21話『神の失敗作』
脳内に直接声が響き渡る。
ミカエルからのテレパシーだった。大方何かしらの連絡報告だろう。
あるいは、本日ルシフェルの議長独断辞任の件への異議申し立てか──、
ルシフェルと向き合っているリリスとしては酷く邪魔された気分なのか、「ちぇっ!いいところだったのに」と拗ねたように唇を尖らせてる姿が視界の端で確認できた。
せわしない奴だ、とルシフェルは心の中で舌打ちをしつつも、渋々とミカエルからの遠隔思念に応じることにした。
無視することもできたが、先日ミカエルとの溝が深まった一件で不信感を抱かせたに違いない。今この天界の一部でルシフェルへの疑惑と警戒が渦巻く中で、これ以上その不信感の確証を得させるのは得策ではないと判断したからだ。
ピビッ
(“こちらルシフェル。そう何度呼ばずとも聞こえている”)
(“.......、......他に誰かいるのか?”)
開口一番がそれだった。
このミカエルは、天界にはない奇妙な魂魄の気配をテレパシー通じて察知したのかもしれない。一瞬侵入者の存在がバレたのかと内心どきりとしたが、ルシフェルはすぐに平静を装って「関係ないだろう」と一蹴りした。
元よりミカエルは昔から妙なところで勘が鋭いところがあるゆえ、我が片割れながら実に油断はできない。
幸いミカエルは深く追及する気はないようで、「そうか」と案外あっさり引き下がって本題に入ろうとした。ルシフェルの性格を鑑みて、これ以上は答えてくれないと割り切っているからであろう。
洞察力は悪くないものの、それでいて要領が良く必要以上相手に深く踏み込むことはない潔さを持ち合わせている。ミカエルのそういうところを好ましく思う一方で、心のどこか口惜しく感じることにルシフェルは辟易した。
(”それで?要件は”)
(“ ......明日我ら七大天使が地上に降り人間に謁見をする日になる”)
(“ああ、そうだな。それがどうした”)
(“君は......、来るのか”)
(“当然だろう”)
(“───”)
(“なんだ”)
(“いや.......、私はてっきり......”)
あまりにルシフェルがあっさりと承諾したせいか、テレパシーの向こう側にミカエルが息を飲み込む音が伝わってくる。
十中八九、人を蔑視するルシフェルが謁見を拒むことを懸念して、こうしてコンタクトを図ったのだろう。
それ以降言葉を濁すミカエルに、ルシフェルが溜息をつき、
(“議長を辞任したからと言って、このルシフェルが七大天使であることには変わりない。......それに、天界の長たるもの神の大命までを拒否はできぬ”)
(“──そうか。それさえ確認できれば充分だ。では、また明日。.......それと、議長辞退の件だが、な”)
ビピッ
ミカエルが次の話題に入ろうとするやいなや、ルシフェル否応なしにテレパシーを無造作に中断した──ミカエルの最後の言葉の語尾に込められた疑念と切望に気づかないフリをしながら。
「うっふふ〜♪こわーいお顔♡」
リリスの言う通り、静かに佇んで全く頓着しない風を装うルシフェルだが、その全身から放射されている重苦しい空気が強い悲憤を物語っている。
「そんなに嫌なら、明日の人のお披露目会すっぽかせばいいのにぃ〜♪」
それに対して他人事のようにこの状況を楽しんでいる口振りが、ルシフェルの苛立ちを加速させる。
「愚か者めが。神は我々に人間への拝謁を望んでいる。行かぬなら余計な猜疑をかけられるだけだ。それだと結果的に己の首を絞めることになる」
「拝謁……ね♪」
そんなリリスの気持ちを読み取ったのか、ルシフェルは彼女を睨み、強い口調で言い放った。
「いくら人間を蔑むといえども、迂闊な行動は今後に差し支えが生じると言っているんだ。」
「“今後”ってぇ?」
間髪を容れずにリリスが尋ねる。そこにはどこか良からぬ期待が込められていた。だがそれに答えるのも癪な気がしてルシフェルはあえて無言で対応した。
「うふふ♪ もしかして──」
「勘違いするな。これはただの確認だ」
「うふん!確認、ねぇ〜」
「......」
「まだ踏ん切りがつかない?」
「何のことだ」
「ほんっと健気なのねぇ〜ヤキモチ妬いちゃうわ♪」
そう言ってリリスは楽しげに喉を鳴らす。そして怪訝な目を寄越すルシフェルにずいっと身を寄せた。口端に茶目っぽい笑みを刻んだまま、楽しそうな声で告げる。
「何だかんだ言って、結局──神に相当ご執心なのね♡」
ルシフェルは瞠目した。
しかし、それも束の間のことで、すぐに黄金の瞳が絶対零度に凍りつき、そこに灯る厳しい光がリリスを真っ直ぐに貫通する勢いで射抜く。
「あらぁ?もしかして図ぼ──「オイ、貴様」」
瞬間、リリスの身を震わせたのは、恐怖などという感情ではなかった。
もっと圧倒的な、生物として見上げるほど上位の存在を目前にしたような、言葉にし難い感情だ。あるいはそれこそを「畏怖」、と呼ぶのかもしれない。
「次に妙な勘繰りをすれば幻影も諸共に滅す」
ルシフェルから向けられた底冷えした響きの裏に獰猛な憤怒が隠しきれていない。ただし、これまでに見せた怒りとはまったく別の、憎悪と殺意が容赦なく入り交じった混沌の色。
それはリリスの唇を鉛のように重くするのには充分だった。息するのも苦痛、微動だにできぬ気迫に珍しく彼女はたじろいでしまった。
(ありゃま、これは......ちょっちヤバいかも?)
