3話『人類最初の女・エバ』★
誰かの呼ぶ声が聞こえた
「彼女」はそれで目を覚ます────
・・・。
・・・・・・。
お...よ、アダ...
――意識が覚醒に導かれたとき、アダムは瞼を日差しに焼かれる熱を感じていた。地面に横たわる姿勢のまま、ぼんやりと持ち上げた手で庇を作る。
・・・・・・・・・・・・。
〈起きよ アダム〉
「──!!!」
横たわって朦朧としていた頭を強く振り、アダムは勢いよく上体を起こして慌ててあたりを見回した。
「ぐ...、なんだ。まだ、頭がぼーとする......」
寝起きはいいはずなのだが、意識が判然としないのは純粋な眠りとは違うからか。意識を失う前のことを思い出そうと必死に頭を働かせていると、神の強行が脳裏に浮かぶ。
〈目覚めたか〉
「わたしは、今まで眠って...?」
〈汝の目覚めを 待ち侘びた〉
「......主よ。あんな形でわたしを強引に眠らせて 一体どういうおつもりですか?いまいち状況がつかめないのですが、」
そう言い立ち上がったところ、不意にアダムの胸の片隅に言いようのない喪失感が疼く。それを自覚した途端、奇妙な脱力感が彼を支配した。
──そういえば、自分はどれくらい寝ていたのだろうか。
意識を失う以前の記憶が鮮明に思い浮かぶと同時に、どこか儚い霞となって霧散した。
何故だろう。アダムの最後の記憶がどこか遠い過去のように思える。それだけ長く、深く眠りの檻に囚われていたせいなのだろうか。
〈早速 汝に御披露目せむ〉
「お披露目?わたしに誰かを紹介したいとでもおっしゃるのですか?ここにいるありとあらゆる生き物ならわたしは既に把握しておりますが、」
〈相会えば よい〉
〈さあ 出て参れ〉
【それ】はゆっくりと草むらの中から出てきて、アダムの前に姿を現す。
「はじめまして」
そう言って微笑みを浮かべるその姿にアダム目は釘づけになった。
──【それ】は、アダムと同じ“人”だった。
だが、アダムと違って華奢で小柄な“人”(ヒト)だった。
風に揺れる柔らかな白銀の髪、星の如く澄んで微塵の濁りも見えぬ純粋で綺麗な瞳。
白く透き通る肌。その淑やかさを漂わせた端麗な顔立ちにはやさしそうな微笑みが浮かばれていた。
──アダムの目の前に静かに佇む【それ】は、目が醒めるほど美しかった。
「......ぁ」
アダムは言葉を失う。
一瞬呼吸を忘れてしまうほど見事に心を奪われ、アダムは【それ】の虜となった。
〈この者は汝の番
汝の助け手となる者として創られた〉
突として頭上から厳かな響きが降り注ぎ、一気に現実に引き戻される。アダムの肩は大袈裟に跳ね上がっていた。
〈これぞ 汝の“妻”に相応しい〉
神の紹介に促され、アダムの番とされるその人は慎ましく一歩前へ出て、その小さな口からは挨拶の言葉が奏でられる。
「...これからどうぞよろしく。妻として、あなたを支えられるようにがんばるね」
鈴を転がすような凛とした声が、アダムの聴覚を心地よく震わせる。微笑むその姿は朝陽に包まれ、彼の目に映ると一層見惚れてしまう。
肋の内側から響く音はやけに煩く、身体は沸騰したような過剰な熱を持っていた。
耳の奥で彼女の声音が反響するたび、驚喜と羞恥が入り混じった感情が凄まじい勢いで身体の中を駆け廻る。
──そこで、アダムはあることに気づく。
「この目、この髪の色。この子の見た目、なんだかわたしとすごく似ている...?」
〈ほう 気付いたか〉
アダムが素直な疑念をぶつければ、僅かな間を置いて神よりどこか感心したような返事が降りてくる。
〈左様 汝を深き眠りへ誘い
その間 汝の肋骨を一つ抜き取りて
かの者を創造しけり〉
最初、何かの聞き間違いかと思った。冗談にしては笑えない。
「この子が、わたしの肋骨から作られた、だって...?」
アダムは半ば反射的に己の肋に手を充てた。そこには、思い当たる節があるという表情が窺えた。
痛みはない。血も流れてはいない。
骨を抜き取るために裂いた傷跡もない。
きれいな肌は健在だった。
──これも崇高なる神の為す業だからなのか。
「......な、なるほど。道理で起きてからずっと、わたしの胸の奥で何かが物足りないわけだ。その原因がハッキリと分かりました」
先程アダムの魂から謎の喪失感で軋み上がっていたのは、今彼の目の前に存在する人──【女】が創り生まれた代償なのだと察した。
と同時に、アダムの肋骨から生まれた彼女の容貌がアダムに似るのも、アダムが並ならぬ親近感に近い好意を彼女に寄せるのも、至極当然な話だと納得もできた。
必然と一つ一つの小さな情報がパズルのピースとなって真相を形成していく。
