40話『ここから始めよう』★
いつかこの世界が変わってしまっても、
君だけは変わらないでいて欲しい。
生誕の間を後にしたミカエルは、ガブリエルを連れ立って、エレベーターホールの門を潜り、【拝謁の間】に繋がる反対側の出入口を出た。
そして天界の自然に囲まれた、光溢れる白亜の回廊のような石畳の道を進む。
不意に、彼が空を覗けば、
天界の空は変わらず晴れ晴れとしていた。
(空は変わっていない──風も。草木も)
さわりと頬を撫ぜるのは温かな風。土と草の匂い。薄く白い雲の流れる青空からは惜しみなく陽光が降り注いでいて、 その光にさえ匂いを感じ取れそうだった。
あの反乱の戦争に掻き消されていた、平和な自然はとっくに取り戻されたのだ。こうしてみると、すべてが終わったのを錯覚させる。
(変わったのは、残された者たちの心......)
現在天界の再構築に勤しでいるとはいえ、戦争に生き残った天使たちの心の傷は決して消えることなく、今に引き継いで生きているだけだ。
そんな彼らの精神回復はこれから全てを守り、想いを繋ぐことを決めたミカエルに掛かっている。
始まりを告げるにはあまりにも変わることなく降り注ぐ無慈悲な天の恩恵の中、ミカエルは顎を引く。
ミカエルの決意は変わらない。ただ──、
彼は先程からずっと、不安という思考の渦から抜け出せないでいた。
(ガブリエルはああ言ってくれていたが、)
──果たして、天界の者たちは新たなる天使長となったミカエルを支持してくれるのだろうか。
先代の天使長であったルシフェルの統治能力は紛れもなく天界では最も優れていた。その言葉は相手を慴伏してしまう強さがある。
ルシフェル 程のカリスマ性に及ばない未熟なミカエルには天界において最高地位の「天使長」という肩書きは些か重いのだろう。
(いや.......問題はそこだけではない──、)
ルシフェルを含めた叛逆者の討伐という大きな功績を成し遂げたものの、「あの反乱」が原因でその後のミカエルは半ば職務放棄するほどの抜け殻に近い状態で、意気消沈な日々を送っていた。
最も間近な七大天使たちに至っては、かつては己の自滅を乞うなどの醜態を晒しているのだ。背負った全てを糧に天界の舵取りになろうと決意した矢先とはいえ──、
(やはり.......、こんな私に幻滅して、見限っているのかもしれない......)
一歩一歩前へ進みながらも、物思いに耽けていたミカエルはふと顔を上げた。そして、───回廊の奥の向こう側に意識を向けた。
「───……」
「あら?」
その先には、数人の物影が立っていた。
「ラミエル、ラファエル、......そして、ウリエル」
そこにはハニエルを除く他の七大天使の三人が待ち構えていた。予期せぬ遭遇にミカエルは思わず立ち止まった。
その先に待っている彼らは、瞳にかつての強い輝きを取り戻した今のミカエルにどんな思いを抱いているのか。──そんな考えより彼らを見据えると、向こうもミカエルたちへ視線を向けた。
「お!やっと出てきた〜!ずーっと塞ぎ込むミカエル司令が心配でみんなで迎えに来ちゃった⭐︎」
「フン!俺は心配などしておらん!ただ今では天使長兼総司令官ともあろう者が拝謁の時間に遅れるなんてあってはならんと思ってだな、」
「やれやれ。わざわざここまで足を運んでさらには長時間様子見で待機しておいてのそのセリフは説得力を欠けると思うのだがね、捻くれ者もここまで来るとめんどくさいのだよ」
「黙れぃ!余計な事を言うな!ラファエル!」
気合や勢いを出す言葉でも、励ましや応援の言葉でもない。ただいつも通りのやり取りをしていた。相変わらずだと思いながら、どこか喜びにも似た感覚と安堵を覚えるミカエルは、微かに覆面に隠された頬を緩める。
これまでどんな時も心まで寄り添ってくれていた七大天使は、これからの道を一緒に歩み出そうとミカエルを待ってくれていたのだ。
「ね、わたくしの言った通りでございましょう?ミカエル。貴方には、──貴方を信じて待ってくれる者たちがちゃんといるってことを」
「......ああ。本当に、私には勿体無いほどの仲間たちだ」
そう感慨深く溢したあと、ガブリエルを背後に、ミカエルはウリエルたちに一歩、詰め寄る。
「ウリエルたち。そして、他の皆も」
面々を見渡し、深く頭を下げた。
「──いろいろと迷惑を掛けて、本当に申し訳なかった。さぞ君たちを困らせたと自覚している。だが、もう私は大丈夫だ」
ここ最近のミカエルの雰囲気とガラリ変わったのを感じたのか、こちらを向ける彼らの瞳に僅かな驚きの色が差すのが見えた。そんな気持ちを知ってか知らずか、ミカエルはウリエルの前に立った。
「ウリエルも......すまなかった。君にも損な役割をさせてしまって、面目ない......」
「......いえ。俺は自分のしたいようにしただけですぜ。別にミカエル司令のために一役買って出るなどの機転なんて俺には無縁なことです」
目を逸らすウリエルは、忖度など微塵も含んでいない素っ気ない口調で言った。
「いやいや〜ウリエル君〜!普通そこはもう少し気持ちを汲んであげようよ〜」
