20話『罪深き誘惑』
ルシフェルは絶句した。
リリスの発言を頭の中で繰り返し、ルシフェルはその意味が一つの形でしか受け取れないことを噛み砕いて理解。
「この私に、堕天しろと......?」
今更ながら、リリスの言葉が魔界へ堕ちる意味を明確に示している。
堕天は、魔界の頂点となるサタンに従属することを意味するのだ。そう認識した途端、吐き気がした。
神への忠誠を完全捨て去り、知らぬ誰かに平伏すことを、心底拒絶する自分がいる。それは、ルシフェルがまだ神の忠実なる天使だから……なのだろうか?
「このルシフェルを魔の道へ引き込こうと......それが貴様の、貴様ら魔族どもの目的か!」
「うふん♪言っておくけど、アタシは本気よ?神に反旗を翻す気持ちはルシフェル様にだって少なからずあるのでしょう?」
悪戯っぽく笑って見せたリリスだが、その物言いにルシフェルの雰囲気がますます険しくなる。
「だからと言って、このルシフェルは魔族に成り下がる気などない!魔族風情が!図に乗るな」
「あら残念♪アタシへの警戒心がだいぶ解いたこの流れに乗じて言質取ろうと思ったのだけど、流石にルシフェル様をお相手にそう簡単にはいかないわねん」
「当然だ!魔界の帝王なんぞ聞いていない!なぜ最初に言わなかった!」
「別に他意はないわぁ?聞かれていなかったから言わなかっただけよん?」
後出し情報を出すリリスに警戒を高めるルシフェルに対し、口も軽く応じるリリスは嫌味のない顔で笑う。
が、煙に巻くような返答の内容がすでにさらなる警戒を呼び込むものであり、意図してやっているあたり、リリスの性格の悪さが如実に伝わってきた。
「とにかく、そのサタンという得体の知れない者など信用ならん!素性も知らぬ奴に従属するなどと真っ平御免蒙るッ!」
「まぁ!なんて事を言うのぉ!サタン様は我ら魔族にとって至高無上なる帝王よ!あの方こそがこの世の“創造主”なのだからっ」
「────なにを!」
リリスの言う『創造主』とは、おそらくそのサタンを指すのだろう。それが分かった瞬間、ルシフェルは無意識に、拳を握りしめていた。
目敏いリリスはそれを見逃さなかったようで、笑顔のまま首を傾かしげる。
「あらぁ?なにかご不満そうね〜?もしかしてサタン様と貴方たちの神を同等に扱うのは嫌?貴方はまだご存じないけれど、サタン様はアタシが人だったことから既に魔界に君臨されしお方よ?つまりは、神と同じ原始以前の既存枠なる存在なのだから」
これが、きっと生理的な嫌悪なのだろう。
今度は、リリスに明確に認識できるよう、ルシフェルは不快な表情を全面に押し出した。
「ありえない。神は、この世で唯一無二の創造主だ。戯言も休み休み言え!そのサタンとやらの御業がどれほどのものかは知らんが、この私と貴様と同じく、所詮は神の手によって創られた存在に過ぎない!」
無だったこの世界に「始まり」が訪れるまで、神はずっと一人だった。
自身以外に存在しない孤独感に耐えきれなかったからこそ、神は新たなる生命を創造することでこの世界の物語を始めたのだ。
今この世界に溢れる生き物は神の創造物であること以外は絶対にありえない──それだけは揺るぎのない絶対的真実であり、
「“創造主”と称して良いのはこの世で神のみだ。それ以外の被造物がこのルシフェルの前で、創造主の名を騙るな」
それだけは、ルシフェルの譲れない最後の一線なのだ。
そんな剣呑な視線を発し始めるルシフェルの牽制を、リリスは珍しく不快げに眉根を寄せながら、
「ふーん?随分なご意見なのねぇ〜?でもぉ、貴方はその唯一無二の創造主から離れようとしているじゃな〜い?」
「フン。それとこれとは別事項だ。一つ勘違いを正そう。見限るからと言って、神のすべてを否定するつもりはない。神の被造物としての最低限の分別はついている」
ルシフェルのどこか渇いた言葉に、リリスはきょとんとした顔で目を丸くする。
そんな反応から視線を逸らすルシフェルは、自分の胸中の矛盾する考えに辟易とした。
今のルシフェルは中途半端なのだ。
神に対する失望は消えていない。けれど天使としての「自由の意思」がまだ神への信奉をまだ完全には捨てきれない。それでも、天界には留まりたくない。かと言って魔界に、魔の眷属へ堕ちることも本能が拒絶してしまう。
この世界に生み出される前から刻まれた、神を崇拝する天使の性。少なからずその呪縛がいまだに奥底に潜めたルシフェルの闇を刺激し、苦しめている。
「......くく、ふっ♡」
「──?」
苦悩の海に沈むルシフェルの前で、俯いて顔を隠したリリスの肩が震える。なんだ、と胡乱そうなルシフェルの前で、彼女は弾けるような勢いで顔を上げると、
