28話『縋る幻想をも突き放す』
「ルシフェル天使長。貴方が人への服従を拒むのは、天使長としての公正な裁量のためですか?それとも、ただ己の浅ましい私欲のためか?」
その問いかけはきっと、ウリエルなりの「仲間を信じる意思」なのだろう。目の前の孤高な天使長の心に届くように、ウリエルは依然と真摯な視線を投げかけ続ける。
「どちらにせよ、そこに天界にとって正当な主張があるのなら、このウリエルとてそれを受け止める意気くらいありますぜ」
一方で、ルシフェルの真意を見極めようとするウリエルの問いかけに対し、ルシフェルは刹那だけ過った感情を即座に瞳の裏側に隠すと、開口一番の言葉より先に溜息を漏らした。
「それを言ってどうする。そもそも貴様らには関係のないこと」
と、毅然とした態度で断言した。ウリエルなりの精一杯の配慮を思いっきり踏み躙るように。
「──全てが、無意味だ」
まさもウリエルにとって最も気に入らないルシフェルの傍若無人な態度だった。
「──ッ!無意味?関係ないだと!?そういうところですよ!貴方はまたそうやって
「ルシフェル天使長」」
頑なに口を割らないルシフェルに迫るウリエルを予め想定したかのように、すかさずガブリエルはやんわりと話に入ってきた。
「失礼ながら、わたくしたち七大天使は共に神の御前に立つことが許される身。今日ここにわざわざ全員が召集されたのは、それだけ我が主にとって重要なことを意味します」
「なので」とガブリエルは一息をつき、
「天使長のどのような発言も、私達にとっては無意味なことでも、関係のないことでも決してございません。──それはきっと、我が主にとっても」
「......」
それは決して責めるような口振りではなかった。自分の考えを淡々と述べる一方で、相手への配意を感じられる。ガブリエルなりに排他的なルシフェルとの距離を測ろうとしてくれているのだ。
「ウリエルが申し上げたように、何かご事情があるのでしたら、ゆっくりでも話し合うべきかと。我々七大天使はそのために存在しているのですから」
ガブリエルの言葉は、ルシフェルに伝わらなかったウリエルの誠意を代わりに尽くしてくれたと言っていいだろう。同時に、ミカエルの秘めたる思いをも代弁してくれていた。
「天使長が何かしら神の意向に異議を唱えるのは......まぁ、今に始まったことではないけどさ〜命令を“拒否”すること自体は今回が初めてじゃない?」
「そ、そうだよ!ルシフェル様は素直じゃないけど、本当は誰よりも主に忠順なんだよ!今日こんなにも神様に反発しちゃうのは、本当はすごく重要な理由があるんだよね...!?」
「天使長。我ら主の大命を頑なに拒否するのは流石に賢明とは言えません。もしそこに何かしらの異存があるのなら、尚更我々にもそれを聞く権利があるというものですな」
最後には、ラミエルを始め、ハニエルとラファエルもタイミングを見計らったように、次々とルシフェルを慮るように口を割った。
努めて歩み寄ろうとする七大天使たちはそれぞれの弁護の発言を寄せた。その健気な心遣いに、ルシフェルが一瞬だけ口ごもった気がした。
ミカエルはその躊躇に目を瞬かせたが、そのままの流れで話題を進めた。
「......ルシフェル。以前君は私にこう聞いた。“人の誕生”に何も思わないのか”と。」
ずっと黙って耳を傾けていたルシフェルが今度は鼻先をミカエルへ向けた。「それが、どうした」と冷たい声で話を促した。
「今にして思えば、あの時の君が私に求めたのは天使としての格式ばった発言なんてものではなく、このミカエルの一個人としての表明だったのではないのかと」
しかし、あの瞬間、ミカエルはルシフェルに胸襟を開くことができなかった。
そのときの自分の整理のつかない感情の数々が蘇る。その一つ一つが、どれもこれもが間違っていたわけではない。でも、正しくもない。
ただルシフェルが一番、きっとミカエルに差し伸べた手を取って欲しいと願ったあの場所で、ミカエルはその手を引っ込めた。
一番肝心な場面で、一番縋るものを求めていたルシフェルをミカエルは拒絶したのだ。
「誠実であれと言えば聞こえはいいが、結果として君の内情に深く踏み込むことを避けた。ただの逃げだった。そのせいで君の心を閉ざしてしまったのなら、すべては私のせいだ」
心の髄にまで訴えかけるようなミカエルの独白に、ルシフェルは無言で返すだけだった。知ったような口で述懐するミカエルに辟易したからだ。
今更そんな言葉でルシフェルの琴線に触れるのだと、本気で思っているのだろうか。
しかし、
「ルシフェル、今更都合が良いとはわかっている。もう一度私にチャンスを与えて欲しい。先程君はやけに【人】の存在が神に齎す不利益を提唱しているが、一体どういう意味だ?それが君の神のご命令に従わぬことに何の関係があるのか。仮に何か知っているのならば教えてくれないか」
それでもミカエルは一縷の望みに賭けるように、変わらず真摯な明眸でルシフェルを見つめたままだ。ルシフェルとは異なり愚直に生きるミカエルはどうやら本気でそう求めているようだ。
続けてルシフェルは目の前の七大天使たちを交互に焼き付くように凝視続けた。なにか知っていることがあるのなら、とそんな七大天使らの訴えに天使長の義務として投げ打って応えるべきだと思う一方で、どうせ無駄だと払い退けてしまいたいのもまた本心だった。
