③『霊界の邂逅。憎悪の蛇マステマ』
【霊界】──それは、現世と地獄の狭間。
現世と異なり、生の息吹が徹底的に隔離された──時間も形も曖昧な世界である。だが、決して虚無そのものではない。
死した者の魂たちは皆、霊界に派遣された天使たちの監視の下に置かれながらも、新たな輪廻転生の機が訪れるまでの間は、この霊界に留め置かる──所謂、【魂の安息地】といった場所である。
そんな霊界に広がるのは、淡い紫の光に満ちた無辺の空間。
空と大地の概念はなく、深淵の帳が揺らぎ、ただ無限に続くような蒼白い霧が蔓延している。
その空間では数多の魂たちが次の生へと赴く準備をしている。
揺らめき、漂う。
まるで海に揺蕩う泡のように、穏やかな眠りに沈む魂もあれば、まだ過去の生に囚われている魂もいる。
霊界の大気は冷たくも温かくもない。ただ透き通るような静けさが満ち、そこに在るだけで魂の傷が癒えていく仕組みだ。
しかし、完全に癒えるとは限らない。生前の痛みや苦しみを引きずる魂もまた珍しくはない。その未練が深ければ深いほど、魂は霊界に縛られ、長きに渡り彷徨い続けることになる。
アベルの場合はまさに、それに該当する。彼の魂はまさに今、この霊界の中心でぽつんと周囲から孤立するように浮かんでいた。
人類最初の死者、アベル。──いや、厳密にはかつて『アベル』と呼ばれていた存在。
かつて地上に生を受け、兄カインの手によって命を絶たれた者。彼の魂は、まだ己の死を受け入れられぬまま、彷徨っていた。──とはいえ、その魂はもはや完全なものではなかった。すでに神の意志によって、その魂は二つに分かたれたのだ。
慈しみと愛が詰まった善性の部分は取り除かれ、そのまま輪廻の流れに取り込まれて新たな命——【セツ】へと託された。
しかし、霊界に残された魂は違う。
かつての喜びも、生来の優しさも、神への信仰すらも。生前の幸福な記憶はほとんど失っているのだ。
残されたのは、ただひとつ──「殺された」という痛みだけ──まさに絶望と悲嘆が入り混じった負の残滓だった。
微かな意識を保ちながら、ただひとつの残酷な記憶——己の死を繰り返し見ていた。
兄の悪意に満ちた憤怒の顔。
鈍く光る石が振り上げられる瞬間。
頭蓋が砕ける衝撃。
血が噴きこぼれ、視界が赤黒く染まる。
痛み。喉を塞ぐ嗚咽。
そして──命が途絶える感覚。
何度も、何度も。
何度も、何度も、繰り返される。
なぜ殺されたのか。
なぜ自分だったのか。
なぜ神はその運命を許したのか。
アベルにとっては唐突すぎる人生の幕引き。答えのない疑問が、アベルの魂を深く蝕んでいた。
とはいえ、今はまだ純粋な恨みや怒りを持っているわけではない。だが、それらが生まれるのは時間の問題だった。
負の記憶の欠片は今のアベルの魂にとって『悪意の毒』のようなものだ。過去に汚染され、ただ、殺された瞬間の痛苦と絶望だけが延々と付随する。それ以外の感情を思い出せないだけなのだ。
苦シイ......
イタイ......
サビシイ......
どこまでも続く静寂の中で、アベルの魂は孤独に揺らめき、『欠落した事実』に震え上がることを強制するように、寂寥感に溺れさせられ続ける。
霊界の天使たちもそんなアベルの魂を見守りつつも、距離を取り傍観を貫いた。
いくら管理すべき霊魂とはいえ、神の手で作為的に不安定な状態に陥らされたアベルの魂はあまりにも彼らにとっては例外的な対象で、扱いに困るからだ。
──ナゼ……?
ボクは、
ココに、イル?
