9話『拒絶とすれ違いの夜』★
貴方に出会えたことが
まるで奇跡のように嬉しいのに、
今は、そのすべてが悲しいの。
──────。
──。
───────────。
どれほどの時間が経ったのか、わからない。それほどヘビの話に夢中になっていたのだろう。
今日の一連の出来事がまるで夢だったかのように、太陽は引っ込み、静寂が戻った星空の下。
話終えたヘビはあっと言う間にどこかへ行ってしまった。たった一人、その場に取り残されたエバは未だに茫然と立ち竦んでいた。未だに夢の中にいる気分だった。
辺りが霧が立ち込めてきた──と思えば、実際は彼女の目に溜まった涙のせいだと気づく。
滲んでいた視界に、エバはグッと奥歯を噛み締めた。
「エバぁ─────!」
それまで惚けるエバを現実へ引き戻すきっかけとなったのは、遠くから聞こえるアダムが彼女を探す声だった。
(アダム......)
こんな暗くなっても戻っていないのだ。さぞかし心配をかけさせてしまっただろう。
いつものエバなら、なんの躊躇いもなく彼の声に応えただだろう。
だけど、今は正直会いたくない。
さっきまであんなに求めていたアダムに会うことが急に怖くなった。
彼の真実を聞いてしまった後では、どんな顔で、どんな気持ちで彼に接するべきなのか、わからないからだ。
今の自分を彼に見せたくないとさえも思ってしまう。だから、アダムの声に返事する勇気が今は僅かもない。
ザワリと、強い風に吹かれ揺れる草の音が煽るように彼女の心の不安を増幅させた。
(だめ......もう、考えちゃ、だめ......)
徐々に激しく湧き上がる不安を振り払うように、頭を振う。
ぐるぐるとエバの体内に駆け巡る押し潰されそうなほどの暗い感情には気づいていた。ただ、それを処理するための知恵を持ち合わせていないだけで。
(アダム。ごめんなさい......)
内心謝りながらも、重たすぎる感情の恐ろしさから逃れるように、エバはふらふらと近くにある木の下に寄りかかり、息を殺すようにじっとした。
しばらくすると、息切れした声が彼女の鼓膜を打った。
ゆっくりと顔をあげれば、肩で息をするアダムと目が合った。
「はぁ......はぁ......っ、は......っ、エバ!.......っ」
エバを探すために楽園を駆け巡ったのか、胸を大きく上下させれ荒い息をしていた。
呼吸で整えるように上体を折り曲げ、熱で掠れてしまった声音で告げる。
木の下に崩れ落ちるように寄りかかるエバを見て一瞬安堵するも、すぐに青褪めて彼女へ向かって駆けつけて来た。
「ここにいたのかい!?仕事はもう終わっているのだろう?」
こちらに近づくアダムに、思わずエバの体が強張る。
そんな彼女の異変に気づいたのか、アダムはピタリとその場に立ち止まると、優しくゆっくりと声を発した。
「......安心してくれ。......はぁっ、怒ってなどいない。ただ君が心配なんだ」
勝手にいなくなったことで怒られるのではないかと、萎縮するエバの心情に配慮する物言いに、心が罪悪感で悲鳴をあげそうだ。
「もう夜だ。帰ってゆっくり体を休めよう」
律動的な足音が近づき、おそるおそる視線を持ち上げれば、長身を屈めて顔を覗き込むアダムと目が合う。
「さぁ、おいで?一緒に棲家に戻ろう?」
慈しみに溺れた双眸がこちらを見ていた。さらにその口元にも笑みを浮かべている。穏やかで温かい、心から愛おしむような微笑。
──どうして、やさしくするの?
