3話『嘘〈ウソ〉』
「つまり、吾輩がこうして喋れるようになったのは、【知恵の実】を食べたおかげなのだ」
あっけらかんと、赤いヘビは己のした行いを告白しては頷く。
──だが、そんな態度こそが、エバにとっては青天の霹靂ともいうべき異常事態だった。
「あなたっ!【知恵の実】を食べちゃったの!?」
聞き捨てならない発言に身を乗り出し、エバは赤いヘビに迫ると「なんてことを!」と声を上げずにはいられなかった。
知恵の木の実を口にすることは神が戒めたこの楽園においての最大の禁忌だった。なのに、目の前のヘビという生き物は──同じ神の被造物のはずなのに──さも当然のように食べたことを自白した。
信じられない気持ちでいっぱいだった。
もしヘビの言葉が本当であるなら、エバにはまず最初に気がかりなことがあった。
「でも、その......大丈夫だったの?」
「何がだ?」
「知恵の実を食べて、あなたにはなんともなかったのかしら?」
「この通りなんともなかったさ。何かあったと言えば、莫大の知識と叡智を手に入れたことだな」
「おかしいわね......」
「なぜそう思う?」
「だ、だって......!その実を食べたら死んでしまうのでしょう?お父さまがそう言ったもの!」
どこか必死な問いかけに、ヘビは視線を前に戻してしばし沈黙。
その態度に「まさか」とエバは内心で焦る。さっきの場面であえて喋さなかっただけで、実はその後はきっちり代償としての副作用があったことを暗に言っていたのかもしれない。
「──神がそう言ったのか?」
「え?」
「“【知恵の実】を食べたら死ぬ”、と。確かに神はうぬらにそう言ったのだな?」
「.......はい」
「なら、それは嘘だな」
「ウソ?」
「わざと“間違ったこと“を言う、ってことだ」
ヘビの言葉に、エバは首を傾げる。
「お父さまはカンペキだもの。間違ったことなんて言わないわ」
「ああ。そうだろうな。だから“わざと”なんだ。」
「わざと?お父さまがそんないじわるをするはずないわ?」
「なら、なぜ吾輩はこうして生きているのだ?神の言うように食べて死ぬとしたら、吾輩はここには存在しないはずだ。無論今こうしてうぬと呑気に話などしていない」
「う......、」
目が回りそうな赤いヘビの畳みかけるような理論に、エバは口を噤むしかない。事実、このヘビの言い分は現実の一端を示している。
「......どういうこと?“しぬ”ってそういうこと、なの?」
ぽつりと、こぼすような声はあまりに掠れていて、その響きはあまりにも頼りなかった。それでもかろうじてヘビには届いたのか、
「......呆れた。なんだ、うぬはそもそも“死”というもの自体を知らんかったのか。なんと嘆かわしい!ヒトの知恵もたかが知れているな」
呆れ果てたと言わんばかりに嘆息をつくその様に、エバは何も言い返せなかった。彼女もそれを自覚している故に、顔を伏せることでその複雑な表情を隠した。
「まぁ、【知恵の実】を口にしていないヒトでは、その知識もたかが知れているか......」
そんなエバのことを気に留めることなく、ヘビはそう自己完結しては、話を続けた。
「いいか。知を持たぬうぬでも分かるように説明するとだな、死というのは、──“いなくなる”ということだ」
「いなく、なる?」
「要は今みたいに生きることができなくなる。二度と目を覚めることなんてできない──永遠の眠りのようなものだ」
「えいえん、眠り......?」
ヘビの言葉はやはりエバにとって未知数なものでいまいち実感を得られない。
つまりは、大半を理解しているかどうかも怪しい。しかし、
「当然死んでしまっては愛する人のそばにもいられない──そこでお別れになるのだ」
「──!」
「愛する人とお別れになる」という言葉にハッと小さく息を呑んだエバは、しばらくは声を失ったようにヘビを見つめ続けた。
「ククク、死がどういうものかを少しは理解して怖気づいたか?」
「......」
「今のうぬにすぐに全部を理解しろ、というのは意地悪な話なのだろう」
口ごもるエバに赤いヘビは「だが、」と言葉を続けて、
「これだけは安心しろ。先程も言ったが、【知恵の実】を食べたとて死にはせぬ。それは紛れもない真実だ」
「──!そ、そんなの.....、」
本気で、欠片も想定していなかった答えを聞かされたように、エバは絶句している。
すぐに頭を振り、言葉を作ろうとするが、唇が震えるばかりで意味ある言葉にならない。
「【知恵の実】を口にした吾輩がこうして無事でここにいるのが何よりの証拠だ。つまり、ここにある吾輩の存在が神の“嘘“を証明することになる。──わかるな?」
