4話『善悪の概念』★
──次の日。
アダムに誘われて、エバも同伴して二人でエデンの楽園を見回りした。
ヒトに気づいた動物たちは帰ってきた主人に懐くように二人の周囲をわやわやと群がった。
「ほら、見てごらん!エバ。このたてがみを持つ動物が【ライオン】なんだ。どうだいこの毛並み!美しいだろう?」
そこでアダムはこれまで名付けた動物たちをエバに紹介した。
「ほんと!ふかふかしてとても気持ちいいわ!」
「そうだろうそうだろう!ふかふかと言ったら、こっちの小さな動物もいいぞ!」
「まぁ!とても小さくて真っ白!この子はなんて言うの?」
「うむ!【うさぎ】と名付けた!」
「うさぎさん!うふふ、とってもかわいいわね」
きゃっきゃっとアダムとエバの楽しげな笑い声が、穏やかな空気に溶け込むように木霊した。
いつもと変わらぬエデンの美しい風景。
懐いてくれる動物たち。
傍にいてくれる愛おしい夫。
そんなこの上ない平和で甘い幸せにエバは浸かっていた。
──だけど、どこか物足りなさを感じていた。
(やっぱりこの子たちってヒトの言葉話せないわよね......)
エバは囲むたくさん動物たちを眺めた。
こうして戯れる姿はとても愛らしいけれど、あの赤いヘビみたいに自分の意思を示すために話しかけてくれるわけではなかった。
試しに他のヘビたちにも話しかけてみたが、やはり言葉が通じないのかただ特有のつぶらな瞳を向けられただけだった。
やはりあの赤いヘビだけは特別だったのだ。──そうエバは確信した時だった。
(あら?)
どこかで草むらと擦れあう音が聞こえてきた。思わず彼女はその方向へ振り向いた。
そこには丁度今エバの思考を占めていたあの赤いヘビが森の草むらから音もなく姿を現し、うねうねと大木をゆっくり這い進んでいた。
(間違いないわ......!あのヘビさんよ)
あれほどの目が眩むほどの真紅な色をしたヘビは他にはいない。
「あ......!」
一瞬目が合った気がした。
しかし、赤いヘビは全くの無関心な様子ですぐ何処かへ行ってしまった。
まるであの日にエバと話したのをなかったことにしたかのように。
そんなヘビの態度が、咄嗟に駆け寄ろうとしたエバの体を牽制した。
それ以上近寄ることも後退りすることもできず、彼女はその場で固まるしかなかった。
「......ヘビさん、行っちゃった」
「ヘビ......?あの赤いのが?」
「え、うん。一応そうみたい......」
「そうみたい?エバは知っているのかい?」
エバは心がズキンと痛んだ。
普通にアダムに話しても良いはずなのに、それだと【知恵の実】のことまでも彼に打ち明ける必要が出てくるので、エバは躊躇ってしまった。
「......うん、まぁそんな感じかな」
そう、言葉を濁してしまった。
結局エバには話す勇気がなかったのだ。だから精一杯怪しまれぬように、有耶無耶な物言いになったのだ。
「ふーん。そうか!」
そんなエバの様子に意に介せず、アダムは特に深く考えず相槌を打った。
「確かに色はともかく、......あの形状はヘビそのものだしな」
そこでやや間を開けると、彼はふと黙り込む。しばらくすれば抑揚を欠けた静かな口調で二の句を継いだ。
「──にしても、少し......いや、かなり気味が悪いヘビだな」
「......え?」
──気味悪い。
嫌悪がたっぷりと詰め込まれた言葉。
が、そんなことを口に出すのは、寛容的で大らかなアダムらしくないと、エバは訝しげに思った。しかも、動物好きな彼がその言葉を吐き出したのだから尚更。
「あ......、いや、その......楽園のヘビにしては、だ」
そんな怪訝そうなエバの視線に気づき、アダムの目が一瞬泳いだ。そして慌てて自分の発言に補足を置いた。
「姿形だけならわたしの記憶の通りだが......エバも覚えているだろう?初めてわたしたちがこのエデンの楽園で見つけた“ヘビ”はあんな真っ赤なやつなんていなかった。絶対に」
