6話『罪の悪夢』★
闇。
暗い闇。
さやさやと闇が蠢いている。
(──ここ、は?)
一面あたりの闇。
気がつけば、エバはそれに包まれていた。
自分の手足が何処に行ったかもわからないほどの真の闇の中で、自分に何が起こったのかわからない彼女はしばらくその場で茫然と立ち竦んでいた。
「──エバ。外へ散歩しないか?」
彼女の耳元で誰かが優しく誘うように囁いた。
意識を甘く爛れさせる囁き。
初めはそれをアダムの声だと思った。だけど似ているようで違う。
「さあ、起きて。エバ」
そこで、ようやく気づいた。
闇の世界に身を沈んでいるのは、自分の目が閉じているだけなのだと。
「──おいで」
その優しい声に導かれ、エバは恐る恐る自分の目をゆっくりと開いた。
「う......うーん......」
目の前にあるのは、草と土だった。
静かな空気をひっそりと通る微かな風の音。
女──エバはのろりと立ち上がり辺りを見回した。
(いつの間に夜になったのかしら......?)
楽園の夜は静かだ。
深い夜の匂いが充満しているものの、広大な森林の草むらには影一つもない。
空を仰げばすぐに目に飛び込んだのは大きな満月だった。
無数の星々を飾る広大な夜空に君臨していた──陽光よりもさらに快い月光は穏やかにエバを降り注いだ。
一体、いつから寝ていたのだろうか。
頭に靄がかかったようにぼんやりとしている。自分の身体でないような、ふわふわと浮かんでいるような。
考えようとするとこめかみに激痛が走る。
すると、
「エバ」
背後から名前を呼ばれた。
(あの声だわ)
エバはあたりをキョロキョロと見回し、自分を呼び起こしたであろう声の姿を探していた。
しかし、近くにそれらしい物影が見当たらない。
(......そういえば、アダムは?......どこ......?)
いつも自分の隣に添い寝してくれるアダムがいない。そう思った途端、彼女はたちまち朧気な意識が吹っ飛びすぐに歩き出した。
こんな不安な気持ちを抱えたまま、いつまでもここにはいられない。
大きな樫の木を横切って、エバはアダムの無事を求めて森の中へ飛び込んだ。
風が草を揺らす音すら聞こえないほど静寂な世界の中、大地を踏み締める音だけをひたすらに響かせ、歩き続けるエバ。
いつも見慣れた楽園の道なのに、まるで複雑な迷路を踏み込む感覚に襲われた。
しかし、何かに吸いつけられるように、目的地もないまま、足だけが自分の意志に反して動いていく。だからエバは引き返す気はなかった。
そのまま独りでいろんな道を辿った。
あの道。この道。
そばにいない男の姿を求めて。
「アダム......どこに行っちゃったの......?」
とても心細くなりながら歩いていた時だった。
(あれは......?)
前方に赤い何かが見えてきたのに気づいた。エバは顔色を明るくして走り出した。
坂道を駆けあがり、草道を走り少し高い丘へと、
「あ......!」
やがて見えてきた輪郭に辿り着いた途端、エバは声を上げようとしたが、目の前の異質な雰囲気に声を失った。
彼女を立ちはだかるのは──、
巨大な木だった。
「──!これって知恵の木よね?どうしてここに......?」
エバはすぐにそれが神に禁じられたあの知恵の木だと気づいた。
近づくにつれ、彼女の歩調がどんどんゆっくりとなっていく。あれだけ止まることを知らなかった足をその場に留まらせた。
ゆっくりと仰げば、知恵の木に垂れ下がる果実の姿形がよく見える。
ここがあの唯一神が禁止られた場所だと思えば背徳感ゆえか、背筋がゾクゾクしてきた。
触れることも近づくことすらも禁じられたエバにはいつも遠くからでしかそれらを見ることを許されていない。
(──間近で見ると、さらに美しく見えるわぁ)
だからこうして間近で知恵の木を目にできるのは彼女にとってはとても新鮮で、感慨深かった。
夜から生まれたそよ風が優しく駆けていき、エバの頬を撫でると、幾筋かの白銀の髪が薄く開いた唇にかかった。
楽園の夜に知恵の木を見ることがなかった。だからこそ、エバは感じた。──陽光に包まれる昼よりも、月光を浴びった時の知恵の木のがより一層に美しく神秘的だと。
まさに、現実感の遠のいた、何処か夢見るような情景だった。
心惹かれた彼女はついに、無意識のうちへと手が伸びる──......
