5話『神になれ!』★
エバは天啓に撃たれたように、驚愕を顔に浮かべて遠くに聳える知恵の木を見やる。
「わたしたちが、お父さまと、......対等になれる?」
ああ。
創造主である神と対等などと、口にするだけでも畏れ多い。
「そんなすごいことって......ありえるの?」
思わぬ情報にエバが目を剥くともう一度ヘビをまじまじと見つめ、恐る恐る問いかけた。
「想像つかないか?だが、考えてみろ。【知恵の実】を食べた吾輩はヒトと同じように話すことができた。見た目はともかく、中身はうぬたちヒトのように進化した」
ヘビは一度言葉を切って、エバを見る。衝撃に揺れるエバの心情を無視して、あくまでマイペースを崩さない。
「──ならヒトはどうだ?【知恵の実】を食べたヒトも今の立場よりさらに一段階進化するはずだ」
「......天使、かな?」
「違う」
引きつったエバの答えを、ヘビは即座に首を横に振って否定する。
「うぬはなんと大きな勘違いをしている!確かに天使は神の創造物の中でも──ヒトよりかは能力も知能も遥かに高い」
「なら、どうして......」
「だがッ!」
気のせいだろうか。
「一体何をお考えなのか、.......かつて神はその天使の等位の上にヒトを置かれたのだ」
一瞬......、ほんの一瞬だけ、赤いヘビの深紅の目の奥に濁った陰が蠢いた。
「実に不条理な話ではあるが、ヒトよりも一つ上の階位......それはもう【神】しかあるまい」
その声が、剣呑な色を帯び始めた。ヘビはこれまで見せなかった感情的な面を覗かせ、余計にエバの不安を煽る。
「分かるな?禁断の実を食べるとは、すなわちヒトをやめて、【神の領域】に踏み込むことと同じだ」
「ヒトを、やめる......」
「──そうか!なるほど。そういうことか」
エバから繰り返された言葉からひらめきを得たのか、ヘビはひとりで納得して頷いては、すぐに皮肉っぽく笑った。
「......そういう神の言葉遊びなのであれば、確かに【知恵の実】を食せばうぬは死ぬ──“人として”な。そして遥かに尊く、神の高みへと至れるのだ」
エバの表情はみるみるうちに変化していく。動揺に目を見開く彼女を置き去りに、赤いヘビはつらつらと澱みなく言葉を並べ立てる。
「フッ、そういう意味としては、神もあながち嘘を言っておらぬな。いずれにせよ、知恵の実を食べたうぬたちが神のようになれることをあのお方は知っていたのだ。だから、それを恐れて強く【知恵の実】を禁じた」
風が一層強くなってきた。
エバはもうこれ以上ここにいたくない気がした。なのに、
「ここまで言えばさすがにわかるだろう。神はな、ヒトが自由の意思に目覚めることで離反し、結果神の思う通りにならなくなるのを最も嫌っているのだ」
中断することなく、むしろ勢いを増して話を続けるヘビがその隙を与えてくれない。
「この世界に“唯一神”でいることをひどく拘るあのお方のことだ。自分以外の【神】なんて許容するはずもない。それゆえに、神が人に余計な善悪の知識を持たせないのは、いつまでもうぬたちには従順な僕でいてほしいのだ」
「......信じられない」
厳密にいえば「信じたくない」のだ。
だが、ヘビの発言を却下するには信じてしまうほどの妙な信憑性があったし、そもそもヒトに追従する立場にある動物のヘビが、ヒトにウソをつく理由なんてそれこそ思い当たらない。
エバは一度息を詰め、それからしばしの間、沈黙したあとでぐったりと芝生の上に脱力する。
肩を落とし、顔を俯かせ、長い長い吐息を吐いて、
「ねぇ、ヘビさん。じゃあ、ずっと従順でいようとするは......悪いこと?」
ヘビは肩をすくめ、頭を左右に振った。
「吾輩は、なんでもかんでも神に従っていればいいとは思わん」
「神はわたしたちの創造主なのでしょう?従わなくてはならないわ。ヘビさんだって神に創られたんじゃないの?」
「そうだが?」
「なのに、どうしてお父さまを否定するの?」
「確かに吾輩もかつては神にただ服従するだけの無能であった。だが、【知恵の実】がそれがいかに愚かであることを教えてくれたのだ」