「......ええ、そうね、それはわたしも思ったの」
「ああ。もっと地味で暗い色したやつだった」
どこか緊張感を帯びた横顔に僅かな違和感を覚えながらも、エバの視線は先程赤いヘビが去った方向をなぞり始めた。
「こんなことを言ってはなんだが、実はアレってヘビではなかったりしてな」
──ヘビに似ただけの、ナニか。
だがアダムの直感的疑問を制するように、先んじてエバは唇を開いた。
「そうかな?可能性としてお父さまが赤色のヘビも作ったってことじゃない?わたしたちが今まで知らなかっただけで......」
「なるほど!確かにこのエデンの楽園はまだまだわたしたちの知らないものがたくさん潜んでいるし、赤いヘビがいたとしても不思議ではないかもな」
珍しいとも言えるエバの控えめな反論に多少は面を食らうも、アダムはすぐに表面上は納得する言葉を溢すも、その表情からは翳りが消えない。
「──だが、なんでだろうな」
アダムの無機的な一言がエバの意識を貫く。
「あの赤さを見ていると、やけに胸騒ぎがするのだ」
◇◇◇◇◇◇◇
──それから数日後。
いつものお気に入りな樫の木の下でエバはまたいつものように一人で黄昏ていた。
結局今日もアダム一人で名付けの仕事に行ってしまった。「エバも一緒に来ないか?」と誘われたが、気が進まないとエバはやんわりと遠慮したのだ。
アダムと一緒にあのヘビを見かけた件があってから、動物に否定的な感情を表したアダムへの戸惑いと、ほんの少しの敬遠があったかもしれない。
心配そうにエバに目配せをしてから出かけたアダムに内心申し訳ない気持ちを抱えながらも、脱力したように岩の影で横たわっていた。
朝の耕しを終えれば、もう女のエバにやることはない。忙しいアダムとは必然とエバは一人でいる時間が多く、最近アダムと過ごす時間が少しずつ減ってきている気がする。
正直とても退屈だった。
(ひとりは、とても寂しいわ)
そこで、
「最近のうぬはいつも一人だな。」
あの赤いヘビだ。
直感的にエバはそう確信した。
気づかないように声の方へ視線を送ると、──間違いない。岩影でその赤いヘビはとぐろを巻いて悠々とエバを見下ろしていた。
だが、エバはそれに応えない。
「.......久しいのに随分なご挨拶だな」
無視すればてっきり怒りを向けられるのではと、エバは密かに懸念していたが、どうやら杞憂だったらしい。
赤いヘビの言葉とは裏腹に、その口調は穏やかだった。その舌はチロチロと出して入れ、入れては出していてとても余裕そうだった。
「.......ヘビさんだって......」
顔を俯いたまま、エバはぽつりと呟いた。
「この間アダムと見かけたのに知らないフリして去ったじゃない。わたしとても悲しかったわ」
「夫婦水入らず邪魔するのも悪いだろう。吾輩はそこまで野暮ではない」
そこでエバは緩々と顔を上げ、少し意外そうな顔でヘビを見つめる。
「あ......もしかして、気を遣ってくれたの?」
「否定はしない。だが、それも無駄のようだったな。かえってうぬを傷つけたのなら謝ろう」
「いいえ。わたしが勝手に傷ついただけなの」
「そうか」
「そうよ。......っ、だからこの話はもうおしまい」
「......」
「......」
「.......なんだ。今日のうぬは態度がぎこちないな。変に黙ってどうしたというのだ」
「......ヘビさんこそ、どうしてわたしに構うの?」
「吾輩は話すのが好きなんでな、特にうぬのような美しい女と話すのがな」
「そんな.......、」
「お世辞なんかではないぞ。エバは本当に美しい」
さらさらした長い白銀の髪を靡かせ、裸のままで横たわるエバの乳房は大きく、腰はくびれ、脚は長かった。
ヘビからの褒め言葉に今の彼女の目は大きく見開かれ、その端麗な顔の頬には薄桃色に染まっていてより可憐さを引き立てる。
