④『泡沫の思い出。アワンの初恋』
アワンはなにも最初からカインのことを思慕していたわけではない。どちらかと言えば、むしろ苦手だった。
幼かったころのアワンは当初、無意識にカインのことをよく避けていた。
カインは無口で、どこか冷たい目をしていた。もう一人の兄であるアベルのように豊かに笑うこともなく、両親であるアダムとエバにも子どもらしく甘えるところを見たことがない。
カインの毎日は実に単調だ。
朝早くから畑に出かけ、常にひとりで黙々と鍬を振るうだけ。
余計なことは何も話さない。ただひたむきに作業に没頭する姿は、まだ幼かったアワンには寄り付きがたいものだった。
迂闊に近寄ろうものなら、たちまちあの冷たい目で睨まれそうな気がしたからだ。
そんな風に萎縮して話しかけることもできず、特段関わることもないまま、アワンはそんなカインの姿を、たまに遠くから見かけるだけ。
──カインという兄が、苦手だ。
確かに、そういう認識を抱いていたのだ。
しかし、そんなカインに対するアワン心証がのちに一変するなんて、彼女自身すらも想定できないことだった。
そんなある日のこと。
アワンは母エバに家から離れた川への水汲みを頼まれた。
壺を抱えてちょうどカインの畑付近を横切ろうとした時、ふいに、草むらの向こうから鼻歌が聞こえてきた。
それは風に乗ってかすかに届く、低く静かな旋律であった。
(……もしかして、カインにいさま?)
気になったアワンは、そっと草むらに身を隠しながら畑を覗き込む。そして、そこで思わぬ光景を目にした。
珍しいことに機嫌が良いのか、カインは鼻歌混じりで畑の土をじっと見つめていた。
その視線の先には、小さな芽があった。畑の隅に植えた種から出た、小さな芽だった。
(……なにしてるんだろう?)
ここ最近天気がよく崩れ、天候に恵まれない日が断続的に多い。悪天候で作物に被害が及んでいないかを確かめるために、雨が降った翌朝、カインは決まっていつもより早く畑に出るのだ。
こうして畑全体を見渡せば、やはり昨日の強風で畑のいくつかの作物は倒れ、葉が傷ついていた。カインは朝から修復作業をしていたが、その中で偶然この芽を見つけたのだろう。
土にまみれながらも、力強く地上へと伸びようとしている──小さな命。カインはそっと、指先でその芽の周りの泥を払い、根元の土を整える。
それは、カインにしては驚くほど優しい手つきだった。
普段は荒々しく鍬を振るう彼とはまるで別人のように、慎重で、丁寧で、まるで壊れてはならないものに触れるかのように。 そんなカインの思いが伝わったのか、芽はかすかに震えながらも、しっかりと畑の土に根を張ろうとしていた。
「……強いな」
ぽつりと、カインが呟いた。
アワンは、目を見開いた。
カインは普段、作物について何か語ることはなかった。ただ黙って耕し、種を蒔き、水をやり、収穫する。それだけだった。
なのに、今日の彼は——、
(すごく、大切そうに……)
その様子を、少し離れた場所で見ていたアワンは、息をのんだ。その間にカインは黙って立ち上がり、そっとその芽に手をかざした。
陽の光を遮らないように、それでいて風から守るように。──まるで、幼子をそっと庇うように。
「──《神の豊穣》」
翳されるカインの掌から放たれる淡く輝く黄金の光──植物の繁栄を司る、進化を促す波動。
「力を貸してやる。だから、立派に育ってくれ」
ふっと、カインはわずかに目を細めた。
それは微笑みとも、何とも言えない表情だった。いつも無表情で、冷たく見えるカインの瞳が、今は柔らかく揺れている。
その目が向けられるのは、ただの作物ではなく——まるで、大切なものを見つめるような優しさに満ちていた。そして、そっと手を引いた後に再び鍬を手に取り、何事もなかったように農業を再開した。
一方で、草むらに潜んでいたアワンは、壺を両手で強く抱きしめながら、さっきまでの光景が頭から離れなかった。
(あの人でも……、あんな顔、するんだ……)
カインが、こんなふうに何かを大切に思う心があるなんて知らなかった。
(カインにいさま……って、本当に冷たい人なの、かな?)