それでもエバはひどく乾いた心地で、アダムを見つめた。隠されたアダムの真実を聞いた前と後では、彼がエバに対する優しさもまた違った印象を受けられる。
(アダム......あなたがわたしにこんなにも優しいのは、きっと)
エバの喉が、ぎゅっと醜い音を立てた。
すごく苦しい。気持ち悪い。
身のうちに吐くものもないというのに、体が何かを噴き出そうと暴れ出す。
「──エバ?何か、あったのか?」
「......どうして、そう思うの?」
「変な顔をしている」
「変な、顔?」
「何故か目が腫れてるし、眉に皺が酔ってる。とても悲しそうだ。それにそんなに強く下唇を噛んではいけない。血が出てしまうよ」
そう言って、アダムはエバの唇を優しく撫でた。
「心配掛けて、ごめんなさい......」
「謝ることなんてないさ。心配するのは当然だろう?だって君はボクの“妻”だから」
「妻......。そう、そうよね。わたしは、あなたの妻だものね」
「エバ?」
「アダム。あのね、明日は何をするの?」
「もちろんいつも通り名付けの仕事に行ってくるさ。まだ出会えていない動物たちがたくさんいるからね」
「そう、だよね。あのね、アダム。明日は出掛けるのをやめない?」
「何故だい?動物たちの名付けは父なる神からから与えられた大事な役目だ。簡単に放棄していいものではないぞ」
「わかっているわ!でも一日くらいはお休みしてもいいじゃないかしら?お父さまだって世界を創り上げて時だって、七日目にお休みになられたって聞いてるわ」
「そう、なのか?」
「ええ!そうよ。それに......」
と、不思議そうに首を傾げるアダムを見つめたまま、エバは瞑目してそう呟く。
彼女はその整った面をわずかに上に傾け、
「そばに、いてほしいの。一日中ずっと。二人でこの楽園で鳥の歌を聴いて、キレイなお花を眺めながら、一日中日光浴をして眠るの。いつもの樫の木の下から二人で眺める夕日だってきっとすばらしいわ」
胸に手を当てて、エバは万感の思いを込めて少し頬を染めながら囁く。
「ね?素敵でしょう?だから、お願い、アダム。一日だけでいいの!わたし、あなたと二人きりでゆっくり過ごしたいの!」
自分の声が必死さを孕んでいることにエバ気づいてしまった。そして彼女の言葉に耳を傾けるアダムにもそれが伝わった。
「ああ、エバ。わたしは男として、夫として、君のかわいいお願いを聞いてあげたい。だが、本当にすまない!それはできないのだ」
その瞬間エバの目に失望の影が走った。そんな彼女の揺らぎが、アダムには手に取るようにわかった。
「エバ。君も知っているだろう?神に無断で、勝手に日課を休む訳にはいかないんだ」
「そう、だよね。仕方ないものね。アダムにとっての一番はお父さまだものね。そして、その次は──、」
エバはハッとなって表情を引き攣らせ一度言葉を切った。すぐに気を取り直したようにして心底悲しげに呟いた。
「いえ、なんでもないわ。わたしはただ、アダムと......もっとたくさんお話して、もっと触れ合って、もっとお互いを知り合いたいだけなのに」
「何をいってるんだい、エバ。オレたちはもう充分お互いを知り合ってるはずさ!なにせ君は、わたしから生まれた。つまり、わたしの一部なのだから」
「そうだけど......、そうだけど!不安なの......!だから、......すごく、苦しいの」
「ゆっくりでいい。何が不安なんだ?思ったことをそのまま言ってくれればいい」
優しく問いかけるアダムに応えるように、エバはゆっくり立ち上がり、彼に歩み寄った。
「......。不安、なの。アダムが......、わたしのこと、大切じゃないのかなって......」
「まさか!そんなはずないだろう!?君はわたしの宝物さ。もちろん大切に決まってるじゃないか!神がわたしに君を与えくれたとき、どんなに嬉しかったことか!神が父としてこの世界で一番にわたしを愛してくれるのをこれほど思い知らされたことはない!」
