思い切ったかのようにエバに両手にある【知恵の実】を一気に丸呑みにした。
「ああ……っ!なんてことを……っ!?」
突然の目にも止まらぬヘビの行為にエバは思わず小さな悲鳴をあげてしまった。
先程手の中にあった愛おしいきれいな宝物を汚されたような思いをして、無性に悲しくなった。
だがすぐに禁断の果実を食べてしまったヘビのことが心配で堪らなくなった。
「ヘビさん、大丈夫!?すぐに吐き出して!…でないとっ」
「でないと、“死ぬ”、か?もう一度吾輩をよく見ろ。何事もないだろう?苦しくもない。死にそうにもならない。五体満足だ」
悠々と体をくねらせ、ヘビは満足げに目を細めて、
「これで証明したではないか!【知恵の実】を食べても死なない。すべて吾輩の言った通りだ。うぬらの愛する神は、うぬらに嘘をついたんだっ!」
「そんな、お父さま……、そんな、わたし、」
「わかるか?神はうぬらを裏切っているんだぞ!そんな不誠実な神に縛られる義理がどこにあるのか。だからエバ。うぬも食べるんだ」
「っ!し、死ななくても、良くないことが起きるはずだわ!お父さまだってちゃんと理由あって禁じたはずなのよ」
「だから言っただろう?“あのお方にとって”の良くないことが起きるのだ、と。だが、ヒトにとっては悪いことではない。うぬらはさらなる進化をして自立するのだ!そうすればもう神に支配される必要もない。やがてうぬたちはいつかあのお方を忘れてしまうだろう」
「そんなことないわ。わたしたちはお父さまが大好きよ?決して忘れたりなんかしないわ」
「生意気な。知恵を持たない分際で大した自信だな?ならば今すぐそれを食べて吾輩に証明してみろ」
今まで淡々としていた様子から一変し、ヘビは威圧感を僅かに含んだ威嚇がエバの頬を強く打った。
気のせいか、その双眸には獰猛な肉食獣の如く剣呑な光を宿っていた。
「……ヘビ、さん?」
「無知で愚かなヒトが何を言ったところで説得力を欠けるのだ。いいか?所詮半端な欠陥品でしかないうぬが一丁前に意見なんぞするでない」
これまでエバの無知に親身に寄り添ってきたのに、ここへきてエバの無知を嘲笑う。突然の赤いヘビに豹変に、エバは困惑を隠しきれなかった。
「うぬは自分の思考じゃどうにもならないから、最後は吾輩に頼ってきたのだろう?同じく知恵を持たぬ愛する夫よりも、知恵を授かった畜生風情なる吾輩を選んだのだろう?」
そこで、エバはハッとした。そうだ、本来彼女が頼るべきだったのは、共に生きるパートナーであるアダムなのだ。
なのに、ヒトに従属する動物──ヘビに徐々に信頼を寄せて、こうして情けなくも縋りついている。
「いいか?エバ。吾輩に助けを求めてしまった時点で、うぬが信じているのは神でもアダムでもないということだ。だから大人しく吾輩の言うことを聞くのが筋ってものだろう。うぬから頼ってきたのに、吾輩の話を信じず、否定するのさすがにひどいと思わぬか?」
「それはっ、とても申し訳ないと思ってるわ!でも、こんなの、話が違うもの!ヘビさん。わたしの苦しみを解放してくれるんじゃなかったの?だから着いてきたのよ?なのに、こんなにわたしを困らせて、さらに苦しませて、ヘビさんだって嘘をついてるじゃない!」
「──エバ。吾輩は嘘はなんぞついていない。前にも言ったが、この【知恵の実】を食べればうぬは今いる思考の迷路から脱出できる。すべての苦悩から解放されるのだ」
【知恵の実】を食べるくらいなら、神と夫を裏切るくらいなら、もうずっとこのまま苦しい思考の沼に溺れたままでもいいと、今までは割り切っていた。
「それだけではない。その醜い感情をうまく制御することができることで、うぬは今とは違う形で愛するアダムと仲良く向き合えるのだぞ」
───だが、続いたヘビの言葉に、ぐらりとその気持ちが揺らいだ。
(アダムと、仲良く……)
揺らぎ、波立ったのは、まぐれも無い【欲】。ヘビは恐ろしいほど鮮やかに、一瞬で彼女の心に入り込んでしまった。
「知恵さえあれば、アダムをよそ見させることを防げる。ずっと仲良くなれる方法を思いつく。そうなれば、アダムの心は未来永劫うぬだけのものだ」
本来エバから望んでいいものではないそれを、一瞬の揺らぐのうちに欲してしまった。
ヘビから発せられる誘惑の言葉は、確実にエバの心をゆっくりと侵食していく。
