34話『叛逆~Rebellion~(中編)』★
弱い私は、何を憎めばいい?
──嗚呼......、
やっと、解った......、
いつもの強い意思の篭ったその瞳は、今では絶対零度を宿し、まるで端に転がる石ころを見るようにミカエルを傲然と見下ろしていた。
その視線に晒さらされているだけなのに、頭の中がまるで痺れているような感覚に陥る。
「ルシ、フェル......、」
目の前の光景を否定したい、などという縋りつくような懇願も思い浮かばない。ただ只管に、ミカエルの思考を絶望で染め上げた。
「......これを起こさせたのは、君なのか.....?」
ミカエルは辺りの惨劇を指し示す。
こうしている間にも、神に反旗を翻した三分の二もの叛逆の天使らが大挙して侵攻を押し寄せ、それを善なる天使軍が真っ向から対峙して懲らしめんとする。
天使たちは皆それぞれが信じる「正義」を掲げては、純白の翼を互いの血で染め上げ、雄叫びを上げながら相手に切りかかる。
足を薙ぎ、腕を飛ばし、腹を裂く。
刃に感じるのは、深く肉を裂く感触と、──かつて同胞であった生命の重み。
血を血で洗い、血飛沫を浴びたとしても、もはや誰も気に留めなかった。それが幾千と繰り返されてきた。どれほど斬っても、どれほど血を被っても止まぬ連鎖。血飛沫の色と香りがますます天使たちを戦渦の地へと強く縛りつける。
殺戮に次ぐ殺戮。
誰も止める者などいなかった。否、誰も止めることなどできなかった。
ただ金属がぶつかる音、火花が飛び散る耳障りな音が、徐々に人影が減っていく戦場に響く。
「ルシフェルが、......君がこの反乱の首謀者だというのは本当、なのか?」
何かの間違いであって欲しい。口から絞り出すのは縋るような、真偽を確かめる言葉。途切れ途切れのそれは否定してほしい感情の表れだ。が、
「そうだ.......、と言ったら貴様はどうする?」
それだけ言うと、ルシフェルは取り付く島もない態度を示す。代わりに嘲笑と共に彼の持つ剣が強く握り締め構えられ、足幅を少し広めに取る──戦闘姿勢だ。それこそが、ルシフェルからの返答だと思わせた。
ルシフェルが天界の平和を崩し、血の惨劇の幕を開いた諸悪の根源であるのなら、
(私がすべきことは── 、)
失意に陥るミカエルの心は追想へと飛ぶ。
◇◆◇◆◇
それは、この戦場に駆けつける前──ミカエルが反乱に加担しなかった善き天使軍を率いて、一時的に神の御前に集結したときのことだった。神の宣告が脳裏に甦る。
《皆々 良いか
ルシフェルが叛徒へ成り下がった》
頭の中に直接響くような声が、どこからともなく湧き出す水のように広がり、ミカエルの心に大きな波紋を揺らす。
《誠に遺憾なことなり
今この場におらぬのは
彼の側ついた者らである》
《今にルシフェルは
この天界を戦の場へと変えようぞ》
嫌だ、信じたくない。
嘘であってほしいと願っていた、強く、強く、心の底から。
《ミカエルよ》
名を、呼ばれる。
《反逆した兄の代わりを務めよ
我が誇り高き光の天使
汝に天使長の座を任じよう》
──それは栄光。
至高なる神より直々の大命だった。
《新たなる天使長ミカエルよ
汝に初の任務を命ずる
戦の善なる天使の筆頭となり
戦いを勝利へと導け》
ああ、神よ。
それは、つまり、ルシフェルを──、
◇◆◇◆◇
「何を惚けている」
凍てつくような声が、手荒にミカエルの双眸に走る思考を打ち切り、現実へと引き戻す。
「このルシフェルを前にして、考え事とは随分と余裕だな」
ミカエルはその声の主であるルシフェルの全身へ目を向けた。
──まったくの、無傷。
あまつさえ呼吸は乱れず、全身を包む甲冑は、土埃と返り血に塗れているだけだ。
(元とはいえ、天下無双の天使長の名は伊達ではない、ということか)
生半可な意思であのルシフェルを打ち勝とうなど絶対に実現のしない机上の空論だ。
だが、果たしてミカエルは本気でルシフェルを斬れるのか。いや、違う。斬れるかどうかの問題ではない。
(なんとしても斬るのだ。斬らなければならない)
ああ、そうだ。我が神の意を深く承知しているつもりだ。この戦いを勝利へと導く──、
(それは、つまり)
ルシフェルを討ち破り、彼を地獄へ追放することをも意味する。
──そんなこと、したくない。
そこで、ミカエルはハッとした。
(私は今、神の御意向に背こうと......?)
それだけではない。ミカエルはウリエルを含めたその他の七大天使への誓い立てまでもを反故しようとしていたのだ。
──ルシフェルが天界を裏切った暁には、この手で直々に「粛清」すると神に誓ったのは紛れもないミカエル自身だというのに。今更ながら迷いが生じている。
神に造反する「悪」を葬ることこそが天使の使命。──理性ではそれを理解している。だが、感情がそれを認めようとしてくれない。自分の内側で鬩ぎ合う両極端な情感に翻弄されながらも、ミカエルの手に握られた剣の柄は、油断すると今にも激しい心の葛藤で滑り落ちそうだった。
それがどれほどの身勝手で、神に対する冒涜なのかを思い知り、罪悪感に唇を噛み締める。それを振り切って、ミカエルは真っ直ぐにルシフェルを見据える。
「......今の私の敗北は、即ち天界の敗北となる。君が天使長の座を放棄した時から、その代わりとしてこのミカエルが責務を背負っている。だから私は、私の責務を果たす!」
ミカエルとルシフェル、二人の視線が鋭く交錯する。
「フン。ならば、今度は逆に私が問おう。ミカエルよ。今の貴様の責務とやらはなんだ?──貴様はなぜここに立っている?」
冷たく突き刺すような言葉が飛んでくる。ミカエルは覆面の奥で口を開きかけてから、硬く閉ざす。
「......君を、止めに来た。もうこれ以上犠牲が出ないように。君をここで拘束し、我が神の元へ連れて行く」
──然るべき罪を、償わせてもらう!
