35話『我が悪意に溺れてしまえ』
草と泥を踏み、枝を越え、森を抜けると、アベルたちの世界が一変する。
眼前に視界を阻む木々は無い。
先ほどまで、濃密な迷宮だと思わせていた森の空間が消失し、代わりに展開されたのは砂塵が舞う野原の中──その、小高い丘の上だ。
「着いたぞ」
「……ここが、兄さんが来たかったところ?」
「ああ、ここでなら、何も気にせず二人でゆっくり話をできるだろう」
視界を回す。
曇りがちで暗く、湿った空気と泥炭の荒れた野原はもはや荒野と言ってもいい。
風が吹くだけの荒涼とした大地はどこまでも続き、四方のどこに目を凝らしても、殺風景な地平線の彼方までなにも見つけることができない。
誰も訪れようとしないその野原に、カインとアベルは立っていた。
ここで、きっと何が起ころうとも、確実に誰にも気づかれない──そんな場所だった。
そわそわと辺りを見渡すアベルにカインは素知らぬ顔で問いかける。
「やはり気に入らないか?確かに見どころが何もない僻地ではあるが」
「う、ううん。ただ、少し意外で驚いただけだよ。……それでさ、兄さんの話って何?」
アベルはおずおずと、カインに声を掛けた。本題を促されるのを発端に、カインはそれまで繋いでいた手をあっさりと振り払い、アベルから離れた。
視界の端でアベルの困惑げな顔がこちらを向いているのに気付いていながら、カインはしばらく無表情で野原を眺めていた。
(こんなところまで来て正解だったな)
一度昂ぶった悪意の狂気から冷静さを取り戻せただけ、あの森の中を長々と歩いてきた価値はあった。カインが最後の約束を果たすそのときまで、まだ早まるべきではないからだ。
なにより、ここなら誰にも邪魔はされない。
「──カイン兄さん?」
なかなか話し出そうとしないカインに、痺れを切らしたのか、アベルの呼びかけが耳朶を打つ。
どこか訝しげなそれにカインの視線が緩慢に動き、アベルの姿を捉える。そして、さも億劫な態度で、ゆっくりと口を開いた。
「アベルよ。なぜ……俺たちは、供物を捧げるんだろうな」
その声は目の前に広がる大地のように乾いていた。
「兄さん、まだ悩んでるの?」
やはり、弟の贄は受け取られて兄の物は突き返されたことをいまだに気に病んでいるのかもしれない。そう思ってアベルはカインを励まそうとして言った。
「大丈夫だよ。兄さん。次はきっと受け入れてもらえる。だって、兄さんは頑張っているじゃないか」
「ああ、そうだな、俺は十分頑張ったさ。泥にまみれて土を耕し作物を作った。休みなんか一日もない。雪の日も嵐の日もサボったことはない。それでも、その実りを、神は受け入れなかったのだ」
カインが振り返ってアベルを見た。眉根を寄せて、苦しそうに胸を掻き抱いた。
「血の犠牲がそれほど重要なのか?なぜ犯した覚えのない罪を背負っていかねばなるまい?俺は常日頃真面目に、敬虔に働いているだけなのにな」
「あの、兄さん?」
喋っている間に何やら話の方向が怪しくなってきた。込み上げる失望感、それに屈するように掌で顔を覆うカインに、アベルは戸惑いを浮かべる。
「そうだ。ああ、そうだとも。俺は毎日働いて、空腹や疲労、暑さ寒さに耐えている。見事な作物は全て心惜しむことなく神にすべて献上した!なのに、それが身に覚えのない罪ですべて否定される筋合いがどこにあるというのだ!?」
「に、兄さん。落ち着いて……!」
続けて語られるのは、神の理不尽を弾劾する、怒りの本音だった。
いらいらした声で返され萎縮するも、アベルはますますカインの様子がおかしくなっていることへの確信を強める。段々気が昂る彼を宥めようとすかさずアベルは近づく。
それは、憂う瞳をしていた。
困惑し、同情し、しかしその清き美しい瞳がカインに共鳴することはない。
その瞳を見て、カインは、
「なあ、アベルよ。お前もそうではないか!?愛情をもって羊達を飼い、食わせ、病になれば治し、常にお産に付き添っては疲れている!なのに、神への信仰心を試すためだけに殺して捌かねばならぬ、そんな卑劣な神の試練をお前は許せるのか!?」
ついに咆哮した。
厚く重なる雲に向かって喚いた声は純粋なる憤怒しか込められていない。自分の辿った思考の帰結が、正しいものなのだと信じて疑わない。
