29話『元凶は誰ぞ』★
〈人に従わねば この場をもって
汝の天使長の地位を剥奪せむとす〉
天空より姿見えぬ神がそう言い放つ。
威厳に満ちたその宣言は、紛うなき神からの最後通牒だった。
俯き、依然として沈黙を守り続けるルシフェルは果たして何を思うか。その場にいる七大天使たちも固唾を呑み、顔を見合わせた。
「え!?なになに!?どういうことなのぉ!?」
「もしルシフェル天使長がこれ以上神の命令を拒否すれば、降格処分されるってことなのだよ」
「......それって、」
「フン。あれほどの無礼を働いたというのに、懲戒処分ではなく、まだ厳重戒告に留まるとは、こんな時にまで温情を掛ける我が主は寛大過ぎる!」
「まぁでも、ここまで来るとさすがに拒否権なんてないようなものだよね〜」
当事者が口を閉ざしている間にも、外野の騒然とした声は歯止めを忘れて拡大し続ける。
そんな周囲の反応を見やり、ミカエルは覆面の下で唇を噛む。こうなることは予想がついていた。今からでももう一度ルシフェルの目論見を暴き、その行いを正させる必要があった。
しかし、神が既にルシフェルに重大な選択を迫る以上、それをすることはもうミカエルにはできない。神の理は、それほどまでに天使の行動理念に深く食い込んでいるのだ。
──ミカエルが天使である所以、その性質こそが、彼の行動を束縛する。
この時ばかりは不甲斐ない我が身を呪いながらも、無闇な抗弁をできずにいるミカエルはただ黙ってルシフェルがどう出るのか、その様子を伺うばかりだ。
そんな緊迫感が漲る空間の中で、ようやくルシフェルは頭を上げた。意外にも彼は平静な態度を崩さなかった。それが今のルシフェルにできる唯一の抵抗。
狂おしいはずの激情も恨み言も表に出さず、背けることもせずに感情を殺しながら神へ問うた。
「主よ、それは──貴方の最初の創造物であるこのルシフェルよりも、後から生み出したそこにいる人どもを選ぶということか?」
意趣返しのつもりなのか、今度はルシフェルからの最終通牒だった。それに対し神の答えは──、
〈人の祖に栄光与えん
そのためには汝を
我が右手の座から手放し、
暫し汝を失うことすら厭わぬ〉
どこまでもルシフェルを絶望のどん底へと突き落とす。
(嗚呼)
ルシフェルの中で誰かが、残念そうに声を上げた。
──どうしようもない愚か者だ、と彼を嗤った。
ルシフェルの中で長年築き上げてきたものが、一気に音を立ててガラガラと音を立てて壊され、崩れ落ちていく気がした。
心のどこかでルシフェルはまだ期待していたのかもしれない。もしかしから、神の御心は人よりも、最後は自分に傾けてくれるのではないかと、
だが、
ぐにゃり......、
その期待が裏切られたあまりにも大きい代償としてか、ルシフェルの中で何かが変わった気がした。
徐々に歪にじわじわと潰されていく──......
〈これにて最後 汝に命じる
──人に拝跪せよ〉
最後にもう一度神から同じ命令が放たれる。当然、ルシフェルに残された答えもただ一つ、
「誠に遺憾だが、──従いかねる!」
はっきりと神の命令を退ける、三度目の拒否が響く。
◇◇◇◇◇◇◇
薄暗い夜明けだった。
一瞬そう思わせるほどの翳りであった。太陽を覆い隠す灰色の濃雲が、見上げた空に渦巻き始めた。
「フン。これで.......このルシフェルは天使長ではなくなった訳だ。いや、ただ神に逆らった、不敬なる叛徒といったところか」
神の機嫌を損ねれば、神はいつでも嵐を起こす。恐ろしいほど天を乱して、極め付けは大いなる雷鳴を地に下くだす。
今目の前に広がる曇天は、まるでルシフェルの罪業を咎める神の心証そのものを表しているのだろう。
「なぜ拒否をする!ルシフェルッ!!この期に及んで何を意地を張っているのだ!」
「心外だな。意地なんかですべてを投げ捨てるまでの短絡さなど持ち合わせていない。これは有るべくしての結果だ」
「同胞の思いをふいにして!至高なる名誉を手放してまで、人を......いや、神を拒絶するのがあるべくした結果だというのか!」
ルシフェルが神に突きつけた命令拒否は、彼自身の名誉を、そしてミカエルを含めた同胞たちが抱いてきた想いを無下にしたようなものでしかない。何より偉大なる神の権威に傷をつけるものであった。
「見る目のない神より授かった名誉の価値なんぞたかが知れている。今の私にとっては取るに足らないものだ」
「ッ!君はッ!!」
「もっとも、神に妄執する貴様らには理解し難い思想だろうが」