ザッ......
(......!誰か、いるの?)
まるでエバの行動を遮るかのように誰かの足音が聞こえた。もしやアダムかと思い足音がする方へ視線を投げれば、
──天、使?
知恵の木の傍らには、天から遣わされる翼と輪っかを持った一人の天使が立っていた。
その天使もエバと同じように知恵の木を見上げていた。
(ど、どうして、ここに天使が......?)
体型などから見るに、おそらく男型天使だろうか。しかし、その一見神聖なる天使という風貌からは似つかぬほどの真っ赤な目をしていた。よく見慣れた神の眷属の特徴となる黄金の瞳ではない。
なによりもエバに違和感を訴えたのは、その天使に漂うのはどこか怪しく絶望的な雰囲気だった。
なぜだろう。
初めて会う天使なのに、エバは不思議な既視感に囚われた。
「ああ!知恵の木よ!実に美しい!そしてなんと嘆かわしいことか!こんなにも実がたわわに生えているのに、その甘美なる味を口にしようとする者も、その偉大なる効能を欲する者も現れぬのか。天使にも、人間にもいないのか?」
両手を広げて、衣の裾を揺らしながら天使は厳かに頷く。
「なんということだ!知恵というものはそれほどまでに蔑まれてよいものなのか!それともなんらかの悪意がお前を味わうことを禁じられているのか?」
高らかに弾む声音で語りつつ、軽やかな足取りで少しずつ知恵の木へ近寄った。エバはその天使の言葉に息を詰まらせた。
「だが、いずれにせよ、目の前に存在与えられる至高なるものをみすみす逃すのは愚の骨頂!そうでなければ、なぜこの知恵の木がここに置かれるのか!」
そう言うや否や、次に──エバの心臓を鷲掴むほどの衝撃──その天使は驚きの行動に出た。
その彼は臆することなく自分の腕を伸ばして速攻で知恵の果実を一つもぎ取ったのだ。そしてなんの躊躇いもなく、それを大きく頬張った。
なんということだ。
一連の大胆な振る舞いにエバは後退りしたが、ただそれを呆然と釘付けになるしかなかった。
──異常な、光景だった。
先程までに浸かっていた現実離れな陶酔が瞬く間に穢されたのだと思うと、彼女の全身のは冷汗に濡れていく。
そんなエバの様子を気にも留めるその天使は禁断の果実を貪り続づけた。
じゅるりぃ・・・
あっという間に一つを平らげ、食べ終えた頃には歓喜に震えていた。
「嗚呼!!聖なる知恵の実よ!この世とは思えぬなんて甘美たる味だ!これほどのものを無知なるヒトに禁ずるとは、神はなんとも浅はか!!いや、違う。あえて与えぬのだ!」
果実を食べた満足感と興奮からか、その天使はますます芝居じみて、派手な動作で語り続けた。
「この崇高なる果実は神のみにふさわしいからではなく、ヒトを神へたらしめる力があるからだ!!ヒトが神になる上がることの何が悪いのか!さらなる神の崇めにつながるはずだ!」
言い切り、そこで突如その天使は大袈裟な身振りをピタッとやめた。
「──さて、」
それからゆっくり、ゆっくりと顎を引き、どこか虚ろな真紅の眼差しをエバへと向けた。
「そこで傍観するヒトの女よ!お前も食べるがよい!」
「.....ぁ、」
今までエバの存在が眼中になかった天使が唐突に彼女を誘った。なんの前触れもなく禁断なる誘惑の矛先を向けられたエバは、たじろいでしまった。
「さあさ、エバよ!お前は今でも幸福だが、この果実を口にすればさらなる幸福を手に入れよう!!」
「......ぃや、」
「お前だけではないぞ?お前の最愛なる番、アダムも最高なる幸福を手に入れよう」
「......アダム?」
この世で何よりも愛おしい名前は耳に飛びこみ、エバは冷静を取り戻せた。
「左様。神の支配から解放されぬ限りでは、お前らヒトには本当の幸せは訪れぬ。──永遠にな」
初対面の者にそんなことを言われれば、普通は警戒して逃げようとするはずだ。
けれど、エバの身体は動こうとはせず、心の中では既にその天使の存在をすんなりと受け入れてしまっていた。
(わたしたちの本当の......幸せ.......?)