冷や汗が止まらない。
この瞬間リリスは初めてルシフェルを心の底から畏怖を感じた。
どうやらリリスは本格的に地雷を踏んでしまったようだ。【堕】だけでなく、リリスの思念諸共に滅すなんて実際それを成し得るのか疑わしいのだが、今目の前に聳え立ってこちらを見下ろす天使長様なら不思議と単なる脅しではなく、それを可能にできるように思えてくる。それほどの威圧感だった。
だが、
──でも......うふふ♪
これよこれ。アタシが求めてたもの♡
そんな聖ならぬ魔性の威厳と絶対的なカリスマ性を秘めたルシフェルだからこそ魔の統治者に相応しい──背中に這い上がる畏れに屈しそうになりながらも、念願にしていたものがこうして顕現的になることに、リリスは内心密かに悦に入っていた。
「少し言葉が過ぎたわねん!気を障ったのなら謝るわぁ〜でもね?これだけルシフェル様に言いたいの」
一度深く俯いたリリスの表情を伺い知ることはできない。ルシフェルは変わらず険しい様子でそれをただ無言に見下ろす。
「寄せる希望が大きいほど、裏切られた時の絶望は凄まじいものよ」
「────」
それはルシフェルへの言葉のようで、そうではないように思えた。
飄々とした調子こそ変わらぬ物言いだが、心なしかそこにはどこか寂しげな響きが潜んでいて、ルシフェルの意識をジワジワと揺さぶり反駁を奪い去った。
覆面の奥で言葉を失った唇を横一文字に結び黙り込んだままのルシフェルを見て、何が可笑しいのかリリスは小さな笑い声をあげて明るい口振りで続けた。
「うっふふ♪名残惜しいけれど今日はここまでねん。次また来ちゃうからその時はちゃんと返事聞かせてね♡」
次なんてあるものか。曲がりなりにも天界の長が、敵にこうも堂々と不法侵入宣言を布告されるのはいかがなものなのか。
「ではでは、さよぉ〜ならぁ〜♡」
ルシフェルの答えを待たずにリリスは別れの挨拶を告げたと同時に、彼女の輪郭が曖昧になり始めた。まるで霧のような光の粒が宙を舞い、彼女の足先、指先から消えていく。
「忘れないで?ルシフェル様の闇に焦がれる者たちがこっち側にたくさんいるってことを♡」
口端に浮かぶ不吉な、しかしどこまでも無邪気な嗤笑。消える寸前にそれと共に言葉を言い残して今度こそリリスの姿は完全に消えてた。
──その代わり、依代であった【堕】がその場で主人を見失ったかのように彷徨いながら浮遊している。
ルシフェルは右手に闇の力を発動し、
「──闇波導」
二度目に放たれたそれは凄まじい破壊力を発揮して、あっという間に【堕】を消し去った。
耳に劈く薄気味の悪い断末魔を響かせ、【堕】は消え失せていった──元からそこには何も居なかったような静寂だけを残して。
しかしリリスの影幻が消えても、彼女の最後の言葉が余韻となって未だに耳の奥でわんわんと尾を引いている。
ルシフェルは手元に視線を落とした。
(この闇の力を求めし者たちか──......)