神が警告した結末とは相違する“結果”を提示する目の前の存在に、エバの世界観を根底から覆すものばかりの言葉に、彼女は思考の迷路に迷い込むなかり。
だからこそ、──こういう時こそ、エバの口癖が申し分なく発揮される。
「......で、でも!それならお父さまはどうしてわたしたちにうそをつくのかしら?」
「嘘つくにはなにかしらの動機があるものだ。」
「......?“どうき”ってどういう意味?」
「......、はぁ........。動機とは、まぁ簡潔にいえば“理由がある”ということだ。」
「お父さまがアダムとわたしにうそをつく理由があるっていうの?どうして......、わたしにはわからないわ。きっとアダムにだって......、」
「それはうぬらが疑うことを知らないからだ。疑うことを知らぬものは実に容易く騙せる。そうなれば、自分の思うがままに事を運べるからな」
こことぞばかりの、流暢に言葉を並べ立てるヘビの雰囲気にエバは呑まれかける。
「絶対的な存在である神ならまだしも、急に現れた得体の知れないこの吾輩の話ですらも、現にうぬはこうして疑いもせずに聞き入れているだろう」
「......?じゃあ、......ヘビさんもウソをついてるの?」
「フッ、それはうぬが判断することだ」
まるでエバの質問をのらりと躱すように。ここへ来て、突き放すような言葉を投げられる。
しかし、素直なエバは口元に手を当て、言われるがままに必死に頭を回転させた。
一生懸命に考えた。考える努力をする、のだが──、
「......ごめんなさい。わからないわ」
すぐにお手上げ状態だ。
特に期待もしていなかったのか、ヘビは「そうか」と取り立てて落胆した訳でもなく受け止めた様子だ。
「想定通りの反応だ。善と悪の区別もつかない今のうぬではどんなに頭を搾ったところで何も答えを得られやしない」
「どうして?」
「──なぜなら、ヒトには知恵がないからだ」
「その“知恵”というものがあれば、わたしでも誰かのウソがわかるの?」
「知恵さえあれば疑う選択肢が増える。そして疑えば、他者の嘘を見破ることもある」
今日は覚えることが多い一日だ。
いきなりの情報量に混乱せざるおえない。正直エバにはヘビの言うことが難しすぎて、咀嚼も追いつかない。
ただ一つわかることは、ヘビは自分たち人間に知恵がないことを嘆いていることだけ。
──知恵。
それがあれば本当のことがわかるのか。
難しいことに翻弄されることから解放されるのか。──この赤いヘビみたいに。
この時からエバの心にある一つの欲望が生まれた。それはまだ小さく、直ぐに消えてしまう風前の灯火程度のものだけれど。
「......あの!ヘビさんっ!!わたしっ、」
垂れ下がっていたエバの頭は勢いよく上げた。
「──って、あら? 」
もうそこには、何もなかった。
「そんな......!ついさっきまでいたのに......っ」
突如消えたヘビの影を求めて、エバはあたりをきょろきょろと見回した。
「い、ない?」
だが赤いヘビの姿は影も形もなかった。そこにあるのはそよぐ風と、ふわりと漂う空気のみ。
それだけが、ただただ残っていて。
「わたし.......夢でも、見たのかしら...?」
全く感じなかった気配。
だけど、あとに残る気配。
その場で佇むエバが、途方に暮れていた時だった──、
「ぉ〜〜い!エバ〜!今戻ったぞ〜!」
「──あ!アダム!おかえりなさい!」
「ただいま!エバ......って、どうしたんだ!?そんな不安そうな顔をして!まさかオレがいない間何かあったのか?」
アダムは心配そうにソッとエバの両肩を掴み、鼻がくっつくほど間近に優しく引き寄せた。そんなアダムにエバは視線を彷徨わせた。
「えっと、その.......、」
あの奇妙な赤いヘビのことをアダムに伝えるべきか、彼女は迷った。従順なアダムの妻として、今さっきのことをありのまま彼に報告するべきだった。
しかしエバには自分でも、どうしたらいいのかわからなかった。どう返答しても、どこかで「ウソ」をついてしまうような後ろめたさを覚えたからだ。
だから、
「う、ううん。......その、アダムがいない間、寂しかっただけなの」
エバは一番自分の本当の気持ちに近い答えを示すことにした。少なくともそれは、ウソではないのだから。
(どうしよう.......なんだか、心がざわざわする)
ヘビから突きつけられた衝撃な事実がエバを想像以上に揺さぶった。
(アダムも、さっきあの場にいればよかったのに......)