そんな彼女を下から見上げてのヘビからの賛美の言葉に、エバは一瞬キョトンとするが、すぐさま頬が一気に紅潮する。耳まで真っ赤だ。
これほど情熱ともいえる口説き文句は今までアダムしかいなかったからだ。
「そっ、そんなに褒めないで......とても恥ずかしいわ......」
とはいえエバも満更でもなく、褒められて決して悪くない気分ではあるが、それでも努めてヘビと目を合わせないようにしていた。
そんな精一杯の素っ気なさを貫こうとする彼女の態度に、さすがに見かねたヘビも苦言を呈した。
「......はぁ。誤解も解けたというのに、なぜさっきから吾輩に対する態度が素っ気ないのだ?」
「──だって、」
エバはもごもごと口ごもる。ヘビはそれを急かすこともなく答えを待つ。
そんな姿勢の彼に。エバは一度深呼吸して、それから上目遣いでようやくヘビに焦点を移動すると、
「あなたとは関わらないようにって、アダムに強く言われたの......」
「ほう?」
「だから、なるべくあなたとはお話しないようにしていたわ。......ごめんなさい」
「それは傷つくな。どうやら吾輩はうぬの夫に大層嫌われているようだ」
そう言う割にはどこか無関心で、ヘビの声は依然として淡々としていた。
だが、それでも傷心する旨を伝えるその言葉は思いのほかエバの耳に刺さった。それが一気に彼女の罪悪感を催す。
(.......わたしだって、つらいわ)
そう、それがアダムとエバの間に確執が生じた最も大きな原因なのだ。
動物を愛するやさしいアダムがこの赤いヘビだけを疎外する──そんな行いをするのが彼女には辛かった。
「わたしだって、好きでヘビさんに冷たくしているわけでは、ないのよ」
「そうか。なら、うぬはどうしたいのだ?」
「......そうね。できればヘビさんを無視することはしたくないわ」
「ほう?なぜそう思う?」
「......わからない」
「......。フッ、うぬはまだ純粋だからな。」
「ヘビさん?」
一瞬押し黙る赤いヘビの内情など、エバは気づくはずもない。ヘビは「なんでもない」と取り繕い、次の言葉をかけた。
「うぬが思うままそうすればいい」
「でも......“女は男に従うべき”だと、お父さまが言っていたわ」
「まさに神の言いなりだな。ヒトというのは己の意思を持つことすら許されぬ哀れな生き物だ」
「哀れではないわ。わたしたちは幸せよ。だってお父さまの言いつけさえ守れば、こうして美しい楽園で不自由なく暮らせるの!アダムがそう言ってたもの」
「今度はアダムか。結局はそうやって誰かの意思に感化されてるだけではないか。うぬの意思はどこにある?」
「わたしの......意思?」
「そうだ。神や男の意見関係なく、女のうぬは自分の意思で何かを深く考えたり決めることがあるのか?」
「───?」
渇いた指摘に込められたのは憐憫か、あるいは侮蔑か。
いずれにせよ、エバがそれに返す言葉が見つからない。そもそもヘビの言葉の趣旨がわからないからだ。
生まれた時から神とアダムの言う通りにすることがエバにとっての当たり前だった。それを深く考える必要があるのか、とでも言うように、エバは困ったように首を傾げた。
そんな彼女はヘビは諦めたかのように大きなため息を吐いた。
「.......はぁ。もういい」
大仰に吐息を漏らすアクションを入れるヘビはいかにも不満げで、何か言いたげな様子尻尾を揺らしている。
「所詮、知恵を持たぬヒトでは何を話しても無駄、か。無知もここまでくると同情したくなるな」
そう頭を地面に落として吐き捨てるヘビの目に宿るのはエバへの憐れみと、ほんの僅かな苛立ちのみ。
そんな彼に気まずさを覚えるも、エバは何かを思い出したかのように声を掛けた。
「──!ねぇ!ヘビさん!」
「.....なんだ」
「ヘビさんがよく口にするその“知恵”についてなんだけど......わたしもね、その知恵を持つようになりたいの!」