「兄さん!もういい加減にしてっ、まだそんな事を言っているの!」
珍しく、アベルも少しだけ声を荒げた。
神や天使にこの言葉が聞かれてやしないかと恐れて辺りを見回して、すぐにカインの肩を掴んで揺する。
さながら眠りに落ちた者を目覚めさせるかのようなそれは、文字通りカインの目を覚ましたくて取った行動だった。
「これ以上はまずいよ!こんなの神様や天使に聞かれたらっ、」
いつもなら、アベルがこんなことをしてきた時点で嫌味の二つや三つ飛んできそうなものだが、カインの目は肩を揺らされているにも関わらず、依然と冷え切った目で見つけ返す。それがどうにも不安だった。
「聞かれたから、何だ?何がまずい。言ってみろ」
「だから!兄さんが言うことは全部、神様への冒涜なんだよ!」
「冒涜だからなんだ、お前はどうするというのだ?いっそ不敬なこの俺を懲らしめてみるか?」
カインの挑発めいた物言いに、アベルはごくりと喉を鳴らすと、唇をきゅっと噛み締めた。
蒼白になった弟を目にして、カインは頭のどこかで冷静にこんなやり取りは不毛だと理解していた。
頭をもたげてきた嗜虐心に乗じて己の心の揺らぎを悟られたことを誤魔化そうとしているだけだ。だが、カインの義憤はここで収めるのを拒絶する。
「なんだ、黙りか?フン。まぁ、俺は事実を言ったまでだがな」
「……例え事実でもそうでなくても、それは僕達が知り及ぶところでは無いんだよ」
「なに」
「兄さんが疑問に感じている捧げ物の意義なんて決まっているという話なんだよ」
「なんだそれは」
「もちろん、僕たちの信仰心だよ。僕達はただ、日々の感謝を示すために神の律法に従って捧げ物をする。それだけのことなんだ」
「またそれか。もういい加減に聞き飽きたぞ」
「僕だってそろそろ言い飽きたくらいだよ。兄さんのことは尊重したい。でもさすがに神様への不信な考えを聞き捨てるのは兄さんのためにはならない。それを正さないとこれからも兄さんは辛い思いをしてしまう。その方が僕には耐えられないんだ。わかってほしいんだ。これは、兄さんのためでもあるんだよ」
──俺のため?
カインにとっては恩着せがましいでしかないその言葉に愕然と瞳孔を収縮させ、喉が急速に渇いていくのを感じていた。
一番近くに居た弟が、今は何一つ理解できない。
こんな時まで、アベルの瞳にはいつも曇りがない。
無邪気で、純粋で、無垢で、自分と神を信じて疑わない目をしていた。彼は本心から、神を疑う必要はないのだと信じていた。真っ向からカインを否定していた。でも、カインを慮るように揺れていた。
何故そんなにも純粋でいられるのか。
何故自分はそのようではないのか。
「お前こそなぜわからない!なぜ、そのような事を言えるのだ……!?
カインは震える手でギュッと拳を握り締めた。
「神の御心を知りたいと思うことはそれほど罪なのか?そもそも俺達が丹精込めて作った物を、その行く末を何故神が決める権限を持つ!神とやらはそんなに偉いのか!?」
「偉いよ」
「な、」
「だって、僕らを創ったのは神様じゃないか。だから、僕らが作ったものも、神のものだ。神様が偉いのも当たり前のことだと、思うけど」
当たり前のことだと思うけど、という表現に、稚拙な煽りを覚え、カインの頭は緩やかに冷えていった。思わず腰のそれに手を添える。
アベルの従順とゆるがない信仰心は、カインにとって絶え間ない譴責であった。
「誰が産んでくれと、頼んだ?誰が創ってくれと頼んだ?俺が神に頼んだか……?いや、違う。すべては父と母の独断。神の自己満足に過ぎないッ」
「兄さん……!なんて事を言うのっ!」
「何故…、何故お前は疑問に思わずにいられるのだ?お前と俺と、何が違うんだ。同じ父母から生まれた兄弟だというのに……!」
そこで、不意に言葉が消える。カインはようやく腑に落ちたような表情を浮かべ、
「は、はは……」
知らず、乾いた笑いが口から漏れた。
それは一度こぼれ出してしまえば、もう止める方法が見当たらない。
「いや……違うのは当然か。そうだったな……俺は、生まれつきの異端者だった。最初から神に忌み嫌われる存在だったのだ。なんと、まさしく、致命的な盲点だったが、それを確かめられたのは僥倖と思っておこう」
激情を抑え、堪えて、その事実を淡々と精査する。
