37話『撫でて、この慟哭を』
「兄さまたち、どこまで行ったのでしょう……」
先ほどカインとアベルが踏破した森の中には、アワンの姿があった。
あれからやはり遠くへ行く兄たちが気になって、アワンはらしくもなく無責任に家業を放置してまで彼らの後を追いかけてここまできてしまった。
結局、彼女はどうしても心の胸騒ぎを無視できなかったのだ。
(途中まではうまく尾行できていたのに、私としたことが、肝心な最後で見失うなんて!)
二人の兄の姿はもちろんのこと、今では自分の位置すらも見失って、見事にアワンは森の中で立ち往生していた。
「……!?」
そのとき、森の静けさを破って、この世のものと思えぬ悲鳴が聞こえてきた。
(今の声……!もしかして……?)
それを聞きつけて、アワンは咄嗟に悲鳴の発生源へとがむしゃらに進む。しかし、この厄介な森林の迷宮は、慣れない彼女をそうやすやすと現場へ近づけさせないようだ。
(まさか、また猛獣とかに襲われているんじゃ……)
かつての熊の悪夢が蘇り、ずっと胸元で握っていた両手は震えたままで、最悪の展開を想像しては頭の中から消し去り続けていた。何度悪い予感を打ち消し続けて首を振ったことだろう。
しかし、
血の匂い。
それに気づいた途端、ぞわぞわと背筋に寒気が走り、心臓がドクンドクンと脈打つのが分かった。
アワンはその不穏でしかない匂いに足を向け、目印もない獣道を駆け抜けた。ただ直感だけに身を任せて、ひたすら前へ進む。全神経が、血の匂いを辿るためだけに働いている。
アワンには一刻も早く確かめねばならないことがあった。
兄たちの無事を、──。
そうして、十数分も走った頃だろうか。
周囲、ふいにそれまで生い茂っていた木々の流れの間隔が開き始め、日差しが届かない緑深い闇の中でようやく一筋の光を見つける。
ひたすらに変化を求めて走ったアワンには、それが、この終わりのない緑の迷宮の終わりであるのがわかった。
そう、──出口だ。
(血の匂いは、この向こうからだわ)
そこに近づくにつれ、数メートル先すら見通せないはずの視界は光が射したかのように鮮明だ。
──その光は、果たして希望なのか。
はたまた絶望なのか。
停滞する思考が答えに辿り着くより先に、足が出口に踏み入れる方が早かった。
視界を遮るうねる太い枝を乗り越えて、開けた森の向こうに惨劇の情景を──、
荒廃とした野原。
まず最初に感じたのは、じっとりと肌を粘っこく撫でつけ、渇きを覚えるほどに口の中の水分を涸らす陰鬱で殺伐とした気配。
瞬間、風が運んできたのは嗅覚を抉るほどの膨大な血臭だ。
思わず鼻と口元を手で覆い、込み上げてくるものを堪えながら、アワンはぐるりと、一心不乱に辺りを見回した。これから待ち受けるどんな光景が広がっているのか、想像することすら放棄して、ただありのままの現実を眼に焼き付けるために。
そして、すぐに探し人のひとりを見つけた。
「ぁ……あぁ……っ」
──アワンの目に映った色は、酷く、毒々しいものだった。
「そんな、アベル兄さまっ……!」
そこには──正視するに耐えない、まるで打ち捨てられたように寝転んでいたアベルの無残な姿が出迎えていた。
うつ伏せになっている右足に鍬が深く突き刺さっており、出血がひどい。さらに頭部からもおびただしい血が少しずつ広がるのを見て、アワンが一目散に駆け寄り、すぐにアベルを助け起こす。
ビジャァ……