アベルの魂は霊界の虚空に向かって問うた。答えは返らない。
だが、確かにその声は波紋のように広がり、霊界の奥底へと沈んでいった。やがて、その波紋に呼応するように、遠くで何かが蠢く気配があった。
◇◆◇◆◇
霊界には一部の天使たちが遣わされ、魂の転生を導く役目を神より命じられている。彼らは光の衣を纏い、透徹した眼差しで魂を見守るのだ。
しかし、なにも霊界には天使のみがいるわけではない。時には、怪しい影が揺らぐことがある。光の届かぬ場所に、何者かが潜んでいるのだ。
その者は天界にいる天使のような光り輝く善性とは異なるが、魔界に巣食う純粋な闇でもない。ただ、神の意図とは異なる法則で動く者たち────そう。【憎悪の蛇】のような者が。
「ようやく、見つけた」
霊界の沈黙を破り、まるで長い間待ち続けていたかのように、低く響く声がアベルの魂に届いた。
その不気味な声と共に、不意に空間が歪む。黒き霧が渦巻き、そこから紫色の影が姿を現す。初めは『蛇』のような形状をしていていたが、瞬く間にただならぬ気を放つ長身の異形へと変化した。
纏っている漆黒の衣のボロボロな袖からのぞき──その骨ばった赤黒い手には巨大な鎌が握られていて、腰には重厚な鎖や刀が巻きついている。
全身が呪詛ともいうべき禍々しい黒い霧に覆われたその異様な風貌は、まさに死を司る者そのものであった。
「──ああ、実に哀れなり」
それはゆらり、ゆらりと歩み寄る。足取りは音もなく、だが確実に接近していた。直近に揺れるアベルの魂を貪るように見下ろす真紅の瞳は煌めく。
“──ダ、レ......?”
唯ならぬ気配に反応したアベルの魂はゆっくりと揺れ、意識がぼんやりとその方へ向ける。
「ほう。意思疎通は可能か。大いに結構。であれば名乗ろう。某の名はマステマ。魔帝サタンより生まれし思念体の一つにして、【憎悪】を司る悪魔なり」
“──ココ、ドコ?”
「生と死の狭間なる場所。この空間は地上の塵を振り払い、再び肉体を持つ前の清めの場と言っても良い。ここに置かれる魂はここで己の記憶を整理し、時には忘れ、時には受け入れ、やがては次の生へと向かうのが定め。──されど、どうやら其方の場合、そうはいかんようだ」
その時、霊界に一筋の風が吹く。
その風を浴びた霊界の魂たちは途端に、浄化するかのように一段と澄んだ色に昇華された。
しかし、唯一、アベルの魂だけはその干渉を受けていないのか、魂の色は変わらず濁ったままだった。
「──やはり。生前の忘却を拒むか。これは某の想定以上に、其方の魂は実に執念深い」
時折、霊界には『風』のようなものが吹く。それは神の意思の名残とも、天使の囁きとも言われている。霊界の風が流れるたびに魂たちの生前の記憶を洗い清めていく仕様なのだが、存外強き執念を持つアベルのような魂は、その風に抗い、己の思いを決して手放そうとはしない。
「とまぁ、それも其方の悲惨な最期を顧みれば、無理もない話か」
“──ボクノ、サイゴ……”
「其方は殺されたのであろう。実の兄の手によってな」
“────……”
「なぜ何も言わぬ?怒りはないのか?憎しみはないのか?」
マステマの声は低く、耳を這うように絡みつく。アベルの魂はしばらく沈黙していたが、やがてその中にわずかな動きが生まれた。
“──……兄サン……”
その声はかすかに震えていた。
“──兄サ……、……ナゼ……”
「なぜ、とな?」
マステマは無理解と言わんばかりに、首を傾げた。
「簡単なことよ。其方が神に愛されてしまったからだ」
アベルの魂が微かに揺れる。
「神の祝福は其方には与えられ、彼奴には何もなかった。嫉妬と憤怒が、其方の兄を完全に狂わせたのだ」
“──……ボク、ハ……、”
「其方は気づいていたはずだ、己の兄の苦しみに。だが見て見ぬふりをした。誠に遺憾ながら、結果として其方は自らの死を招いたのだ。アベルとやら」
その淡々とした陳述が、アベルの魂に鋭く突き刺さる。
“──……ボクガ……ボクガ、ワルい……?”
「否。其方が悪いなんてことはあるまい。悪いのは悪意に身を委ねる、理不尽に其方の命を奪い上げたその兄である。とはいえ、まだ終わりではない」
“──……オワリで、ハ……ナイ?”
「其方はまだ、存在している。神は其方の善の部分を切り取り、新たな者に与えた。だが、ここに残るのは其方の苦しみと、痛みだけだ。──どうだ?その無念を晴らすために、復讐をしないか?」
“復讐……”
『過去』でも『現在』でもなく、『未来』を見据えた単語に露骨に反応した様子が見られた。そんなアベルの魂にマステマはゆっくりと近づき、その囁きを這わせた。
「今の其方の魂は、誠に脆く、不安定なものよ。このまま擦り切れて摩耗してしまえば、いつか天へと昇るか、あるいは更なる深淵へと堕ちるか……それは、些細なこと一つで決まる」
“……ワカラナイ。ドウスレバ……”
「ここにいる其方には何も残されておらぬ。あるのは、ただ肉親に殺された記憶のみ。これは定めか、あるいは試練か……其方はどう思う?」
アベルの魂は沈黙する。今の彼の中にあるのは、ただ空虚と迷いだけだった。
「某が思うに、神は其方を見捨てたのだ。兄に殺され、無惨に散った其方を、救おうともしなかった」
“──!!”
