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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【承】〜失楽園〜
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7話『目覚めの和解』★



............ェバ......!



 切迫した響きを帯びた声が、意識の深い淵に陥っていた彼女の意識を今まさに引き上げようとしていた。


 ............エバ!



 またあの恐ろしい声かと思ったけれど、二度三度と肩を揺すって声をかけ続けられると徐々に警戒心も解ける。




        なぜなら、この声は──。












 







      

「──エバ!起きてくれ!」

 


 鈍のように重い目蓋をゆっくりと少しずつ押し上げる。眠気がたっぷり含んだ眼球、穏やかなで優しい陽射しが容赦なく突き刺さった。



(アダムが、呼んでる......)



 それでも、瞼の向こう側にいる愛おしい彼を早くこの目に映すために、エバは陽の眩しさを堪えるように懸命に目蓋を持ち上げた。



「エバ!大丈夫かい!?」

挿絵(By みてみん)

 焦燥に駆られた様子でこちらを見下ろす黄金の瞳と視線が深く絡んだ瞬間、夢はもう既に輪郭を失い、霧散した。


 視線を落とせば、逞しくて大きな片手が彼女の頬を包み込み、その指で涙を拭っていた。エバは自分を見下ろすアダムに鼻先を向け、ひどく心配そうな彼の顔をじっと見つめた。


 


「アダ、ム......?」



 エバは寝起き特有の少し掠れた声で彼の名を呼ぶ。



「ああ!よかった、エバ!ひどく(うな)されていたから起こしたのだ!」

 

 エバの呼吸は浅く、冷や汗をかいて、顔色もかなり青ざめていた。瞬きをすれば、彼女の目尻には透明な涙が次から次へと流れ落ちていく。

 

 彼女は目覚めたことにより少しだけそれが緩和したのを確認し、アダムの切れ長の双眸に安堵の色が淡く滲む。




「......夢、なのよね?」


「ああ。お前は今ちゃんと現実にいる」


「ぁ、......ああ!夢でよかったわ!」



 エバは大きく息を吐いた。芯から疲弊しきった様子だったが、それでも彼女はアダムを見上げて弱々しく微笑んだ。



「あのまま起こされなかったら、自分でもどうにかなってしまいそうだわ......」


「可哀想に。泣いてしまうほど怖い夢を見たのだな?」



 アダムの質問を聞いたエバはためらいを過分に含んだ唇を小さく開いた。




「あ......、あのね......」






      ◇◇◇◇◇◇◇





 エバは自分が見た奇妙な夢の話を全てアダムに打ち明けた。


 とはいえ、夢の最後に見たアダムと謎の女については触れなかった。隠すつもりではないが、なんとなく話す気にはなれなかった。



「......そうか。謎の天使に無理やり【知恵の実】を食わされた......これはまた随分とわけわからん夢だな?」


「わたしって悪い子だわ。夢の中とはいえ、お父さまが禁じた【知恵の実】を口にしてしまったもの」



 憔悴しきったエバの様子に痛ましさを覚えながらも、アダムは彼女の罪悪感を強く否定した。



「大丈夫さ、エバ。所詮夢だ、現実ではない。......だから、あまり気に病むな」


「でも......っ!」


「悪い夢を見るのは心に疲れや圧力がある証拠だと、ラファエル先生も言っていたさ」


「ラファエル、が?」


「あぁ......。実はラファエル先生が今朝(けさ)早くに天界からこの楽園へ訪れてくれたんだ。エバがなかなか起きないから、起きるまで先生が配慮して一旦この場を離れてくれたんだ」




 唐突に飛び出した七大天使(セブンズ)の名前に、エバは不思議そうに首を傾げる。それを見たアダムがすぐに補足を加えた。



「それだけならわたしもそのまま君を寝かしておいてあげたかったのだが......なんか、すごく苦しそうだったから......見ていられなくて、だから、少し手荒に起こすことにしたのだ。痛かったらすまない」



