16話『期待、そして失望』★
途方もない長い暗い螺旋状の神廊が果てしなく続いていた。
ここは闇の深淵なのか──そんな錯覚に囚われてしまうほど、ここは暗い。
当然だ。なにせ、天界に放たれる溢れんばかりの光の恵みとは全く無縁なのがこの場所なのだから。
天界は──七大天使が拠点とする各自の七つの神殿により構成される──虹の【柱】に支えられている。
現在ルシフェルが踏破するこの場所がまさにその最上の【柱】となる【闇の神殿】。
この場所に澱む闇をかろうじて抗うのは通路に掲げられた心許ない灯明のみで、その微光が陰影を作り、影が踊るように揺らめく。
人気もなく、物音が一つもしない。
一帯はまるでこの世が消滅したような不気味な静寂に満ちていた。──ひどく急いでいるような、嫌に響くルシフェルの荒い足音だけを除けば。
カッツ!カッツ!カッツ!......
天神殿へ赴いて、直々神に統御天議会の議長の辞退を申し出た後、今し方帰還したルシフェルは胸の内側の隅々まで蝕むほどの濁った衝動に突き動かされるまま、床を強く蹴った。
歩いていた。
ただひたすらに
歩みを続けていた。
いつも通る神廊にすらもどかしく感じながらも、ルシフェルは立ち止まることなく駆け抜ける。
議長責務の放棄──天使長としてあるまじき所業を犯したにも関わらず、ルシフェルにとってそんなものは取るに足らないもの。今の天界を導く意義なんて到底見出せないのだから。
(主は、何もおっしゃらない)
ルシフェルの独断による辞任を神は咎めもしなかった。ただあるがままにルシフェルの要望を受け入れただけ。これまでならそこに感じるはずの優越感も、今回ばかりは面白くなかった。
たが、すぐにそれをどうでもよく感じた。今はそれどころではないのだ。この頃最もルシフェルを支配する憤怒──ミカエルとの決裂が、ずっと彼をを追い詰めているのだ。
『ルシフェルよ。主のご意向に反する発言は感心しないな』
その混沌として渦巻く脳内を延々と廻るのは、数々のミカエルの言葉だった。
(嗚呼、煩わしい)
長い路を歩く度数は、ミカエルに対する感情を複雑にしてくる度数であった。
『主が決めた事にこれ以上く口出しすれば、いくら君でも、反逆罪になってしまう可能性がある。そうなったら私は...たとえ我が兄弟であろうと、神への忠誠として君を処罰せねばなるまい』
脳の中枢を揺さぶる生真面目な声音だけが、酷く無機質に感じる。それは飽きることなく何度も繰り返し再生されルシフェルを忌まわしく縛り付ける。その度に彼がミカエルに抱いた何かが音を立てて崩れていく。
「神の傀儡めが......ッ!」
何も理解しないミカエルに、ルシフェルの口から思いっきり悪態をついた言葉が漏れる。
だが、虚しくもそれは響き渡る床と鉄靴の摩擦音に撹拌し飲み込まれてしまう。
ルシフェルは奥歯を軋らせると、すべてを置き去りにするように更に速度を上げて暗い神廊を駆けた。立ち止まるとたちまちこの胸の中にある正体不明な黒い感情に飲み込まれそうな気がしたからだ。
もはやルシフェルにはただ目的地までひたすら歩くことでしか、今抱えるやり場のない激情を抑えつける術がなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
大理石の壁が続く長い神廊を経て、ようやくたどり着けばその場に不釣り合いな巨大な鉄扉が現れた。立派な装飾だが、どこか意味のないオブジェのような扉が【闇の神殿】の中枢部の部屋だ。
大理石とは違う冷たさを帯びたその扉の前で、ルシフェルの足はピタリと止まる。
ひどく急いたような、しかし沈むような重い足音が消え失せてしまえば、後に残されたのは闇の香りを纏った静謐な空気だけだった。
周囲に動く者の気配なんているはずもないことは分かっているが、それでも彼は慎重に周りを見回した。
辺りが静まり返っていることを確かめると、ルシフェルは取っ手のない鉄扉に力任せに強く右手を当て意識を集中させる。
その掌からほんのりと紫の光があふれ漏れると、冷たい鉄の扉は音もなく小さく開けた。部屋の主が戸を開ければ、その向こうにはきちんと部屋の内側が現れる。
今まで身体に纏わりつくような粘り気のある暗闇に、扉の隙間から一筋の光がうっすらと差し込んだ。だがこじ開けた目蓋の隙間を射すそれは、光と呼ぶにはあまりにも眩しさを欠けていて弱々しくも頼りない。そしてなによりも冷たかった。
中へ入れば、そこには静謐な暮夜を溶かし込んで作ったような幻想的な空間が視界に飛び込んできた。どうやら【闇の神殿】の中枢部は正しく主人を認識した証拠だった。
総じて招かれる者以外は立ち入り禁止──七大天使が身を置かれる神殿は各々そのような仕様となっている。
仮に侵入者が扉を開けても、正確的な空間には繋がらない。何度開けようが閉めようが、正規な部屋とはぐれて迷子になった侵入者が最後には闇に囚われる恐ろしい扉でもある。
光源と呼べるものが何ひとつ見当たらないというのに、あたりはぼんやりした紫色を帯びた闇に染まっていた。目に映る全ての影が、艶やかな紫色の黄昏に照らされて淡く映っていて、どこか幻想的な美しさを醸し出している。
