36話『決着!地獄への入り口』★
「なっ.....、」
貫いた命を実感した途端、ミカエルの顔に血飛沫がかかった。
「ゲホッ、......見事だ」
ルシフェルが弱々しくそう溢した途端、ミカエルは思わず剣を引き抜く。
グラリとルシフェルの体が傾いた。
白銀の鎧を打ち砕かれ、ルシフェルの腹からどぶりと鮮血が噴き出した。バサリ!と落とされた七色に光る美しい羽根が戦塵に交えて一面に舞い狂う。
「ク、クク......これで、......っ、貴様は、天界の英雄、となった、な、ミカエルよ」
ルシフェルがどんな思いでその言葉を紡いだのか、それを図る余裕もなかった。
膝から崩れ落ちて、地に転がり静かに悶え苦しむ彼に対して、ミカエルは一矢を報いたという感情が浮かばず、ただ呆然と眺めることしかできなかった。そして、
「なぜ......、斬る直前に闇の力を引き下げたのだ......!」
ようやく投げられたミカエルの震える問いかけに、ルシフェルはただ激しい息遣いと、切迫した空気の振動を伝えてくるだけだった。
「まさかッ!わざと、私に......ッ!!」
斬られたのか。その決定的な一言を言葉にすることはできなかった。
だが、ミカエルの胸中で生まれたそんな疑問は、答えなどなくても確信に近い。
しかし、それ以降ルシフェルは沈黙を貫くだけだった。先程まで鬼神の如く戦っていた者とは思えぬほど今では放心したように、輝きを失った瞳で虚空を見つめるのみである。
「答えろッ!ルシフェルッ!!」
それでも、ルシフェルの黙秘をミカエルは許さない。許せるはずもない。
その時だった。
ゴロゴロゴロ、ゴロロロロ……ッ!!
ミカエルの叫びを合図とするかのように、今までに耳にしたこともない不穏な轟きが、恐ろしい色合いの空に満ちる。
よく耳を澄ませば、遠方からまるで美しい歌のような詠唱が風に乗って奏でられる。
「この聖力は.....、まさか!」
姿は見えない。
けれど、この異質な程の膨大な聖力は間違いない。神の世継ぎなるあのお方しかおられない!──そうミカエルが認識した途端に、遠かった詠唱が鮮明に聞こえるようになった。
「我が唯一絶対なる創造神YHVHの名において聖なる雷を賜わる」
その者──神の御子イエスは腕を天へと伸べる。
「神の御怒りの雷により、汝ら悪しき天使を天より地獄へ追い堕とさん」
次の瞬間、淀む曇天が霹靂によって切り裂かれた。
耳をつんざく轟音。
眼を撃ち抜く勢いの閃光。
破滅的な咆哮と共に、酷い衝撃が大地へ降くだり、大地に深い切り傷を拵える。
──その雷は神の天誅だ。
宣言通りに、迅雷が叛逆の徒に鉄槌を下す。
「さあ、ミカエルよ。今こそ悪しき天使らを地獄へと追放するのだ。我が主もそれを望んでおられる」
神の御子は天をフワリと舞って、その唇から放たれた神託に、ミカエルは剣を右手にぶら下げ、茫然とただ立ち尽くした。
目の前に、幅千メートル程走った巨大な地割れが瞬く間に走り抜ける。
左右はそれぞれ遥か地平線にまで続き、その深さなんてすぐに推測するのを諦めた。
そのばっくりとした裂け目はあまりに深く、荒ぶる電光の照らしをもったとしても半ばから闇に覆われ底も分からぬからだ。
次の瞬間、その無のような闇黒は不気味な業火の深紅に侵食され、やがて徐々に塗り潰され、最後には席巻された。
灼熱の業火はまるで落ちた者を焼き尽くそうとばかりに炎々と猛威を奮っている一方で、奇妙にもどこか誘うかのように淫靡に揺蕩っていた。
さらには、その獄炎の奥底から身の毛がよだつような叫びが聞こえてくるではないか。
落ちてはいけない。本能的に感じ取る。
「凶悪」と「虚無」が同時に蔓延るその光景には背筋が凍る不吉さを孕んでおり、ミカエルは生理的に受け付けることができずに思わず顔を背けた。
──そこが地獄への入り口だと、ミカエルには本能的に悟ってしまったようだ。
その時、カツン......、と辿々(たどたど)しい足音が耳に入り、ミカエルはハッと我に帰った。
「ッ!?ルシフェル!?」
気がつけば、つい先程ルシフェルが崩れ倒れていた場所に影がなかった。
聞こえる足音を辿れば、腹部から血を噴き、片手に剣を引き摺りながらルシフェルは前へと進み出る。
まるで憑かれたように天界の大地に開いた亀裂の混沌へと追い立てられていた。
負傷の苦痛。長期戦の疲弊。甲冑や金属の重みのすべてが不思議と彼の妨げになんてならないようであった。
それだけルシフェルは──、
「時は満ちた」
この時を待ち侘びていたのだ。
ルシフェルが亀裂へ近づけば近づくほど、ミカエルの焦燥感が少しずつ強くなる。
ルシフェルの思惑がわからない。だが、たったひとつだけわかること。──それは、これ以上彼にこの先を行かせたら、本当の「終わり」を迎えてしまう気がして、
「ルシフェル !」
その嫌な予感が実現してしまう前に、ミカエルは慌ててルシフェルへ駆け寄ろうとした。が、
「来るなァッ!!!!」
それを遮るかのようにルシフェルは剣をミカエルへ突きつけた。重傷を負っているはずの彼の咆哮がミカエルをその場に縛り付ける。
