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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
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36話『残念無念また来世』

 

 考えが言葉になり、言葉が行動になる。その行動がやがて狂気を呼び寄せ、やがて狂気は「凶器」を突きつけるのだ。


 そして、最後には──、





「あぁぁッ! が、ぐ、ああああぁ!!」



 

 ──凶器は惨劇を生み出す。


 その惨劇の主役を強いられた──痛みにのた打ち回るアベルの断末魔が絶え間なく響く。



 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!


 アベルの視界は赤と白に交互に明滅を繰り返し、脳天に鋭い針を何本も突き刺されたような別次元の刺激が駆け巡る。思考が白熱した世界は歪で不愉快なほど傾いでいる。


 これまで味わったことのない激痛から少しでも逃れるために体を振り乱し、空いた腕は地面を叩く。手は地面を強く引っ掻いだせいで爪が盛大に剥がれ、その熱さに意識が沸騰する。



「───────────ッッッ!」



 喉はやがて声なき絶叫で()れ果て、代わりに声にならない苦痛を盛大に上げる。


 

 痛い。体が痛い。頭が痛い。手が痛い。


 でも、それよりも何よりも、もっと一番痛いのは──心だった。



















  ───(はか)られた。



 その言葉以外で、この情況をどう言い表せというのか。


 

 出血の量に心臓が爆発しそうに加速するが、命に関わる傷ではない。そのまま吐きそうな緊張に襲われながら、アベルは遅すぎる思考に達する。



 アベルの足に再起不能の損傷を与えた一撃は────、







「なんたる無様な醜態であろうか」




 砂まみれで、冷たく硬い地面の上で身悶えるアベルの前にゆらりと影が立つ。この惨状を生み出した張本人──カイン。


 すでに喉は声なき絶叫で嗄れ果て、のた打ち回るような痛みに体力を奪い尽くされたアベルはすでにこの短時間で満身創痍になっていて、動く気力すらも残っていない。


 乱れた呼気を整えながら、アベルは濁った視界を動かしぼんやりとカインを見上げる。

 

 



「ああ、そんなに血を流して、可哀想にな。我が弟よ。痛かろう。苦しかろう」




 しゃがみ込み、視点が定まらない弱々しい瞳を酷薄(こくはく)な眼差しで覗き込めば、カインは何も悪びれもなくそう(こぼ)す。


 しかし、そのセリフとは裏腹にそっと差し出されたカインの掌はまるで労わるようにアベルの足の傷口に優しく添えられた。その傷を作った元凶が紛れもなく彼自身だというのに。


 カインの五指がゆっくりと傷口を撫でる。ごつごつと骨張った、水疱(マメ)と傷だらけの手。細くしなやかでいて、傷ひとつないアベルの手とは、全く別のもの。カインの手が少し力を込めただけで、再び襲う激痛にアベルは呼吸の仕方がわからなくなった。それでも抵抗することもせず、ただされるがままだった。




「何故だろうな。本来は心を痛むべき光景であるはずが、苦痛に喘ぐ貴様を見るのは、至極心地よく感じるのだ」




 与えるのも奪うのもカイン次第で、自分こそが相手の命運を左右している。その優越感は嗜虐の快感を生み出した。


 カインは、口元だけで笑みを象る。その一瞬の瞬間が切り取られて、永遠のように変わる。アベルはそんな感覚に陥る。永遠のような瞬間で、アベルの心にはさまざまな感情が交錯する。



(うそだ、うそだ)



 目の前にいるのはアベルが尊敬してやまない、慕っていた兄だろうか。さっきまでだってアベルといつも通り話していた。時には優しく気に掛けてもくれた。




(──それが、どうして)




 アベルの脳内に、確たる言葉が最初に存在するとすれば、それはただ一つだった。



 

(──なんで、こんなことに、)




 なんの因果で、誰の謀で、こんな目に遭わなくてはならなかったのか。それともこれは天罰?そもそも、許されない罪を負っているはずの自分が分際をわきまえないのが間違いだったというのか。


 アベルの頭には次から次へと疑念や懺悔の念が浮かんでは消えていく。ただただ、「兄に襲われた事実」に震え上がることを強制するように、なんで兄から悪意をぶつけられるのかわからないまま、絶望感に溺れさせ続ける。 


