37話『魔王ルシファーの誕生』★
その瞳を見つめれば、
私の知らない世界が見えた────
ミカエルはついに、言葉を失ってしまったのだ。
彼は、ルシフェルは、堕天したとはいえ──元は天使でありながら、奈落の底から魔界を支配し、そして最終的には神を差し置いて世界を手に入れようと言うのか。
高潔なルシフェルが自分の手を汚してまで神が統べる世界を変えようとしていたことは察していた。だが、まさか彼の中にはそんな倒錯的な筋書きがあったとは、長年共にいた双子のミカエルでさえも想定の範疇を遥かに超えていたのだ。
「落ちぶれたな。ルシフェルよ。そこまでして神から離れるつもりなのか、身も、......心も」
俯くミカエルは搾り出すように呟く。
「──“神から離れる”?フン。そう見えるか?」
「それ以外に何がある!?堕天に限らず、今度は神が忌み嫌う奈落に手を出すとは!どこまで神から離反すれば気が済むのだ!?ルシフェル!」
「どこまでも、だ。──なにせ、今からその名すらも捨て去るつもりなのだからな」
ふと、息が止まったような感覚にミカエルは支配される。
彼はなにを、言い出すのだ。天使(我々)の名は神より受け賜りし至高の祝福、それを、
「すべてを、踏み躙るのか......」
絞り出すようなミカエルの言葉に、ルシフェルはくくくと笑うが、その笑みはこれまででもっとも愉快で、これまで以上の圧迫感ミカエルに与える。
「どこまでも人聞き悪いことを。私は至極真っ当な発言をしたまでだ。──【エル】という言葉は、【神に祝福されし者】という意味で、天使達に与えられる名誉。だからこそ、罪深き反逆者にはふさわしくないであろう。私は神に謀反を企むその時から、既に【穢れた光】へと成り果てたのだ。だから神の祝福を自ら謹んで辞退したに過ぎない」
聞きたくない言葉が、知りたくもないことが、ミカエルの鼓膜を叩いて流れ込んでくる。
「そう、私はもう二度と神の加護に触れることを赦されぬ身なのだ。だから、もう私のことは【ルシフェル】と呼んでくれるな。その名を語る資格はとっくに失った──そして、そう!これからだ」
そこで一旦言葉を切って、不敵に笑うとルシフェルは背後に闇のオーラを纏わせながら静かに踵を返した。
今までの怪我がまるでカモフラージュであったかのように、傷はすべて綺麗に癒えていた。
そのままルシフェルはゆったりした足取りで崖っぷちに進み寄った。
そして、凛とした様子で崖の上に佇んだまま、手には彼の佩剣。──その刃には自身が起こした反乱にて斬り捨てたかつての同胞たちの血がこびりついていた。
呆気に取られるミカエルを尻目に、ルシフェルは未だに戦っている天使たちを見渡した。
「神に支えし天使たちよ!聞けぃ!」
荒ぶる昏き空が、雷鳴を轟かせる。
「神の目は今、灰に遮られた!!大義は既に我らより去った!もはや天界にいる意義など存在せぬ!」
天界中に響き渡る、悪逆天使の宣言。
崖の上に立つルシフェルは手中の剣を高く掲げて、まるで頂点に立つ支配者の名を冠されたその剣は主人の意志に応じるように闇の輝きを放つ。
「諸君らに宣言する!このルシフェル、自らの意志をもって無能な神のいる天界から立ち去る!よって!この時をもって私は独立を果たし、【神の被造物】ではなくなったのだ!」
ルシフェルは言葉を継いで、バサッとマントを翻した。
「神よ!汝に代わりこの世界を創り変える為、私は【魔】になりましょう!ここにてけじめとして、迷いと共に、我が名を捨て去ろう──神の呪縛から解き放され、私は生まれ変わった!今ここに立つ私は“ルシファー”であると!!以下、ありとあらゆる負の化身よ!我が身に集え!汝らの闇と悪を、この奈落の王ルシフェル改めルシファーが全て引き受ける!」