「うふふ、うふふふふっ!さすがはルシフェル様!ちょっとした意地悪のつもりだったけど.......、これは期待以上だわ♪やっぱりそこいらの天使とは思想も威徳もまるっきり違うわね!まさにあのお方から聞いた通りね♡」
彼女は口に手を当てて、ひどく楽しげに噴き出した。
口元を緩ませるリリスの笑みには打算や皮肉といったマイナスな感情がなく、純粋にルシフェルに対して好意的な感情から生じたものだ。
「......私を試したのか」
「いいえ?滅相もないわ!ただアタシたちはずっと探していたのよ!魔族を束ねる魔界の統治者をね♡」
と、これまでと違った雰囲気の微笑を初めて、口元に刻んだのだった。
「傲慢で尊大、だけどその貫禄に相応した圧倒的な統率力とカリスマ性!極めつけは神への謀反を企てる邪悪な野望!これほど見合う“適性”を探し当てた事を心より喜びを感じるの!!我が主サタン様がなぜ貴方を強くご所望なのか今ならよぉーく分かるわぁ♡」
ゾクリと、背筋を直に濡れた指先で撫ぜられたような悪寒が走る。
正面に向き合うリリスは口にした言葉通りに、歓喜を浮かべてルシフェルを見つめている。その態度に、歓喜に、ルシフェルは意味のわからない嫌悪感を覚える。
皮肉でもなんでもなく、リリスはルシフェルに対して喜びの感情を得ている。問題は、彼女が口にした喜びの意味を理解できないだろうことだ。
「......ずっと気になっていたのだが、なぜそれほどまでにこのルシフェルを求める?貴様とは今日が初対面で、そのサタンとやらも私は会ったことすらない」
ルシフェルの中にどうしても腑に落ちない点があった。
「貴様らは天界と敵対する種族なのだろう?いくら勧誘と言えども、何故敵であるこの私にここまで律儀に情報を与え、目的を洗いざらいに話す。一体何を企んでいる!!」
「さぁ?サタン様のご意向も、詳しいことなにも聞かされていないわぁ?ただね、こうしてこのアタシが全身全霊を傾けてわざわざルシフェル様を勧誘しに来たのは、まさしくそのサタン様からの直々の大命なのよ♪あの偉大なるお方がこれほど誰かに入れ込むなんて初めてなんだから、この上ない名誉のあることなのよ♪」
──特別なのよ。ルシフェル様は。
リリスは口端に茶目っぽい笑みを刻んだまま、ルシフェルにずいっと身を寄せて楽しげな声音で告げる。
「そ・れ・に♪アタシ個人としてもますます貴方の事を欲しくなったわ♡」
息を吸い、リリスは恋する乙女のように頬を赤らめた。吐息が色づくほどに熱を持ち、濡れた瞳は拭いきれない熱情で満たされる。それを淫靡に細めると、唇を赤い舌で艶めかしくなぞり、
「本当に......!勿体ないのよねぇん!ルシフェル様ほどの素晴らしい逸材も神の傘下におく限りでは所詮宝の持ち腐だものぉ〜!神って全知全能と謳ってる割には見る目ないのねぇ?やはりルシフェル様という器ってこの天界なんかには到底収まらないと思うわ♡」
まるですべてを見透かすように、リリスは悪戯っぽく笑うと、違う?と首傾げての問いかけてきた。
隙あらばルシフェルの心を土足でずかずかと踏み込むような無粋な言葉に苛立ちと殺意を覚える一方で、奇妙にも彼女の言葉は沁み渡る。
それきらきらと輝きながらも、一つ一つがまるで鋼の破片のように、ルシフェルの心に降り注ぐ。それは奥底に落ち触れた瞬間まるで雪であるかのように溶け込んでいった。
“宝の持ち腐”
今まで募らせたもどかしさの正体がまさにそれだった。この時ばかりは恐ろしいほど鮮やかに、リリスはルシフェルの心の隙間へ入り込んでしまった──、
「ねぇ、ルシフェル様〜!やはり考え直さないかしら?魔族の統治者となって、魔界をさらに築き上げていきましょう!ルシフェル様の器はこんな狭い神の鳥籠よりも、アタシたちの魔の牙城でこそ発揮されると思うわよん♪」
まるで最後の審判を迎えるかのように、リリスは再度同じ誘いを投げかけ、
「貴方にはそれだけの素質があるのよん」
今度は勢いよくルシフェルに手を伸ばした。それでも、ルシフェルの答えは変わらない。なのに、
(仮にこの手を取れば、私は神から解放されるのだろうか)
なぜかルシフェルにとってはこの瞬間だけリリスの悪魔の誘惑が差し伸べられた救いの手であるようにすら思えてしまう。
──それは、彼の心の迷いが徐ろに整理されつつある証拠であろう。
「──私は......」
ようやくルシフェルの重い口を開いたその時だった。
ビピッ
(“ルシフェル!聞こえるか?ルシフェル!”)
突如ルシフェルの脳内に響き渡る声。
それはまるで、狙ったかのようなタイミングだった。




