18話『魔族』★
「......至高なる神に叛くなどと、また随分と身の程知らずな発言だ。そもそも神の被造物に“魔族”などといった種族は記録に残されていない、が......」
リリスと向き合い、ルシフェルは告げられた言葉を吟味しながら言葉を絞り出す。
話の流れを鑑みて、平時ならだと事実無根だと取り合わないかもしれないが、現状には嫌な信憑性があった。
なにせ、
「【堕】を扱えたことも含め......貴様の禍々しいそれも、すべてが魔族の証だと言われれば、確かに合理的ではある」
と、その信憑性の大元にルシフェルが口にする。
黒く異質な羽。大きく尖った角。
何よりこの聖なる天界には絶対に相応しくない穢れたオーラを纏うリリスの異端な姿がはっきりと、今の彼女の言葉の真偽を証明している。
(この女......やけに既視感のある姿形だ)
どこか見覚えがあるだけに笑い飛ばすことができないのもそれが理由だ。
「あららん!禍々しいとはひどい言いようねん!まぁ天使の立場からすれば、そう見えるのでしょうねん♪」
「何を悠長な!貴様という存在が【堕】の“器”に自ら成り下がった結末なのであれば、【魔族】とやらも禁断に手を染めた罰当たりな種族だということになるッ!」
苛烈なルシフェルの突き詰めに、リリスは「うーん?」と少しだけ悩ましげに唇に指を当てて、そして合点がいったように小さく頷き、
「“器”......ねぇ、個人的にその言い方ってあまりしっくり来ないのよねぇ〜!厳密にいうと、アタシの魂と【堕】が融合して一体化となったのが、今のアタシ──この”魔族“としてのお姿なの♡いわば、一心同体と言ったところかしら?」
思わず頭の回転が止まってしまうほど、ルシフェルが呆然とリリスの言葉を反芻してしまうのは、あまりにも次から次へと耳慣れしない衝撃な情報量に突然襲われたから。
【堕】がもたらす「怪異」や「堕落」とは一体どういうものなのか。
実際にはルシフェルを含め例外なく天界の者たちは皆一律に掟を厳守しているため、実質【堕】がどのような悪影響を被るのか、その実情は未だ誰も知らない。
──まさかこれまでどこか曖昧にされてきた天界の禁忌の「答え」が、このような形で明らかになるとは。
「うふふ♪どう?美しいでしょう?我ながら惚れ惚れするわぁ〜!まさに本来の自分を取り戻せたって感じ♡」
「生憎そのような美学は持ち合わせていない。.....禁忌に触れた者の末路がなんとも悍ましいものよ」
陶然と微笑むリリスに、ルシフェルは生理的な嫌悪感を催しながら吐き捨てた。その態度にリリスは不満を表すように唇を曲げ、
「いやん!“恩恵”と言ってほしいわねん!神の言いつけなんてくだらなぁ〜いものを守っていたら、こーんな素晴らしいものを知ることはなんて一生訪れないんだからぁ!むしろ天界のアンタたちを哀れとすら思えるわん♪」
ルシフェルの前でポージングして、リリスはくるくると回って空中で華麗にモデル立ちする。
だが、披露されたその堂々とした立ち振舞いを遮るのは敵意を瞳に宿す天使長だ。
「さっきから不躾なことばかりを抜かしおって!よりにもよって【堕】に手を出しては貴様ッ!タダで済まされると思うのか!!」
いくら相手は天界の者ではないとはいえ、さすがに天下の最大なる禁忌を破った激白を聞かされては、ルシフェルも天使長として笑い話で済ますつもりもない。
「さあ〜?神が勝手に定めた天界のルールなんて、知ったことではないわ〜?」
「な、」
しかし、明確に敵視されてもリリスはどこ吹く風で悪びれもせず、笑い飛ばした。
「だってぇ〜アタシは魔族なんだもの♪神の掟なんて破ってなんぼってやつよ♡貴方達もそれを重々承知だと思ってたけど?.......まさか天使長でさえもここまで無知を曝け出すなんて、相変わらず神とやらは隅に置けないのねん」
「どういう意味だ」
「あのね〜!貴方たち天使ってとっくに魔族と関わっているはずよ?だって、あーんなにも繰り返し激しい戦争おっぱじめているじゃないのん♪もしかして忘れたとか言わないでしょうねん」
それきり、唇に手を当ててルシフェルは考え込む姿勢に入ってしまう。
