1話『エデンの楽園』★
日差しの強い日。
太陽の光が燦々と地上に降り注ぐのを眺めるのは、幸福。
──光は、エデンの園にある全てのものを美しく見せていた。
碧玉色の泉から湧き出た鏡のように澄み切った小川は、漣の音も優雅に迸り、蒼茂る木陰からぬって流れ草木に訪れ、まさに楽園にふさわしい繚乱たる百花が育んでいた。
この場所こそ、神の祝福に満ちた楽園。
──いわば、地上の天国なのだ。
そこでは人の祖──最初の男であるアダムと最初の女であるエバが共に、長閑に暮らしている。二人は幸福な夫婦の縁により結ばれた一組の男女にふさわしく、若さに溢れる親密な触れ合いに興じた日々を送っていた。
ある日のこと。
二人はいつものように園を散策したり、好きな時に園内に実る果実を自由に食べたりしていた。
楽園には常春のような心地よい気候にめぐまれ、多種多様な樹木はあたり一面に芳香を放ち、果実は枝も撓むほどに常時実っていた。
バナナやみかん、キウイやヤシなど、どれも十分に美味しい果実で、エバとアダムはそれらの実を食べては空腹を満たしてきた。
やがて、歩き疲れた二人は大きな樫の樹の陰の下に腰を下ろして休息することにしたのだ。
柔毛のような緑の草地の上に身を横たえたまま、彼らは園の樹からもぎ取った果実を食べていた。
その芳醇な香りを放つ果肉は空腹を癒し、ジュルジュルと固い皮から溢れ出る濃厚な甘さを含む果汁は喉の渇きを満たす。
アダムとエバは甘い果実を手に優しく語り合い、仲睦まじく微笑み合うのはもちろんのこと、他人の眼を憚る必要もない。
もっとも、この楽園に二人以外の人はなんていない。いるのは、地上のあらゆる動物たち──森や荒野、洞窟に棲むすべての──まだ争いを知らずに共存して戯れていた。
獅子は楽しげに飛び上がりその前足で仔山羊をあやしており、熊、虎、山猫、豹などの猛獣の群れさえも人であるアダムたちの前でゆったりとくつろいでいて、時の頬を擦り寄せて甘えている。
すぐ近くには大きな図体を持て余した象もご機嫌を伺おうとして、しきりに自身のしなやかで長い鼻を蠢かしていた。
小鳥たちは美しい合唱曲を歌い、微風も野や森の薫りを撒き散らしながら、木々の葉を顫わせ甘い調べを奏でていた。
この「大いなる至福」を詰め込んだ箱庭──エデンの楽園に生きるすべての生命はまさしく【神の申し子】だった。
その時、
アダムの隣に寄り添い、夢心地で樫の木にもたれ掛かっていたエバはふと園の中央に目を向けた。
この樫の木がある丘からは、エデンの楽園の中心にある高台がよく見えるのだ。そこには二つの巨木が植えられていました。
それらは【生命の木】と、【知恵の木】と呼ばれていた。
エバは両手に持つ甘い果実に舌鼓を打ちつつ、遠くにある二つの巨木をじっと眺めた。
──特に右側の【知恵の木】を飾る魅惑なまでの真っ赤な果実は、彼女の好奇心を掻き立てるには充分だった。
「──ねぇ、アダム」
「なんだい?エバ」
「えっとね、あそこの真ん中にある二つの木、知ってる?」
「──!」
エバの指差した方向を見れば、笑っていたアダムの顔が途端に硬直し、一転して険しくなった。
今まで見たことのないアダムの表情に不安を覚えつつも、エバは好奇心の方が勝って不思議そうに彼を見上げた。
「ここの果物はよりどりみどり、わたしたちは全部食べてきたけれど......、あそこにある二つの木の実だけはまだ食べたこと、ないわよね?」
「あ、ああ。生命と、.......そして知恵の木のことだよな?」
「ええ。食べないの?」
「食べないのではない。......食べてはいけないのだ」
「え?」
「そういえば、エバにはまだ言っていなかったな。神はな、この楽園の果実どれを食べてもよいとお許しになっているが、──唯一、生命の木の傍に植えられた【知恵の木】の実だけは食べることを禁止されているんだ」
「あら?どうして?」
「神が仰るには......“死ぬ”ってさ」
聞き慣れない単語にエバが首を傾げた。パチリパチリと瞬きを繰り返しながら、言葉の意味を理解しようと脳を動かす。
「....“し”?」
深く考えないまま、エバは頭の中に浮かんだ疑問はそのまま声になって口から零れてしまった。
かつての自分とまったく同じ反応に苦笑するも、アダムの表情をさらに強張らせた。だが、それにが気づかずエバはさらに畳み掛けるように聞いた。