激昂しかけるミカエルに、あくまでルシフェルは我意を通す態度を崩さない。ミカエルを含めた者たちを見下ろす視線には、はっきりそれとわかる侮蔑の感情があった。
「......変わったな。ルシフェル 。嫌な目をするようになったものだ」
「......」
「一体何が君をそこまで歪ませた?昨日、【闇の神殿】で何があった。あの妙な気配と何か関係あるのか?」
「妙な気配?副司令、何のことです?」
怪訝そうに追及してくるウリエルに、まだ不確定事項にミカエルは何も答えてあげられない。そんなミカエルの重い沈黙に何かを察したのか、さすがのウリエルも追求を断念して押し黙った。
それを見届けてミカエルは言葉を継いだ、
「......、今の君はそれと近しいような魂魄を感じる。天界には到底相応しくない、不浄なものだ」
『まるで、魔族そのものよね♡』
ミカエルの詰問に呼応するように、ルシフェルの脳裏に浮かぶ奸悪な魔族の女── ルシフェルに魔の素質を見出したリリスとの邂逅を思い出し、言外に魔族と同一視されている気がしてルシフェルは閉口する。
「────」
しばし、ルシフェルの錆びた金色の瞳とミカエルの力強い黄金の瞳が見つめ合う。
ほのかに揺れる瞳、その奥に何を抱え込んでいるのか、それを見透かそうとミカエルは意識を伸ばすが、そのイメージは形になる前にルシフェルが視線を逸らされることで霧散してしまった。
「クッ!ルシフェルッ!!なぜ......!何故ッ、こんなことになってしまったのだ......!」
やるせないといわんばかりのミカエルの荒げる声がルシフェルを貫く。
刹那、
──音が、した。
ミカエルの嘆きが契機として、ぷつりと、ルシフェルの中で、何かが壊れた。
疲弊した精神がひび割れて崩れる音がした。それが、奥底の修羅を押さえ込んでいた最後の砦だったのだと気付いたとき、ルシフェルは想像を絶する激情に唇を噛み切りかけるほどだった。
「──“なぜ”?」
そんなもの、ルシフェル自身が一番聞きたい。
強いて言えば、こうなってしまったすべての発端はルシフェル自身が犯した過ち。自由の意思によって選択した結末。
いや、果たしてそうだろうが?
そもそも、こうなってしまって元凶は────、
『同情せざるをえないの!ルシフェル様は今まで一心に神を愛し尽くしてきたのに、肝心な神はもう早速人なんかに目移りしちゃって』
リリスの耳障りな言葉がルシフェルを後押しするように脳内に再生される。
「......、そうか。そうだったのだ」
狂おしい程の負の感情の全てを表に出さず、ルシフェルは静かにそう言葉を紡ぐ。
激情はいまだ胸中で燃え盛るが、その熱が外にまで延焼することを選ばずに、ルシフェルの内面を焼き焦がし、ひとつの結論を導き出すに至った。
「このルシフェルとしたことがなぜ気づかなかったのだ」
ルシフェルを見据えるミカエルは、何かを思い出したかのようなルシフェルの鬱々とした口ぶりに不穏な雲行きに眉間に皺を寄せる。
ルシフェルが、何を言い出そうとしているのかわからない。わからない。わからないのだが、
──その先を、言わせてはいけないような気がした。
「な く な れ ば い い」
黒い闇がルシフェルの心にじわり、じわりと広がってゆく。それに共鳴するかのように、遂には遠雷と共に強い雨が降り出した。
空気に含まれ始めた湿気の匂いが雨の気配を告げるよりも早く、叩きつけるかのような激しい猛雨が襲う。
突然の大自然の変異に、七大天使もアダムとエバも何事かとそこかしこで不安と戸惑いの声をあげる一方で、ルシフェルはまったく動じなかった。
「ククク......、こんなくだらぬ茶番を終わらすのはそう難しくない。なぁに、単純なことだ」
やけに芝居かかった台詞で、ルシフェルは蔑んだな笑い声を漏らす。
容赦なく彼の全身の鎧に降り注ぐ大粒の雨が、ひたひたと激しく跳ねて、足元を濡らしていた。
ああ。
ああ、もういい、もううんざりだ。
殺してやる。滅してやる。
己の信念を貫くためためならば、神からの仰せも、秘めた使命も、どうでもいい。全てを、この手で潰してやる。
もはや「理性」という脆い鎖はルシフェルのあらゆる行為になんの支配力を持っていなかった。代わりにある盲目的な本能は残酷にも彼を駆けって己の運命を決定づけようとしていた。
「──最初からこうすればよかったのだ」
ルシフェルは片方の手を閃かせる。
小さく囁くそれは詠唱らしく、それに応えるように掌の中で幻想的な変化を起こす。
暗い小さな空間の歪みのようなエネルギー体が生じ、そこから渦を巻くように様にして、紫色の淀みを帯びた闇の粒子が湧き出て、広げたルシフェルの掌に闇の玉が形成される。