「償いとして其方の転生体となる【セツ】とやらを代わりとして創造されたところで、其方の無念自体が晴れるわけではないというに」
悪魔の言葉はいつだって、相手を翻弄するものばかりだ。今まさにアベルの魂は大いに影響されて、動揺を隠しきれずに明滅する。
「アベルよ。其方の兄、カインはまだ生きている。憎むべきは誰か?其方を裏切った兄か?それとも──何もせずにただ傍観に徹するだけの神か?」
この瞬間に、記憶の断片がまた次々と蘇り、絶望の痛みがいまだかつてないほど鮮明に具現化し、アベルの魂を蹂躙する。
──カインの顔が、殺意に満ちたあの瞳が、何度もアベルの魂そのものに焼き付く。
“……カ、イン……!”
未練の根源を呟いたとき、今度はまるで痙攣でも起こしたかのようにアベルの魂が激しく震えた。と同時に──霊界を覆う空気が一変した。
深淵の闇から、蠢く影が無数に押し寄せる。
——【堕】。
それは神から切り落とされた“墜ちた感情”の集合体。“負”の情念を受け入れ、抱えきれなくなった魂を求める、絶望の存在。
「来たか……」
マステマが冷笑を浮かべ、大鎌を地に突き立てた。その刃から響く不吉な金属音が霊界に鳴り響く。
「其方の魂の叫び、憎しみ、絶望……その全てが【堕】を引き寄せたのだ」
神の黒い思念体たちは呻くような声をあげ、一斉にアベルの魂へと群がっていく。
“ウゥウウ……!クル、シイ……、ヤメ……”
苦痛からの拒絶の声も虚しく、【堕】の闇が、さらに深く、アベルの魂を覆っていき、一つ、また一つとその中へ溶け込んでいった。
ズズ……ズズズ……!
「好いぞ。そのまま受け入れるがよい」
【堕】たちはアベルを“器”として選んだのだ。
その度にアベルの魂の濁りがゆっくりと広がり、まるで内側から裂けるかのようにひび割れ、黒い靄を撒き散らす。
『アベル』がどんどん消えていく。
『アベル』でない黒い意識が中に入ってくる。
かすかに残っていた純粋な光が、次第に失っていくのがわかる。
「適合したようだな。宜しい」
その状況をマステマは満足げに細めた真紅の眼を光らせた。
「それが其方の答えとならば、思い知れ。恨みを知れば、其方は変わる。憎しみを知れば、其方は力を得る。復讐を望めば、其方は新たな己へと生まれ変わるであろう」
不意にマステマの足下からそっと影が伸びる。それは黒き霧に包まれ、無数の手に分かつ──螺旋のように、渦巻くように、アベルの魂ごと包み込もうとする紫黒の魔手。
「欲するがいい……アベルよ。其方が望むならば、某は力を貸そう。憎悪を動力源へと変え、其方を再び地上に立つ術を授けよう」
瞬く間に、視界を覆い尽くすほどの黒い魔手が放たれる。四方八方から、全方位を塞ぐ黒影にアベルの魂は拘束されたまま、少しずつ、ずぶずぶと、悪魔の足下──蠢く怪しげな影の波にゆっくりと呑み込まれていくのだ。
そうして呑まれて、感覚が消失していく蝕みに苛まれつつあったアベルは、なおも尽きない疑念に侵食されていた。
なぜ、兄は僕を殺したのか。
なぜ、自分だったのか。
なぜ、神はそれを許したのか。
この霊界に囚われている間に繰り返された疑心は次第に憤怒へと変わり、ついには憎しみへと姿を変えていく。
“……アァ……、ア……ァア……!”