闇エネルギーを保持する役割をする床に埋め込まれた数々闇のクリスタルはいつだって無機質な光を放ち続けていた。誰にも干渉されずこの隔絶された空間がルシフェルの慣れ親しんだ孤城──初めこそは箱庭のような閉塞感を与えてくるが、今では胸の内側に滲むそれを心地良く享受できる。
輪郭のない闇を全身で感覚しながら、ルシフェルは惹かれるように室内の中央へとゆっくりと歩みを進めた。
(──もしや、私が抱くこの感情は、)
やがては、暮夜な空気に流されるように心の澱みを吐き出す。それは永久に失われてしまった何かへの詠嘆の吐息のようであった。
(“失望”、なのか......、)
少しずつ心の中で波打っていた不可解な感情のもつれが、するすると解けて形を成した時、あれだけルシフェルを苛む激しい陰鬱な苛立ちが嘘のように掻き消えていたのだ。
憤怒を沈ませれば、今度は茫然とした様子でその場に突っ立ったまま仰いだ。
「馬鹿な......、この希望の象徴であるルシフェルが、失望に打ちのめされているとでも言うのか」
芽吹いた戸惑いを吐露するように呟いた瞬間、まるで心の中に引っかかっていたしこりがストンと綺麗に落ちた気がした。
なぜ自分はこれほどまでに支配されているのか。それに対する答えはずっと用意されていたのだから──ただ自分が認めたくなかっただけで。
ルシフェルにとってミカエルは同じ志をその胸に抱く魂の片割れ──いわば、もう一人の自分と言っても過言ではなかった。
ルシフェルの第一の闘争に力添え、これまで共に神への忠誠を誓い、天界のために戦ってきたからこそ、今回の人類の誕生をきっかけに、天使族が力量相応の待遇を承れなかったことを不満を感じるのはもっともなこと──当然弟のミカエルからの支持を得られるのだと高を括っていた。
しかし、ミカエルが示した答えはルシフェルにとっては「拒絶」に等しかった。たったひとりの兄弟が告げた、数々の寸分の隙も与えぬ拒絶の言葉。それが瞬く間にルシフェルの「希望」を「失望」への変えたのだ。
(この私がッ、誰かに期待を寄せるなどと......!)
自身が思ったよりもルシフェルは精神的に大きな打撃を受けていた──しかしそれは彼の沽券に関わるものだった。
比類なき美しさと強さを持ち、最も神から愛されし最高位の天使としての誇りと自信から、ルシフェルは誰にも左右されず、我が道をどこまでも突き進むことを信念としてきた。そんな他者性を排除した孤高な生き方によってもたらされたルシフェルの自尊心は、他者に心を預けることを許さないのだ。
しかし最強を冠するルシフェルの矜持がそう強く訴える一方で、神の次に、ミカエルこそが己にとっての心頼みだとルシフェルの魂が認識していたのだ。
『私は、兄弟として君の苦衷を汲み取るべきだろう。だが私も君と同じく七大天使の一人だからこそ、天界の者として、責務を果たし、今の君の思想や言動を相応しくはないと判断するべきだ』
だが今となっては、その幻想も打ち砕かれた。
『私は、何があってもただ神の御意に従う。神の理に従うのみだ』
あのミカエルの真摯に縁取られた煌めく瞳が再び脳裏を灼き、またしても一度鎮まったはずの苛立ちが再び瞬く間に噴き出した。
突然の喪失に似た散らかった感情は、未だに整理できていない。たった一人の理解者を失った感情は隠し切れない。
大きな渦と化した途方もないこの理不尽な感情をどこにぶつければいいのかわからなかった──その矛先を向けるべき相手が確かに存在しているからこそ。
「......ああ、煩わしい」
悪態をついて乱暴な手付きで頭を抱える。そうしたところで気が紛れる訳もないとわかっていても、ほとんど抱いたことのない、自分らしくもないこの感情に吐き気すら催すも、一体どう扱えば良いのか皆目見当もつかない。
(そもそもこの天界で己と対等な関係など望むだけ、無駄だ。ああ、そうだ。もとより心の拠り所を求める方が、どうかしている!)
思考はすっかりまた負の螺旋を繰り返し続けていた。失望が止まず、堂々巡りを続ける陰鬱な思考は光明さえ見出せない。
「はぁ......何を気に病むことがある。誰の手を借りずとも、これまで通り、このルシフェル一人の力で天界をまたもう一度あるべき形に導いてやればよいだけのことではないか」
自身に言い聞かせるような独り言を漏らすも、これからは何をどうすれば前に進めるのか、立ち止まったままでいないで済むのか、その糸口すらも今のルシフェルには掴めないでいた。
「フン、なんとも情けない......我が最強の名が聞いて呆れる」
自嘲の言葉にはキレがなく、そこに混じる僅かな乾いた笑いは虚無感を際立たせるばかり。今のルシフェルにできるのは、もはや吐き捨てるように自らを罵ることだけ。
幸いにも、静謐な闇の空気は重さを孕み、今の切迫したルシフェル心情に気休め程度の穏やかなゆとりを注ぎ込む。
「──私は......、どうしたいのだ」
ルシフェルは見事に混迷の沼に沈んでいた。だからこそ、咄嗟に反応ができなかったのだ。
「うふふ♡あの天使長様も、見かけによらず繊細なのねん?」
本来この領域ではありえない──第三者の気配に。