それは肥大化していき、あっという間に巨大になった。闇の球の周りは時折、バチバチと強力な紫電が走る。
そしてルシフェルは徐にそれをある方向へ翳した。
「──ッ、まさか!?ルシフェル!!やめるんだぁああッ!!!」
いち早く状況を察したミカエルは吼えた。しかし、その叫びも虚しく、無情にもルシフェルに中断する気配がない。
「【闇空洞】!」
闇の向き先は────、
アダムだった。
「── 人の仔よ 無へと還れ!!!」
咆哮と共に放たれた闇の波動は、大気を震撼させた。
草木は余波により薙ぎ倒されていき、大地は亀裂が走る。
「──なっ!?」
「アダム!」
これから自分に何が起こるのか認識する間もなく、アダムの視界は闇に覆われ尽くされようとした。
その瞬間に、眩い光を纏った黒い影が彼の視界を遮った。
「ッぐああ”ァァ、ァア“アアァ─ッ!!!」
望んだ結果なんて、何一つ訪れない。
ただ見つけた暗闇の種は、全ての破壊を齎し──、
一つの、断末魔が、響いた。
◇◇◇◇◇◇◇
「ミカ、エル.......?」
鮮明になった目の前の光景に、アダムは理解が追いつかない。
ルシフェルの憎悪の念から放出かれた闇の力の余波が不気味な靄となって、受け身となったミカエルの全身からモウモウと立ち込めている。そして、
「─っあ"、...グッ...っ」
「ミカエル!!どうして──!?」
倒れ込みミカエルに慌てて駆け寄ったアダムが漏れた呟きは悲壮な色で染められていた。その双眸が感情の震えに淡く揺れる。
ルシフェルの殺意から放たれた暗黒の攻撃により昏瞑と突風に煽られ全員が身動きできない最中、ミカエルだけが咄嗟の判断で瞬時にアダムに覆い被さって身代わりとなったのだ。
「どうして......!?わたしを庇ったのだ!ミカエル!」
唇を震わせながら、そんな疑問がアダムの口を突いて出てきてしまう。
「わたしのせいでっ、」
「ミカエル......!すごく、苦しそう.......っ」
苦痛で呻くミカエルに向かって、アダムは自責の念に駆られずにはいられない。傍ではエバも涙目で心配そうにしていた。
「......つい、先ほど.....誓ったばかり、だろう。人である君たちを守護するのも....我々天使の.....役目で、ある、と───」
途切れ途切れながらも律儀に返ってきたミカエルの返答に、側から聞いていたルシフェルは鼻白んだ。
(とんだ誤算だな)
そう。「己の魂を分つ者」が思った以上に“神への絶対的服従”であったこと──それがルシフェルにとっての一番の誤算だった。
「チッ、ミカエルめ、余計な真似を......」
「グ......ッ、私はっ、......成すべきことをしたまでだッ......!」
息も絶え絶えで、満身創痍なミカエルは、小さくなって手を繋いでいたアダムとエバを見上げる。
彼らの瞳は不安に震えていて、唇を噛みしめていた表情がそこにあった。だけど、その身は傷一つなかった。
「......君たちが無事で、......本当に、よかった」
人の安否を見届けるとミカエルは限界に達したのか、横方向にぐらりと揺れそのまま崩れ落ちるように倒れて動かなくなってしまった。
「いや──────っ!!」
今この場で起こってしまった悲劇に、両手で頭を抱えて、ハニエルの甲高い悲鳴だけが響き渡る。が、それもすぐに撹拌する激しい雨音に呆気なく沈んだ。
それでも、前触れのないルシフェルの暴挙に呆気に取られていた他の七大天使たちを我に返させるには充分だった。
「ミカエル副司令───!!!!」
「ああっ!大変!?副司令!」
ウリエルとガブリエルは真っ先に倒れているミカエルに駆け寄った。
「このままではさすがにマズいわ。ラファエルっ!すぐに来てくださいまし!」
「言われなくとも、そうするのだよ。......ふむ。これは、一刻を争うな」
三人がミカエルを介抱する余所に、ラミエルは静かにルシフェルへ歩み寄り、
「どういうつもりなんデス?......ルシフェル様」
これまで飄々としたラミエルの雰囲気が一変し、珍しくも僅かに険の篭った眼差しと、冷徹さを感じさせる口調で問いかけてくる。
「見ての通りだ。処分しようと思ったからだ──欠陥品をな」
低く、冷たく、その言葉は重々しい響きを伴ってその場の全員の鼓膜を叩いた。
ルシフェルに潜み続けていた明確な悪意が、一瞬顔を出したのだ。
込められた殺気がサッと空気を凪ぎ、アダムたちは純粋なそれに恐怖した。
「──もっとも、忌まわしくも愚弟に邪魔されたがな」
這いつくばるミカエルを、ルシフェルは何も感じない様子で冷たく見下ろした。