途端、その声高らかな宣言に呼応するように、天界に跋扈していた【堕】が一斉にルシフェルの背中へ飛ぶこむように集約する。すると、ルシフェルの背中の七色の十二翼がたちまち強烈な闇のオーラに包まれた。
「なんてことだ......!」
「あの【堕】を吸収した、だと......!?」
天界の者にとってはおぞましいものでしかない光景に、困惑を隠せないのはミカエルだけではない。その場の善き天使たちも騒然となった。
「──さあ!!神を背く意志を持つ、勇気のある反逆の徒たちよ!我が罪深き意志に賛同する者たちよ!私と共に堕ちる覚悟を持つ者は来るが良い!神の光など届かぬ奈落より、【魔界】を魔の理想郷として導いて見せようぞ!【魔王ルシファー】として!」
ルシフェルはここぞとばかりに己にしかない暗黒なる十二の翼を見せびらかし、尊大に胸をそびやかした。神への歪んだ叛逆心を燃やす反逆軍たちは見事なその威光に心を奪われていた。
「堕ちし天の使いたちよ
──我に従え!!」
刹那、
地響きの如き大歓声が天界の大気を揺るがした。ルシフェルを改め、ルシファー派の天使達が腕を振り上げ、喝采の嵐を巻き起こした。
「ルシフェル様!いえ、ルシファー様!!」
「魔王様!」
「我々は貴方様にどこまでもついていきます!」
この瞬間、ルシフェルは孤独ではなかった。
掲げられた彼の大義名分を賛同し、心の奥底に募る神への叛逆心を抱えるのは何も彼だけではなかったのだから。
「ルシファー様.......!ど、どうか!私めも連れて行ってください!」
「やはり神よりも、わたくしめはルシファー様にお仕え申し上げたいッ」
さらには「ルシフェル」のカリスマ性に感化かれたのか、はたまた「ルシファー」の新たなる可能性」を見出したのか、一部の善き天使たちすらも彼の絶妙な話術に引き込まれのだ。
感動したように「私も!」と続々と叫びを上げ、その他の叛逆に天使たちと共に、ルシファーに追随しようと地獄の入り口へと向かっていく。
「──と、いう訳だ」
所信表明を終えたルシフェルは振り向き、ミカエルと対峙する。
雷光は赤白く面を照らし、ルシフェルの美しさを不気味に際立たせた。ルシフェルの瞳は真っ直ぐミカエルを捉える。そこには昔のような天使としての献身的な清らかさはもう完全に見る影もなく、あるのは傲慢なまでの「何か」を渇望する強い意志と非情なまでの冷たい闇だった。
──まさに、見る者を畏怖させると同時に、服従してすべてを捧げたくなるような絶対的支配者の瞳であった。
「さて、そろそろ私は行く。......貴様はもうこれにて撤退しろ。地獄に巻き込まれたくはあるまい?」
「みすみす君を行かせると思うのか!ルシフェル!」
「くどい。何度も言わせるでない。ルシフェルなんて天使は......もういない。よってこの天界に私の居場所もたった今完全になくなった訳だ」
「──ッ!なぜそう簡単に切り捨てられる!?今まで我々が共に過ごしてきた時間!絆は!すべて無駄だったのか!?君の神への愛と忠誠心もその程度のものなのか......!」
膠着状態というには一方的な詰めの場面。ミカエルはひたすらに頭を回転させて、少しでもルシフェルを説得しようと苦心する。
だが、
「ミカエルよ。貴様が求める神の愛は過去か現在──それとも、未来にあるのか?」
「──────、」
なんの脈絡もなく投げられた問いかけに、ミカエルは訝しげにルシフェルを見つつも、押し黙った。
ルシフェルの質問の意図も、そして彼が求める「答え」にも見当がつかなったからだ。
「フッ、何も知らぬ貴様にこの問いはさすがに酷か、──忘れてくれ」
返答に窮するミカエルを見て、ルシフェルは諦めたようにフッと笑い彼に背中を見せた。
「貴様は私が神から離れたがっていると言ったな?──それは神を愛するこそだ。」