神が定めたこの世界を構成する七大元素の中でも、【闇】の力は、神の救済が届かない悪と邪の支配領域とされる代物である。その異端な力はあまりにも危険なため、聖なる天使では簡単に飲み込まれて堕落してしまうのだが、今の天界でそれを使いこなせる者は圧倒的な光を持つ天使長のルシフェルだけなのだ。
──なぜ、ルシフェルが【闇】の守護天使なのであろうか。
ずっと心のどこかで密かに納得できずにいたものが、今になって意識の水面から露呈する。
いくら唯一闇の力を駆使できるとはいえども、「最も輝かしく光をもたらす者」という名を持っていながら、【光】の守護天使は自分ではなく、自分よりも光の力が劣る弟のミカエルが任じられた。
『素質があるのよ。貴方は』
リリスのあの言葉が蘇る。
ルシフェルの魂がドクンと脈打った。まるでそれが正解であると反応するかのように。
──闇。堕落。魔族。素質。
ぐるぐると、ルシフェルの頭を延々と廻るのは、聖なる存在に到底そぐわぬ言葉だった。
そして、そこから辿り着く結論は──。
「......、馬鹿馬鹿しい。何を惑わされることがある。私は最高位熾天使ルシフェルだぞ。最初に作られ、神の最高傑作であるこの私に、魔の素質なんて、そんなものある訳が──」
ならば、
なぜ【御子】を神継ぎとして選んだ?
なぜ天使よりも劣った【人】を最高傑作の上位互換とさせる?
なぜ、なぜ、なんのために?
今までの出来事が絡まり、津波のような疑問が押し寄せてきた。だが混乱と動揺で、湧き上がる疑問をうまく言葉に表せない。
(もしや......)
肋骨の奥から、ざわざわとした何かが立ち上がろうとしている。息が浅くなるのがわかった。ルシフェルの掠れた声音が、やがてその違和感を拾い上げ、ルシフェルの中で一つの仮説が思い浮かぶ。
しかし、その仮説は到底、受け入れ難いもので、ルシフェルは愕然と顔を強張らせながら、
「“失敗作”なのは、私のほうか......?」
(この、ルシフェルが?)
我ながら突然頭に浮かぶ筋違いな発想に失笑したくなった。だが同時に腑に落ちるだけにそれを一笑に付すには至らなかった。
「私は……一体何のために、」
──創られた?
そう続けられるはずの独り言ちる声は途絶えた。
無しかない暗闇の世界でひとりだった神が無限なる沈黙と孤独に恐れ、一人きりにならないように作り出されたのがルシフェルだったのだ。最初の創造物であるだけに、神に最も愛されしルシフェルも同じく、何よりも神を愛した。それはこれからも変わらないはずだった。
それが、どうだ。
今ではこうも日に日に神への不信感を募らせている。かつて誓った神への愛を貫くどころか、いつしか神を憎み、あまつさえ下剋上さえも目論んでいるのだから。神への反逆心と抱え続けるルシフェルの有り様はまさに──、
(これでは......確かにあの魔族の女の言ったように、魔族となんら変わらないではないな)
恩を仇で返すような被造物は“失敗作”といえずになんと言うか。少なくとも神にとっては“出来損ない”に違いない。
考えれば考えるほど混沌とした思考の深みに嵌っていく。そして徐々に自分の邪推が真実性を帯びていくのを感じる。
ただ問題なのは、なぜ神ご自身もが変わり───......
ザザッ
あともう少しで、何気に重大なものが掴つかめそうな感覚。しかし何故か、そこで思考に割いた意識がすぐに途切れた。途切れられた──まるで見えない誰かに邪魔されたかのように。
ルシフェルは長く重い嘆息をひとつ落とした。
そうだ。あれこれと考えたって仕方ないではないか。神の真意はまさに神のみぞ知る。
もうこれ以上何も考えたくはなかった。考えれば考えるほど堂々巡りに陥ると明白している。諦めるように思考を放棄すれば、ルシフェルの目には途端になにか決意と諦念がない混ぜになったような色が浮かんできた。
手に負えない感情を相手にするのも限界だ。慣れない疲労感が彼の背にのし掛かり、秒毎に成長して体重を増やす。
『今のアンタは神への忠誠心なんかありはしない。あるのは絶望と憤怒、そしてこの逞しい胸に芽生えるのは神への敵愾心♡』
目蓋の奥にはまだリリスの確信たる不敵な笑みが焼き付いている。
『天界の者として、責務を果たし、今の君の思想や言動は相応しくはないと判断するべきだ』
その一方で、ミカエルの訴えかけるような牽制の声が耳から離れられない。
なんだか今日は振り回されてばかりいる気分だ。らしくもない自らの感情の起伏の大きさに今更危機感すら感じている。こうも調子崩れては常に我が道を突き進む天使長の名折れになるからだ。
頭の隅での妄念すべてを振り切って、ルシフェルは神との約束の地へ向かう。歩く足が若干普段よりも覚束ない有り様に呆れながら。
「......明日だ。明日ですべてが決まる。それが、このルシフェルにとっての“真実”となる」
そうすれば、心で蟠るこの濁った黒い感情もきっと──
進む足音が次第に宵闇の静けさを纏い遠ざかる。
やがて鉄の扉が閉まる孤独な音だけが虚しく響いた。




