38話『終戦。遺された者たち』★
ルシフェルは堕ちた。
それに引き続いて、その他の叛逆の天使たちも自分たちの首領となる“ルシファー”の後を追うように迷う事なく深淵に飛び込み、やがて、全員が地獄の炎の渦に呑み込まれていった。
──もう亀裂の奥には何もなかった。ただ虚しく燃え盛る不気味な地獄の炎のみが映る......、
ミカエルはルシフェルとの戦いには勝ったが、勝負には惨敗だったのだ。
霞む靄にも似た白い絶望がミカエルの視界を支配した。
彼はただ呆然と亀裂を覆う無情な赫を見つめるしか出来なかった。自分の半身を失った今、もう何も出来る気がしない。
最後まで己の信念を貫いた明星の天使は、兄弟の手を取ることはなく、大勢の「仲間」と共に深淵の彼方にある理想郷を選んで消えてしまったのだから。
生まれたその瞬間から、握り合っていた神の「右手」と「左手」。
右手は亀裂の底の地獄へと堕ち、
左手は天界に独り取り残された。
もう、会えない。
彼は遠い所へ行ってしまった。
もう、会えない。
彼はミカエルの世界からいなくなってしまった。
(あ…っ、ぁっ…!!)
だんだんと、その実感が出てくる。
体を思いのままに動かすことも、反乱の脅威が過ぎ去ったことに喜ぶことも、もはや生きることすら、まともに出来る気がしない。ただただ空虚な欠落感だけが、ミカエルの胸を重く厚く支配していた。
しばらく茫然自失に陥ってどれくらい経ったのだろう。不意にミカエルがもう一度戦場の大地に目を向ければ、
「なん、だと......、」
そこに生じた巨大な亀裂はまるで意思を持つように、いつしかその傷を自ら埋めていた。
そう。先程ミカエルの足元で空間を裂き存在していた──ぽっかりと黒く空いていた地獄への入り口が、無くなっていたのだ。
そこに気づいた瞬間、
「天界が戻っていく......?」
戦火で焼け果てた天界の大地に草が萌え、またたく間にとりどりの花が咲き誇る。
天界を闇の世界へ引き込む夜天の幻影も霧散し、徐々に立ち上る純白な雲は、一帯の天界の風景に整然とした秩序と平穏さの印象を飾る。
あれほど天界でうろうろと彷徨うように徘徊していた【堕】も今は見る影もない。当然だ。ルシフェルがすべて地獄の底へと連れて行ったのだから。
(まるで、何事もなかったかのように......)
痛いほどの眩しい澄み渡る青空や、鮮やかに彩られる大地のどこにも、つい先程までに起こった紛争が認められない。
──そう、
いつも通りの美しい天界に戻っていた。
まるで、血染めの剣を引っ提げた天使への皮肉のような──その劇的変化は脳内に焼きついた“ルシフェル”の最期を否定された気分にさせられ、ミカエルの胸の中で震える大きな喪失感と悲愴感が同時に悲鳴を上げた。
そして、ようやく見当がついた。
このような物事を瞬時に復旧できる神業ができるのは、この天界では二人しか存在しない。
全知全能である神と、
──「神継ぎの御子」だけだ。
そう思ったと同時に、ミカエルの背後から唯ならぬ気配を感じた。
「......これで、満足でしょうか......?」
無力感に苛まれながらも、ミカエルはゆっくりと後ろへ振り返り、力無くそう言った。
「──イエス様」
そこには御子が穏やかに佇んでいた。その華奢な背中には、翼は一枚も咲かせてはいない。
──どこか幼さを残しながらも整ったその顔には優しい微笑を湛えていた。
その後、ルシフェルの堕天の一報が全天界に知り渡った。
それはやはり大きな混乱と衝撃を招いたのだ。そのうち、主戦場にいなかったルシフェルを敬愛する崇拝者たちも次々と後追い堕天し、さらに大多数の天使が天界から消えた。
その結果、天界の天使は全体の半分以下という過去に類を見ない数までに減少し、その後も余燼は燻っていた。
──かつて神に最も愛された明けの明星の謀反は、それほどまで天界に致命的な打撃と傷跡を残すトラウマとなって、残された天使達の心に強い憎悪と怒りだけを強く植えつけていったのだ。
当分は長らく混乱した天界だったが、それでも七大天使が在籍する統御天議会の指揮による各施設への迅速な人員の充当、僅かに残ったルシフェル派の統括、再出発に向けた全体の意思統一を経て、ようやく一致団結して天界の再構築に取り組むことができた。