今までずっとそう思っていた。
けれど、先ほどのカインの目は、声は、手つきは——優しかった。
それを知った瞬間、アワンの胸の奥がじんと温かくなるのを感じるのと同時に、小さな痛みが走った。
──それは、カインが苦手なはずのアワンには、よく分からない感情だった。
◇◆◇◆◇
その日を境に、気づけばアワンは、カインを目で追うようになっていた。
畑で土を耕しているとき。
畑を荒らすアベルの羊を追い払うとき。
食卓で黙々と母の料理を口に運ぶとき。
今までなら気にも留めなかった彼の些細な仕草のひとつひとつが、やけに目につく。
(……どうして、こんなに気になるんだろう?)
アワンは、自分の心境の変化に戸惑っていた。
カインは相変わらず無口で、不愛想で、決して優しい言葉をかけてくれるわけではない。
それなのに、どうしてこんなにもカインのことが気になって仕方がないのだろうか。
(……わたし、どうしちゃったの……?)
ある日、またいつものようにカインの姿を目で追っていれば、そこでアベルがアワンの肩を軽く叩いた。
「ねぇねぇ、アワン。最近の君ってなんか変じゃない?」
「へっ?変?」
「うん。もしかして自分では気づいていない?だってこのところずっとカイン兄ちゃんのことばっかり見てるよ?」
アワンは、はっとして顔を赤くした。
「そ、そんなことない! たまたま見ただけ!」
「ふーん?」
アベルはじとっとした目でアワンを見つめ、それからからかいを含めた、ニヤリとした笑みを見せる。
「ねえねえ、もしかしてアワンってさ——カイン兄ちゃんのこと、好きになっちゃったりして?」
「えっ……!?す、すきぃ!?」
アワンの心臓が、ドクンと跳ねる。
「ち、違う!そんなんじゃない!」
「ふーん?そうなんだ?」
「もう!アベルにいさまって本当に意地悪ですっ!」
「ふふ、だって、アワンがあまりにも面白い反応するからさ」
「──っ!どっか行ってて!」
「はぁーい!ごめんね〜」
アベルは変わらずニヤニヤしながら去っていったが、アワンはしばらくその場で固まってしまった。彼女の鼓膜の奥には先ほどアベルに言われた言葉が未だに反響していた。
(わたしが?好き?……カインにいさまのことが?)
あの日、芽と向き合うカインの姿が、何度も何度も脳裏によみがえる。
冷たくて硬いと思っていた彼の手が、あんなに優しく土を撫でるなんて知らなかった。新しい芽をそっと包み込む指先。静かに語りかける声。
その横顔が、とても穏やかで、柔らかくて——。
アワンは慌てて顔を振った。
(違う! ただ驚いただけ。今まで知らなかった一面を見て、ちょっと意外だっただけ!)
そんなはずはない、と心の中で否定するのに、一度芽吹いた思いは簡単には消えてくれなかった。
あの日のカインのすべてが、アワンの心に焼きついて離れなかった。
──カインのことが好きかも、しれない。
一度その疑惑が胸に宿ると、もう消すことはできなかった。
◇◆◇◆◇
それから数日後、アワンは、また水汲みに壺を抱えながらカインの畑のそばを通り過ぎようとしていた。
あの日から、アベルに指摘されてから、アワンはカインのことをさらに意識してしまい、なんとなく目を合わせるのが気まずい。だから、できるだけそっと通り過ぎようとしたのに──
「……なんだ?」
低く響く声。
アワンは、ぎくりとして足を止めた。思わず声の方へ視線を向ければ、カインがこちらを見ていた。
「さっきからこっちをジロジロ見てただろ。……何か用か?」
「え……あっ、……」
どうやらアワンは通り過ぎる間、無意識に作業するカインをじっと見てしまったようだ。
(どうしよう、目が合っちゃった……)
「その……」
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
数日前から、自分の中にある感情の正体をはっきりと意識するようになってしまったせいだ。
カインのことが好き、かもしれない。
その可能性を認識した途端、今まで平気だったことが、まるでできなくなってしまった。まともに話せないし、目を合わせるだけで心臓が跳ねる。
カインはじっとこちらを見ていたが、アワンが黙ったままなので、少し訝しげに眉をひそめる。
その時だった——。
ゴロゴロ……!!