リリスの含蓄ある言葉と、これまでの断片的な答えを繋ぎ合わせて、己の中に現状認識という形で答えを得ようとルシフェル過去の記憶を稼働させる。
そして、散らばったピースを組み合わせて出した答えは、
「──もしや、このところやけに天界に攻め込んでくるあの謎の反神集団.....、あれらの正体が全部“魔族”だと言うのか.!」
「ご・名・答♡天使長は察しが良くて助かるわ♪ちなみにあれらは低級魔族だからねん!人型魔族は残念だけどまだ希少だから、高貴なるこのリリス様との共通点をあまり見出せないのはある種の仕方のないことかもねん♪」
言われてみれば、戦時中に現れる魔族と姿形は大きく違えども、確かに禍々しい負のオーラは共通していた。
リリスへの既視感の謎が案外あっさりと解明した。
しかしそれと同時に、
「にしてもねぇ?敵の素性を知らないでよくもまぁ......なんの疑問も湧かないで、正体不明な敵と命懸けで戦えたわねん!神の命令に盲従する天使ってホント難儀な種族よねぇ〜!ここまで来ちゃうと魔族のアタシでさえも感心しちゃうわ!」
──これまで敵の内情を啓示してこなかった全知全能の神への疑念がルシフェルの中で急激に浮かび上がる。
(この女の言うことには一理ある)
そのせいか、リリスの皮肉を込めた何気ない指摘は悔しくもこれまで天使の本質と天界の実態に否定的だったルシフェルの琴線に触れていた。
そんなルシフェルの思惑を知って知らずか、リリスはルシフェルを指差し、それから自分自身を反対の手で指差しながら、
「これでお分かり?魔族ってのはね、神に抗い、そして憎む叛逆者たち。要は、神の言いなりの天使族とは完全に対極なる存在なのよん♪負の感情を糧とし、それを活力に神の眷属を誘い堕落させる。そして──最終的に神が作ったこの世界の滅びを望む種族なのよ♡」
「───!?」
この時にルシフェルが受けた衝撃は、筆舌に尽くし難いものがあった。
「と言ってもぉ、魔族が誕生したのはつい最近のことだって言うのは事実だしぃ、悔しいけどまだまだその存在は天界全体に浸透されていないのよね〜アタシとしてはもっと有能な人材を増やしたいところだけどぉ〜」
口を軽く尖らせたリリスは細い腕を額に当てて、しなやかな肉体を捻って残念そうに大きく溜息をついた。
そのあまりに場違いな苦慮の様子をもはやルシフェルが気に留める余裕はあるはずもない。彼にとっても先程のリリスからの情報は決して軽くはなかったのだ。
「馬鹿な.......それほどの反神勢力をこのルシフェルがこれまで一度も耳にしていないだと?そのような罪深き種族が存在するのなら、全知全能な我が主がお教えくださるはずだ」
「フーン。全知全能、ねぇ〜?でもぉ、その様子だと現実では神からはなーんにも聞かされていないようね?それって予め魔族の存在を黙秘していたということじゃないかしらぁ?」
リリスの悪意を込められた揶揄に、凝然とルシフェルの瞳は万感の思いに揺れていた。
その変化を促したリリスは彼を見守りながら、その喫驚を思惑通りと受け止めたらしい。
「さぁーて、もうこの際、神のご意向なんてどうでもいいじゃなーい♪」
そこですぐに切り替えたのか、リリスはわざとらしくも甲高い声を上げながら、大袈裟に両手を広げて満面な笑みを見せた。
「どのみち魔族が神様からは大変嫌われていることに変わりはないのだし〜♪現時点でアタシとルシフェル様が敵同士ってことねん♡あ、でもでもぉ!敵だからって最初の不意打ちみたいに攻撃なんて力の無駄遣いはおすすめしないわ♪ さっきも言った通り、本体のアタシはこことは別の遠くにある魔界にいるんだから!」
「本体はちゃんと安全なところで高みの見物とは、またなんとも小賢しい......。どうやら無策で敵の陣地に侵入してくるほどの愚か者ではないのだな」
「当然でしょう♪親切に教えておくと、ここにいるアタシは【堕】の一体を素体にした幻影に過ぎないから、本来ある力を発揮できないし、そもそも初めからルシフェル様に危害を加えることはないから安心して♪」