「あぁん?気持ちを汲む?励ませばいいのか?“次にまた腑抜けたヅラ見せたらもう一発焼きを入れておきますのでどうぞご安心を”とでも言えばいいのか?」
「言えばいいのか?──じゃないよ!それ励ましとは言えないよね?絶対脅し文句だよね!?なに、君にとって優しさのひとつ見せるのがそんなに難しいの?もしかしてわざとやってる?」
「バカにしてんのか!!至って本気に決まっているだろうがッ!!!」
「まさかの素だった!?君が本当ミカエル司令のこと尊敬しているのかボクですらたまに疑わしく思うヨ」
ラミエルは、励まし方がわからない同志を呆れながら見遣った。それとも天界一の厳格さを極め過ぎて全感覚が麻痺して、思いやりというものすらも忘れてしまったのだろうか。
喧しく叫ぶラミエルに興味を失せて顔を背ければ、そこでふとウリエルは思案げな顔つきに変わりミカエルに向き直った。
「にしても、......ここ最近の顔つきとはまた、えらく違ってきましたね。何か心境の変化でも?」
話に入らず、二人の会話が終わるのを待っていたミカエルはその視線を受け、顎を引けば、
「……ウリエル、私は……」
「?」
軽く息を止めて、ウリエルを見て、
「……生きたい、と、思う……」
「!」
呟くように言ったミカエルに、ウリエルは僅かに目を見開く。
ミカエルの発言はかつて「殺してくれ」と懇願したものとは対極なものであったからだ。まさに自暴自棄とも言える状態へ陥っていたあの頃を思えば、雲泥の差だった。
さすがに想定外なのか、怪訝そうな目をするウリエルに構わず、ミカエルは憑き物が落ちたかのような穏やかな声で言葉を続けた。
「私は生きたい。……この世界で、君達と共に、生き続けたい」
この胸に綻ぶ思いに気づけたからこそ、言葉を尽くす必要があるだろうと思った。だかた、ミカエルは躊躇うことなく滔々と想いを綴る。
「ただ此処にいるだけでは駄目だ。君達がいるだけでも、......穏やかでなくとも良い。進む先が赤く染まる嵐であっても、それが代償であると言うなら、私は喜んで向かって行こう。この世界で、君たちと共に歩めるのなら、幾度この剣を抜く事になっても構わない」
「「「「.......!」」」」
強い瞳で捉えるミカエルの言葉を聞きながら、七大天使たちの心は静かに震わせた。真正面でそれを受け止めたウリエルに至っては頭が熱くなっていくのを感じた。
ミカエルの意図はわかるのだが、並べられた言葉のせいか、老若男女関係なくどうにも熱烈に口説かれているような心地になる。だからと言ってどう感情が動くという事は当然無いのだが、嬉しさよりもむず痒さのほうが勝ってしまう。
「ヒュー♪大胆な告白♪ボクたちってそんなにミカエル司令に一目置かれていたんッスね!」
「ラミエル!ミカエルは真面目に話されているのよ?ここは茶化す場面ではないと思いますわ」
荘厳な空気を払拭しようと、意識して軽口を叩くラミエルにガブリエルがやんわりと宥める。
「まぁ、なかなかの率直な表現はいつものミカエルらしいではないか。誰かさんのおかげで元の天然が炸裂して何よりではないかね。結果オーライというものなのだよ」
一方でラファエルが顎に手をやり、ウリエルを見ながら冗談めかしたように言う。
それを聞き、ウリエルはハッと我に返ったのか、ぷいっと顔を背けた。
「フン!ようやく天使長らしい事を言えたではないですかっ!それよりもいつまでもこうしちゃいられねぇんだ!早く【拝謁の間】へ集合するぞ!」
「あれ〜?いつになく早口だねぇ〜?ウリエル君まさか照れてるの〜?」
「やかましいわ!テメェもさっさと歩かんか!」
「痛っ!!?」
「やれやれ。素直じゃないのも考えものなのだよ」
騒がしくも歩き出したウリエルたちに、ミカエルとガブリエルは顔を見合わせると、小さく笑い合って彼らに続いた。
「......ここにハニエルがいたら、もっと賑やかであっただろうな」
「そうですわね。きっといつかハニエルも復帰されますわ。彼女の回復を信じましょう」
「......そうだな。ハニエルを含め、今眠る同胞たちがいつでも帰って来れるように、私たちは天界の復興を努めよう」
「はい!」
そう願う彼らに、そっと温かな風が通り過ぎた。
これからの永遠の時間の流れの中で、ここにいる仲間達と志を共にし、魂が尽きるまで責務を全うする。──罪過の色が、生まれたての命の色になるその日まで。
今度こそ、
(さらばだ。我が兄よ)
──ミカエルの歩む足には、もう迷いは微塵もなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
「クックック......我が名はルシファー。さぁ、魔の諸君。我らが味わった敗北の屈辱を以て、愚かなる神には一矢を報いてやろうぞ」
身体に纏わりつくような粘り気のある暗黒の瘴気に身を沈む彼は、嗤った。
──これは復讐なのだ。
「さあ、行け。我が分身よ」
赤い悪魔は邪悪なる使命を胸に秘め、ひたすらに楽園を目指して上へ上へと漆黒なる翼を駆った。
憎き人の始祖。今はまだ美しい無罪の魂──アダムとエバを穢すために。
──さあ、新たな幕の「始まり」だ。