空が鳴った。
アワンが驚いて見上げると、さっきまで晴れていた空が、一瞬で黒い雲に覆われていた。
「……チッ、また嵐か」
舌打ちするカインが悪態した直後、大粒の雨が降り始めた。次に風が強く吹きつけ、草木が激しく揺れる。
「えっ、う、うそ!?かえらなきゃっ、」
アワンは慌てて壺を抱え直て踵を返すも、すぐに冷たい雨が全身を濡らし始めた。
「走れ」
カインはそう言うと、アワンの方へズカズカと歩み寄り、躊躇いなく手を掴んだ。
「えっ、ちょ……!」
有無を言わせず、力強く引っ張られる。
「あの、にいさま、わたし家に戻る、……からっ」
「今からか?オレの畑から家まで結構距離あるぞ。嵐の中で移動するのは危険だってことぐらいわかるだろう。黙ってオレに着いて来い」
あまりにも思いもよらない展開に思考が追いつく余裕もない。アワンは驚いたが、逆らうこともできず、そのままカインについて行った。
向かった先は、畑の端にある小さな──倉庫用の木製の小屋だった。
カインは勢いよく扉を開け、アワンを押し込むと、すぐに中に入って扉を閉めた。
「嵐が過ぎ去るまでは、ここにいろ」
外ではすでに激しい風雨が吹き荒れている。
「はぁ、はぁ……」
アワンは肩で息をしながら、自分の服がずぶ濡れになっているのに気づいた。髪も顔に張り付いて気持ち悪い。そして、後から身体の冷えに襲われて、震えが止まらなくて────
「ん。」
カインがアワンに何かを差し出す気配がした。見ればそれが──大きな毛布だった。
「これ……」
「小屋の中にあった。これ使え。お前、寒いだろ」
「えっ、でも……」
「いいから」
短い言葉。けれど、その言い方は決して冷たくはなかった。
「あ、……りが、とうです……」
アワンはおそるおそる受け取り、軽く全身を拭いてからそれを肩に羽織った。
そんな彼女を視界の端に、カインは奥に進む。そして、手慣れた動きで積んであった木材を組み、黙々と焚き火の準備を始めるのであった。
◇◆◇◆◇
小屋の中には、焚き火のぱちぱちと燃える音だけが響いていた。二人はずっと無言だった。
カインは無言のまま、火の加減を確かめている間、アワンは肩にかけた毛布をぎゅっと握りしめる。雨に濡れた体はまだ冷えていたが、焚き火の温かさがじんわりと肌に染み込んでいく。
先ほどカインとのやりとりの余韻が、小屋の中にまだ漂っている気がした。
(……気を、遣ってくれたのかな)
これまでのカインの人柄上、あのままアワンのことなんて放置すればいいのに。真っ先にアワンをこの小屋に案内して避難させたり、こうして毛布を与えてくれたうえで、焚き火を作ってくれたその行動にはどういう意味だったのだろう。
「────っ、」
それを確かめたい気持ちと、怖くて聞けない気持ちがせめぎ合い、アワンはうまく言葉を紡げずにいた。
——ゴロゴロゴロ……!!
突然、雷鳴が轟いた。
アワンの体がびくりと大きく震える。すぐ後に、雷光が空を裂き、白い閃光が窓の外を照らした。
刹那、
——ドォォォオオオン!!
激しい音が響いた瞬間、アワンは反射的に耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じた。
「……っ!」
雷が苦手だった。
物心ついた時から、その轟音を聞くと、心臓が締め上げられるような気持ちになる。アワンは耐えるように体を縮こまらせる。
(……怖い!!)
外では雨が激しく降り、豪風が小屋を揺らすたびに、不安でたまらなくなった。
いつもなら母のエバがアワンが落ち着くように、ずっと寄り添うように抱きしめてくれるのに、この状況では、それも叶わない。次の雷が来るのを、アワンはただ息を止めて待つしかない。
そんな彼女の様子を、カインはちらりと横目で見た。
「……そんなに怖いのか」
呆れたようで、どこか戸惑ったような声。
アワンは少しだけ顔を上げたが、カインの表情は炎に照らされてよく見えない。
「……怖くないわけ、ない……」
アワンは震える声で答えた。カインは何も反応を返さずに黙ったまま、焚き火の火を少し強めるように薪を焚べる。
火がぱちぱちと弾け、赤い光が少しだけ広がった。しかし、小屋の中にいても、変わらず雷の音がずっと容赦なく響いてくる。
焚き火の温かさは感じるのに、心の奥から冷たいものが這い上がってくるようだった。
(やだ……はやく……早く鳴り止んで……っ)
——ゴロゴロゴロ……!!
