22話『嵐の前の静けさ』★
ピビッ
「......。うむ。切られてしまった」
話の途中で無断で通信をキャンセルされ、ミカエルは周囲には気付かれないほど細やかな吐息を溢した。
しばらく途方に暮れたように、その場で佇むミカエルにつかつかと歩み寄るのは、
「ミカエルちゃーん!どうどう!?ルシフェル様明日来てくれる?」
「ああ。心配はない。天使長は明日の謁見にはちゃんと来るそうだ」
「ほんとほんと!?やったぁ〜〜♪久しぶりにルシフェル様に会えるぅ〜♪」
余程嬉しいのか、ハニエルは無邪気に喜びの舞を広げて、あちこちと飛び回る。もはや歓喜状態で、間違いなくここ最近のハニエルの一番の笑顔だった。
「ひとまずよかったですわね。これで七大天使一同全員集結するんですもの」
「フン!とか言って、今までみたくにすっぽかすつもりじゃあるまいな」
「もう、ウリエルったら、まだそんなことをおっしゃるの?いい加減意地を張るのをおやめなさい」
散々な悪態をつくウリエルをガブリエルがやんわりと窘める。
ルシフェルの疑惑についての措置議論がひとまず落ち着いたとはいえ、ルシフェルとウリエルの間に横たわるものは依然として変わらない。ウリエルがルシフェルに対する猜疑心も、悪感情も。
「チッ......わかっている!今のはただの八つ当たりだ!いつまでも引きずる俺が悪いってんだァ!オイ!」
「......ウリエルってさ〜、結構面倒臭い性格とか言われない?」
「黙れ!ラミエル!テメェには言われたくないわ!ほっとけッ!!!」
感情的になって私情が押し出されて視野が狭まるわりには、案外すぐに客観的な部分を取り戻して己の非を認められる。ウリエルの自他共に厳しい性格に、その場にいる全員が内心苦笑してしまう。
「まぁ、ウリエルの性格は放っておくけどさぁ」
そう前置きをして、ラミエルは一歩距離をミカエルに詰めてきて首を傾げた。
「にしても、議長を無断辞任したのに、よく明日天使長が来てくれる気になってくれたよねぇ〜副司令が頑張って説得でもしたの?」
「いや......。私は何もしていない。どうやらルシフェルは元より来る気でいたのさ」
「ふーん?そっかそっか」
端的にラミエルの疑問に応えても、彼はそのセリフとは裏腹に、どこか腑に落ちない様子が窺える。それをすかさずラファエルが尋ねる。
「何か言いたげだね。ラミエル君」
「いやぁ〜、ね。今この天界で【人】に一番否定的なのって天使長じゃん?その件に関してだけは脳筋なウリエルに劣らず柔軟性が欠けるあのお方がどういう風の吹き回しかなってね♪」
「誰が脳筋だッ!?喧嘩売ってるのか貴様!」
「ちょっとちょっと〜!ラミエルちゃんっ!どうして急にそんなことを言い出すの!?」
肩を竦めながらのラミエルの言葉に真っ先に噛みつくのはウリエルと、──つい先程までの上機嫌とはうって変わり、不服そうな様相を帯びたハニエルだった。
彼女はぱたぱたとオレンジ色の服装の裾を揺らして飛びつくように会話に割り込んで、不平の訴えを真っ直ぐにラミエルに向けた。
「人への謁見は神様からの勅令なんだよ!?七大天使の議会とは訳が違うのっ!いくらなんでもルシフェル様がそこまで無責任な訳ないでしょ!?」
「おっとと、ハニー。そんなつもりはなかったんだよ。謝るから気を悪くしないでおくれよ♪」
「ふんっ!次ルシフェル様を悪く言うとわたし許さないからねっ!」
ハニエルが唇を尖らせて不満げにすると、ラミエルは「ごめんごめん」と軽く謝りながら笑ってしまう。
「はいはい!ボクが悪うございました!金輪際言わない♪……君の前ではね⭐︎」
「......!?あたしの前じゃなくても言っちゃだめぇええ!!」
「アハハ」
「ええい!やかましい!静かにせんか貴様らッ」
大きな声で戯れ合う二人に、すぐに横合いからウリエルの怒声が飛んでくるが、
「君もだがね」
と、すぐに呆れたラファエルから淡々と諌められる。
弛緩した雰囲気に変わり、騒がしい空間をよそに、その輪の外で一人だけ佇んで複雑な表情で黙り込む者がいた。
「ミカエル副司令?」
ミカエルから少し離れていたガブリエルは、ゆっくりと彼の傍へ歩み寄る。そして、心配そうにこちらへ視線を送っていた。
だが、ミカエルは「問題ない」とだけ言って、考えを巡らすように瞼を閉じた。
(明日、ルシフェルは来る.....)