「どうして死んでしまうの?死んだらどうなってしまうの?」
「どうして?」はエバの口癖だった。
なにせ彼女は深く考えるのが苦手なのだ。これまでの質問もふと思ったことを口にしただけだった。自分で考えるのは苦手だから、教えてほしかったのだ。
だから、「死」を問うのも彼女にとってはただ純粋に不思議で、素朴な質問なのだろう。
「......ううむ、.......、」
一方、アダムは元より考えることにはなかなかの無縁で、「どうして?」と疑問を持ったとしてもすぐに思考放棄してしまうため何かを問うこともなかった。
女のエバを与えられるまでのアダムは、全部神の言う通りに生きてきた。彼の行動原理はすべて「神の御意のまま」に集約されているのだ。故に、余計な質疑は必要ない──のだが、首を傾げながら純粋に知りたいと思う愛らしいエバに、男としてアダムは全霊を投げ打って答えてあげたいと思うものの、どう説明すべきか考えあぐねていた。
食べてしまったら、死ぬことになる。──確かに神はそう言っていた。だが、死ぬことはどういうことか、結局分からず終いだった。アダムがあれ以上頭を搾るのを神は許さなかったからだ。
今でも【死】について考えると、神と交わした約束の記憶と感情が一気に甦り、背中がヒヤリと冷たいものを感じてしまう。
あの時の神の威圧感にはできれば二度と味わいたくない。アダムの本能が神を畏れている。──それだけは、よくわかる。
「.......すまない。エバ。正直わたしにもわからないんだ」
はくはくと空気を噛むだけの行為を数度繰り返したところで、アダムは困ったような笑みを見せただけだった。心なしかどこか顔色が悪い。それを見たエバは俯いて、
「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりはなかったの。そうよね。お父さまが食べてはだめって言ってるもの。わたしたちはただ言う通りにしていればいいものね?」
「...っ、......そう、だな」
エバの心遣いに、アダムはキュッと唇を噛む。
明らかに煮え切らない態度をするのはアダムなのに、それを責めるどころか、自分に非があると言う優しいエバ。
「アダム。あなたはわたしの聞くことを全部やさしく答えてくれる。私はそれに甘えすぎちゃっただけなの。だから、気にしないでね?」
その言葉に、やりきれない気持ちから思わず否定を吐き出しそうになるも、それでは彼女の優しさを台無しにしてしまうので、アダムは口を噤んだ。なので、
「すまない。......ありがとう、エバ」
今はただそれ以上詮索しない妻の優しさに甘えようと、アダムは素直に感謝の言葉を口にした。
そして、気を取り直して次の言葉を継いだ、
「“死”が何であるにしても──それはおそらくわたしたちでは到底理解できない、とても恐ろしいものであるに違いない。だから、わざわざ知恵の実を味わうこともなかろう。それに──」
「......それに?」
そこでアダムは真剣な顔つきに変わり、諭すようにエバを真っ直ぐ見据えたまま静かに彼女の両肩に手を添えた。
「エバ。わたしの愛すべき人よ。我らを造ってくれた神は、とても寛容なお方に違いない。あの天使ルシフェルが言うように、神の御手から何らの恩恵を受けるに値しない我ら人間を、わざわざ土の塵から起こし、この幸福に満ちた楽園に置いてくださるのだから」
「......ええ。そうね、お父さまはとっても心の広い方。アダムとわたしが不自由にならないように、欲しいものを与えてくれてもの」
「ああ。そうだ。そのうえ、神は我々にこの楽園に棲むすべての生けるものに対する主権を委ねてくれた。これは実に感謝してもしきれないことだ」
手を伸ばして、アダムはエバの長く美しい銀髪を梳くようにして撫でた。
柔らかに柔らかに、優しく。思いが伝わるように、
「そんな神が俺たちに与えた唯一の命令が“知恵の木の実を食べてはいけない”。ただそれだけ。そんな簡単に守れるただ一つの禁制をわたしたちが守れないだなんて、さすがに烏滸がましいと思わんか?」
「......はい。あの知恵の木に触れないことこそがわたしたちのお父さまへの服従を示す唯一の徴 、ということね」