──かつての平穏を取り戻すために。
◇◇◇◇◇◇◇
広がる情景は泡霧に変わった時に重なり、耳の奥で響く記憶の声を手繰れば、もうこの世界には居ない彼らを感じれる気がした。
孤独を与えない穏やかな静けさの中、そっと目を伏せ、柔らかな昏き光が瞼の裏の瞳を照らす。心地よい大気の寝息に身を任せていると、暫くして、近づいてくる静かな足音が聞こえ、ミカエルはゆっくりと瞼を上げた。
「やはりここにいましたのね。ミカエル」
名前を呼ばれたミカエルは、声のするほうをゆっくりと見た。
「......ガブリエルか。どうしたのだ」
ここは【生誕の間】。
天使が生まれ、そして死にゆく天使が最後眠りにつく神聖なる場所。
ドーム型の広間の室内とは思えぬほど、中は一線を画した幻想的な大自然の空間が繰り広げられていた。中央には七色に輝く大神樹──【生命の樹】が天井の空を突き破らん勢いにそびえ立っている。
「どうしたもなにも......、もうすぐ我が主がお見えする時間ではなくて?」
ガブリエルは、中央に鎮座する大きく根を張り枝を広げる大樹を見上げたまま、風になびく藍色の長髪を押さえながらゆっくりとミカエルに近づく。
「......もうそんな時間か」
「念のため呼びに来て正解でしたわね。でなければ、またウリエルが口煩いことでしょう」
「......すまない」
「どうかお気になさらず。神の伝令こそわたくしの役目ですもの。それに、天使長ともなれば、何かとお忙しいかと存じますわ」
「────、」
「天使長」。
ガブリエルの何気ない言葉にミカエルはズキンと心を痛める。哀切の感情で瞳を満たすミカエルを見て、ガブリエルは自分が間接的に失言したことに思い至った。
ルシフェルが堕天したことで、ミカエルは繰上げ昇格となった。ルシフェルを代わり総司令官の座に就き、そして現天使長という天界では「最高位天使」の地位を与えられていた。
──これらの役目も名誉も、本来であればルシフェルひとりだけのものなのに。
そんなルシフェルを地獄へ堕とした張本人が今では彼のかつての栄光をすべて手にしていることに罪悪感を抱いてしまうのは分かりきったことなのに。
「......ごめんなさい。そんなつもりなんてなかったの」
「いや......、君は悪くない」
心の内で悲鳴混じりに叫びつつ、ミカエルは目を伏せる。が、そんなミカエルよりもそれに気づくガブリエルの瞳に浮かぶ動揺の方がずっと激しい。
「悪いのは、いつまでも引きずる私の方なのだ」
「.......っ、無理もないわ。立ち直るには心の傷が深過ぎるもの──それに、」
多大すぎる犠牲を払ったのだ。
ルシフェルに誑かされて、地獄へと道連れにされていった元同胞たちはもちろん、賊軍を食い止めようとした結果、核を砕かれ散って逝った同胞たち。
友人。兄弟。同僚。
皆が皆、身近にいる誰かが傷つけられた思いを背負っている。──それは七大天使とて例外ではなかった。
「......ハニエルの容態はどうだ」
「ええ。一時は非常に危険な状態だったけれど、ラファエルが尽力した結果、現在は順調に回復はしていますわ。だからどうぞ安心してくださいまし」
「......、そうか」
あの反乱の日に、首謀者のルシフェル以外の七大天使の緊急招集に応じず、姿を晦ませたハニエル。
てっきり彼女も心酔するルシフェルを後追い堕天したかと思われていたが、なんと後日にルシフェルの拠点であった【闇の神殿】にて大量出血の無残な姿で捜索部隊により発見された。
「不幸中の幸いにも、核自体は無傷だったので他の天使たちとは違い、救済の余地がありましたわ」
天使には肉体のどこかに必ず【核】と呼ばれる生命線──人で言えば心臓に等しい──を持っている。その【核】が砕かれると肉体は維持できず、天使は滅びる。いわば、死と同じだ。
当初のハニエルは状態こそ死の一歩手前と言ったところで、あのまま放置すればやがて光の粒子となって消滅してしまうものだったが、核が無事であるゆえに、一命は取り留めたのだ。
