8話『嫉妬』★
──晴れ渡るような青空が、仕事に励むエバの上空に広がっていた。
神より任じられる楽園の仕事は生き物たちの名付けや、土を耕すだけではない。アダムの栽培する農作物のみならず、こうして楽園の地上に多種多様な植物を広め、世話をすることも含まれていた。
そして、この場所で植えられているのは、なにも色鮮やかな花々だけではなかった。花を付ける樹木もそうでない樹木も、同じく分け隔てなく育てられている。
「アダム……やっぱり困らせちゃった、よね」
僅かに申し訳なさを湛えた独り言がエバの口から漏れた。
アダムの反対を押し切って、こうしてエバはひとりこの場所で花の世話という仕事をしていたのだ。
悠然と立ち並ぶ木立が、風に吹かれてざわざわと軽快な音を立てる。楽園の中でもこの場所はエバにとって特別だった。
アダムと運命の出会いを果たせたのもここであったし、それゆえに甘美なる二人きりの時間を過ごす時もよくこの場所を選んでいた。だから、ここには二人の思い出がたくさん詰まっている。
『君たちに危険が迫っている。ルシファーが人類の堕落を目論んでいるのだよ』
その温かな記憶を上書きするように蘇るラファエルの氷塊じみた響きの警告。
エバが罪の悪夢に苛まれたあの日。その後『憩いの森』で控えていたラファエルをアダムと二人でおもてなしをしたのだ。
ラファエルの用件を要約するとこうだ。
全知全能の神が人類の堕落を策動する悪魔の存在を見通していて、それがこのエデンの楽園に潜んでいるとのこと。
よって、その悪魔に誘惑されないように──人に戒めを伝えることをラファエルに命じたらしい。ラファエルはそれに従い、遠路遥々(えんろはるばる)天界より楽園の地上に暮らすアダムとエバを訪ねてきたわけだ。
注意喚起の一環としてラファエルが二人に物語るのは──堕天された魔王ルシファーが神への復讐として、人類を堕落させようと企んでいること。
その魔王の正体がかつて自分たち人を憎む熾天使ルシフェルであったこと。
堕天以前のルシフェルが天国で巻き起こした反乱の模様を含めた背景。
熱心に相槌を打ちながら聞き入るアダムとは対照に、エバにとってはどこか他人事で、上の空だった。
最後には──、
「父なる神が君達ヒトに求めるは心の底からの奉仕で、神への服従心を持ち続けることなのだよ」
芯まで冷えるようなラファエルの訓戒が、頭の後ろで撹拌する。
「アダム。エバ。くれぐれも用心したまえ。決して悪魔の誘惑に屈してはいけないのだよ」
◇◆◇◆◇
(この楽園に悪魔……お父さまの話を信じていない訳ではないけど、)
正直な話、神の予見も、それより仰せつかったラファエルの忠告も、エバには半信半疑だった。この楽園の平穏を脅かす恐ろしい悪魔の存在にはいまいち実感が湧いてこないのだ。
「でも、……アダムはすっかり信じているのよね」
一方でラファエルの忠告が功を奏したのか、悪魔の脅威からエバを守るためにアダムは彼女から離れないように努めた。
(アダムってば、あれから少し過保護になっているもの)
だから今日、エバがこうして単独行動を取るのを、最初はひどく反対されたのだ。それでも、エバが無理にお願いした結果、エバにはとことん甘いアダムは渋々ながらもそれを承諾した。
建前上「手分けして違う仕事した方が効率的」と尤もらしい事を言ってアダムを説得したものの、実として「ひとりでいたい」というのがエバの本音だった。
(せっかくアダムと仲直りしたのに、どうしてこんなにもモヤモヤしているんだろう……)
あの悪夢への恐怖心は日が経つにつれて薄まっていった。しかし、夢の最後に映るアダムと他の女との場面が頭に浮かぶ度に、肋骨の中にどろりと濁った何かが広がる。
自分が心無い醜悪な生き物になったような気がして、エバはなぜか涙が出そうだった。
そう。今の彼女にとって、悪魔の存在なんて警戒するどころではなかった。なにせこの頃余裕のないエバはずっと自分の心の整理で精一杯なのだから。
しかし、どれだけ頭を捻ったとしても自力でその感情の正体を突き止められず、現に今もこうして翻弄される日々を送っている。
──もうこれ以上、考えるのはやめよう。