地面を赤く染める血溜まりがヌルリといやらしく彼女の両膝を舐める。が、今はそんなことを構っていられない。
「アベル兄さま、アベル兄さま!目を、目を開けてください!」
地に伏すアベルの血濡れの身体を抱きしめて、追い縋るように名を呼ぶ。それが届いたのか、今まで微かに胸を上下させる以外でピクリとも動いていなかったアベルが反応し、僅かに目を開けた。頭を思いっきり殴打されても、アベルは奇跡的にまだ息をしていたのだ。それも、虫の息であったが。
「……、アワン……?」
「──っ、そうです、わたしです!アワンです!私の声聞こえますか!?」
「う、ん……よかった……さいごに、会えて……」
「なにを……っ、それより……どうしてこんなことに?一体何がっ……!?」
震えたた喉で絞り出した声は、弱く掠れていた。
どく、どく、どく。心臓の鼓動が走る。
アベルの血の濃い香りが、むあっとアワンの鼻孔を埋め尽くしてもなお犯し足りないほど広がる。あの時森で嗅いだものとは、質がまるで異なっている。
「ま、待ってくださいねっ、応急処置してすぐに連れて帰りますから!」
普通ならもう死んでいておかしくない程重体だ。するとアベルの左手がゆっくりと伸び、アワンの腕を力無く押さえた。
「アワン……もう、いい……よ」
「っ!……なんで…っ!?」
思わずアワンの口から焦燥と困惑が飛び出す。こうしている間にもドクドクと赤黒い血と共に命が流れ落ちていくというのに。一方で、アベルは既に悟ったのだ。もう自分は助からない、と。
「……ぼ、くは……たぶん………、もう、すぐ、死ぬ」
死、という言葉にアワンは目を見開いた。
「……けっきょく、何も、……変えることは、できなかった……」
アベルは自虐的に笑おうとしたが、顔の筋肉が上手く動かなかった。代わりにアベルの左手はアワンの手に触れて、強く握り締めたのがわかった。
「……アワン……ごめん、ね……ダメだった……ぼくじゃ、……届か、なかった、よ……」
無念が込められたその呟きに、アワンは眩暈すら覚える。泣き出しそうな激情も、胸を震わせるような情動も、その全てが波濤のごとく押し寄せて、アワンの心中を掻き乱し、押し流していった。
「もうよいのです!今はそんなのどうでもいいです!もう、しゃべらないでくださいっ」
「……ううん、言わ、せて?……、きっと、これが、……さいごに、なるか、ら……」
「──ッッ!」
いよいよ時間が尽きようとしていることを諭すその言葉に、アワンの顔が動揺と恐怖で歪む。
異様なほど青白い顔にすでに生気はない。血が体内から失われ、アベルは今まさに最後の最後の意識さえも消えようとしている。
それに気がついたアワンが、我を失ってついに声を荒げた。
「いや、兄さま……!いやだいやだいやだ!!待て、お願い、アベル兄さまぁ!待って……そんな、」
あの子を置いていくのか、と言いたかったのか。
どうしてこんな結末を受け入れられるのか、と聞きたかったのか。
とにかく、繋ぎとめようとアワンは必死に叫ぶ。
その声は涙に滲み、震えていた。ついには溢れる雫が落ちて、服についたアベルの血を滲ませていく。
「なか、ないで……、アワン……」
明滅する意識を繋ぎ止め、アベルは震える手を伸ばしてアワンの頬を撫ぜる。温かい人の温度。血に濡れた指先が、白い頬を汚してしまう。
血がこびり付いた唇が動く度に、喉に詰まった血の所為で、ひゅう、と乾いた音が混じる。