危害を加える気がない魔族が、何故敵対する神と天使の拠点にいるのか──リスクを負ってまで天界の柱の神殿でも最も侵入が困難な【闇の宮殿】に紛れ込むのはどう考えても無謀。
ただの考えなしで浅薄な侵入者といえばそこまでだが、ご丁寧に分身を作って備えるほどの慎重深さを考慮するあたり、その可能性は考え難い。
──わざわざ敵対宣告までして、敵意も危害も向けてこないこの女の目的がいよいよ見当もつかない。一体何がしたいのだ。
リリスの不一致な言動がルシフェルに不可解に思わせた。
「そちらが危害を加える気なくとも、こちらが貴様を見逃す理由はない。天界への不法侵入してしまった以上、その曲者を処分するのも我々天使の役目だ」
ルシフェルが知りたい情報は充分に手に入れた。もうこの女は用済みだ。
相手の目的はどうであれ、現にこの天界に異物が混入してるのは紛れもない事実だ──ましてやそれが神に反逆する不届き者だと確定すれば尚更である。
「たとえここに貴様の本体がなくとも、その姿をした【堕】自体も今ここで処分するべきだ」
「やっぱり天使長様は真面目なのねん!どうしてもこの仮初の分身を排除したいなら別に構わないけどぉ〜?せめてアタシの話を聞いてからでも全然遅くないし、損はしないと思うわよん?こっちとしてもそろそろ本題に入りたいのよねん♪」
「本題だと?」
「うふん♡言ったでしょう?私がここにいるのは、ルシフェル様とお話したかったからよ。んもう!今更だけど、やっぱり本気にしてなかったのねんっ!こっちはアンタと二人っきりになるために苦労したのよん!」
「本気にする方がどうかしてる」
「ひっどぉ〜い!」
うんざりと視線を逸らして吐き捨てるルシフェルに対して、素なのか演技なのかリリスはぷりぷりして怒った。
(どうも調子が狂う)
一見して相手の警戒心を発動させるところを起点としているにもかかわらず、きちんと会話の段取りをつけ、こちらを充分に混乱させ、最後にはこちらの懐を探ろうとする。そんな老獪なやり口に彼は忌々しい気分にさせられた。
本当に食えない奴だ、とルシフェルは内心悪態をつく。現に今もこうして他人を翻弄するような飄々とした言動とは裏腹に、決して隙を見せずその目の奥には常に独特の鋭さと狡猾さが見え隠れしている。
どんなに警戒を怠らずとも、気がつけばどこかこの女の手玉に取られているのはルシフェルの威信が傷ついてしまう。
──これ以上この女のペースに巻き込まれるつもりはない。
リリスの内なる脅威を察知し強い拒絶の表れとして、ルシフェルを再度攻撃態勢に入った。
「このルシフェルとしたことが穢らわしい魔族の長話に意識を傾けてしまったが、とにかくもうこれ以上敵の話に付き合うつもりなんぞ毛頭ない。魔族に関する未知な情報も律儀に教えて貰ったからには貴様はもう用済みだ。──このまま消えろ」
今までで一番顕著な敵意を向けられたリリスはしばらくじっとルシフェルを見つめた。その表情には笑みが張り付いているが、こちらを見る瞳の感情は明らかに雰囲気が変わった。
「うふっ、うふふふふふ......!」
そして、悪戯を思いついたように茶目っぽく大きな笑い声を上げた。
それがひどく耳障りで、中断させてやろうと闇の力を蓄積しようとするが、
「ウッフフフ......“敵”、ねぇ〜?」
「......何がおかしい」
「いーえ?確かに今のアタシたちは敵同士。お互いに信用してはいけない立場♪ でもね──」
愉悦に揺れる笑みを刻んだリリスは怪訝な表情を浮かべたルシフェルに凄まじい勢いで一直線に突撃してくる。
魅惑な笑顔を貼り付けたまま至近距離まで近付くや、ずいと身を乗り出した。
「アンタの答え次第で、アタシは“味方”になることもありえるわよん」
──“味方”。
その言葉に一瞬呆気に囚われるルシフェルだったが、すぐに鼻を鳴らしてあからさまな嘲笑をあげた。
「笑止!魔族が味方になったところで、このルシフェルにとっては百害はあっても一利などありはないッ!!!」
「あら!素敵な啖呵♡でも果たして一概にそう言えるのかしらぁ?そもそもアンタだって果たして神に絶対服従だなんて言えるのかしら〜ん?」
「......なんだと、」