しかし、
「どうやらハニエルはあの反乱の日の記憶だけ不自然なほど綺麗に欠落しているようですの」
「記憶喪失、ということか」
「ええ。おそらく作為的なものかと。ハニエルがなぜあの【闇の神殿】で倒れていたのか、そしてルシフェル元天使長の反乱の件も知らない様子でしたわ」
一時的に意識を取り戻したハニエルはルシフェルが堕天を果たし天界から立ち去ったことをひどく嘆いた。
それこそ最初は後追いする勢いでパニックに陥ったが、ガブリエルの水の鎮静の力でどうにか落ちつかせたものの、それからは深い悲しみと共に昏睡状態に陥った。
「あの時のハニエルの体内からは闇のエネルギーの残滓が検出されております。状況的な判断も含め、加害者はほぼ間違いなく、」
「ルシフェル、か」
ガブリエルの言葉尻を引き継ぐように、ミカエルが重い口を開けた。
「ええ。謀反を止めようとして危害を加えられたのか、あるいは謀反に加担する途中で切り捨てられたのかは定かではございませんが......、」
ルシフェルとハニエル。
二人の間に何が起こったのか。
今となっては真相は闇の中。
ただ、一つわかったことは──、
「こうなってしまったのは、私の責任だ」
「......ミカエル。何度でも言いますように、この天界にいる者、誰一人そう思ってはおりませんですし、貴方がまたそうやって自分を責めるのを望んでなどいないわ」
だがミカエルはそう思っている、──全てが自分の粗忽な判断によるもの。
ルシフェルの異変に目を瞑ったり、盲目にルシフェルを疑う者を諌めることさえしなかったら、このような惨状には至らなかった。
「すべては、私の不慮が招いた結果だ」
握りしめたミカエルの拳を見ていたガブリエルが、静かに口を開く。
「ミカエル。貴方の遺憾の念は充分みんなに伝わっているわ──だって毎日ここに通うのは亡き同胞たちへの追悼の意を捧げるためではなくて?」
そんなガブリエルの言葉に「それは……」と曖昧な返事をしながら、ミカエルは上へ向けていた視線を下へと移す。
大神樹の周りには、黄色の大きな水仙の蕾が部屋の大地いっぱいに埋め尽くされていた。その固く閉じた一つ一つには犠牲となった同胞たちの傷ついた魂が穏やかな眠りについている。
【生命の樹】はその名の通り、あらゆる「生命」の源。本来天使はこの樹を養分とした黄水仙の花で誕生し、死してもまた魂が核に還る。そして黄水仙の蕾へ戻ることで輪廻転生を繰り返す。
つまり、【核】が砕かれた天使の肉体は一旦滅びるが、亡き魂を宿ったままの核はこの【生誕の間】に生える黄色い水仙の蕾の中でいつか迎える復活の時を待ち侘びながら長い眠りにつくのだ。
「貴方がこうして毎日弔いに来てくれているだけで、ここに眠る皆もきっと報われる思いですわ。だってこんなにも彼らの【核】の安らぎを感じますもの」
ガブリエルの口にしたやさしい言葉も単なる気休めでしかなかったのか、それを反芻し、ミカエルは弱々しく、力なく首を横に振り、
「だが、......我々はもう昔の彼らには二度と会うことはできないのだ」
もっとも、復活のそれが「いつ」になるのかは不明なのだ。仮に念願の復活を果たせたとしても、彼らの以前の記憶や人格を保ったまま生まれ変われる訳ではない。
──あくまで「蘇生」ではまく、「再生」なのだ。
「──すまない」
ミカエルは謝罪の言葉を漏らした。
それはガブリエルに向けてなのか、それとも【生誕の間】に眠る者たちに向けてなのか。はたまた、深い心の傷痕を抱えた天界のいるすべての者たちへなのか、もはやミカエル自身ですらわかっていないのかもしれない。
けれど、決して軽くはないその謝意に込められた悲痛の思いを汲んだガブリエルは、ただ憂いの眼差しを向けることしかできなかった。
「本当に、すまない......!」
「ミカエル......」
ガブリエルの全身を突き刺すような後悔の念が襲い掛かった。ミカエルに悲しい思い出を掘り起こさせて、更には胸を震わせるような懺悔を吐かせてしまったことへの罪悪感に滅多刺しにされる。
それ以上の慰めを、口にできるはずもなく──......