そこでエバは、遠くにある片方の【生命の木】を一瞥した。
「じゃあ、あの左側にある生命の樹の実も食べてはいけないの?」
「そう、だな。確か生命の樹の実は食べてはいけないとは言われなかった。ただ、この木も神にとって特別だから、念の為食べないでおいた方が無難だろうな」
「......、はい。そうするわ」
そう口では言いつつも、なぜ特に禁止されていないのに食べない方が無難なのかエバにはわからなくて、また脳内にハテナが浮かぶ。
だが今度はもう「どうして?」とは聞かず、それから彼女はそのまま樫の樹に腰を預けたまま、背をそらすように青空を見上げると、
「じゃあ、もうこの話はおしまいね」
たとえ疑問が解消されなくても、エバは深く追求するつもりはなかった。アダムは力強く、美しい。彼を見ているだけでうっとりするし、今はただそばにいるだけでよかった。──だからエバは燻ったままの疑問にそっと蓋をした。
「そうだとも!それよりも、私は常に神を讃え、この楽園に溢れる豊かな恩恵に感謝しながら過ごしたいさ!たとえば、今日みたいに動物たちと遊んだり、咲き誇る花の手入れだってしたい!」
そんなエバの心情を知らず、話題をそらすようにアダムは勢いよく立ち上がり生き生きと語る。そんな彼に、エバは息を抜くような力ない笑みで応じる。
「それに、まだわたしたちの知らない生き物たちがこの楽園のどこかにいるはずだ。それらに名前をつけるのもわたしの使命だ。これからもわたしは神から任せられた日課に精を出したい。たとえ骨が折れることでも、エバ、お前が一緒であればきっとすべてが楽しくなる!」
「───!」
そんな彼の切実な言葉に、エバは耳を傾けながらも、ほとんどは感動に浸かって口を綻ばせた。
禁断の果実に触れたくないのは、てっきり「死」への怯えからだと思ったけれど、アダムの双眸に浮かぶのは強い誠実だった。すべてが彼自らの意思で決めたことであろう。
そこでエバもゆっくりと立ち上がり、汚れを知らない純粋な眼差しと、愛らしげに靡く女の風情を見せながら、半ば抱きつくかの如く人類の父なるアダムに寄り掛かる。
「アダム。わたしはあなたの肉の肉として、あなたのために、そしてあなたから造られたの。あなた無くしてはわたしの生きる意味なんてないわ。わたしの導き手であり頭であるアダム!あなたが今言ったことは正しいと思うの」
彼女もまた、アダムと一緒にこの楽園の木の実を食べ、アダムとおしゃべりをし、二人で大地を散歩し、昼寝をし、太陽の熱と光を浴び、夕暮れの風景を美しいと感じ、夜になったら共に寄り添って眠る。──それがエバの幸福だった。
「アダムの言うように、神の幸福に恵まれたわたしたちは、日々の愛と感謝をお父さまに捧げないといけないわよね」
春風のような暖かい風に吹かれ、エバはアダムを見据えたまま優しく語った。
もう彼女には好奇心や不安の影が霧散した。その目には先程のアダムとよく似ていて、同じ決意が宿っていて──あるのは「無垢」と「従順」。ただそれだけ。
やはりエバは己の一部であると、アダムは感じた。優しい、慈しむような情感が彼の体中に沁み渡ってくる。それに気づいてしまえば、余計彼女が愛おしくてたまらない。
気づいた頃には、アダムは彼女の淑やかな唇に自分の唇を当てていた。
頬をほんのりと赤く染め、恥ずかしそうに行為を受け入れてくれるエバに内心昂揚を感じながら、アダムは彼女と清らかな接吻を繰り返した。
◇◇◇◇◇◇◇
そんなアダムとエバのやり取りを、遠くの草むらで聞き耳を立てているものがいた。なにやら気を押し殺しているようだ。
どの生き物とも馴れ合わないその奇妙な者は──この絶対的秩序と平穏を約束された楽園には到底ふさわしくない──恨めしげに人をただ睨んでいた。
それ赤い眼は、遠大な野望を見据えていた。刃物のように鋭いが、爛々と輝くというより静謐だ。しかし、鎌首を擡げて時に細く長い舌を出し入れしてるのが、まさに獲物を狙った舌なめずりしているかのようで、油断ならないものを窺わせる。
やがて、それは躯を捻って踵を返した。
用心深く足音を忍ばせて、誰に気づかれることなくその草むらから静かに去っていった。
──その怪しい影に気づくものは、危機意識なんて必要ないこの楽園に要るはずもなく......