噛みしめるように、俯くエバにアダムはそう言い切る。根源にある彼女への思いだけは本物だと、それだけはわかってほしかった。
「エバ。君に巡り逢えたあの瞬間、今でも忘れられない。わたしがどんなに心が震えたか!本当に心から神に感謝しているよ」
「......」
そんなアダムの誠実な愛の言葉に妻として、そして女としては間違いなく喜ぶべきであろう。
しかし、エバの顔の陰りは消えるどころか、何故か一層と深まっていく。
「だからこそ!その恩返しのためにも、わたしは神を失望させるようなことはしたくないのだ!申し訳ないが、エバ。明日一日中ずっとは一緒にいられない」
それから一度の瞬きのあとに表情を引き締め、アダムは僅かに前のめりになり、
「その代わりと言ってはなんだが、やるべきことが終わった後はすぐに帰ってくる。......それでは、ダメか?」
「えっとね、」
落ち込んだように目を逸らしたエバは途方もない失意を沈めた言葉を辛うじて飲み込んだ。
口の中も、心もカラカラと乾いていた。心に湧いたモヤには見て見ぬふりをして、がっかりした感情をできる限り抑み、エバは痛みを堪えるように微笑んだ。
「......そう、ね。うん。それがいいわ。ごめんね、アダム。わたし、あなたに無理を......言っちゃった」
諦観したように譲歩したエバに、ふっと口角を緩めたアダムは安堵の色を含んだ声を優しく落とした。
「謝るのはこっちさ!わたしこそ君のお願いを聞けなくてすまない。約束する!明日夕方帰ったら夜寝るまでずっと君のそばにいるよ」
「......ええ。ありがとう。あと、もう一つだけおねがいを言ってもいい?」
「今日のエバは珍しく甘えん坊だな。なんだい?」
エバはその淡い瞳の輝きに憂いの感情をにじませながら、
「今からしばらく一人にさせてくれる?」
「───え?」
その言葉に息を呑むアダムに、エバは顔を持ち上げて上を向きながら、
「せっかく迎えに来てくれたのにごめんね.....?でも、少し気持ちの整理がしたいから」
尻すぼみになって消えそうな声は僅かに震え、湿り気をすら混じっていた。
楽園には常に快適な温度を保っていて、全裸である人でも肌寒さからは完全に免れている。
だから昼夜の寒暖差も存在はしない故に、エバがこのままこの場所に留まっていても体を冷やしたり風邪を引くことはないだろう。だが──、
「それは、......ダメだ。もう夜なんだぞ?今はわたしたちを含め、生き物たちが休むべき時間帯だし、何より真っ暗で視界も悪い。万一それで怪我でもしたら、」
「うん。わかっているの。だからこれはわたしのわがまま。......お願い。今どうしても一人でいたい気分なの」
一人でいたいなんて──まるで自分から離れたいみたいな──そんなこと今まで彼女に言われたことがないアダムは戸惑い、そして逡巡する。
「......そうは言ってもな、ラファエルの言うように、今この楽園で悪魔がどこかに潜んでいるかもしれないんだ。ひとりは危険すぎる」
俯くエバの体に、アダムは遠慮がちに触れようとした。
「だから、戻ろう。エバ──、」
「いやっ!」
バシンッ。と控えめで、乾いた音がその空間に響く。
一瞬何が起こったのか、アダムには分からなかった。いや、分かりたくなかった。
それでも、僅かな熱を帯びた手の痛みがそれが現実だと告げていた。
アダムは、エバに手を払われたのだ。
これまで仲睦まじく、従順であったはずの妻の突然の拒絶に思考が追いつかずにその場で固まってしまった。
そして勢いよく立ち上がり、手を振り払ったエバもまた目を丸くさせて呆然とアダムを見つめていた。
「......エバ?」
呆気にとらわれるアダムの声に、ようやく彼女も自分が何をしたのか気づき顔を青褪めた。
「.....あ。ご、ごめんなさい...!わたしそんな、つもりじゃ」