「そんなこと、」
「ないとでも言えるのか?考えるのこともできず、ただ神と夫の言う通りに生きるうぬと、善悪の概念を知る力を得たこの吾輩と同じ土俵に立てるとでも?」
「......、」
ついにエバは押し黙った。
「あ」とも「う」ともつかない音を口から漏らし、視線を彷徨わせる。
反論するには、ヘビとは違ってまだ善悪も区別できない自分ヘの自信のなさがどうしても邪魔してしまう。
項垂れたエバに追い討ちをかけ、ヘビは最後の言葉を叩きつけた。
「それにエバ。うぬとて一度は思ったはずだ。“神の気持ちをわかってあげたいから知恵を欲する”と、しかし悲しきにもその健気な願い自体が、神にとっては不服従──単なる邪念過ぎなかったわけだ」
「......っ」
いよいよ悲鳴を上げる心臓を鷲掴みにされた気がした。脳が理解を拒んでいる。エバは深く俯くと、その場で肩を落として震えていた。
「おお!可哀想なエバよ!そう悲しい顔をするでない!慕う者に対するうぬの願いは至って普通でありふれるものだ。なのにそれを事前に牽制して、人を飼い殺そうとする全知なる神とやらはなんたる狡猾で末恐ろしい存在よ!」
「そんなことない」と、否定すればいい。
「お父さまを悪く言わないで」と怒ればいい。
だが、そんな言葉よりも──、
「お父さまはわたしたちを愛していない
の......?」
──わたしたちはこんなにも愛しているのに。
エバの口から漏れたのは、どこまでも父なる神に縋りつく悲願だった。
「愛しているとも。うぬたちが理想通りのお人形で居続けるのならな」
「────」
しかし、それを打ち砕いたのは唐突に剥き出されたヘビの悪意だった。
それまで寄り添ってきたエバの心にここに来て冷や水を浴びせるような言動。それで放心するエバの前で、ヘビは当然のことを口にした顔でいる。
「思い通りにならぬペットに今まで通りの愛を与えると思うか?うぬらがずっと信じてきた父なる神は所詮人のことなど愛玩動物としか見ていないのだ」
ヘビは更なる悪意を持って、エバを傷つけるための言葉を弄したのだ。
思わぬ応対にエバはといえば困惑と落胆の色を隠せない。すぐに泣き出しそうに顔を歪めた──その顔を見た者をとてつもない罪悪感を陥れるほどの。
「......エバよ。ここだけの話。吾輩は別に意地悪のつもりでうぬに厳しい言葉をかけているわけではない。──吾輩とて他の動物たちとは違わず、人が好きなのだ」
これまでのヘビの啓蒙の数々がムチなら、今の言葉が間違いなくアメなのだろう。
「だからこそ、どこまでも神に縛られる哀れなヒトをいい加減に見ていられない」
不意に優しくなる発言に、弾かれたようにエバは顔を上げた。戸惑いの視線を送ると、ヘビが一度鼻先を背けた。
「しかし、そんなうぬたちを救いたい心はあれど、吾輩が神の領域ともいえる【知恵の実】の恩恵を授かったところで、所詮この身が人に従属するものであることには変わりはない。よって、うぬら自身が変わるしかないのだ」
僅かな沈黙を挟んで、ヘビは再び深紅の双眸をエバに戻す。
「生憎アダムはもうダメだ。既にあやつは神の言いなりに成り果てている。完全に手遅れだといっていい。だが、エバ。うぬは違う。まだ完全に神の呪縛に囚われていない」
すっかり打ちひしがれてエバは緩々と顔を上げ、ヘビを見つめた。縋るようなその双眸は、非力で無知なヒトのそれだった。
それに応えるように、ヘビは一回りにエバの首元を緩やかに巻きつくと、ゆっくりと彼女の顔へ至近距離に寄せる。
「だから、お前にだけ言うのだ。エバ───、」
「なに.....?」
息を呑む。
今までにない、こちらを見るヘビの真剣な瞳を真っ向から見つめ返し、エバはそのほんのささやかな言葉の区切りを永遠の長さのように感じた。
それほどに焦がれる言葉の続き──そして、
「うぬが神になれ!──知恵の実を食べろ」
刹那、
エバの頭の中が空白に席巻される。
......そこからは、記憶がない。