じりじりと少しずつリリスはさらに接近してくる。そして大胆にもルシフェルの頬あたりを優しく手を添えた。
本来のルシフェルであれば問答無用で振り払うところだが、この時ばかりは何故か金縛りにあったように体が動かなかった。
「ふふふふ...誤魔化したってダメよん♪このリリス様にはすべてお見通しなんだから♡」
ルシフェルの頬に当てられたリリスの手は吸着力抜群の触手のようにねっとりと絡みついてくる。そこにはどんな繊細な心の不安や動揺をもつけ込んで息の根を止める危険な狂気を忍ばせている。
「さっきからルシフェル様から神への忠誠心を伺える発言が見られるけど、アタシにはわかるわ──」
ふとその粘着質な手の感触が消えた。
次にリリスはふわりと宙へ浮き離れたかと思えば、今度はゆらりとルシフェルの胸元に近づいた。
そして妙に馴れ馴れしくも優しい手つきでルシフェルの胸板の中央を長い人差し指でトンと軽く突いた。
「今のルシフェル様には神への忠誠心なんかありはしない。あるのは絶望と憤怒、そしてこの逞しい胸に芽生えるのは神への敵愾心♡」
「───!」
まるで自分の心が読まれているようであった。自分の心の奥底に押し込められていた邪心が引きずり出される──それは天界の者として、天使長としては相応しくない。だが、
「......フン。急に何を言い出すのかと思えば、とんだ戯言だ。そんな程度の惑わしにこのルシフェルが動じるとでも?」
「ふーん?戯言、ねん?案外強かなのね♡」
ルシフェルが激昂しなかった点に感心するようなリリスの表情。
それすらもルシフェルを苛立たせ、話を優位に進めようとする彼女の意図が見え隠れしてますますルシフェルは冷静になることを自身に厳命する。
もっとも、心の沸騰までは堪えられないゆえに、こんな見ず知らずの今日出会ったばかりの魔族風情に、自分の心が手に取るように読まれることがルシフェルにとってはひどく屈辱的だった。
ルシフェルは歯奥を軋らせ、憎々しげに目を細めた。この時ほどルシフェルは表情を隠す覆面の掟に感謝したことはなかった。
しかし、
「ウフフ。そんなに強がっちゃってかーわいい♡いつまでいい子ちゃんぶってるのよん。本当は薄々と気付いているのでしょう?アンタはもう二度と神の忠順な僕に戻ることは無理なのよ。だって──」
リリスの見透かすような視線は絶えなかった。至近距離にいる彼女の声が微かに満足そうに笑っているように聴こえる。
ついに彼女は止めの一撃を繰り返した。
「──“我こそが神に成り代りし者”。その素晴らしき反逆心こそが紛れもない貴方の本懐♡そうでしょう?」
己の中で巢食う何かが変異を起こし、灰のように褪せて細かく崩れ始めたのを、ルシフェルは感じていた。
その代わりに渦巻くドス黒い影がじわじわと彼の中に暗く蘇っていた──それは今までルシフェルの理性と良心でかろうじて制御されてきた赦されざる負の心だった。
喉を塞がれたような錯覚。
今度こそ言葉を奪われたルシフェルに、リリスは上機嫌に笑う。うっすらと微笑む彼女は、その首を傾けて、
「否定しない、ってことは......アタシの言葉が完全に戯言、って訳でもないってことよね?」
リリスの指がゆっくりとルシフェルから離れる。たった数秒触れられた場所が遠慮なしに深く抉られていた。
自身の秘めたる思惑が突如無作為に暴かれたことで心の脈打つ速度は一気に増す。
心に生じた細やかな乱れを、看破されたことを誤魔化すように押し黙るルシフェルを逃さぬように、リリスはさらなる追撃をかけた。
「さてさて?では、神への忠誠心を失いかけたルシフェル様は、果たして天界の天使たちを束ねる天使長なんて大それた身分を名乗る資格なんてあるのかしらねぇ〜?」
喋り方は同じなのに、圧倒的に雰囲気の異なる問い掛けだった。
「そんな罪深き尊い野望を抱くルシフェル様って、」
よく見れば、リリスの真紅の双眸から光が消えた。
今までの軽薄な色すら持たない氷点下のそれにルシフェルは思わず瞠目してしまうほど。
リリスはルシフェルを鋭く見据えると、底冷えのする甘い声で囁いた。
「──まるで、魔族そのものよね♡」
世界の嘆きが、聞こえた気がした。




