4話『天使長ルシフェル』★
人類が誕生するより遥か昔。
頂点なる神と天使が生きる世界──【天界】が存在していた。
人間と同じく、天使もまた全知全能なる神の被造物の一つであり、その名の通り『神に仕える使者』である。
頭上に浮かぶ煌めく聖なる輪──通称【天使の輪】と、その背中に生えた翼こそがその種族の最も顕著な特徴となる。
そんな天使もすべてが平等に創られているわけではない。天界は絶対的な階級社会であるが故に、【天使の九階級】が存在する。
それは大きく『父』、『子』、『聖霊』のそれぞれ三段階に分けられている。
まず、『父』階級に属する上位三隊の天使。
彼らは直接神と接触し、直に神の栄光を受けることを許される存在で、ほんのごく一部では天使に分類されながらも神に劣らぬ力を持つと噂されている。
次に、『子』階級に属する中位三隊の天使。
神の威光を遍く知らしめ、神の掟を正しく執行する役目を担っている。天界の秩序を守るために様々な実働的な働きをする存在。
最後に、『聖霊』階級に属する下位の天使。
上位・中位天使より授かった神のお告げを人に伝え、その行き先を正しく導く仲介的役目を持つ。後に深く人と関わり、人にとって最も身近な天使になる。
そんな【天使の階級】の枠組みに収まらない、あらゆる点で一際異彩を放つ、いわば、特別な天使がいた。
── 熾天使ルシフェル ──
『明けの明星』を指し、『光を掲げる者』という意味をもつ、神により最初に創造されし究極の熾天使。
天使の中で最も神の寵愛を受け──生まれながらにして、総ての敬意と賛美を得た確固たる最高の地位に君臨し続けた──全天使の長。
天界の中枢軍機関・統御天議会の総司令官を務め、神から賜る大命の為に日々行動し、天界のために神に次ぐ威厳と権力を駆使し続けている。
ルシフェルだけに与えられた、その七色に輝く十二枚の特別な翼は、彼が天使の中でどれだけ特別であるかを象徴していた。
これほどの完全無双を極めたルシフェルは、天界にいる者たちからすればまさに空の果てに咲く高嶺の花だった。
──そんなルシフェルが、この神芝居の幕開けを飾る。
その日も、天界は美しかった。
天界は七つの虹の層で構成され、それを越えた更なる上空──神の玉座がある大神殿──【天神殿】。ごく限られた者しか足を踏み入れることが許されない、この世の中に存在する究極の聖域である。
それはまるで神の秘匿を徹底するかのように、オーロラのような神秘的で巨大なカーテンがほぼ全てを遮っているからだ。カーテンは途切れることなくどこまでも続き、神が住まう聖域を穢されまいとばかりに囲んでいる。
その真の聖域の周辺の庭には千姿万態の花が溢れんばかりに咲き誇っていた。
やさしい風の誘いに乗って舞い踊る花弁たちは背景を彩るに過ぎないが、大空より差し込む目に痛いほど眩い光がその色彩を昇華することで、万華鏡のような幻想的な光景が展開されていた。
そんな夢と現実の境が曖昧な程の美しい世界に、一際長身で巨大な物影が佇んでいた。
一際輝く、神性を表す黄金の瞳。
全身に煌びやかな鎧を纏い、その頭部の上には──重力に逆らった──紫色の蛍光に淀めく立派な天使の光輪が浮んでいる。
それこそがこの天界を束ねる天使長──ルシフェルであった。
今、彼の目に映るのは、眼前の堪能すべき美景ではなく、ここではない静寂の境を越えた遠い彼方──。
表情は白い陶器の覆面に隠れているが、険しい雰囲気が滲み出ている。この頃のルシフェルはふと物思いに耽ることが多くなっていた。
心を乱す原因は、彼自身が分かり過ぎるほどに心得ていた。現に今でもルシフェルの脳内を占めるのは【神の御子】の存在だった。
“神の御子たるイエスは、
唯一神からすべての権限を譲渡される“