なにか知っていることがあるのなら、と全員が軽々しく口にするが、そんなのは本当ならルシフェルの方が声を大にして叫びたいことなのだ。
それこそ、あの元人と自称するリリスから聞き出した「魔族の正体」や「人の内なる悪性」を、今すぐに神の御前で同胞たちに開陳するべきだ。
そうなれば、神を仇なす可能性を秘める【人】を厚遇する神の愚策を共に打ち砕いて欲しい。
(フン。そんな都合のいい展開なんぞあるはずもない)
人はいつか神を背く罪深き被造物である。──そんな神の全能を全否定する話をこの天界の者たちが信じる方が絵空事であり、せいぜい半信半疑から情報源を追及されることで、ルシフェルが神の敵との接触を発覚されて裏目に出てしまうのがオチだ。
そうなれば、ますますルシフェルに対して向けられる天界の者たちの疑惑の視線が深まるだけ。
(──そうだ。打ち明けたところで、どうせ何も変わらない)
ルシフェルは、最後まで「拒絶」したのだ。仲間から差し伸べられた手を。
そして、最後まで信じられなかったのだ。己の仲間を。己の魂を分かつ兄弟を。──愛する神を。
誰にも、自分にすらもう、ルシフェルは決して期待などしない。
だから、抗うのをやめた。
「──フッ、ククク。」
ルシフェルの体からフッと力が抜けた。
呆れとか、可笑しさとか、そういった色んな感情が混ぜこぜになった「嘲笑」だけが、頭に木霊するだけでは収まらなかった。
「る、ルシフェル様ぁ?」
「貴様らが、このルシフェルの何をそこまで深く推し量ろうとしているのかは知らんが、」
噛み殺すかのような冷笑。
空気に溶けて、壊れていく。
「── 一つ、貴様らの勘違いを正そう」
深い諦観に滲むその眼は大胆不敵な光りに上書きされ、その視線が再びミカエルたちへ向けられた時には膠着するような執拗な厚みを感じさせるものになっていた。
まるで、ミカエルと決裂したあの日を彷彿させる表情。
「このルシフェルには、神に次ぐ力のみならず、神の被造物の中で唯一“自由の意志”が与えられているのだ。これまで神に忠順だった?ハッ!これまで私が神に仕えていたのは、あくまでこのルシフェル自らの意志であって、決して貴様らのような作為的な使命感や忠誠心とは訳が違う!!」
一連の嵩高な物言い。七大天使にとっては豹変、と言っても差し支えないほどのルシフェルの変貌だ。
そんな彼の予期もせぬ嘲弄な発言を経て、決して良い状態でなかったその場の空気に明らかに不穏なものが加速的に入り混じり始める。
「所詮、神の理に縛り付けられた貴様ら凡庸な天使と一緒にされては困る」
だが、それでも強く握りしめていた拳を解きながら、ルシフェルは声の調子を変えることなく吐き捨てた。
──そう。ルシフェルは「異端者」なのだ。「特別」過ぎた故に生まれてしまった負の遺物。
異物が紛れ込んでしまったような居た堪れなさと、浮き彫りになった自身の異質感に、ルシフェルの心の奥底にはいつしか虚無感が澱んでいた。これほど混沌とした“闇”は神の眷属には決して理解されるはずもない。
「そして今!私は自由の意思をもって、ここで人の存在を否定し、神の命令をも拒否する!!単に気に食わないからだ!理由なんてそれだけで充分だ」
まっすぐ前を見据える黄金の瞳に高圧的な光を湛えると、ルシフェルは一切の迷いを含まぬ芯の通った声音できっぱりと告げた。
「貴様らはそれを“傲慢”だと決めつけたがるであろう。──だが、それでいい。このルシフェルにはそれが許されているのだ!!」
ついには天使らしからぬ暴論を導き出し、ルシフェルは反論なんて認めないと言わんばかりに周囲を見回す。
その視線を受け、困惑と不服の感情が高まるのを感じるが、それを具体的な形にして示す者は現れない。
なにか理由があるのか。それとも、もはや説き伏せることすら諦めているのか。
本来であれば、ルシフェルにあれほど抗弁したウリエルに期待がかかるところだが、彼もまた強い不満を表しながらも口を閉ざしている。
「──以上が、このルシフェルの意中のすべてだ。どうだ?ここまでの我が心をすべて計り知れたか?貴様ら程度が一方的に我が心を忖度するなど、思い上がるでない!貴様らはいつから身を弁えることをやめたのだ?」
いっそ清々しいそのの傲岸不遜な佇まいに誰もが言及を避ける中で、ミカエルだけはルシフェルの自己欺瞞に気づいた。
(違う!ルシフェル!なぜッ、なぜ本当のことを言わない!このままだと君は本当に──ッ)
焦燥と混乱に苛まれる中、少なくともルシフェルの発言の真意にそれとなく勘が働いたミカエルは、とにかく打開するために己が動きを作らなくては、と判断して踏み出そうとしたが、
〈もうよい〉
動き出す出鼻を制止するような神の声に二の足を踏まされた。
〈最も美しく愛おしい天の子よ
これが最後の慈悲と受け給え〉
〈我が命に従ねば 汝に相応の罰を与えん〉
「ほう......?我が主よ。仮に私がヒトに従わねば、貴方様はどのような処罰を下すおつもりで」
ルシフェルの挑発的な問いに、神は、
〈この場をもって
汝の天使長なる地位を剥奪せむとす〉
ミカエルの内心の懸念がついには現実になってしまった。