それに対してミカエルは視線を軽く彷徨わせ、ルシフェルの瞳の黄金をまるで記憶の中に永遠に閉じ込めるかのようにじっと見つめた。
「何処へ、行くのだ......?」
伸ばす腕の代わりに問いかけるミカエルに、ルシフェルは彼に向き直り、断つように言い放つ。
「──全てを征する力の元へ」
「そんなもの......、天界以外にどこにあるというんだ......」
「何処へでも行こう.......。少なくとも、天界にはない」
切実なるミカエルの言葉尻を捉えて、ルシフェルの声に揶揄するような響きが入り混じる。そのルシフェルの思念にミカエルは一時だけ沈黙し、それから目を伏せた。
「神が生きる世界なんだぞ!」
「──そして、神が死んだ世界でもある」
すかさずに返ってくる何か、大きな感情を堪えるようなルシフェルの言葉に、ミカエルは小さく息を吸う。
「.......どういう意味だ?」
「貴様はまだ“アレ”を神だと思っているのか」
だとすれば実に哀れだ、と吐き捨てた嘲笑には、何故か淋しげな翳が感じられた。
「神のいない天界なんて、もはやこの私にとっては無意味だ。──未練は、ない。」
ルシフェルが何を言っているのか、今のミカエルには到底理解できない。
だが、そんな言葉の含意への追及なんて後回しにして、今はとにかくルシフェルへの説得を優先することにした。
「ッ、この先は地獄だぞ。よりにもよってそんなところへ行くというのか」
「いいや。私は地獄へは行かぬ。私が目指すのはこの地獄の更なる奥底の深淵──奈落だ。ここを通じて、地獄の炎に焼かれる私は天使の翼を失うことで堕天が完成される。そしたら堕ちた者として奈落を目指すのも悪くはない話だ」
「ま、待つんだ──!」
畳みかけるようなルシフェルの述懐に、ミカエルは首を横に振りながら待ったをかける。
「ッ、血迷ったのか!?奈落は神が切り捨てたこの世の負なるもののすべてが集結した未知なる領域なんだぞ!天界とは──」
「“天界とは相容れぬ世界”、か?」
一歩、一歩と後退していくルシフェル。
「何を今更、だからこそだ。......神に叛逆したこの私はまさにそのような世界で生きるにふさわしい。そう思わぬか?」
このままでは、亀裂へ──その先に続く地獄へ落ちてしまう。
「私はいずれ神が忌み嫌うその暗黒なる世界を導く──やがて、奈落の頂点に立つのだ。天界の頂点に立つ“神”に対抗するためにな」
その言葉を聞いたミカエルはギリギリと両の拳を強く握り締めた。それは彼の中に込み上げる失望と怒りを精一杯抑え込むためのものだった。
「それが堕天してまで望んだ未来なのか.....!」
「いや?これは“始まり”に過ぎん」
ルシフェルの冷淡な眼差しと感情の消えた声を伴っての至極簡潔な言葉。
なぜ。こんなにも、嫌な予感が心を掻き乱しているのか──。
「.......一体、何をする気だ」
ミカエルの怒りは胸騒ぎへと移り変わる。
「“世界征服"、なんて言ったら、貴様はどうする?」
「な、!」
不穏でしかないその言葉に、次は何を言い出されるのかとミカエルは思わず身構える。息を呑んで言葉を見失う彼に対し、ルシフェルは徐に話し始めた。
「奈落と地獄の境界線の狭間には【魔界】が存在する。そこには神に背信した大勢の【魔族】が棲みついているそうだ」
「魔界......?そんな世界聞いたことがない」
「フン。知らぬには無理もない。神はこのルシフェルを含め、我々天使に様々な事実の隠蔽をし過ぎたのだ。実に口惜しいことに、神の右手であったこのルシフェルとてそれを知らなかったのだからな」
ルシフェルの言葉は後半で陰り、殊勝な色を帯びたことにミカエルは必然と新たなる疑問が浮上する。
「なら、我が主が覆い隠した事実をなぜ君が知っているのだ.....?」
「そこまで教える義理はない」
だが、その質問はばっさりと切り捨てられた。その取りつく島もないルシフェルの態度にミカエルは思わず押し黙る。
「敵対する者に必要以上の情報を明け渡す愚か者はいまい。それに、貴様がこの話を信じようが信じまいがは大した問題ではない。──どうせいずれ信じざるおえない日がやってくるさ」
ともあれ、今のミカエルにはすべてを信じるか、すべてを疑うかのどちらかしかないのだ。
疑うことは簡単である。認めなければ良いだけだ。ルシフェルの言葉のすべてを妄言で欺瞞なのだと思えば良いだけだ。
だが、何よりも恐ろしく、ミカエルを戦慄させるのは──ルシフェルが真実のみを口にしている場合だ。
「まずは、そうだな。奈落の底からそれらの闇の住人を統治することから始めよう」
「闇の住人......?」
「この私と同様に神に創られ、そして神に見捨てられし者たちだ。その者らを統べる──まさに【闇】を司りしこのルシフェルが背負うべき役目ではないか!」
一人盛り上がり、ミカエルを置き去りに悦に浸りながら叫ぶルシフェル 。
その背後には今でも恐ろしい底の知れぬ運命の深淵が大きな口を開けて、彼が陥るのを嬉々として待っていた。