そう思わずにはいられなかった。
そうすれば、困惑の渦に囚われるエバをあそこで「そんなことはない」「大丈夫だ」と力強い言葉をかけてくれたに違いない。アダムがいない間一人でヘビの話を傾聴するのはそれだけ心細く、寂しかったから。
アダムさえいれば、エバは何にも惑わされず、ただ信じるがままに彼の背中だけを見て生きていけるというのに──、
「......でもアダムが帰って来てくれた!だから、.......もう大丈夫よ!」
控えめに口角を上げて微笑むエバ。
無理をしているような、何かを隠している者特有のぎこちないものだったけれど、それが彼女の精一杯の笑顔だった。
知恵がない故に嘘のつき方がわからない今の彼女には「ごまかす」選択肢しか残されていないのだ。
「おお!そうかそうか!かわいいことを言うなエバは〜」
そして、そんなエバの異変をアダムは微塵も気付いていない様子。だが、それは決してエバに無関心だとか、彼自身が極度の鈍感だったからではない。──彼もまた知恵を持たぬ故に、何かに疑念を持つことを知らなかったからだ。
故に、エバの強がりの言葉をそのまま鵜呑みにして、彼女の「大丈夫」という強がりを信じたに過ぎない。
「まぁでも、そうだな.......。ここ最近うぬを一人にして、寂しい思いをさせてすまないな」
そっとエバを抱きしめたアダムは柔らかな髪を撫でた。
温かな日差しの下で彼の逞しい腕に優しく閉じ込めないられると、今まで抱えた不安も戸惑いもスッと消えていくように感じる。
「アダム......」
その絶大な安心感からエバの唇が、彼の名を刻んだ。
アダムが傍にいるだけで全身に多幸感に包まれることを再確認したエバは、目蓋を閉じてアダムの胸にそっと顔を埋めた。
「うふふ、やっぱり、こうしてアダムと一緒にいるのが一番落ち着く......」
「なっ!」
あまりにもストレートな言葉を伴った甘えた行動に、思わず息を詰まらせてアダムが赤面する。
「わたし、とっても幸せよ」
「エバ......、」
幸福が丸ごと溶け込んだような微笑みが、アダムを心を鷲掴む。それは初めて彼女と出会った時と同じくらい、透き通った純粋な笑みだったからだ。先程のような儚さとも切なさとも遠い、見ていて嬉しくなるような。
そんなエバの表情に見惚れたアダムはドギマギしつつも、──もっと彼女のその笑顔を見たい、という刹那的な欲求に従った結果、
「そ、そうだ!今度出かける時は、エバも一緒に行こう!久々に二人でデートだ!動物たちも君に会いたがっている。どうかな?」
アダムの提案に自然とエバの頬がさらに緩んだ。
「──はい!ぜひ!」
小さく頷き、再び彼が望む純粋な満面の笑みで明るくそれを応じてみせた。
二人の抱き合う力が自ずと強まる。
(ああ、ああ、ようやく、始まる)
遠くで冷たい笑い声が聞こえた気がした。