手に余る思考にすっかり疲弊しながらも、白い入道雲の浮かぶ碧落を仰いだ。こんな沈む気持ちでは花を愛でるような気分にはなれなかった。今は何を見たところで明るい気持ちになれるはずもない。
今日の仕事はこの辺りで済ませて休憩しようと思ったところで、視界の端に赤の物影が差し込んだ。
ちらと、座った姿勢のまま軽く首をもたげてその方向を確認──エバから数メートルの位置に、大きな岩の上で赤いヘビがとぐろを巻いて眠っていた。
(あ……)
エバはゆっくりと起き上がり、その岩のそばに寄りかかった。
「さすがに起こすのは良くないよね……」
せっかく気持ち良く眠っているのをわざわざ起こすのも憚る。そう逡巡しているうちに、眠っていると思っていた赤いヘビの眼は見開かれていた。
「エバか」
そう呟いただけで、すぐに目を閉じた。どうやら瞑想しているだけらしい。
「こんにちは」
「久しぶりではないか」
「うん……ヘビさんは元気?」
「見ての通り。悠々と過ごしている」
「そっか」
「うぬは……、何かあったようだな」
「え?」
「どこかスッキリしない顔をしている」
「あ……」
目敏くヘビに指摘されたエバは、思わず自分の顔の両手を当てた。
「吾輩に用があって、わざわざ寄ってきたのだろう?」
「あのね、実は……」
そうヘビから促されて、エバは意を決して口を開いた。
奇妙な夢のこと。
アダムと和解したこと。
アダムに寄り添うもう一人の謎の「女」のこと。
そして、最後にその時に体験した奇妙な感情について、
「それが一体何なのか、知恵のあるヘビさんなら分かると思って…..、」
「率直に教えよう。それは【嫉妬】と言う感情だ」
「“しっと”……?」
さすがに敏いヘビらしく即答だった。エバはゆっくり噛み締めるようにその感情の正体を反芻した。
「こんな気持ち悪い感情、きっと良くないことよね?」
「必ずしもそうとは限らない」
「──?」
エバは困惑を示すように首を傾げれば、今度は数回かぶりを振った。
「どうして?だって、こんなにもモヤモヤして、その、……ごめんなさい。自分でもどう言えばいいのかわからないの」
「それはうぬがアダムを愛している証拠でもある。でなければ嫉妬なんてものはしない」
「そう、なんだ。わたしがアダムのこと好きでいるほど、同時にあの女のヒトがアダムと親しくするところを思い出す度すごく、心が痛くなる。幸せなのに、苦しい!この“嫉妬”って言う感情ってごちゃごちゃしててとても難しいわ」
「そう感じるのは今のうぬが物事を極端でしか考えられないからだ。物事はすべて黒か白、そう簡単に決まる訳ではない。どんなものにも二面性というものがあるのだからな。──だが!」
そこで揚々と尻尾を持ち上げ、赤いヘビは見えない希望を手にしているような仕草を見せる。
「知恵の実さえ食べれば、それも簡単に理解できるようになるとも!そうすればさらなる多様な考えもすることができ、その嫉妬という感情にもうまく向き合うことができ、もうそんなに思い悩む必要もなくなるだろう」
「またそれなの?【知恵の実】を食べる……もうそれしかないのかしら……」
エバは複雑そうな表情で黙ってしまった。以前の彼女なら有無言わずにヘビの提案を拒否したのであろう。
彼女はそれまでなんの疑いもなく、神とそして夫のアダムには従順だったから。
だが、今の彼女はどうか。
神の言いつけを従順に守るか。
言いつけを破って知恵を身につけるか。
そんな善と悪の天秤に揺られる── そもそも天秤にかけるべきではないというのに──葛藤する彼女の心を、ヘビはただじっと見つめている。
「……なるほどな」
「え?ヘビさん、なぁに?」
呟いたヘビの双眸はエバの内情に気づいたように鋭く細くなる。何かを探ろうとする視線にエバの身体はたちまち張り詰めた。
「うぬがなぜそのような夢を見たか、分かるか?」
それは質問というより、確信を込めた確認だった。
「教えてやろう。それはうぬの心に潜む“内なる欲望”のせいだ」
「内なる、欲望?」
「うぬは、【夢】とはなんだと思う」
「えっと、寝る時に見る……現実ではないもの……?」
「ああ。間違いではないが、完全なる正解でもない。」
「…….そうなの?」
瞠目するエバをよそに、間断なくヘビは説明を加えた。
「夢にはさまざまな可能性に満ちている。うぬの見た夢の場合は、“内なるなる欲望の表れ”でもあるのだ」
