25話『人に跪拝せよ』★
「喋りすぎだ。ハニエル」
それまで静かに傍観していたルシフェルはシラを切らしたのか、ハニエルを強く叱咤した。
「知能がない人とはいえ、そうペラペラと天界の内情を話すものではない。くれぐれも情報漏洩を自重しろ」
「う.......っ!も、申し訳ございません!ルシフェル様ぁ!」
その一喝は今まで何物にも臆面なしでマイペースなハニエルをも瞬時にして萎縮させるほどの迫力があった。
「ここにいる者達もだ。人にあっさりと懐柔されおって。本日我々天使が地上へ舞い降りたのは、【人】とこうして無駄な親交をする為ではないのだ」
威厳たっぷりにその場にいる天使たちを睥睨するその目に、皆が口を噤んだ。
それまでどこか最初の緊迫感が失われつつあった草原の地に、誰もが背筋を伸ばさずにいられないほどの雰囲気が駆け抜けた。
彼、ルシフェル──全天使の代表とも言われる天使長が【人】との親交目的を否定した。それに対して茫然とする者がいれば、黙って成り行きを見守る者もいた。
ルシフェルの言葉の真意を探り、誰もが反論として最初に言葉を発する者は居らず、緊張した空気が張り詰める。
そんな中、口火を切ったのは、
「一つ聞きたい」
ようやく口を開いたミカエルの声には、やや硬さがあった。
「だとしたら、君はなぜここへ来た、ルシフェル。天使長としての責務か?」
「責務?......ああ、否定はしない。それと、もう一つ。──ほんの少しのくだらん好奇心だ」
「......好奇心だと?」
「品定めのようなものだ。我々天使を含め、いかなる被造物よりも神の恩恵を受け賜わりし【人】がどれほどのものか、この目で直々に拝もうと思っただけだ。──結果としては、とんだ見込み違いだったがな」
失望したと言わんばかりの言葉尻と共に、ルシフェルは乱暴に手を振ってみせる。それはぞんざいに人を遠ざける仕草であり、事実彼は誰が見てもルシフェルは明らかに普段よりも殺気立っている。纏うその強い苛立ちの感情は肌を刺すように感じられる。
「よもやこのような知性も能力も遥かに天使に劣るものが今こうして私の前に存在するとは──誠に遺憾の至り。期待外れもいいところだ」
深く深く、憎悪を煮立てたような憎々しいその声に、ミカエルは息を呑む。
ルシフェルの言葉が何を指しているのか、これからどんな影響をもたらすのか、決してよい方向に転ばない予感だけははっきりと感じられたのだから。
「......な、なんだ?」
「.......こわい、アダム」
一方で、アダムとエバもまた何やら不穏な空気を感じ取った。周囲の反応からして、先ほどルシフェルからの言葉の数々は恐らく自分たちへの罵倒や侮蔑に近い扱いのものだと、なんとなく察していた。
さらには、ルシフェルを取り巻く圧倒的なまでの鬼気に彼らは怖気づく。
逃げたい。
そんな思考に追い詰められるほどに。ルシフェルから向けられる悪意には圧殺させるような息苦しさが潜んでいた。
それでも、アダムはぱっと頭に浮かんだことを恐る恐るもなんとか口から絞る出した。
「......よく、わからないが、きっ、君は!人が、きらい、なのか?」
「ああ。その通りだ。知能は劣っても最低限の理解力はあるようだな?」
即答と共に浴びせられる嘲弄まじりの視線。それを受けながらアダムとエバたちはついに言葉を失ってしまった。
どこまでも辛辣な言葉を畳みかけるルシフェルに、これ以上どう反応していいのか判断に困っていたからだ。
それこそ天使との差異──善悪を区別できない──“人”にできる最大限の感情だと知らずに。
「ルシフェル。神の御前だ。その辺にしておくのだ。口にして良い事の分別くらいは持ち合わせているだろう。」
そんな中でこの場で唯一ルシフェルを止められるのはやはりと言うべきか、副司令官のミカエルだけであった。
嫌に【人】に攻撃的な彼をこれ以上看過できるものではないと判断したからだ。
「まだ誕生してまもない幼き被造物。神の栄光に輝く我ら天使が慈悲と愛を以って導き賜うべきではないか」
しかし、そんな仲裁のためのミカエルの配慮を、ルシフェルはあっさりと切り捨てた。今度は怒りの矛先をミカエルへと向けることになる。
「黙れ!ミカエル。慎むのは貴様だ」
〈皆の者 静粛に〉
「──!」
今まで沈黙を貫いていた神からの制止──そんな不意打ちの形がルシフェルを刹那に束縛する。
偉大なる神は静かに語る。
〈ああ ミカエル
我が魂の深く慈しむ天の子よ〉
〈汝が先程語ったことはすべて
我が思いそのままであり〉
〈我が永遠なる目的が
命ずるところのままである〉
そこで、
〈──アダムよ〉
名前を呼んだだけだが、神の声色はその場の空気を一瞬で変えた。
「あ、はい!我が主」
突然指名されたアダムは、思わずびくりと驚くもしっかりと返答をした。
〈人類の祖である汝に
恩恵と栄光を授けよう〉