その反応を見るにおそらく無意識だったのだろう。自分がした行いが信じられないのか、彼女はしばらく呆然の払い除けた手を見つめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。アダム!わたし、あなたを傷つけようとか、そ、そういうのじゃないの、ただ──」
「あ、ああ......わかっているとも、わかってるさ、エバ。大丈夫だから、とりあえず落ち着くんだ」
「......えぇ、本当にごめんなさい。今、わたし結構頭がぐちゃぐちゃしてて、気分がその、そう、悪いの。だから静かになる時間が欲しいから、一人に、させて......」
サーッと目に見えるほどエバの顔から血の気が引いていく。
ボソボソと囁く声は聞き取りにくく、気分が悪いというレベルではないほど彼女は動転していた。
それでもアダムは何も聞けず、これ以上彼女を刺激しないように、この際非常に苦渋の決断ではあるが、潔く引き下がることにした。
「......仕方ない。エバがそこまで言うのなら、先に帰って待ってるさ」
そう言いながらもアダムは踵を返してゆっくりと来た道へと帰っていく。
物理的に遠ざかる距離。そして、それ以上に遠ざかった心の距離がある。
それを感じたアダムは一度立ち止まり振り返った。その顔にはただエバへの心配だけを物語っていた。
「あまり、遅くなるなよ?」
そう短く言い残して、彼は後ろ髪を引かれながらも今度こそ前だけを見て立ち去る。
(今は彼女の望む通り、一人にさせた方が良さそうだ)
アダムはエバの様子がおかしいことに気づいてはいるものの、あえて問い詰めることは避けていた。
本当はエバの気が済むまでそばにいて寄り添っていたい。たくさん彼女を抱きしめてキスをして、全力で慰めたい。
だが今ここで自分の気持ちを無理に押し通してまで引き下がらなければ、大切な彼女が壊れてしまいそうだったから。
(......、わたしはただ怖いだけなんだな)
結局は何より、それで愛おしい彼女に嫌われることが一番恐ろしかった。
(待とう。その時が来れば、エバもきっと話してくれる)
「その時」が、もうすぐ目の前まで迫っているなどと、この時点でアダムは思いもしなかった。
──【エバ】という存在は少しずつ変質してしまったこと。それに気づくことが出来なかったが故に、仕掛けられた運命の歯車は無情に回って加速していく。
◇◇◇◇◇◇◇
(ああ...わたし、何してるんだろう......)
アダムの姿が完全に見えなくなるのを見届けた後、ギリギリの状態で立っていたエバの体は、力が抜け落ちたようにその場に崩れ落ちた。
「わたしって、ほんとうに、ばか......っ」
冷たい夜風、冷たい地面が指先まで冷えた彼女の体をより一層凍らせた。悲しいのか、苦しいのか、虚しいのか、もう自分ですらよくわからなくなった。
「うぅ...っ、う....」
生まれて初めて彼にわがままを言ってしまった自分への不甲斐なさ。そしてアダムを傷つけてしまった罪悪感。
それなのに、どこまでも夫の純粋な優しさに止め処なく涙が溢れ落ちた。
(アダム......ごめんね......ごめんね.......っ)
声に出したらたちまち泣き声に変わりそうで、エバはただひたすらに心の中で何度も何度も謝り続けた。
今の彼女を慰める手はもうこの場にはいない。だってついさっきその手を拒んだのは紛れもないエバ自身だったのだから。
それでも、僅かに痛みを残した右手がそれだけアダムの手を強く叩いてしまったのだと、主張するようにエバを責めた。
「ひっく、......うぅ.......ぁああ、」
ただずっと我慢して飲み込んだ嗚咽が確かな泣き声となって、堰を切ったように静かな夜空に木霊した。
やがて、
「うわぁああ、っ、ぁあああああっ!あぁああぁ......!!!」
堪え切れなくなった慟哭が、世界を揺らしたのだ。
──この日を境に、エバから笑顔が消えた。