「内なる、欲望?」
「本人ですら気づいていない、隠された望みだ」
ヘビは一旦言葉を切って、エバを真っ直ぐに見据えた。なんとなく、嫌な予感嫌な予感がした。
何か分かりかけているようで、けれど同時に分かってはいけないような気がしたからだ。
エバは身構える間もなく、ヘビからは真実味を帯びた言葉が淡々と放たれる。
「うぬには──“知恵の実”を食べてみたい、という欲望がある」
「そんなことない!!!」
まるで血を吐くような痛い悲鳴が楽園の空気を裂くようにヘビの言葉の余韻を掻き消した。
だが動じないヘビは静かにエバを見つめた。彼女の顔はひどく強張って動揺していた。
「だから、内なる欲望と言っただろう。うぬが無自覚なだけだ。出会ってから吾輩の言葉に感化されたのか、あるいは元からその罪深い欲望を持ち合わせているものなのかは知らぬがな」
ぶっきらぼうな口調で言ったそんなヘビとは対照的に、エバは内心ひどく狼狽していた。
「ない、ない!そんな望みなんて持ってない!」
「そうやって変にムキになるのが図星である証拠だ」
「っ、」
「エバ。とぼけても無駄だ。アダムを誤魔化せても、吾輩にはお見通しだ」
問い詰めるかの口振りにエバはたじろぐ。心の底まで何もかも見透かすような蛇の深紅の瞳から思わず勢い良く目を背けた。
「……そん、な、はず……っ!」
声が震えるのを止められない。
それでも、否定せずにはいられない。いや、否定しなければないらない。
「ち、知恵の実は食べてはいけないって禁止されてるの!そんなことをすれば、っ!、お父さまはきっと怒るし、……アダムだって悲しむの……!だからぁ……っ、」
身体のどこかで絡まったように、声がうまく出ない。
自分を落ち着かせるように数回呼吸を繰り返して、エバはゆっくりとはっきりと言葉を紡ぐ。
「──だから、そんなこと思う訳ないわ!」
「神に誓って、か?」
「……ぅ、」
「神に誓って」。すかさずにそれを突きつけられると、エバははっとして言葉に詰まる。
「それ、は……」
何かを言いかけた声音は尻すぼみになり、あっという間に途切れる。今度こそ二の句の継げないエバに、隙を逃さずヘビが畳みかけてきた。
「“そんな恐ろしいことを思ってはいけない”──確かにうぬの理性はそう訴えているだろう。だが本能はどうだ?考えれば考えるほど、己の欲望から目を逸らすことができなくなった」
「──ッ」
「そしてその欲望は増すばかり。だからあんな夢を見たのだろう」
細い針にも似た小さく鋭いものが無数に込められた言葉と態度に、いよいよエバは閉口した。
だがそれでも早く何かを言わなければの気持ちだけが急ぐ。肯定の意味を持つ沈黙を作ることだけは避けたい。それだけは理解したから。
「た、たとえ、そうでも!わたしは【知恵の実】を食べたりしないもの!確かに知恵を得られたら、この嫉妬の感情をなんとかできるかもしれないっ、でもっ!やっぱり、いいの!」
一瞬声を詰まらせたエバは、しかしすぐに首を左右に振った。後ろめたいことは何ひとつ無いのに、なぜか不安な気持ちばかりが募る。
それを度々感じてしまうこの頃、自分でも理解し難い感情が余計に苦しかった。
「だって、アダムは嫌がってたの!お父さまの言いつけを破ることをしないようにって……っ、それをわたしの身勝手な望みで裏切ってしまうのはあんまりだわ!」
罪悪感の滲む瞳を深く伏せると、エバは自らに言い聞かせるように訥々と告げる。
「アダムが嫌がるから、うぬは自分の願いを諦めるのか」
「そうよ。だって、お父さまが言ってたもの!」
──“女は男によく付き従うように”、と。
「はぁ……、またそうやって己の意思を殺して、なんでも神の、そして男の言いなりになることを選ぶんだな」
「お父さまの言う通りにすれば幸せは約束されるし、何も困ることなんてないのよ。それだけじゃないの!わたしね、この前改めて気づいたのよ。わたしはアダムは好き。たとえお父さまの命令がなくても、わたしは心の底から彼を愛してるの。アダムさえいればそれでいいって、彼さえずっとそばにいてくれたら、わたしはもう、ほかには何もいらないの」
「つまらない女だな」
「!」
吐き捨てるように言って、ヘビは初めて短い言葉で端的に評する。
(……つまら、ない….)