〈汝の受くべき
誉れを受けるが良い〉
「ありがたき幸せ......、しかし、それは一体なんなのでしょう?」
〈【人】の位の配下に
【天使】を置こう 〉
一瞬、世界から音が消失した──。
〈天にあり 地にあるものこそ
汝 人の前にしてその膝を屈するだろう〉
朗と響き渡る声で神が告げる。数秒の間を置いて、激震が走る。
「どういうことだ」と口々に疑問を投げかける声。
それらをざっと見渡し、ルシフェルだけは神の言葉に「チッ、してやられた」と険しく口の中だけで悪態をつく。
どうやら彼には今までの話の流れからして、この展開は予想外ではないようだ。その証拠にルシフェルは、その場の熱が冷めやらぬ状況に堂々と踏み込み、
「ッ!主よ!それは反対だと言っていた筈だ!!」
間髪を入れずルシフェルは神に異を唱えた──動揺のせいか、この際の神への不作法な態度にはもはやなりふり構わなかった。
その様子に他の七大天使たちも騒ついた声の波を起こした。
「え?え?それって...、【人】も今日から【天使】の支配者になるってこと?」
「ワオ!御子様の次は人......ね、新革命だネ!」
「正直驚きは隠せないが......、それが主のご命令とならば、我々がすることはただ一つだな」
「......フン!言うまでもない。当然、我々天使は従いあるのみ!」
「え、ええ。そうですわね」
そうは言うものの、他の七大天使もさすがに困惑を些か隠しきれていなかった。
いくら崇高なる神の御言葉であろうと、このような天使よりも上位となる存在が立て続けに誕生する展開なんて前代未聞だったからだ。
「......」
それはミカエルにとっても例外ではなかった。
(ルシフェルの言っていた事はやはり本当だったのか)
──ならば、ミカエルの答えも決まっている。
混乱がその場を埋め尽くし始める中、神は続けて言葉を綴る。
〈七つの天の子らよ
我が聖なる熾天使の群れよ
我が言葉に耳を傾け〉
神の声の質が明らかさに変わった。
〈我は汝らすべてに命ずる〉
圧倒的な支配力を持っていて、かつとても美しかった。まるで、魂魄の芯を包み込んだような──
凛と、涼やかに、淡々と、
〈人に跪拝せよ〉
キィィインと、この場の空間が研ぎ澄まされていくのを肌で感じる。
迷い、疑問、驚愕。──すべての「曇り」を削っていくような洗練された音が響く。
それらを認識した瞬間には、
空気が平伏した。
空間の圧力がグッと増したのだ。
ズンと肩に重い石が乗せられたように重くなった。全員の心にビリリとした戦慄感が走る。
究極の自然体。
本物の上位者──ただ自然に、そこにただ『存在』するだけで、この上なく完全な絶対者になり得る。
全員が、バッと顔を仰いだ──神の威光は、あまりにも輝かしい。
「神がそのようにしろ」と望むのなら、自分たち天使はいつだってそれを「ただ従い、実行する」だけ、いや、本来そうであるべきなのだから。
〈人の祖を汝らが崇め
尊いものとして守護せよ〉
特に何かされていた訳ではない。ただ「それこそが摂理である。」と芯の底から、いや、魂そのものが認識しているだけなのだ。
今、この瞬間における世界の中心は、
他のどこでもなく、
間違いなく、
──創造主である、と──
〈人に害なすことを 我は禁忌とす〉
誰もが黙って耳を傾ける。
もはや「なぜそのような事を?」なんていう疑問など投げつけない。
「なぜ、人に?」なんていう疑問など胸に抱えない。
いざ神の御前にすれば、否応なしに自身は神のために生み出された存在だと思い知らされる。神に逆らってならないと己を構成する細胞の一つ一つに組み込まれている。
それは天使だけではない。未だに事態を飲み込んでいない人のアダムもエバも痛感したことだった。──彼らが皆「神の被造物」である限りは。
この瞬間には、七大天使中の迷いも驚きもすべて霧散した。
自身の内側から溢れ出てきる「想い」と「衝動」に身を任せ、誰よりも前にいたミカエルを主導に、その場に立つ七大天使たちは心得たとばかりに一斉に恭しく両膝を地につき。音も立てずに跪いた。
「地上の生物の頂点に立つ被造物よ。この上なく尊き人の祖──アダムよ。我ら天使は御身に我らの忠義捧げ、御名を尊び奉ることを誓わん」
七大天使たちは見事に口を揃え、洗練されきった動作で頭を差し出した。
滑らかで、無駄のない。
完璧にして美しい一連の動き。
それは非常に神聖的で、そしてどこか非現実的のようであった。
突然の展開に内心狼狽していたアダムですら思わず言葉を失って見惚れてしまうほど、壮観な光景であった。
拒否なんて選択は彼らには皆無だった。あるのは父なる神への「服従心」のみ──その場にいたすべての者に、神の被造物として当然の反応が起きたのだ。
──しかし、
ああ、しかし──、
「ふざけるなッ!」
──ただ一人天使長ルシフェルを除いては、




