26話『命令拒否』
天使たちが人に跪拝した直後。
大地を揺るがすような轟音がミカエルたちを襲った。──それが憤りの雄叫びだと気づくには数秒かかった。
激流のような感情が怒涛の渦を巻きその場にいる者の動きを封じた。
燃え上がるようなルシフェルの確かな憤怒を感じ取ってしまったからだ。それは強く握られ震え続けている彼の拳が物語っていた。
静寂が落ちた草原に唯一残った音は、怒声を放ったルシフェルの荒い息遣いのみ。
固唾を呑み、全員の注視が中央のルシフェルへと向けられる。それら畏怖まじりの視線を全身に浴びながら、ルシフェルは神の声がした上空の方へと目を向け、
「主よ!一体どういうおつもりだ!本日地上へ降りたのもただの謁見だけだったはず!今この場でこんなものに誓いを立てるなんぞ、私は聞かされていない!そもそも我が主以外に服従する話なんぞ、このルシフェルは反対していたはずだ!」
〈我が創造した人に
汝ら天使が仕え給え〉
「だから!私は納得できないと申しているッ」
〈何故〉
すかさず低く問い返す神の声に、ルシフェルは一瞬逡巡するも、すぐに声を張って異議を申し立てた。
「───何故?何故だと!?我が全知全能なる偉大な神よ!分からぬのですか!よく御覧あれ!天使(私)よりも遥かに低級な人性が、あらゆる被造物の上に高められることは果たして可能なのか!?この程度の人性が愛され、恩恵を受け、永遠である創造主に帰属するとは到底思わんッ!!」
停滞が支配しかけた草原を、ルシフェルは心の底から拒絶の声で躊躇なく割った。
その声音には周囲の困惑を配慮したような気配は微塵もない。心底純粋に、今の傲慢な台詞こそがルシフェルの抱懐のすべてであると誰しもに伝わる。
「同じ被造物でも、そんな知能も能力もない人に、なぜ優秀な我ら天使が仕えなければならんのだ!?御子の件とてそうだ!それが神の為さる事か!」
「ルシフェル!言葉が過ぎるぞ!いくら君でもこれ以上は不敬罪にあたる!」
流石にこのままではまずい──まさに一触即発に飛び火しそうになる状況を危惧したミカエルは、すかさずにルシフェルの肩に手を置き止めた。
ミカエルの介入に一瞬ぴたりと閉口し、ルシフェルは振り返った。
ありありと浮かぶ嫌悪は真っ直ぐと正直にミカエルに向けられる。
「また貴様か。ミカエル。邪魔をするな。神の言いなりでしかない愚物が」
冷たく突き放すようにミカエルを睨みつける。黄金の瞳には絶対零度の冷たさを放っていた。
「......どうしたというのだ。いつもの君らしくないぞ!ルシフェル!君はそんな無意味に誰かを意図的に貶し蔑むような性分ではないはずだ。今日の......いや、最近の君は、どうもおかしい」
困惑を隠せないミカエル。
そんなミカエルの戸惑いを余所に、ルシフェルは彼を知るものからすれば信じられないほど尊大に「フン」と吐き捨て、
「いつもの私らしくない......?貴様如きに、このルシフェルの何を思い知っていると言うのだ!」
天使の地位も尊厳も脅かされるこんな時でも、必死に保守的な姿勢を貫くルシフェルに対し、ミカエルはどこまでも公平無私を貫こうとする。
双子でも、双子なのに、
ミカエルは常にルシフェルと対極としていた。そんな対立的な弟の姿も、その言葉も、この時ばかりはルシフェルにとって理解し難い、認識できないものになっていた。双子の弟でさえも今では憎らしく思えた。
未だかつてないルシフェルの膨れ上がる剣呑な敵意の奔流を受け、ミカエルは面を食らった。
(......ルシフェル?)