その侮蔑の視線の先には、エバのみを捉えた。
「うぬのそれはきちんと自分で考えた意見といえば聞こえはいいが、吾輩からすればただの“現実逃避“だ」
ヘビはこちらを一瞥もせずに早口に吐き捨てた。強く否定されたそこには僅かな苛立ちを孕んでいて、エバはピクリと体が跳ねた。
「何も考えずにただ言われるがまま従順に夫に尽くせばいい。うぬはそれで良妻のつもりか?とんでもない!──結局は、厳しい現実から目を背け、己の意思や選択を他者に委ねているだけの付属品だ」
痛いところを突かれた彼女の唇をピッタリと閉じた。もう何も返す言葉はなくて。
少なくともこのヘビの言うことはいつだって正論であると思い知らされたから。
何を言ってもすべてこの知恵を持った賢いヘビに言い負かされると。──それを理解した瞬間になんとも言えない脱力感が湧いてしまう。知恵がなくとも、何も感じぬほど鈍感でもないのだ。
そんなエバに、ヘビは尚も批判を浴びせる。
「知性も己の芯を持たぬ、そんな変化を感じらない女に、男なんてすぐに飽きる」
「……飽きる?」
「“好きじゃなくなる”ということだ」
「……っ!」
追い打ちをかけるその説明に眩暈を覚える。
──アダムがエバを好きではなくなる。
そんなこの世のどんなものよりも恐ろしいこと、考えてもいなかった。想像する前にすでにズキンッとエバは自分の心が深く抉られるような感覚に襲われていた。
「うぬは“あの女”とは正反対だ。嘆かわしいほどな」
いやいやと首を横に振るヘビはそこで言い聞かせるようにエバと視線を合わせる。そして。蔑んだ目つきのまま、鼻で笑われた。
だが、そんなヘビの無作法よりも、その言葉に含まれたある単語が衝撃的だった。
「──あの、女?」
心臓が大きく脈打つ。心拍数が急上昇し、手のひらにうっすらと汗が滲んだ。
ひどい息苦しさに襲われ、またしてもあの混濁した感情が瞬く間に渦を成す。
まただ。このモヤモヤとした気持ち。
自分以外にも人類の“女”が存在する。それがいつだってざわざわとエバの心を騒がせる。これがまさに「嫉妬」という感情なのか。
そんなエバの様子を意に介さず、エバは言葉を続けた。
「聞いた時は驚いたさ。神に覆い隠された存在。本来であれば誰しもが知るはずもない。それもよりにもよって気づいたのがうぬだとはな」
「なに、なんのこと…?」
「夢は単なる幻想ではない。時には実在するものを映し出す鏡でもある。うぬが夢で見た女とて、単なる虚像とは限らぬ──」
全ての感情が消え失せたような無機質な声音ではっきりと告げた。
「つまり、うぬの夢の女は“実在する”ということだ」
「え……?実在、する……?」
ヘビの言葉を噛み砕くために、数秒の時間を要した。それがようやく消化できた頃には無意識のうちに、焦燥混じりの唖然の声がエバの乾いた唇からこぼれ落ちていた。
「……本当に、存在するって、こと?」
「ああ。だが、そんなうぬがあの女の夢なんぞ見るのも何かの縁かもしれんな。あるいは性悪な誰かの戯れか」
「もう何がなんだか…っ、ヘビさん!ねぇ!なんのお話なの!?夢の女のヒトはわたしと……いえ、アダムと何か関係があるの!?」
「いいのか?これを話してしまえば、少なくともうぬは今まで通りではいられなくなる。最悪の場合、何もかもが壊れしまうことだってある」
にんまりと笑んでいる赤いヘビに焦点を移動させると、僅かに意地悪を込めた言葉が鼓膜を叩いた。
「単なる好奇心で知っていいことではない。それでも、聞きたいか?アダムのすべてを、知りたいか?──うぬに、それだけの覚悟はあるのか?」
「わたし、は……、その、」
催促するような鋭い視線に怯みながらも、エバは口の中で躊躇うように何度か呟いてから、意を決して顔を持ち上げた。
「教えてほしい。わたしは……知りたい。それで今わたしの心にあるこの“嫉妬”がどうにかなるなら」
「うぬが話をどう受け止めるか次第だが、必ずしもその嫉妬という感情から解放されるとは限らぬぞ?事と次第によっては更なる感情の増幅にも繋がる」
「それでも……!わたしの知らないアダムがいるのは、不安で仕方ないの……っ」
「そうか。では一つ約束しろ」
「約束?」
ヘビは一呼吸置いて、鋭くエバの目を見据えた。
「今から吾輩が話すことは決して他言無用。アダムにも、もちろん神にもだ。何があっても、な。──約束できるか?」
ざわりと、冷たい風が吹いて、周りの木々が激しく騒々と囁き合う。
聞いてはダメ!とエバの本能が警報のように叫んでいる。
──叫んでいるのに、
「……約束、するわ」
それでもアダムをもっと知りたい好奇心と、アダムを失いたくない危機感の方が優っていた。真実を求めるエバの女としての渇望が己の自制心を鎮めた。
彼女が決意を込めて頷いた時には、ヘビは長い肢体を最大限に伸ばして彼女の眼前まで肉薄した。
「いい覚悟だ。いいか。吾輩が今からうぬに語るのは───」
血のような真っ赤な双眸が瞠目するエバの姿を映した瞬間、悪意の色を帯び始める。
「アダムに隠された真実、だ」