 やがて彼が数々の浮かんだ思念の中で意識できたのはただ一つ。





「きっと、何かの間違いだ、よね?」




 現在進行で起こっている出来事が現実であると、悩乱したアベルの頭にはとても処理が追いつかなかった。これは悪夢だ──そんな、意味のない現実逃避を始めて数秒。




「なにも間違いなどない。悪く思うな。ただ話の途中で逃げられては困るのでな、念のためだ。とりあえずお前の片足だけ潰しておいたのだ」




 薄笑いを引っ込め表情を無くした彼の瞳は底なしの闇が映っているようだった。思わずゾッとする。普通の人間ではおおよそ見られないようなそれに。




「アベルよ。長らく待たせてしまったな。これまでの対話はお前との余興に過ぎない。お前をここへ連れてきたのは、約束通り。これからお前に私のすべてを打ち明けるためだ」



 





 ・

 ・

 ・



 




 カインは、すべてを話した。



 本当の自分は神に叛逆する魔の眷属であること。


 肉体こそ人間でものではあるが、その魂は元から悪魔によって創られたこと。


 そのせいで、長年ずっと「悪意」という己の異常性に苛まれ、それと戦ってきたこと。


 そして、「悪意の蛇」との出会いにより、異端者(魔族)として完全覚醒したこと。





「──以上が、このカインの真実だ」



 

 クツクツと喉を震わせる低い声。


 カインが告白した己の真実は、あまりにも現実離れし過ぎていて、そして予想できていなかったせいでアベルにはしばらくその情報を自分の中で反芻するしかできない。


 頭が酷く混乱する。


 しかし、一つだけ分かることは、アベルには兄が嘘をついているようには思えなかった。





「神とやらにとって、私はきっと生まれてくるべきではない人間だろうな。私は生まれながらにして魔が宿った身だった。けれど、私は、長年それをずっと理性で抑え付けた。十年前、お前と一度和解してからはそれで治まり、どこかに行ってしまったんだろうと思い込んでいた。だが、違った。私の中の悪魔は、消えた訳ではなかった。ただ私の中で眠り続けていただけだったのだ。──昨日まではな」




 ずっと待ち望んでいたカインの「真実(すべて)」は、思った以上に重いものだった。そして、その真実を悪魔がカインに突きつける隙を与えてしまったアベルの罪深さも。




(あの時、兄さんを置いていかずに、二人で家に帰っていればこんなことにはならなかった......?全部、僕のせい......?)




 選択を間違えた自分こそがこの悲劇を引き起こす要因を作ったのだと、後悔と罪の意識がアベルを難じる。




「さあ、これで私は約束を果たした。今こそ私は魔の道へ堕ちよう。──お前を殺すことでな。仮初のつながりを断ち切ることこそが浄化。それこそが本当の私を取り戻せるのだ」




 狂っている──そう思わせる思考の帰結にはどこか切実さがあった。まるで、何かに取り憑かれたような、止めることのできない執念が滲み出ている。


 アベルは愕然と、残酷な言葉ばかりを簡単に吐き出す目の前の男を信じられない思いで見つめていた。



 これが、これが今まで兄だと思ってきた男の本性だというのか。


 この姿こそが、言葉こそがこれまで巧妙に隠されてきた彼の真実だというのか。



 視界を占めるカインの(かんばせ)が次第に輪郭を失っていく。解像度の落ちた世界が瞬きと共に大きく歪む。アベルは自分が泣いていることに気づくまで、そう時間はかからなかった。


 痛みも、苦しみも、悲しみも、全てがこれまでの日々の絆の分だけアベルの心を深く鋭く抉っていった。




「……僕たち家族じゃ、ダメだった?」


「……!」




 思わずそんな言葉が出た。


 今更、未練がましいような言い訳をしたところでカインの決心は揺るがないだろうに。しかし、アベルは見たのだ。右足を潰されて地面に転がったアベルは、その瞬間を見てしまったのだ。凶器を振るい落としたあとの、目の前にいる歪なカインの表情を。


 きっと、カインの中にいくつもの思いが入り乱れている。本質は悪意からの愉悦じゃない。愉悦が覆い隠している奥底に、兄が抱く別の感情があるはずだ。アベルはそう感じた。ならば、カインの本当の気持ちに向き合いたい。