いよいよ、次の雷鳴が響く。
アワンはまた体を縮めようとした。
しかし、そのとき——
「──!」
温かなものが、そっと肩にかけられた。
「もっと巻いてろ」
アワンがはっと顔を上げると、カインが自分に毛布をもう一度しっかりと包み直してくれていた。やや粗雑でありながらも、その手はどこか優しかった。
「……ほら」
ぶっきらぼうな声とともに、カインの手がアワンの頭にぽんと置かれた。
「えっ……」
アワンは驚いてカインを見上げた。
カインは視線を逸らしながら、非常にぎこちない動きで頭をぽんぽんと叩く。
「……雷の音がうるさいなら、火の音でも聞け」
それだけ言うと、カインは何事もなかったかのように手を離し、また焚き火に視線を戻した。
アワンは呆然としながら、ぽかんとカインを見つめる。
(……今、何したの?)
驚きと、ほんのりとした温かさが胸の奥に広がる。
特別に何かやさしい言葉を掛けられたわけではない。
けれど——
アワンはそっと、さっきカインに触れられた自分の頭に手を当てる。
(……これって、やっぱり、気遣ってくれた、んだよね?)
焚き火はぱちぱちと音を立て、はじめは小さかった炎も、カインが火力を強めたおかげで激しくゆらゆらと揺れていた。
アワンは初め、彼のそばにいることが落ち着かなかった。けれど、炎の温もりと、この状況でそばに誰かがいてくれる心強さが伝わるうちに、少しずつ怖さが和らいでいくのを感じた。
(ふしぎ……なんだが、安心する……)
ずっと冷たい人だと思っていたのに。
他人のことなんて気にしない、いつもひとりでいる人だと思っていたのに。
(本当は、そんなこと、なかった)
不愛想で、言葉も少なくて、まるで無関心のような態度を取るけれど——それはカインの上辺しか見ていない幼きアワンの誤解だっだ。──実は、
(とても、やさしい人)
違った。
本当は、気遣ってくれる。
本当は、人に思いやりの心を持っている。
ただ、それがとても分かりづらくて、不器用なだけ。
それに気づいたとき、アワンの胸の奥で、何かがはじけた。
(——わたし。やっぱりカインにいさまのことが、好き)
ふと、アワンは気づかれないようにカインの横顔を盗み見た。焚き火の揺れる光が彼の頬に影を落としていた。
険しい顔をしているのに、前まで怖いと思っていたその横顔が、今はなぜかひどく愛おしく思えて、ただ、胸を締めつける。
(もう……ごまかせない)
アワンは自分の胸に手を当てる。
雷が鳴るたびに跳ねていた心臓は、今は別の理由で速く打っていた。
芽吹いた作物を静かに見つめる優しい目も、嵐の中で迷わずわたしの手を引いた強さも、雷を怖がるわたしを不器用に気遣ってくれた仕草も——全部、全部、心を揺さぶる。
それの事実を認めたら、もう後戻りできない。それでも——
(……この人が好き)
きっと、報われない初恋になるだろう。
だが、報われなくてもいいのだ。
たとえ、わたしを見ていなくてもいい。
「……」
アワンは無意識のうちに、カインの袖の端をそっと掴んでいた。
カインは気づいているのか、いないのか、何も言わないまま、ただ静かに焚き火を見つめ続けていた。
嵐はまだ続いていたけれど、今のアワンの心の中には、ただ今しがた自覚した甘酸っぱい情熱に包まれていた。まさに、目の前に激しく揺らぐ焚き火の熱よりも鮮明に感じられた。
「……カイン、にいさま」
ぽつりと名前を呼ぶ。
カインは少しだけ眉をひそめたが、すぐに「なんだ」とぶっきらぼうに返した。
その何気ないやりとりが、愛おしい。
不器用な優しさが、胸に沁みる。
今、浸かるこの幸福を享受するアワンは、知らない。
ようやく気づけたカインの優しさも、あと数日後には──失われることを。
もし知っていたら、もっと強くこの袖を握りしめていたかもしれない。
もっと長く、この状況の温もりを堪能していたかもしれない。
もっとたくさん、好きな人の名前を呼んでいたかもしれない。
未来の自分の無力さを知らないまま、初恋を自覚し、心を満たしているアワンはただ、静かに焚き火を見つめるカインの横顔を見つめ続けていた──。
嵐の中で体を濡らしたせいなのだろう。結局、嵐が過ぎ去ったあと、アワンはやはり風邪を引いてしまった。
彼女が高熱で寝込む数日間のとある日。カインとアベルは紅葉狩りしに二人だけで紅葉林に出かけることになる。
そして、そこで起こってしまう悲劇。
悪魔の陰謀で、優しかったカインも、家族の穏やかな日常も、すべてが掻っ攫われてしまった──そんな運命が訪れるのはまた──別のお話。