ついには、アベルの魂が軋んだ。
怒り、悲しみ、悔しさ、恐怖、絶望……あらゆる感情が混ざり合い、荒れ狂う嵐のように心を引き裂いた。
裏切られ、踏みにじられ、殺された。
ならば──、
“……ボク、ハ、ワタ、シ……ハ……”
マステマの誘惑により、ひどく錯乱状態に陥るアベルの魂は内なる負の記憶が暴発する。もはや制御不能な状態である。
「其方は選ばれたのだ。【堕】の器となる資格をな……!しからば、某と契約を交わそうぞ。我が憎悪の宿主となり、我が名をその魂に刻め。今こそ其方の中に眠る憎悪と向き合いたまえ」
マステマの声は甘美な毒のようにアベルの魂に浸透していく。その声に導かれるまま、アベルは己の魂の奥底に目を向けた。
深い、深い、闇。
そこには何もない虚無だけが広がるはずだった。
しかし──よく見れば、そこには小さな黒い炎が燃え上がっていた。
もしかしたら、それは、ずっとアベルの魂の奥底に眠り続けていたおぞましき呪怨なのかもしれない。
「見えたか?その情念こそが真実。──さぁさ、其方の憎悪を縛る鎖を今、解き放とう」
直後、有無を言わさぬ絶対的な力がアベルの魂を犯す。紫黒の魔手は魂にのみならず、その精神を、記憶を凌辱する。明らかなまでに、魔手の影の動きには歓喜めいた躍動感が生まれたのが見てとれた。
ぐるぐる、ぐるぐると、勢いよく回り、アベルの全てを呑み込んでゆく渦が渦巻いている。
アベルの魂を中心に、ぐるぐる、ぐるぐると、渦巻いて──。
“ア"……、アァア……、”
苦鳴が、漏れる。
触れた箇所から溶けるように、崩れるように、ほどけるように。──刹那、アベルの魂は艶やかな黒炎にやさしく抱かれていた。
それは呪いの炎。復讐の焔。
かつて兄に振るわれた凶刃の痛みが、今や焼き付ける憎悪の怨嗟へと変貌したのだ。
──ゴウッ!!
黒炎が迸り、霊界の虚空に轟く閃光が瞬く。
おぞましい負の力がアベルの魂へと流れ込み、全身を咀嚼されるような感覚が襲い掛かる。
ア“ア、アアア“アアア”アァアア!!
魂の断末魔が、けたたましく反響する。
それは苦痛か、それとも歓喜か。
魂が掻き回され、上書きされる。やがては激しく歪み、マステマの力によって、アベルの魂は【堕】と融合するように変質していく。
そんな、生けるものにとっての最大の冒涜に侵されながらも、同時にアベルの魂にこれまでにない安寧をもたらしていた。
「其方の魂に救済を与えん」
マステマが捧げるのは甘美な祝詞でありながら、呪詛にも似た響きを持っていた。
やがて——。
ドクン。
重々しい脈動音が霊界を震わせた。
黒炎が燃え尽きて、霧散したそこには、アベルの魂は跡形もなく消失し、代わりに一人の青年の姿がそこに現れた。
青白い肌。真紅の瞳。裂けた銀色の瞳孔。
「ワタシは……ダレだ」
「ようこそ。霊王アベル。其方こそがすべての霊魂を統べる者。その誕生に祝福を────」
死す寸前まで注がれた無垢な瞳の代わりに、その眼差しには狂気と妄執が混ざり合い、生気は失われていた。だが同時にその表情には不可思議な笑みが浮かぶ。
その背後では【堕】たちが影のように蠢き、彼の体と完全に同化していた。
「────ァ」
初めは弱々しく、最初の一息が唇から漏れる。
ひどく掠れて、生気に乏しいものであったが、紛れもなく彼自身の声音だ。
やがてその青年は、静かに暗い唇を開いた。
「──さァ、復讐ヲ、シよう──」
混沌と空虚が入り混じった感情を滲ませたそれは、決してほどけることなく、延々と絡み合い、結び合い、繋がり合った「憎悪」の化身に成り果てた者。
この魂は先約済みだと、誰にも引き渡すまいとする悪魔の呪印がその両頬の青白い肌に深く刻まれていた。
「──こノ世界に、生ノ終焉ヲ──」
その魂、アベルは──堕ちた。
彼はもう、ただの哀れな犠牲者ではない。
今や兄を、神を、この世界を呪う──霊界に新たな闇をもたらす権化となったのだった。
「──待ってテいて、下サイ。
私ノ、愛おシい、片割レの魂──」
「──必ズ、連れ戻しマス」
恍惚と語るその妖しい影には蠢動せし【憎悪の蛇】が目を光らせていた。
かくして、人類最初の死者の新たなる生が幕を開ける。
しかし、それは同時に世界への復讐劇の始まりでもあった。