 実際、(うな)されるエバを見つけたときのアダムの衝撃は筆舌に尽くし難い。腕の中で眠るエバの額には尋常ではない汗を浮かせて、涙さえ(たた)えながらもひどく苦しそうな寝顔で身を(よじ)っていた。


 だから意識の外からの呼びかけることでしかその辛さから早々に逃れる唯一の手段である──と思い、それを行使したアダムに、エバは「ううん」と首を横に振って、



「起こしてくれて、ありがとう。ちょっと……ううん、とても、怖かったから……すごく、助かったの」



 それから気を取り直すようにエバは首を振り、それでもは痛ましげな表情は変わらずで、目を伏せた。



「......心配かけてごめんなさい。それとラファエルにも気を遣わせちゃった。あとで謝らなきゃ.......」


「ああ。エバはもう少し落ち着いてから後で一緒に顔を見せに行こう」


「うん......」


「────」


「────」



 隣り合って座ったまま、しばしの沈黙が二人の間に落ちる。


 アダムは気長にエバの言葉を待ち、エバはそんな姿勢のアダムの横顔を見つめながら、若干唇を震わせて、



「......その、アダムは、夢を見たことある.......?」



 無言でいられるより、喋っている方が気が紛れて気分が楽になる。アダムもそれを察したのか、なるべく平然を装って答える。



「うむ.......どうなんだろうな?見たような気もするが、目覚めるとすぐに忘れてしまうから。なかなか夢見の実感が湧かないな」


「そうなんだ......、わたしは、むしろ逆」



 弱々しい声を漏らし、エバは、ぎゅっと強く目をつぶって下を向き、



「目覚めた後でも.......っ、こうして今も、夢の中での嫌なことがずっとはっきりと覚えているもの......!」


「気にするな。最近のエバはどうも様子がおかしかったからな。おそらくそれで嫌な夢を見てしまっただけだろう」



 不安そうに自分の体を掻き抱くエバの前で、アダムは気楽な様子で肩を竦めてみせる。どうってことはないと、その不安を蹴飛ばすように。



「え?わたしの様子って、」


「わたしが気づいていないとでも思ったかな?最近の君は妙にわたしのこと避けてるだろう」


「あ......、それは、」



 普段は鈍感な癖に、こういう時だけ妙に察しがいいのは正直ずるいと、エバは思った。



「エバから距離取られて、こう見えてわたしはすっっごく悲しかったのだぞ!だだ無理してエバに問い(ただ)すのは(しょう)に合わんでな」



 それは決して責めるような口振りではなかった。ただエバに気を遣わせないようにどこか茶目っ気が込められた口調。アダムなりにエバとの距離を測ろうとしてくれたのかもしれない。

 視線を落としたエバの伏せられた長い睫毛が色濃い影を作った。



「......」


「と言ってもその結果、君はますます何かに追い込まれて苦しそうだ」


「.......っ」


「......わたしには話せないことなのか?」


「ごめんなさい......アダム」



 途端に、エバは苦虫を噛んだような顔を見せる。その瞳を揺蕩(たゆた)う感情は、今は呑み込まれそうなほどに混迷を極めている。いずれも、エバが見せるものとしては珍しい──あるいは、アダムも初めて目にするかもしれない。



「うむ。言いたくないのなら無理しなくていい。それに、謝るのはわたしの方だ。.......最近動物たちに構ってばかりで、正直君のこと疎かにしていたところがあるからな。本当にすまんかった。エバ」


「そんなっ!わたしが......っ!勝手にあなたを避けただけで......っ」



 納得いかない、とばかりにエバは立ち上がって言い募ろうとする。が、まだ悪夢の戦慄(せんりつ)が抜けきれないのか、起き上がろうとしても力が入らず、震える体を支え切れずにその場に倒れ込みそうになる。