これ以上ミカエルを視界には入れたくないと言わんばかりに、ルシフェルは制止するミカエルの手を全力で振り払い、さらに肩を強くドンと押した。当然そこに手加減なんてなかった。必要もなかった。
「退け。愚弟めが」
思いがけないルシフェルからの狼藉に、不覚にもミカエルはバランスを失い、草むらで尻餅をついた。
「ッ、」
その際巨体ゆえにどしんと反響した、地面の大きな振動が起こすそよ風がアダムの頬を掠めた。
「きゃあ!?る、ルシフェルさま......?」
思わぬ衝突の事態に、ハニエルの困惑した悲鳴がその場に響く。
「副司令官!?平気ですか!」
「あ、ああ。問題ない」
すかさず駆け寄ってきたウリエルの気遣いに応じ、ミカエルは立ち上がろうとしたものの、身体にうまく力が入らなかった。
(これは......闇の、)
ルシフェルがミカエルを退けた際に興奮ゆえか、ほんの少しの闇のエネルギーがミカエルの体内へ流し込んでしまったのかもしれない。
「俺の手を掴んでください」
「すまない.......」
手を貸してくれるウリエルの好意に甘えて、ミカエルはゆっくりと立ち上がりながらも、明らかな困惑と悲しみを染めた視線をルシフェルに向ける。
だがそんなミカエルに微塵も動じずに、睨めつけてくるルシフェルの双眸は相変わらず冷ややかであった。そして彼は何気に周囲を見渡した。
睨みつけてくるウリエル。
途方に暮れるハニエルとガブリエル。
一見では何を考えているのか分からず静かに傍観するラファエルとラミエル。
顔には恐怖と不安いっぱいに染まる矮小な人たち。
──そして、ただ沈黙を貫く神。
ルシフェルにとっては、この空間に自分だけが「異端」なのだと突きつけられているようで、胸が騒つくばかりだった。
だがそんな雑念を頭から追い出すようにルシフェルは鼻を鳴らすと、体ごと再び神の声がする方向の青空に向き直り凛と立つ。この状況においての多少なりともの反抗の表れなのだろう。
「主よ」と、この上なく厳しく、悲痛な声で訴えた。
「我々天使は、この命を、忠義を、そして愛を!すべてをかけて己の魂に誓った。いかなる時にもずっと主に仕え、主のために生きてきた!なのに...ッ、っ、今更ッ!御子のみならず、人をも崇めろとは!これではこれまでの我ら天使の存在意義が全否定されたようなものではないかッ!!」
冷淡な瞳とは裏腹に、どこか縋るような声の響きに、ミカエルたちは思わず息を呑んだ。
これほど余裕のないルシフェルなんて初めてだ。いつも威風堂々で、唯我独尊な天使長の風格は今や見る影もない。
一方で、当の本人は自身が周囲にどう見られているのか──そんな瑣末なことは一切、今は意識に入り込んでこない。
今はただ全精神で神に傾注するのみである。
「ああ!果てしない失望感でこの身が震えているッ!後から創造された分際で、人がなんの権利を以って、天使を差し置いて神の寵愛と被造物の頂点を一番に貰い受ける!?父なる神よ!教え給え!なぜ完璧なる我々天使よりも、そこにいる不完全な人を愛するのだ!?」
〈分からぬのか。我が右に立つ者が〉
神はただ淡々と問いを投げかけた。抑揚の欠けた無機質とした響き。そこには無感情の渦しか横たわっていなかった。──ルシフェルの中の怒りと焦りを増幅させるように。
理屈ではない、考えるまでもなく容易に辿り着ける答えを──ルシフェルが一番到達したくなかった答えを誘導するように。
「──ッ!......分かるものかッ!!こんな土の塵から作られた泥人形に、このルシフェルが跪くとお思いか!?」
人の誕生。
何が正しくて、何が間違いなのか。正解なんて知りたかった訳ではない。ただ、その疑問を口にすることすら許されないと言われているようでルシフェルは納得行かなかった。神が何を考えているのか、最も長く共に寄り添った完璧なルシフェルでさえも知る由がないことが悔しかったのだ。
「我が崇高なる父よ、高潔にして慈愛に満ちた我が親愛なる神よ。今からでも遅くはない。この下等なる欠陥品の処分を進言する!さもないと、主はきっと後悔する日がやってこられる!人はいつか必ず貴方を裏切り───」
〈我が子よ 我にとって
己の創造したすべてが
限りなく愛おしい〉
〈それは天使も例外ではない
生来賢明で我に忠順な愛おしい
天の子らよ〉
その答えにルシフェルの黄金の瞳がかすかに明るみを帯びる。
〈されど〉
が、
〈最後に創造されしとはいえ
我が穢れなき神の子〉
〈さらには 善も悪もを知らぬ
穢れなき人が
最も愛おしいのだ〉
神から紡がれる、想いの形。次いで紡がれたその響きに、ルシフェルは絶句するより他になかった。
脳髄を鈍器で直に殴られたような気分、とは凡そ現実的でない表現だが、いっそのこと現実にそうであればどんなに良かっただろうと思わずにはいられない。
物理的な痛みなら、今まで幾度も修羅場を重ねてきたルシフェルは尾を引かない。だが根幹を揺るがすほどの心への打撃にしては、あまりにもルシフェルには耐えられそうにない痛みだった──曲がりなりにも忠誠と愛を誓った己の創造主の御言葉であるからだ。
「それが、我が主の本意だと言うのか......」
今まで最も神から愛されていたのは自分であるとルシフェルは自負していた。
しかし、神の愛は奪われてしまった。──天使よりも後に創造された人によって。それを皮肉にも今この場で神の宣言により直接に証明されてしまった。
だが同時にそれは、ルシフェルにとっては自分の変質を確定するほどに劇的なものだった。さっきまでの悲嘆や怒り、悔しさがごちゃ混ぜになった感情は消え、今は、どうしようもない虚しさと失望だけがルシフェルの中に取り残されていた。
神の言葉を反芻し、ルシフェルは極力感情を抑えた声音で、無理解より力なく首を横に振った。
「父上よ──!!!なぜッ!そこまでしてッ」
心が訴えかけるままの叫び声はきっと、ルシフェルが何度も口にしてきた切実なる疑問だったのだろう。
もはや何を言っても取り合って貰えないと悟ったのか、彼はせめて神慮を伺おうと振り絞るように声を張り上げた。
それなのに、
〈問答無用 ルシフェルよ
汝に 今一度命ずる〉
神はどこまでも、ルシフェルの希望を殺してしまう。
〈人に服従し──〉
だから、ルシフェルは、
「──断る、」
神の大命を遮ってまでの二度目の拒否に込められたルシフェルの意思の強さは絶対的で、思いの強さは決して揺るがない。
なのに、
そこには、懇願のような響きを伴っていた。