当惑で鈍った思考で、エバは天使の言葉を反芻する。
「食べた後死んでしまってはいけないから禁じた。──そんな善意なるものではない!神はお前らを支配下に縛ろうと、あの知恵の実を禁じているに過ぎぬ」
ーー『うぬらがずっと信じてきた父なる神は所詮人のことなど愛玩動物としか見ていないのだ』ーー
目の前の天使と赤いヘビの言葉が不意に重なる。それが酷くエバの心を深く蝕む。
「さあ、ヒトの女よ!」
いつの間にか、その天使はエバに肉薄していた。
伸びてきたその手が彼女の顔を鷲掴み、途端に恐怖に染まるエバの顔を固定し、自分の双眸と向き合わせる。
「この【知恵の実】を味わうのだ!」
その天使の片方の手に焦点を移動すれば、既にもぎ取った新たな【知恵の実】を握っていた。
自失状態のエバも、さすがのその乱暴な行いに顔をしかめて抗おうとするが、
「そして、いつの日か人類の母となる存在よ!これからは自ら女神となれ!もう神から縛りつけられることない。己の思うがまま自由に生きるがよい!」
そして、一筋の隙も与えずに──、
エバの口に【知恵の実】を捻り込んだ。
あ、と思うより早く、快く甘い香りが彼女の食欲を唆し、否応なしに味わせた。
じゅるりぃ・・・
絶妙な果汁が彼女の味覚を刺激し、瞬く間に虜にした──ような気がした。
「い、いやァ!?」
未知なる感覚に危機感を覚えたエバは逃げようと腰から身を捻る。その視界の端に、爛々とギラつく赤い瞳が見えたのも束の間のことだった。
「............あれ?」
今まであったはずの背景と天使の姿は忽然と消えて、一帯が恐ろしく濃密な黒に埋め尽くされていた。
何が起こったのかエバが目を凝らした時、一片の光も通さない闇が、確かな輪郭を描いて見覚えのある人影が映り込んだ。
(アダム!?)
目に飛び込むのは、アダムの後ろ姿だった。
ようやく見つけたと、思わず笑顔になったエバは彼に向かって駆け寄ろうとしたが、すぐにその場で立ち尽くした。
よく見れば、人影は一つだけではなかった。アダムは誰かと話していた。それも、楽しそうに。
──エバではない、ヒトの女と。
引き締まった長い肢体。豊満な乳房。ウェーブを打った長い髪はエバと同じく美しい白銀色だった。闇がその透き通る白い肌を際立たせ、まるで月光のように輝かせている。
まさに「妖艶」という言葉がしっくりくるほどに異性を惹きつける美しさを持ったその謎の女からは目が離せなかった。
その女は整った笑顔をアダムに向けていた。そしてアダムもひどく優しい目でそれに応えていた。
それを見た時、エバの背中に何かが這い回る感覚と、勝手に涙が溢れて止まらなくなった。
(この気持ちは、なに?)
彼女は今まで感じたことのない、たった今初めて経験した感情をうまく処理できずに、持て余していた。
「..................アダム......」
エバの唇が微かに震えた。
今にも消えそうな蚊の鳴くような小声で呼びかけたにもかかわらず、アダムはゆっくりとこちらを向いた。
「......エバ」
その顔は無表情だった。
そして、
「知 恵 の 実 を 食 べ た の か」
「───!!!」
刹那、地面を覆う闇がぞわりと闇を打った。
「きゃっ!?」
瞬く間にエバの視界は闇に囚われたまま、体が浮かび上がった。
暗闇から放り出される気分に襲われ、足裏の感覚が抜け落ちて反射的に目を瞑り、
「イヤぁぁああああああ!!!」
そして、エバは黒い光に包まれる。
意識すらもその光に墜ちる中、耳元で誰かの声が彼女を捕らえた。
「運命からは逃れられんぞ。女ァ」
この世の全てを嘲るような悪意だった。