【神の世継ぎ】の誕生──そんな前代未聞なる宣明は天使たちの間に未だかつてない衝撃が走ったのだ。『支配者交代』という新たなる革命の嵐となって、この天界に革新と混乱を吹き込み、天使達の間に賛否両論を巻き起こしている。
「それだけに飽き足らず、御子と共に“人”まで創造されただと......?それも──、チッ、冗談ではない」
つい先程神との面会を果たしたルシフェルは、その件について思い出したのか、低く、冷たい言葉が重々しい響きを伴ってその口から吐き捨てられた。
立て続けに天界に出現する『異分子』の影は、絶えずルシフェルの忠心をひどく不愉快に掻き毟っていった。
「────、......そろそろ時間だな」
どれだけ長い間沈黙に浸かっていたのだろう。やがて、ルシフェルは何かを思い出したかのようにマントを翻して、神の庭を後にしようと地面を踏みしめた瞬間、
「──!」
突然ルシフェルの周辺に黒い靄のようなものが這い出て、一直線に彼の方へにじり寄る。
何の前触れもなしに現れたその悍ましいほどの黒は、次第に形を成した。
歪 み
蠢 き
じわじわと、舌のような触手を広げ、足首からルシフェルの体を侵蝕していく。
蝕 み
「──またか」
しかし、どう見ても不吉でしかないその幻怪に対して、ルシフェルは特段驚く様子を見せない。
むしろ嫌気がさしたかのような悪態をついただけだった。どうやら、彼にとってはそう珍しくない事態のようだ。
「このところ、うじゃうじゃと湧き出てきおって......、虫唾が走る!」
ルシフェルは手を翳した。
そして、妙にやさしい手つきでその意思を持った黒い靄を鷲掴み、
「──ここは聖なる天界の地だ。貴様らの居場所ではない」
ギリィイイイイイイイイッ!!
握り潰した。
──あらん限りの“悪意”を込めて。
「目障りだ。消えろ」
けたたましい断末魔が天界の大気を震撼させた。不気味な謎の靄は跡形もなくルシフェルの手により葬り去られた。
こういった“始末”は今に始まったことではないが、あの絹を裂くような耳障りな絶叫はいつまで経っても慣れるものではない。
また穢らわしいものに触れてしまった──そう内心辟易しながら、ルシフェルは忌まわしそうに己の掌をひらつかせた。
近頃──それこそ神の御子が誕生した時から、この天界の至る所に時折謎めいた黒い靄が出没するようになった。
いや、“謎めいた”などといった表現は適切ではない。なぜなら、ルシフェルはその正体を知っているからだ。
(そう......あれは──)
【神の負の思念体】。
厳密に言えば、神から生まれる負の思念というエネルギーが集合体化し、具現したもの。
既にそれが、天界では忌むべきものだと認知されていた。そのような不浄なものが天界に蔓延ることは決して許されない。だから、
“見つけ次第滅せよ”──それが天界の掟となっている。
(そうだ、天界に於いてすべてのものが美しく清くあるべきだ)
──己の身も含めて。
それを嘲笑うかのように、ふと一瞬、黒い靄のようなものが彼の心に渦巻いた。
ルシフェルの心を投影したその感情の輪郭は、彼が握り潰したあの不浄の靄と酷似していた。取り憑かれてしまったのだろうか──そう錯覚してしまうほどに。
「バカバカしい」
だが、そう鬱陶しそうに吐き捨てられる言葉とは裏腹に同じ思考は続いてゆく。
浮かぶ疑問に、矛盾した結論をあてはめ、頭の中から消去してゆく。そうしなければ、彼の恒常性が保てなくなると、本能が判断したからだ。
ルシフェルは、今では憎らしいとすら思えるほど晴れ渡る天界の大空を見上げた。
視線をそのままに七色に輝く十二枚の羽根を広げ、地面に渦を巻き起こすと、彼は力強い感覚と共にそこへ飛び込んだ。
「─────」
僅かに澱む心の闇を振り払うように、彼は眩しすぎる日光に沿って、そのまま天界の下層へ降り立った。
──この時、ルシフェルは既に運命が仕掛けた悪夢に片足を踏み入れていたことに、彼自身はまだ気づいていなかった。