「あの、ね……ひとつ、約束して、ほしい」
「な、っ、なん、ですか……っ?」
アベルはゆっくりと瞬きをする。彼が再び目を開けたときには、先ほど以上に焦点がぼやけた瞳をしていた。アベルの瞳は既にアワンを通してその向こうを見ていた。
「…カィ、……にい、さん……ぉ、こ……と、」
「──!」
無情にも、アベルの体の力は段々と抜けていく、逆にその度にアワンが彼を抱き寄せる力を強める。零れる砂を掻き集めるように、形のない泡を掻き抱くように。
「…………た、……の……んぁ、…から、...…ね、……」
涙を流しながらもささやかに微笑んでいた唇が、声を発さずに失くしていく。
おぼろげながらも光を映していた瞳が輝きを消して、青白い瞼の奥に隠されていく。
アワンを見上げていた顔が、ガクッと項垂れて、力なくその胸の中で横たわった。
残酷な音が聞こえる。
死が彼を捕らえた音──。
「────────────────」
死んだ。
たった今、アベルが死んだ。
実に呆気なく。
何もできず、無力で、どうにもできない自分を悔いて、アベルは死んでいった──アワンを置いて、死んだのだ。
アワンの腕の中で、彼の体が急激に重くなる。完全に魂の抜けてしまった体が、その分上乗せされた重みがアワンの全身に圧し掛かっているのだ。
最後に、途切れ途切れで、アベルは『 』と言ったのだ。
それを最後に彼の命の灯火は、今度こそ本当に消えていった。もう二度と甦ることはない。
「嘘…嘘、嘘ですよね!!?ねぇ、アベルさま、うそ…!」
嘘じゃないということはとっくにわかっていた。
握ったその手は、二度と鼓動を刻まない。
閉じられた瞼は開かない。
まだ暖かく、眠っているようにしか見えなくても、───
「……うそよ」
──祈りは、もう届かないのだ。
「……いや…いや、や、だ、」
体中の血液がざあっと引いていく。
声が掠れて言葉が見つからない。
唇が震えて、言葉が上手く紡げない。
口を吐いて漸く出た言葉といえば、幼子のような稚拙なそれだった。
「アベル兄さま?起きて、起きてください!!兄さまっ!!ねぇ、おねがい、起きてぇえええ!!」
──ただ闇雲に叫ぶその懇願は、余韻を残すことなく、荒廃した野原と溶け合っていった。
◇◆◇◆◇
慟哭の後に残ったのは、退廃にも似た虚脱と、どうしようもない放心だった。
アベルが息を引き取り、どんな蘇生術も意味を成さないと分かってから数時間経っても、アワンは彼の傍から離れられなかった。
「こんなことになるなんて…」
アワンは嗄れ果てるほどに泣き叫んだ喉をなおも震わせ、滂沱と涙を流しながら、物言わぬ骸と化したアベルを話さずに抱きかかえていた。
アベルの体からはもう温かさが消えており、手足も固くなり始めていた。意識のない人間の体は意識のあるそれよりはるかに重い。その重さがアワンを糾弾する。甘んじて受け止めながらも、彼女は考えていた。
なぜアベルが死んでしまったのか、死ななければならなかったのか。アワンの叫びも虚しく逝った彼。目の前で成す術もなく。
本当の死とはそういうものだった。
誰にも、どうやっても引き止められない無慈悲なもの。
思えばアワンにとって死というのは未知数で、本能的に忌避すべきものだとこれまでは漠然と認識していた。──アベルという死を看取るまで。
(あぁ……!私のせいだわ……私が、もっと早く気づいていれば……!もっと早く、二人を見つけていれば──!!)