 と、その崩れ落ちる彼女の体をアダムが慌てて支え、



「君が何をそんなに悩んでいるのか、とりあえず今は何も聞かないことにするさ。だけど、一人で抱え込むのはやめてくれ。君の笑顔を苦悩で曇らせないでほしい。辛そうなエバを見るとわたしも辛いのだ」



 柔らかな口調で紡がれる思いがエバの鼓膜を優しく震わせた。

 エバの心に土足で踏み入るつもりはないと告げるようなアダムからの思いやりが心にじわりと滲んだ。


 確かな優しさの温かみがそこにあった。



「アダム......」



 アダムにほんの少しでも心の壁を作ってしまったエバは己を恥じた。



 (本当にわたしってばか、)


 

 アダムはいつだって寛容的で、自分に心まで寄り添ってくれるのに。なぜそんな彼を一時的にとはいえ、避けてしまったのだろう。

 アダムが自分以外の“女”と仲良くしている──そんなおぞましい夢を見てしまったのは、きっとそんな彼を傷つけてしまったエバへの罰かもしれない。


 芽吹いた罪悪感に声を詰まらせたエバの身体を、アダムは慰めるようにそっと抱き締めた。



「だから、エバ。これから何かあったらわたしに頼ってほしい」


「アダムに?」


「ああ。心配するな。たとえこの先どんなことがあってもわたしはエバを見捨てない!ずっとエバの味方だ」


「......ほんと?何があっても、ずっとわたしのそばにいてくれる?」


「当たり前だろう!」



 アダムは爽やかに即答した。きっと一片の嘘も誤魔化しもない、紛れもない彼の本心なのだろう。

 しかし、あの悪夢の最後の場面がエバを簡単に納得させてくれない。



 自分以外のヒトの女に、微笑みかけるアダムの姿が、脳に焼きつく──



 肋骨の中にどろりと濁った何かが広がる。自分が心無い醜悪な生き物になったような気がした。

 決して良いものではないであろうその感情を(すく)い取られることを嫌うように、とはいえ完全に押し込めるほどの知性がある訳でもなく、視線をそらすエバはアダムに見えないように唇を尖らせて、



「......わたし以外の女の(ヒト)と仲良くなっても?」


「む?」



 しまった!と思った時には既に遅く。気がつけば黒い感情の残滓が声という形となって、エバの口からこぼれ落ちていた。




「アッハハハハ!おかしなことを言うなぁ!この世界の女なんてエバしかいないだろう?」


「え、えっと、もしものお話よ?」



  

