2話『忍び寄る赤い影』★
──あれから数日後。
樫の木の下にはエバ一人だけがもたれ掛かっていた。
アダムはエデンの園にいる生き物たちに名前を与えるために不在である。それが神からの大切な仕事だから。
楽園の中は果てしなく広い。新たな生き物を探すのは想像以上に移動距離も長く、歩くための体力が必要だった。
初めこそはよく二人で名付けの仕事で一緒に出掛けていたが、男ほどの体力を持ち合わせていない女のエバはよく途中でくたびれ果てていた。
そんな彼女の負担を配慮したアダムは彼女に留守番を頼んで、今では一人で名付けの日課をこなしている。
それからというもの、エバは昼からこうして一人で過ごすことが増えたのだ。
「どうせ一人きりで過ごすなら、やっぱりここよね......」
周りで無数の木の葉が、瑞々しい草花が渦を巻いて踊るこの場所──一際大きな樫の木の下がエバにとっての憩いの場だった。
樫の木に集まる小鳥たちの歌声はいつ耳を澄ませばとても心地良い。
葉と葉の重なり合った隙間から線上に落ち降る光をその身に浴びる安らぎを覚えるものであったし、樫の木の雄大さは彼女の心を落ち着かせてくれた。
そして、今日も──
エバは丘から、エデンの楽園の中心にある二つの巨木を眺めて暇を持て余していた。
いつ見てもこの二つの木だけは格別だ。
隠し切れていないその神秘的な雰囲気には惹かれるものがあった。何よりもエバの心を掴んで離さないのはやはり──【知恵の木】だった。
(ほんと.....素敵だわ)
空を覆わんばかりの枝ぶり、青々とした葉、そして真っ赤で熟れた知恵の果実は陽射しを浴びて、ひときわキラキラと輝きを見せている。まさに芸術品のように美しかった。
エバが夢心地で眺めている時だった──
「今日もひとりなんだな」
なんの前触れもなくかけられたその声は、たちまちエバを現実世界へと引き戻した。
父なる神でもアダムの声ではない。
なら、誰?
思わずエバはその謎の声の方へ首を向けた。
すると、その声の主は───、
(あら?)
そこには真っ赤な一匹のヘビが樫の木に巻きついて鎌首をもたげていただけ。
もしや、先程語りかけたのはこのヘビだろうか?
(さすがにそんなはず、ないわよね)
と自分に言い聞かせた矢先、
「おっと、これは失礼。この世で美しいヒトなる女を一度この目で見ておきたくてな。気を悪くしないでくれ」
「きゃっ、ど、動物が......っ、ヘビが喋っているわ!?」
「ほう?名前を覚えて貰えて光栄だな。この楽園にはありとあらゆる生き物がいると言うのに」
「だって......すごく印象に残ったもの。生き物の中でそんなに体が長い動物は初めて見たから」
まだエバがよくアダムの名付けの日課に付き添っていた当初の頃、エバはこの姿形をした生き物を見たことがある。
じっくり考えて名付けしたいエバとは違い、ひらめきを大事にするアダムは、常に目にした生き物たちをその場で一発の名前をつけることにしていた。
中でもこのヘビという動物は名前を与えられるのが極端に早かった。──他の動物には例を見ない、非常に長く伸びたスラリとしたその肢体にアダムは大変興味津々だった。
『これほど長い体を動物見たことがない!これは新発見だな!決めたぞ!こやつの名前は“ヘビ”にするぞ!』
そう興奮気味に語ったアダムの顔が今でもエバの脳裏に焼き付いていた。
そこで、エバはまじまじとヘビを食い入るように見つめた。
──それにしても、どこか浮世離れした奇妙なヘビだった。
「でも.....あなたってなんだか普通のヘビとは違うわね。色々と変わってるわ」
終わりの尻尾なんて見えないくらい、初めて目にした通常のヘビよりもずっと太く長い胴体は──なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらい──エバが寄りかかる樫の木の上で悠々ととぐろを巻いていた。
その螺旋状の胴体のあちこちには節のある足が生えて、足先は木肌に引っ掛けてバランスを取っていることがわかる。
──そして何より目を惹かれるのは、「赤」。
そう。そのヘビはとにかく真っ赤だった。
胴体も節のある足も赤に染められていて、エバを捉えて離さないきらりと光る目も深紅に煌めいていた。