「何を言っている?神を愛する我々天使なら、常に神のお側に寄り添うべきなのだ!──神から授かりし我が天なる魂がそう叫んでいる!」
「クッ、フハハハハッハハ!!!」
哄笑が鳴り響く。
それはミカエルを嘲笑する笑い声で、もちろんルシフェルの口からだった。
「悪いが、我が魂はこう叫んでいる──神から離反してでも己の愛を捧ぎ示せとな!!」
笑い飛ばしながら、大気からも力を得るようにルシファーは手を握り締める。
しかし、その言葉に込められた感情の渦が、ミカエルにそれが軽い気持ちで紡がれた言葉でないことを信じさせる。だからこそ、いよいよミカエルの理解が届かなくなり始めていた。
「......、何を、」
「“愛しているからこそ”、時には離れておくべきなのだ」
ルシフェルは不意にそれまでの狂笑を消して吐息を漏らし、無理解にモノを言えないミカエルを意に介さず、最後にこう締め括った。
「それが私が導き出した──神への愛だ」
ルシフェルの言葉には、静かだが万感の思いが込められていた。
それは慈しみであり、悲しみであり、喜びであり、何より愛おしいものへ全てを捧げても構わないという、献身的なそれに溢れていた。
かつてルシフェルは神への愛を貫くために神の理に抗った結果堕天を甘んじていた。そして今も神を愛するが為に神の元から立ち去る矛盾──そのような初志貫徹を成し遂げようとしている。
そこにある愛の形に整合性を見出さない限り、光と闇の双子は互いに永遠に分かり合えることもないであろう。
「双子、なのにな」
ミカエルの悲しげな声が響く。
それでもルシフェルは揺らがない。
天使としての“ルシフェル”はすべて捨て去ったのだから。
「──ああ、そうだな」
ルシフェルは剣を静かに構える。
彼の中にはもう、迷いはなかった。
もう、純粋に神を尽くしていたあの頃には戻れない。──ならば、互いに己の道を、進むのみ。たとえそれが、幸福を約束されない道程であっても。
「我が弟よ。最後に兄として忠告する。次にまた会う時、貴様の前に立つのは兄弟でも同志でもない。決して交合うことのない、絶対的な敵──悪魔だ」
それはまるで、
最後に天使としての遺言のようだった。
「その時はくだらぬ情なんぞに振り回されずに、容赦無くその剣を振り下ろせ」
「ルシフェル ……待て、ルシフェル。待つのだ……私を、」
置いていくな、と言いたかったのか。
憎んでいないのか、と聞きたかったのか。
いや、どちらも違う。
決別を促すルシフェルに伝えたいのは、
「私に生きろと言うのか、君の──いない世界、で?」
「世界は繋がっている。どこまでも──」
その言葉を最後に、ルシフェルは身を投げた。
前傾となった身体はふわりと崖から離れ、宙に浮く。
一瞬飛んでるように見えた。
が、ルシフェルは重力に従い背中から地獄に続く漆黒の闇へとゆっくりと堕ちてゆく。
「──ッ!?ルシフェルッ!!!」
決死の思いで駆け寄り、反射的に再度伸びされたミカエルの手を、シュバッとルシフェルは愛剣の切っ先の斬り払いで拒絶した。
「 」
堕ちていく瞬間、ルシフェルが何かを言っていた。
その時の彼の目はほんの一瞬だけ和らいでいて、昔の兄に戻ったような気さえした。
別れる最後にミカエルを弟と呼んだのは、袂を分かった故の皮肉か、あるいは最後に示したせめてもの兄弟の情けなのか、もう今となっては、本人にそれを確かめる術はどこにも、ない。
「――ルシフェルゥウウウゥウウウッッ!!!!!」
絶叫しながら伸ばしたミカエルの手は、掠りもせずに空を掴んだ。
ルシファーは赤く染まった十二の羽根を背に、ゆっくりと────............
落ちた。
墜ちた。
堕ちた。
どこまでも堕ちていく。
もう二度と天に昇ることを許されないように。