「でも…っ、だからってそれでお父さまの言いつけを破るのは……っ」
「ハッ──ハハハハハッ!!!」
続いていた言葉が途切れると、ヘビは急に哄笑した。ついには剥き出したヘビの邪悪とも言える本性にエバの身体は反射的に強張った。
「この期に及んでまだ従順が美徳だと思い込んでいるのか?くだらん。全くもってくだらぬ。どこまでうぬは愚かで度し難い女なんだ」
「……、」
「うぬは一体誰に遠慮している?そもそもうぬの意思はどこにある?」
「……わたしの、意思」
「いい加減己に素直になれ。うぬには幸せになる権利がある」
エバの心を覗き込んだように、ヘビが甘い誘惑を投げかけてくる。
(──素直に、なる)
素直になれば幸せになれるのか。
ありのままの欲望に身を任せればすべてが丸く収まるのか。そうすれば、エバの心にいつまでも蟠るこの濁った薄暗い感情もきっと、
「この際言っていくが、このままだとうぬは己の中にある嫉妬という感情を処理できずに呑み込まれるぞ。そしていつしか訳も分からなく暴走するのだ」
項垂れるエバ。
それとは対照的にヘビは射抜くような視線を寄越した。
「その時になれば、うぬがこれまでにないほどアダムを深く傷つけるのは目に見えている」
そこで一度言葉を区切り、ヘビの眼は意地悪に歪み、
「いや、失礼。厳密に言えば、既に傷つけてしまったな、彼の心を。彼を愛しているとほざいといて、なんやる浅ましい女よ」
「……ッ!」
ヘビの容赦ない追及は非難の形となってエバの心を貫いた。
正しく【悪意】そのものだった。
ヘビの言葉には、態度には、声には、視線には、その存在を表現し得るすべてが、ただ【悪意】とそう呼ぶ他にない。
純然たる悪意だけが、ヘビのすべてに込められていて、依然として猛威を振るう。
「だが、その状況が続けばどうなる?傷つけられたアダムは、遅かれ早かれいつかうぬを見限るのではないか?」
「……」
「さて、ここからが問題だ。うぬを見限ったアダムを神は次にどうするのだろうな?それくらいは想像できない訳ではあるまい?」
勿体ぶったヘビの口調に、エバは何かを思い出したかのように息を飲み込んだ。それと同時に心の中に潜んでいた焦燥感が一気に火がついた。
アダムを支えるどころか傷つけてばかりの女なんて、妻失格だ。アダムと生きるのにふさわしくないと判断されたエバはもれなく用済みになるだろう。なにせ前例があるのだから。
そして、用済みとなったエバは──、
「いいか。このままだとうぬ程度の女なんて“ × × ”だぞ?」
「……っ!いや……、そんなの、いや……!」
そのたった一言だけで、そのプレッシャーに耐えかね、危うく精神の平衡を失いかけるエバはその場にしゃがみ込む。
彼女の叫びと嘆きを聞き、そのつけ込める隙間を、【悪意】は決して見逃さない。
「エバ」
と、ゆっくりと尻尾を高く上げて、ヘビは透徹した視線と声で、この茶番の最後の締めとしての言葉を──、
「うぬの一番大事なものはなんだ?」
「─────!!」
まるでその言葉が引き金となったかのように、その瞬間、エバの肋骨の中で波打つ感情が凪いだ。
(わたしの、一番大事な、ものは、)
エバは大きく深呼吸をして、その言葉を反芻する。
「何を優先するべきか、その判断を決して誤まるな」
持ち上げた肩をゆっくり落としながら、今度は落ち着いた面持ちでヘビを見返した。
つい先程の動揺が嘘のように、エバの潤いを帯びた瞳から完全に光を失った。
「……そうよね、ヘビさん。あなたの言う通りだね。おかげでようやく目が覚めた気がするわ。だからね、決めたの。わたしね──、」
それはきっと、神に追従するアダムの思いを踏みにじる選択だろう。
それはきっと、禁忌を戒めた神が怒り嘆く禁断の選択だろう。
目の前が真っ赤になるほどの罪深き覚悟でゆっくりと告げた。
「“ ──── “ 」
今度はエバが微笑む番だった。
それを見たヘビは鮮血の双眸に一瞬だけ狂喜の光が灯すが、すぐにいつもの平坦な色に塗り潰しされた。
「それでいい」
ああ。アダム。
こんな時あなたがそばに居てくれたら、わたしは最後まで従順な女でいられたのだろうか。
あなたに触れれば、この胸の中にある罪深き欲望を鎮められただろうか。
ああ。今すぐにでもあなたに会いたい。──わたしが堕ちてしまう前に。
会いたいよ。アダム……。