波打つ輪郭を象った眼はまるで血のような色を帯びていて、見た者に不吉なものを感じさせる。それらのすべてが目の前のヘビをより異質な存在へと変え、“楽園”から遠ざけている。
(それなのに不思議......なんでだろう。すごく、きれいに思えるわ)
それなのにこの時のエバには、あの知恵の実を連想させるこのヘビの赤色には異常ともいえる憧憬の感情を抱いてしまったのだ。
なにより──、
「......そんなにまじまじと見るほどに珍しいか?」
「それは見るに決まってるわ!真っ赤なヘビさんってだけでも珍しいのに、ヒトの言葉が話せる動物なんてそれこそ初めてだわ!お父さまがそういう動物も造られているなんて知らなかったもの!」
「そりゃそうだろうな。楽園に生息する動物なんてヒトの言葉を理解こそできても、普通はヒトの言葉なんて話さない」
淡々としているが、冷たいとは思わない不思議な声音だ。それがヒトの言葉を話せるヘビを気味悪く感じさせない所以なのかもしれない。むしろエバの場合だと、親近感さえも湧いてくる。
「こうして誰かとお話できるの今までお父さまとアダムだけだったから、正直とても新鮮だわ!」
エバは目をキラキラ輝かしてその赤いヘビに熱く注いだ。
「感激に浸かるところ悪いが、吾輩とて初めからヒトの言葉を話せた訳ではない」
「あら!そうなの?」
「そうとも。吾輩も神に創造された時は、他の動物と同じで、思考が卑しい下等動物であったのだ」
「なら......、どうしてヒトの言葉がわかるの?」
何度も目を瞬かせるエバを見下ろして、赤いヘビは笑みを含んだ声音で得意げに続ける。
「ククク、知りたいか?」
その勿体ぶった物言いに、エバから固唾を呑む音が聞こえてくる。
──それを肯定と捉えたのか、更にくつくつとひどく楽しそうに喉を鳴らす声がヘビの口から溢れる。
「よかろう。ならば、教えてやる。吾輩がヒトの言葉を話せるようになった顛末を」
赤いヘビはゆったりとした口調で切り出した。
◇◆◇◆◇
あれは、そうだな.......。
ついこの間のことだった。吾輩が楽園の野原で彷徨っていた時だ。ふと、遠方からでも分かるほどに見事な大木が二本立っていた。
吾輩はそれに誘われるように近づいたのだ。そしたらどうだ。
片方の木の枝には神秘なる蒼の輝きを放つ果実。──そして、もう片方の木の枝には、黄金の輝きを放つ美しい赤き果実がたわわに実っているではないか!
吾輩はもっとそれを間近で見ていたいと思い、気がつけばそれらの大木の側まで近づいたのだ。
するとだな、たちまちその赤い方の果実からはなんとも言えぬ甘い香りが漂ってきて、吾輩の食欲を唆り、すぐさまにそれを“味わいたい”という激しい欲望に駆られたのだ。
もはや躊躇する理由なんてあるだろうか。いや、どこにもありはしない!だから二本の木のうちのその一本を迷わず選び、登っていったのだ。
そしてついに......!
吾輩は手当たり次第自分の尻尾でそれらをもぎ取り、腹一杯に食した。
その時に味わった喜びと幸福は、これまでのどんな悦楽とは比べ物にはならない!!この園のどの果実も叶うわけがあるまい。
──まさに至高の果実であった。
その後、吾輩は......、
◇◆◇◆◇
「気づいた時には己の中に異様な変化起きたのだ」
「変化?」
「ああ。一見表面上こそは変わらずにそのままだが、かなりの理性と知識が胸中に生じたのだ。やがて、自ずと言葉を語る能力も身につけるようにもなった」
「それであなたはヒトの言葉を喋れるのねっ!」
エバは納得したかのようにパァーと顔を明るくした──かと思いきや、すぐに顎に手を当てて思索顔になった。
「.......でも、この楽園にそんなすごい果実がなんてあったかしら?」
「いや?うぬも知ってるぞ」
「え?」
「わからぬのか?派手で目立つ実など、このエデンの楽園には二つしか存在しないではないか」
「あ......!」
──【生命の木】と【知恵の木】。
「気づいたか?そうだ──」
答えの糸口を掴んでしまったエバは声を失ったが、本当の意味で言葉を見失うのはこの直後だった。
「吾輩が食べたのは、──【知恵の実】の方だ」