 あれだけ悶絶していた脚の痛みなど今はお構いなしに、アベルは死に物狂いで上半身を持ち上げた。涙や汗や、あらゆる体液を流してガタガタと震えながらも半立ちする弟に、さすがに想定外なのかカインの目が僅かに見開いた。


「お父さんもお母さんも兄さんを愛している。僕たち兄妹だって兄さんを大事に思っている」




 想像を絶するはずの痛みの中で笑い、アベルは少しずつ片脚を引きずって、カインに近寄る。


 汗で乱れた髪、むせ返るほどの生臭さ。血と砂でドロドロになった体と服。




「この十年間、僕たちの絆じゃ兄さんの心を癒せなかった......?それでも、兄さんの中の悪魔を鎮めるに至らなかった?家族のつながりが兄さんにとっては邪魔なものでしか、なかったの?」


「ああ、そうだな」




 嘆願のような声は、しかし。俯いていたカインが顔を上げたと同時に、拒絶された。



「......これまで家族というものは無為に私を惑わす、私にとっては目障りなものでしかない、偽物の絆だ。これまで一度たりともそれを、」

「ウソだよ」




 無情な言葉を続けるより先に、アベルが遮った。ピクンと片眉を上げたカインと向き合い、アベルは今度こそカインと向き合おうと、カインの顔色を伺いながら言葉を選ぶ。




「だってっ、十年前、兄さんは言っていたじゃないか。“笑って明日の話をしよう”って、そう言って手を差し伸べてくれたじゃないか」





 アベルの言葉が、真暗に閉ざされたカインの心中に響く。






『まずは、そうだな。......今度二人肩並んで前向いてお話しよう。──とりあえずは、明日のことからでも』


『......明日の、こと』


『そうだ。明日のこと。なんでもいいんだよ。明日作物が害獣に荒らされずに無事で収穫できるのか、とか。羊がまた数匹畑に迷い込んだなんてクソ笑えねー話でもいい。どんなつまらねぇ話でも、明日があるからできる明日の話だよ』




 十年前、カインは確かに言った。





『──オレとお前が......、家族だからだ』


『きっとオレにとっても、お前は世界でたった一人の弟だからだ』





 そして、一度つながりを諦めて手放そうとしたアベルに、カインは確かに必死に取り戻そうとしていた過去がある。





「まさか、あれも全部僕を騙すための演技だったの......?違うよね。兄さんそんな器用な人じゃないことくらいボクは知ってる。本当に目障りだったのなら、十年前のあの日、崖から落ちる僕を助けずに見殺しにすればよかったんだよ。でも、兄さんはしなかった。昔からずっとそう。カイン兄さんはいつも僕を救ってくれた。──その右目の傷こそ証じゃないか」




 最後の指摘に、思わず右目を反射的に覆い隠す。


 すこぶる機嫌を損ねたようで嫌悪感を露わにするカインにとって、その古傷は抹消したかった歴史なのだろう。だが、それとは対照的に、光を代償にアベルの命を守り抜いた証でもあるその傷痕はアベルにとっては尊うべきものだった。




「さっきだってそうだよ。兄さんはあのまま鍬で僕を仕留めることもできたはずだよね」




 同行中、ゆったりとした時間の端々でアベルを襲うチャンスは無限にあった。その機会を逃してまで、どうしてここで悪意(殺意)を露呈したのか。


 そんなの、全く合理的ではない。


 わざわざ迂遠な真似をして、憎いアベルをこの時まで殺さなかった意味がどこにある。





「黙って聞いていれば、人間風情が図に乗るな。私は殺せないわけではない。あえてすぐには殺さなかったのだ。だが、約束を果たした今こそ貴様をじっくりと嬲り殺そうと、」


「本当に家族の情を持ち合わせていないなら、昔の約束を果たす義理なんてカイン兄さんにはないはずだよね」


「……」




 これまでの絆を偽物だと切り捨てたカイン──それでも、直前まではアベルの兄の振りをしてまで、自分の真実を打ち明けた──遠い昔に交わした口約束を律儀に守ろうとした意味がわからない。