それは結構なことのはずだ。なのになぜこうもミカエルの心は騒めき、波のように押し寄せる不安で居た堪れなくなるのだ。それを打ち消すように彼はガブリエルに背を向けて、
「すまない。ガブリエル。本来であれば明日の段取りをすぐにでも決定していきたいところだが、あとは任せてもいいか?最終確認事項に関しては後で伝令を頼みたい」
「え、えぇ。本日の議会自体は終了となっておりますので、それは問題ありませんわ。......では、また明日に」
「ああ。私はひとまず先に失礼するよ」
【審理の間】から出て行くミカエルの背中にガブリエルは心配そうな眼差しを投げた。
そんな見送るガブリエルの様子を背後から感じつつも、ミカエルは彼女に気を遣わせてしまったことを内心謝罪した。
しかし、情けないことに、今はとりあえず一人でいたかった。
(ルシフェルとのテレパシー通信を通して、微かに彼以外の気配を感じた......、それもかなり良くないもので)
元々一人を好むルシフェルではあるが、ここ最近は群を成して誰とも関わることなく闇の神殿に閉じ籠ることが多くなったと聞く。
孤高な彼が己のテリトリーに誰かが踏み入れることを許すなんて滅多にない。
弟のミカエルでさえも数え切れる回数ほどしか招かれたことがない。唯一許可なく入れるとしたらそれこそ彼を創造した神だけだろう。
だが近頃その神も誕生したばかりの人につきっきりなため、必要な時以外はルシフェルの神殿に現れることもほぼなくなる。
(では一体誰が──?)
探りを入れては、「貴様には関係ないだろう。」とすぐルシフェルから切り捨てられた。まさに一刀両断な勢いだった。
だがその時はルシフェルの機嫌を損ねかねないと一先ず潔く追及を諦めたミカエルだったが、やはり不穏の種としてミカエルの疑心に埋め込み、徐々に芽が生える。
(ルシフェル。君は一体何を思い、何を考えているのか。今の私にはさっぱりだ)
あの日からのルシフェルの言動のすべてがいつまでもミカエルに彼を見失わせる。ミカエルが案じていたことが現実のものになってしまわないかと、
(この胸騒ぎはなんなのだ......?)
まるで嵐の前の静けさのようだと心の中で呟いたミカエルは、不安をただ持て余していた。
それでも、次へ進まなければならない現実の世知辛さがミカエルを責め立て続ける。
(ああ、全知全能なる神よ。)
天使が行き着く先の未来とは一体何なのか。その答えを願わくば御教え給え。
◇◇◇◇◇◇◇
──次の日。
その頃の楽園では、
新たな神の創造物の幸福の住処となる一つの世界。二人の人とその他の生き物が住まう──【エデンの園】。
その楽園にある砂の海岸。その海岸の岩の上に沖の彼方に向かって佇む一人の女がいた。
彼女は遠い海の色や、近い水の底をぼんやりと眺めていた。岩の上から見下ろす水は、また特別に透き通っていて綺麗なものだった。
その景色に新たな一つの影が、映りこむ。
「エバ!ここにいたんだね」
「アダム!」
「そろそろ行こう。神がお呼びだ。今日はわたしたちに会いに来る者がいるそうだよ」
「わたしたちに?だれかしら?わたしたちみたいな人?」
「わたしも最初はそう思ったのだが、どうやら違うらしいな」
「じゃあ、どうぶつ?トリさん?それともおさかなさん?」
「うぅむ......どうだろうな?わたしも神から詳しくはきいてはいないんだ。エバ。とりあえず行けばわかるだろう!」
「はい!」
今日はアダムとエバに訪問者が遥々天上からやってくると──そう神から聞かされている。なんでも自分たち「人」よりも遥か昔に創造されたもの、としか今のところ情報がない。
新緑の隙間を縫うように降り注ぐ朝陽を身に感じながら、かろうじて道らしき緑を除けられた土の上を踏み締め、目的地──神との約束の地へと向かう。
その途中で、アダムはこれからのことについてさまざまな想像を膨らませていた。
これから会うことになる来訪者は一体どんな姿をしているのだろう。人や動物たちとはどう違うのだろう。互いに相違する被造物として、仲良くできるのだろうか。
まったく見当もつかないだけに、期待とは同時に、アダムの胸の中にどこかに言い知れない小さな不安の影が宿ってしまう。彼に残されている確かなことといえば、それらの答えは今から向かうすぐそこにあるということ。
不意に少し後ろで自分に着いて歩くエバの顔が目につく。
エバはこの上なくニコニコとして、楽しそうだった。心なしか表情もいつもよりも生き生きとして見れた。彼女はアダムの方へゆっくりと視線を向ける。
「なんだか、やけに嬉しそうだなエバ」
二人の視線が交錯する。
エバの瞳は潤んでキラキラと光った。この美しい女が頬を紅潮させているところはアダムにとっては非常に魅力的である。
「うふふ!これから会う者たちがどんな感じなのか、それを想像したら、なんだココがすごくぽかぽかしてくるのよ」
自分の胸に手を翳しながら、エバは潤んだ目をさらに輝かせてそう優しくアダムに囁きかけた。
彼女もこれからの来訪者に心を弾ませていたのだ。先程の自分とまったく同じことを考えていたらしい。アダムは改めてエバは自分の一部から生まれ落ちた存在であると実感した。
そう思った途端に、アダムはエバへの愛おしさが狂おしい程に彼の内部に満ち溢れていた。
「...あぁ!そうだな。わたしもすごく楽しみだよ。エバ」
そうだ。アダムは一人ではない。
どんな時でも男の隣には女がいるのだから。そう考えるだけでもう心強かった。
エバの右手に視線を落とした。アダムは自分のそれより一回り以上小さい華奢な手をするりと掴む。少しでも夫婦同士に見えるよう、指を軽く絡めていく。
「アダム......?」
「目的地まではぐれたら困るだろう?」
「......うふふ、ありがとう」
無造作に繁茂する複雑な森の中でも決して離れてしまわないよう、互いの五本の指を確かに絡めながら、
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
気がつけば、先程芽生えた僅かな不安の種が消え去っていたことに気づく。
【約束の地】が近づく。
──すべての行く末が決定づけられるその場所が。