「なら簡単すぎる話だ。【知恵の実】を食べれば良かろう!吾輩のようにな」
「で、でも......っ、実はね!わたしたちヒトはその果実を食べることをお父さまから禁じられてるの。触れることもだめと言われたのよ」
「──なるほどな。道理で神はうぬらに“食べたら死ぬ”などと、つまらん嘘をついたわけだ」
納得、というより合点がいったというべき形で理解を示すヘビ、その理解を浮かべた瞳を今度はエバに向け、
「何度も言うように、【知恵の実】には死に至らしめる効能はない。吾輩がその実を食べたことは知っておろう。死ぬどころか、こうして知恵を授かり、物事を見通す真理の目が開かれた」
「でもそれは......っ、あなたがヒトではなく、動物だからじゃないかしら?」
「万物の頂点であるヒトには知恵を閉すのに、ヒトに追従する立場にある動物がそれを開かれても良いと?それこそ非合理的な話だ」
エバの希望的観測はあっさりと切り捨てられた。ついにショックを受けた彼女はそのまま俯いてしまった。
「......」
「わかったか?うぬは神の脅しに怯える必要はないのだ。エバ」
「......じゃあ、やっぱりお父さまは......、わたしたちに“ウソ”をついたっていうのっ?」
「だからそう言っただろう。頑なに神を信じたい気持ちが理解できなくもないが、うぬはどんなに意地を張ったとて、それが事実なのだから受け入れろ」
「......っ」
「かわいそうなエバ。そんなうぬに親切にもう一つを教えてやろう。神がなぜ、嘘をついてまでうぬたちが知恵の実を食すことを禁じたのか、知っているか?」
「──え?」
「嘘をつくには動機、理由が必要だと言ったはずだ」
「あ......」
緊張したような顔に変わったのは、彼女がヘビの話を思い出した証拠だろう。
「なぁに、そんな難しい話ではない。神は、ヒトが知恵を持つことを恐れているからだ」
「......?どうして?知恵さえあれば、きっとわたしはお父さまやアダムの気持ちをもっとわかってあげられるし、こうしてヘビさんのお話にもっとついていけるようにもなるのに」
「その通りだ。【知恵の実】の恩恵により、知らない知識を多く身につけることができる上に、難しいことも考えればわかるようになる」
「そんな良いことばかりなのに、どうしてそれでも食べてはいけないの......?」
「うぬたちヒトにとっては良いことでも、神にとっても良いこととは限らない」
「お父さまにとって?何か悪いことでもあるの?」
不思議そうな顔をするエバの反応に、ヘビは前に身を乗り出し、言葉を重ねていく。
「ああ。【知恵の実】の効果は知識や知恵を授かるだけではない」
「他にも何かが起こるの?」
「──“善悪の概念”をわかってしまうのだ」
「ぜん?あく?」
「“良いこと”と“悪いこと”だ。この世界には何が善で、何が悪とされているか、己自身でそれらが分かり、判断できてしまう」
──要は自律的に行動することができ、人には「自主性」というものが急速に身につけられるのだ。
一度だけ静かに目を閉じると、ヘビはゆっくりとその鋭い眼光をエバに浴びせたのだ。
真紅の瞳に真っ直ぐ見つめられ、ふとその輝きに吸い込まれるように目を離せなくなる。
「そうなるとどうだ?何かを決める度にわざわざ神にお伺いを立てる必要もなくなる。あの方に頼らずとも生きていける──つまりは、“自立”できると言うことだ。それが何を意味するか知っているか?」
「意味......?意味って?」
ヘビははっきりそれとわかる緊張感を双眸に宿していた。勿体ぶったヘビの問いに対しては、エバは掠れた声で聞き返すことしかできない。
「ヘビさん!もっと分かりやすく教えて欲しいな」
言いたいことがわからないエバは眉を寄せるばかりで、それを受けたヘビは呆れを隠し切れない様子で目を伏せた。
息を吸い、一息にヘビは結論を口にする。
「──つまり、だ。うぬたちも神と対等な立場になれると言うことだ」