 やはり、何もかも、筋が通らないではないか。





「やっぱり、兄さんは兄さんだよ。だって、少なくとも偽物の中には兄さんの本物もあったんだよ。だから、全部が全部偽物だったなんて言わせない!『本物』がある限り、僕の中のカイン兄さんは変わらないんだよ」

 



 アベルは断言した。


 生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握られた袋小路(ふくろこうじ)に陥るこんな瞬間でさえ、その瞳は決して悪意に染まらない。だって今アベルが語りかけているのは、異端者でも悪魔でもない、ただの兄なのだから。


 どこまでも揺らぎもない姿勢に、ついにカインは呆気にとられていた。


 


「だからかなぁ、こんなことをされても、僕ってば、兄さんを嫌いになれないんだ」


「またお前は、性懲りもなく……!」




 アベルが泣きそうな笑みで己を見つめている。今から自分を殺そうとする男に向ける表情ではない。く、と吐き捨ててカインは歯を食い縛る。


 これほど酷い仕打ちに何故そんな表情ができる。アベルは置かれた状況を理解できないような性質ではないはずだ。


 それなのに、今のアベルの瞳には、憎悪も、恐怖も、なにも浮かんではいない。あるのはただ、傷ついた心を慈しむときのような、愛情に満ちたもの。


 



「──どうやら僕って、自分が思った以上に、カイン兄さんのことが大好きみたいだ」




 何の飾り気もないアベルの心から溢れたの言葉は、ここに来て、初めてカインの心に響いたのかもしれない。カインはギリッと歯ぎしりする。「何なんだ.....」と溢れた言葉は、滲んだ戸惑いを掻き消すように。




(いや、そうだった。元よりこいつはそういうやつだったな)




 思い出してみれば、これまでもそうだった。カインが何度突き落とそうとしても、アベルは完全には沈まない。最後にはカインに歩み寄ろうと這い上がってくるしぶとさだ。いつだったか、アワンはアベルを『頑固』と評したのも納得がいく。確かに儚い容姿とは正反対の度を越した石頭だ。


 今だってそうだ。いくら絶望を与えても、返ってくるのは報復の意思ではなく、その身でカインの感情を受け止めようとしていたような。カインとてそう単純な思考を持っているわけではなくて、だからこそアベルの強く訴えかけるような表情が癪に障る。気に入らない。




「でもさ、家族の繋がりって、きっとそういうものなんだよね?……カイン兄さん」




 ではなぜ、己の心は()くも穏やかであるのだろうか。


 ここまで来るといっそ高邁(こうまい)な愛とすら思える弟の愚直さに、カインが失くしたはずの人間の心が、蘇り始めているとでもいうのか。


 アベルはまるで太陽のよう。完全では無理でも、もしかしたらその光はほんの一筋でも深海の闇に沈んだカインに届いたのかもしれない。


 



「......……アベル。俺だって、」




 カインが一瞬だけ見せた遠い目に、アベルは気付いたであろうか。

 



「俺だって、お前を────」


 


     “(ほだ)されるな!”




 だがそんな一瞬の機微も、彼の中にいる赤い悪魔が警鐘を鳴らすことですべて掻き消された。




「─────……、」



 無意識に続けられようとした言葉は、けれど声に出す前にひとりでに開きかけた口に気づいたカインに自ら制され、音にならなくなる。言語として構成する機会を奪われたその音は意味を失い、そのまま意識からも締め出される。あとには何も残らず、それで終いだった。


 



「......ククク、やるな。最後にこの私が締めくくる悲劇をひっくり返そうとするとはな。ハッ、侮れないものよ。この期に及んで命乞いの代わりに、くだらぬ情とやらでこの私を惑わそうという魂胆か?さすがは神の(しもべ)。卑劣な神は、その信徒すらも卑劣と言ったところか」


「そんな……、ちがっ、違うよ……!そんなつもりなんかじゃない!」





 再び悪魔の表情に戻り、アベルを(さげす)むカイン。先ほどカインの中で生じた温かい情念の片鱗がみるみるうちに静化してゆくのを知らずに、アベルは跪いて懸命に呼びかける。