相反する二つの感情の対峙。
ルシフェルは底冷えのする瞳で、ミカエルは意志の強い瞳で相手を睨んだ。相容れないお互いの思考。
二人がまた争うことになるのは、必然。
「.......。そうか、」
言葉を切るや、ルシフェルは片手に聖力を収束させ聖術を発動させた。詠唱なんてせずとも、容易に生み出されるそれは、まさに練り上げられた闇による破滅の具現。
ルシフェルはまるで、失望でもしたかのようにミカエルを見て──、
「やはり、殺す覚悟も持たぬ愚か者はこの戦場には不要だ」
──ルシフェルはミカエルの決断を蔑んだ。
「朽ち果てるがいい!──【闇炎】!」
ルシフェルは吼える。
覇気と共に打ち出された闇の火球。それは凄まじい勢いで床を削り取り、転がっている天使兵たちの屍体を飲み込みながら侵攻してくる。負の黒炎がミカエルの全身を包み込む──寸前、
「ッ、【光の壁】!」
ミカエルは迅速な判断で不可視の光の障壁が盾のように体の全体を覆わせる。
本来なら魂すらも焼き尽くすそれは、ミカエルの鎧の数センチ手前で弾け、聖力の効果を失って掻き消える。
あたりは霧散した闇炎の紫煙が広範囲にわたり視界の侵食が進んだ。それはもはや「紫の霧」と言っても過言ではないほどの濃密な質量を伴っていた。
「せぇいッ!」
気合い一閃、勇ましい声が霧の彼方から届き、次の瞬間に視界を覆っていた霧が唐突に打ち払われる。
晴れた視界の向こうには、仁王立ちしていたルシフェルが腕を振り切った姿勢だ。おそらくは剣圧で充満した霧を切り裂いて視界を確保したのだ。
刹那、
飛ぶかのごとく肉薄するルシフェルは、ミカエルの五体を狙って大きく剣を振った。咄嗟に剣を構えたミカエルに不敵に笑えば、一気に襲い掛かった──!
シャギィイイィン──ッッ!!!!
互いの剣と剣とがぶつかり合った瞬間、耳に痛いほど金属音が辺りに鳴り響く。
「やるな。並の天使では決して消せない【闇炎】をこうも容易く消し去ることができようとは、このルシフェルと唯一対等に渡り合える相手は光のミカエルしかいないようだ!」
「やはり.....!中下層界で仕掛けられたあの黒い火柱......、あれは貴様の仕業だったのだな。ルシフェル !」
「ククク、その通りだ。決して消火されることのない闇の炎に包まれ、最後には絶望を抱いて消滅していく天使どもは、」
それは、
「──実に見物だったぞ」
同胞たちの死を侮辱する発言だった。
「……っ、……一体なぜこのようなことをする!何が君をそこまで変えたんだ……?」
「私は変わってなどいない。変えられた訳でもない。──ただ、変えるべき真実を見つけただけのこと、だッ!」
そう言って、ルシフェルは不意に力を緩めて、すぐにミカエルの腹に重い蹴りを入れた。
「その真実を壊すためならッ、このルシフェルはどんな犠牲も厭わないッ!!」
「グッ!?」
不意打ちを喰らったミカエルは、すぐに後方に跳躍することで体勢を立て直した。
「......だが、ミカエル。仮にも貴様はこのルシフェルの魂を分つ兄弟。今ここで降参するのであれば、見逃してやってもよいぞ」
「......そういう訳にはいかない!我が神の栄光のために!そして、散った同胞たちの無念を晴らすためにも!──私はここで君を食い止めるべきなのだ」
「ならば、貴様も他の天使どもと同様に切り捨てるまでだッ!」
そこからは甲高い金属音が途切れることなく続き、──激しい剣戟が始まった。
ミカエルが剣を振り、ルシフェルが弾く。
次はルシフェルが剣を振り、ミカエルが弾く。
ほんの一呼吸も無い、その一瞬でこれほどまでに剣を打ち交わせるものなのか。
硬質な刃と刃の奏でる歌が、あたりに物騒な音の楽を吐く。──その光景はまさに剣舞であった。
その音のあまりの激しさに、その場の近くにいた天使軍の敵味方も思わず争いの手を止めて、場違いにも両者の戦いに魅入られていた。
闇のルシフェルと光のミカエル。
本来争うべきではない対なる魂を持つ双生の天使が、今は互いを不倶戴天の敵として討つべくと激戦を繰り広げている。
閃光が煌き、別の閃光が弾く。
両者の剣に宿った光と闇の聖力がぶつかり、眩い放電さえも放つ。
通常では決して見れないような熾天使同士の最高峰の戦い。──それが今まさに眼前で行われているのだ。
それを見届けた戦士たちは我知らずに手を握り、士気を静かに高めるのであった。