自分を強く責める声が心の中で響く。アベルは私たち家族の間では温かい光のような存在だった。穏やかで、優しくて、どんな時でも私たちを支えてくれる存在。彼がいなくなってしまった今、その光は永遠に失われた。
アワンはアベルの額にそっと口づけを落とし、涙を流しながら彼に語りかけた。
「アベル兄さま、ごめんなさいっ……私が、何もできなかったせいで!あなたをこんな形で失ってしまった。……でも、あなたの優しさを忘れないわ。どんなに闇が深くても、あなたが私たちに与えてくれた光を胸に生きていきます」
アベルの亡骸を地面に横たえ、アワンはせめてもの償いに二度と開かれることがないその双眸の上にやさしく翳す。彼の永遠の眠りに安らかぎが訪れますよう心から神に祈った。
そうして、目をそらし続けていたものを見るのを恐れながら視線を持ち上げ──この地獄のような現実をようやく受け止める。
(彼を殺したのは、やはり……)
一つの結論が弾けて消える。
アベルの尊き命を無残に、無慈悲に、残酷に、奪い尽くした執行者は一人しかありえない。彼の足に突き刺さった「凶器」がその決定的な証左となる。
何よりも唾棄すべき事実として、そこには何ひとつ情けの形跡も見られないことだ。アベルの体に骨をも断つほどに刃を深く突き刺し、まだ息のある彼を痛めつけ、尊厳を凌辱した。
きっとアベルは最後まで戦ったのだろう。牙を向けてくる悪意と。そして傷だらけになっても説得し続けて、自衛する武器もなく、せめて逃げるための足をも奪われ、それでもなお抗い──死んだ。
起きた事実は理解した。だが、理解はできない。
ここまでされる罪が、アベルのどこにあったというのか。
一体なにを考えて、彼を殺した者は彼を殺したのか。
アベルという兄はお人好しでいつも一生懸命で、鈍感なのが玉に瑕だが、いつだって家族思いのやさしい人だ。彼はいつだって願っていた。家族の誰よりも望んでいた。また家族みんなで笑い合える日が訪れることを。
──その願いは、こんなに酷い仕打ちをされるほど、罪深いものなのだろうか。
アワンはしばらくぼんやりと、膝に載せたアベルの頭を見下ろす。血塗れなことを除けば、穏やかに、眠っているだけだと言われれば信じてしまいそうな死に顔がそこにあった。
「アベル兄さま……」
彼の顔を見下ろす内、その白い頬に再び水滴が落ちる。
涸れたと思い込んでいた涙がまたしても湧き上がり、終わることのない責め苦を再びアワンへ押しつけ始めた。
「教えてください。私は、どうしたら良いのでしょう……」
迷いの言葉を何度も繰り返すが、答えてくれる人もいない。自分一人では、分からない。
死に際にアベルがなにを思い、そしてどんな思いを抱えてアワンにあの言葉を残していったのか。
その当の本人がこうも無残に殺された今、その心象を知ることは永遠にできない。
「アベル兄さま……私、は……」
アベルを見下ろすアワンは蚊の鳴くような声で呟く。その言葉の先に何を続けようとしたのか。それは、ぽたりと降ってきた雨に遮られていた。
ぽつり、ぽつり。
ざっといきなり降り出してきた。
項垂れていたアワンは突如泣き出した空を仰いで、泣き腫らした目を瞬かせた。
「……雨………」
容赦なく打ち付ける土砂降りの雨は痛々しく無力感を降り注ぐようだった。──まるで、この結末を責め立てているのかのように。
アワンは緩慢な動作で立ち上がり、掌を上にして降りしきる雫を全身で受け止める。
この雨がすべてを流してくれる気がした。
この想いも、弱さも、脆さも、私自身さえ。
どこまでも流して。誰も知らない所まで。いっそこのまま消えてしまえれば良いのに、なんてあり得ないことを考えた。
張り上げた声はどこにも届かない。
伸ばした手は誰にも届かない。
それでも、見上げるアワンの瞳は、どこかまだ光を探しているようだった。
「行かなきゃ……」
ポツリと零し、立ち上がり、アワンはアベルの死体に背を向けて、来た道を引き返した。
その歩みはふらふらとしているのに危なげなく、また明確な目的を以って歩んでいるようで、どこか虚ろだ。
『その選択が、余計に残された者たちを苦しめているとしても?』
胸に痛かった自問自答の声がその頭に反響した。
───後悔はしない。そう決心したのは確かだ。けれど、この選択が正しいかなんて、神以外の誰が分かるはずもない。
だが託された以上、アワンは既に引き返せない道にいる。何があっても進むしかない道に。
「……私は、間違ってますか?」
自分で選んだ。自分で決めた。そして、自分を戒めた。
───けれど、大切な人たちの表情を思うと、恨まれているように感じてしまった。
想いが今、生まれ変わる。