「お願い、カイン兄さん!目を覚ましてっ!悪魔なんかに心を渡さないで!負けないでよ!兄さんはそんなに弱い人じゃないでしょう!頑張ってよっ!」




 ──それは、絶叫であったと思う。あるいは、悲鳴なのかもしれない。


 高く、尾を引くその訴えは悲しみで満ちていて、聞く者の心に悲痛な爪痕を残さずにはいられない魂の叫びだ。





「なんでっ、どうしてこんなことに……っ悪魔め!僕たちの兄さんを返してっ、返してよぉーーーーーーーーっ!!」

 



 訴えずにはいられない。叫ばずにはいられない。


 自分の悪意を持て余し、正解がわからないまま袋小路に迷い込んで、そうした迷いを晴らす術を「殺人」以外に持たない兄が、悲しい。


 同時に、兄にそんな選択肢しか与えなかった理不尽な運命を嘆き、世界に()()さえ抱く。


 




「──あぁ、神様!どうか!」




 どうか、どうか、悪魔から兄をお救い下さい。痛いほど強く、神に祈る声がする。大好きな兄の姿が瓦解していくのを堰き止めるように、アベルはひたすら祈る。


 カインは神を心底呪うのに、こんな時でも弟は必死に神に願いを乞うている。どうにも、二人の想いは噛み合わない。幼い頃よりその手を引いてきたはずの弟の足は、全く逆へ向かおうとする。





「今更、何を言ったとしても無意味だ。お前がいくら足掻いてところで......もう遅い。遅いのだ。もうすべてが過去、“終わったこと”だ。過去には戻れない、戻るつもりもない」




 あらためて言葉にするとその事実は歴然と重たく、カインに残した呪いのようで、しかし、今となっては、それと同じだけの明確な救済を以ってカインに祝福をもたらすのだ。


 そうなった時点で既に手遅れだ。カインはもう戻れない。それは彼自身が一番知っている。一度全ての光を切り捨てたカインは、最早もう一度光を差し出されたところで受け入れられなかった。受け入れるべきではない。




「今ここに立つ私は血も涙もない悪魔!貴様のぬかす思い出とやらもすべてはこのカインを蝕む忌々しい過去の異物でしかないというのに!貴様というやつは飽き足らずにまだ我が心を翻弄するというのか!」



 

 しかし、心を悪魔に明け渡してからも、まだ思い出すのだ。これまで過ごしてきた家族との温かい思い出が。


 思い出すたびに、辛いのだ。消したいのだ。


 健やかな心と甘い愛情に塗れた家族と接するたび、己の異質さを突きつけられた。異端として輪から弾かれる痛みに苛まれるのだ。真実に触れたカインだけが抱える苦しみ。


 それをわかりもしないで、カインの心に入り込もうとするなど言語同断!ほんの一瞬優位に立っただけで思い上がるな!それをわからせてやる──!




「これで、ハッキリした。私が悪意の最初の生贄はやはり貴様が適任のようだ。認めてやろう。アベル。……お前はこの私にとっては本当に、この上なく厄介な存在だ」




 今度こそ終わらせよう。人の世で築き上げてきたこの偽りの絆を断ち切る──カインが自らの手で。



 

 ふと、手の届く場所には大きくいかにも重そうな石がカインの視界に入った。彼は、迷わずゆらりとそれに手を伸ばす。




「邪魔な芽は早いうちに排除するに限るからな。光栄に思え。私が完璧な魔族として覚醒するため、お前にはその犠牲となって貰おうぞ」



 

 大石を両手で持ちあげ、カインはゆっくりと両手合わせて俯くアベルに近づく。


 足を潰されて逃げれるはずもないアベルは、あの祭祀で供物に捧げられる仔羊と重なる。





「──長い家族ごっこは、終わりだ。これで私は今までの自分自身に終止符を打つ。最期に言い残すことはあるか?……もう何も聞こえてはいないようだな」




 周囲の異変に目にくれず、兄のためだけにただひたすら無心に祈り続けるアベルに憐みな目を向ける。どこまでも殊勝(しゅしょう)なその生き様はいっそ滑稽でもあった。


 カインは惨劇の終幕に思いを馳せて唇を歪める。それだけで、大石を握る彼の手に力が篭った気がした。


 



「さらばだ、──愚弟よ」




 重力に従い、振り下ろす風の音。



  __ゴッ、




 ───鈍い、砕ける音のあと、鮮血が冷たい地面を彩る。

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