 苦笑をするアダムの表情を見て、自分の失言を後悔し、エバはすぐに慌てて取り繕い始めた。




「あはは!そうか!まぁもしエバ以外の女を、神が作ってくださったとしても、わたしにはエバだけさ。だってわたしたちは互いを助け合うための生まれてきた。違うか?」



 が、そんなアダムの答えは、エバの秘めた懸念とは少しばかり要点が違ったが、そこに宿る誠実さも優しさも決して偽りはなかった。だから、



「違く、ない。お父さまもそう言ってたもの、それを強く望んでいる」



 迷いを振り切るように目をつむり、エバは泣きそうな笑みをアダムに向け、そして小さく頷いた。




「ああ!わたしたちはそのための夫婦だろう」


「うん。......素敵だね!これからは何かあったらアダムに頼るようにしてみる」


「ハハハ!こりゃ頼もしいところの見せ所だな!」



 片目をつむって口の端を歪めてやると、アダムは茶目っ気たっぷりに言い放つ。それにエバもつられたように笑った。



「ありがとう......アダム」



 アダムのお陰で、エバの心はようやく少し穏やかさを取り戻していた。その両眼からは一つの涙が静かに滴り落ちた。



「あれ.......、おかしいな。やっと涙が止まったと思ったのに、」



 慌ててそれを手で拭い去ったが、なおもその澄んだ目には、今にも堰を切って落ちそうな涙の粒がまた溢れ出ようとした。

 それがまた零れ落ちる寸前、アダムは唇でそれを拭う。



「泣くな。エバ。君に涙なんて似合わない」



 涙は、罪を犯した後悔と畏怖を示す美しい印──それを受け止めてくれたアダムに、エバは癒されたと同時に、ますます彼への愛情が深まるばかりだった。


 夢では流しっぱなしの涙だったけど、現実ではアダムこうして受け止めてくれた。

 一瞬、またあの夢の最後に見た光景が脳裏に過ぎるけれど、エバもうそれを気にしないことにした。



「よし!元気になってくれたようで何よりだぞ!どうだ?これから一緒に花畑へ行って、新たな仕事に取り掛かろう!」


「まぁ!新しいお仕事?」


「そうだ!神が先日あそこの広い草原に花を植える仕事を与えてくれたのだ!エバは花が好きだろう?二人でたくさんの綺麗な花を育てよう!」


「ええ!」



 爽快な朝の空気と咲き匂う草木を掻き分けながら、二人は晴れた心に導かれるまま野原へ走った。

 もう彼らの胸には、揺らぎなき平和といつも通りの平穏が宿っていた。


 なのだが、



「おっと!危うく忘れるところだった!その前にまずはラファエル先生のところに行かなくては!」


「あら!ほんと!わたしったら......」


「アッハハ!つい張り切ってしまったな!さすがにラファエル先生の小言は勘弁したいものだ。わたしとしたことが!危ない危ないっ!」


「そういえば......、どうしてラファエルが楽園に来ているの?」


「うむ。なにやら大事な要件で来たとのことだ。だからわたしとエバが二人揃うまで、わざわざ待ってくれている」



 アダムはエバと向き合うと、楽園の北の森を示し、



「確か、あそこの方向の【憩いの森】にて待機するとか言ってたな」


「そう......、ラファエル忙しいのに、わざわざわたしたちを訪ねる大事な要件でなんだろうね」


「ああ、そうだな。あまり長く待たせるとさすがに良くないから早くいこうか。──ほら、エバ」


「?」



 ふと、アダムはエバに手を差し出した。



「手、最近繋いでいないだろう?」


「──!うん!」



 アダムは無邪気に笑った。

 エバは頬を赤らめながら彼の手を取ったのであった───。



 新鮮な空気の匂いに、微かに揺蕩う互いの残り香がした。


 アダムとエバは二人の距離が、今までよりもさらに近付いたような気がした。




  『運命からは逃れられぬぞ。女ァ』




 あの罪なる悪夢で浴びせられた悪意の嗤いが、今だにエバの耳の奥でわんわんと鳴り響いているのを気づかぬフリをして。






      ◇◇◇◇◇◇◇





「......やれやれ。もう少しだったんだがな」



 その真っ赤な姿が遠目になぞるのは、共に歩んでいる裸な男女のヒトの姿だった。



「あの忌々しい()め。最後に余計なことをしおって......」



 想定外のことに、それは苛立ちを(うな)りで吐き出している。

 「女」という言葉を口にしても、その視線は遠くにいる女のエバではなく、今頃地獄の深淵で優越感に浸っているであろう女に殺意を飛ばしていた。



「はぁ......まぁよい。ともあれ、布石(ふせき)は既に打ってある」



 そう零して、森に紛れ消えていく二つの背中を最後まで追い続ける。



「もうこの際だ。あの女が仕掛けた夢騒がしもこれからの計画にうまく利用させてもらうとしよう。ククク......」




 そんな含み笑った声を掻き消すように、一筋の冷たい風が通り響く。




「──さて、そろそろ茶番は終わりとするか」



 軽やかなステップを踏む(からだ)はその場でぐるりと不吉な線を描いた。



 やがてその姿はまるで蜃気楼(しんきろう)のように、スッと音無く消えていったのだ。

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