〈正にそれは 汝より生まれし者
汝の唯一無二 同等なる存在なり〉
そう放たれた神の御言葉に同調するように、アダムの小さな番は顔にパッと花が咲き、にっこりとアダムに笑い掛ける。
「──っ」
蕩けるようば甘い笑顔だった。
今までのが「月の微笑み」なら、今のそれはまさに「太陽の笑顔」といったところだ。どちらもアダムを魅了するには充分な破壊力があった。
──ドクンッ──
それは、幸福の鼓動。
──ようやく、巡り逢えた。
わたしの──。
気がつけば、アダムは引き寄せられる衝動に駆られるまま、彼女の両手を包み込んでいた。
彼の掌にすっぽりと収まる小さな手だった。
それが余計にアダムの庇護欲を煽り、まるで離さないかのように、今度は彼女の両手を強く握り締めた。
「ああ、すばらしい...!」
感嘆の声が漏れる。
アダムの顔は恍惚感に浸り、宙に幻を追う表情になっていた。
彼女も笑みこそ崩さなかったが、その目にはほんの少し戸惑いの影が見え隠れした。
「これこそ今やわたしの骨からの骨、肉からの肉!彼女はまさにわたしの一部なのだ!──そうだ!【男】のわたしから創られたのなら、君は【女】ということにしよう!名前はそうだなぁ...!」
アダムは改めて目の前の番の“女”を見つめた。
──彼女は、アダムから生まれ落ちた新たなる「生命」。
不意に思いついたその考えは存分悪くないように思えて、アダムは自分が求める音の響きを探求する。
【エバ】~Eva~
脳内に浮かぶ発想のピースが、一つの言葉としてカチリとハマるような感覚がとても不思議で感動的だった。
アダムのために創られた美しい生命──この女を象る名前。アダムがそれを呼ぶ、そのためだけの名前。
「“エバ” 」
試しに呟くように発したその音は、思いのほか溶け込むように舌に馴染んだ。パッとひらめきの扉を開けた爽快なる感覚が気分を高揚させるばかりだった。
「──なんて名前は、どうだい?」
この言葉を、響きを、この女の名前としてこれからずっと口にできたら──それはとてつもない幸福なことだと、アダムは思えた。
「......えば?」
男に与えられた名前を、女は何度も舌の上で転がす。何度も、何度も、それを身体に浸み込ませるように。自らの魂へと刻み付けるように。そうして繰り返し口にする度、その名前の響きには確かな「命」を宿り始める。エバ、と、呟く女の口元がだんだんと綻んでくる。
「......エバ。......わたしの、名前......、わたしは、エバ」
発音は滑らかになり、気が済むまで唱えたあとには、女────エバは破顔した。
「ええ、...ええ!とても素敵なお名前をどうもありがとう!」
名前を貰っただけで、まるで存在のすべてを受け入れられたような安心感を得たことに、エバは心の底から喜びに打ち震える。
この名前だけが、今、自分を祝福するすべてだというように、今まで浮かべるどんな笑顔よりもエバはさらに輝かしく生き生きとしていていた。
エバという名を求めるアダムの感情を掬い上げてくれるそんな彼女の反応に、アダムはきゅうっと胸が締め付けられる。
「ハッハハ!そうかそうか!気に入ってくれて何よりだ。では、今日から君のことをエバと呼ぶことにしよう!」
達成感のような、充実感のような気持ちでいっぱいに詰まる胸から、アダムは満足げに息を吐いた。
「......エバ」
「はい。アダム」
ポツリと音が溢れるように彼女の名を呼べば、すべてを受け入れてくれそうな柔らかい声が透かさず返ってきてくれる。
「君みたいな素敵な子が、わたしの妻になってくれて嬉しく思うよ──ありがとう」
──ドクンッ──
再び、幸福の鼓動が鳴った。
しかし、今度のそれはアダムからではなく、エバの方からだった。彼女の心臓が鼓動を刻む音──生命の音が確かにアダムに届いていた。
男の鼓動に共鳴するように、女もまた同じく心臓を高鳴らせているのだ──そう考えると、アダムはどうしようもなく嬉しくて、柄にもなく目頭が熱くなった。
これほど感情を昂らせる誰かとの関係を得るのは、アダムにとっては生まれて初めてのことだった。
「わたしも、嬉しいわ。これから一緒に生きていきましょうね。わたしの男」
「ああ!共に生きよう。わたしの女」
手を取り合った二人の手は、互いにより強く握り締めた。
──その光景はまるで、夫婦の愛の誓いの儀式のようだった。
こうして、
人類に「男」と「女」が誕生したのだ。
神と、楽園に暮らす全ての生き物たちは二人の人を祝福した。
この時アダムもエバも裸であったが、双方ともまだ「恥ずかしい」という感情はない。