「......そうだ。何をしたところで神に拒絶される運命だったのだ。だから俺は今、ここにいて、ここで、......あぁ、いけない。お前といると危うく己の使命をまた忘れるところだった。だめだ、これではだめだ。また、俺は、捨てられる。もういやなのだ。誰かに見限られるのは……!」
異常ともいえる剣幕にいよいよ恐怖を覚えて、アベルは後ずさる。
しかし、アベルのそうした行動を気にとめるそぶりさえなく、カインは未だにぶつぶつと何事か呟いている。
そんな変わりはてた兄に対し、アベルは勇気を出して息を吸った。
「…………ねえ、もうこの話はお終いにしよう?家に帰ろうよ。また種を植えて作物を育てて、さ。次はきっと大丈夫だから」
やんわりと背に回してきた手を、カインは思いっきり払い除けた。
「いや、もう無理だ。俺はもう認められない。神に見放された。今後俺がいくら努力しても、もう自分の力だけでは見事な作物を生み出すことができない。神の力に縋りつかねばならない人生など俺は真っ平御免だ」
「そんなことない。そんなことないよ.....。神様はきっと許してくださる。だから、そんな悲しい事を言わないで」
良心からはアベルはそう静かに言った。咎めていたような口調ではなく、柔らかい物腰で。それがカインに届いているようには見えなかったが。
「許されるものか!俺の心にはもう疑念が芽生えた。摘み取ることはできない。俺の心は悪魔に捧げてしまった。だから、もう神に捧げ物をすることは無い、神に認められて楽園に戻ることだって無いのだ!」
あの祭祀以来に溜め込んでいたでいた神への懐疑心を温床にして、憎悪という新しい芽が出たのを、もはやカイン自身ですらは摘み取ることができない。もう何もかもが手遅れなのだ。なのに、
「許されるよ!きっと許される!兄さんがどれほど神様を愛して、信仰してきたか。少なくとも僕は見てきた。礼拝のやり方を少し間違っただけで、その神への愛までも偽物なわけないってことを僕はちゃんとわかってる!」
カインの悲嘆のことごとくを、食い下がるアベルが振り払おうとする。
なぜ、この弟はこんなにも強く、カインの悪しき心を否定するのだろうか。
なぜ、この弟はこんなにも繰り返し、カインの心の闇を必死に浄化しようとのだろうか。
そして、どうしてそのことに自分がこんなにも振り回されてなければいけないのか。分からない。分からないことにまた苛立ちが募る。この悪循環が始まると、厄介だ。なかなか抜け出せない。
この期に及んでアベルを前にすることで、まだしぶとく自分に残った「人間の部分」が蘇るのを、癪に障るがカインは改めて認めるほかなかった。
──ならば、
「もう深く考えるのも、変に神様を邪推するのはやめようよ。ねぇ、カイン兄さん、分かるでしょう?たかが僕達人間が神を推し測ることなんてできない。そもそもするべきじゃないんだ」
──そんな甘い自分ごと、アベルの存在を消してしまえばいい。
「フ……、ハハハハッ」
その結論に辿り着いた途端、自然と込み上げた狂った笑みが自分の答えか。
ドクン、ドクン……、
鼓動に合わせて視界が揺れる。とてつもなく、いけないことを考えている。だけど、しかし……!
──このままでは、俺の方がダメになる!
頭の中を駆け巡るどす黒い気持ちを、カインはそのまま噛み締める唇まで運び、ついに解放する。
「知るか。そんなこと」
「・・・え、」
カインは決心した。迷う必要なんてどこにもない。今日アベルと合流する前から、既に自分を“整理”し、訣別していた。その事実だけで、もう充分なのだから。
「さっきからうだうだと上から目線でこの俺に説くなんぞ、偉そうに、お前は何様だ?人間が神を推し量るべからず。そんなこと知ったことではないと言ったのだ」
茫然と自分を見つめるアベルに、カインはこれまでの鬼相を珍しく笑みにした。すごく、意地悪い、底冷えのする笑みに。
それは、今日カインが初めて見せる笑みだった。知らない男の笑みだった。
「なにせ俺は、──私はもう人間ではないのだから」
瞬間、カインの気配が変わった。
彼を取り巻く雰囲気が一新され、姿形は変わらないのに、明らかに対峙する存在感が変質する。瞳に宿った感情が、思考が織りなす表情が、切り替わっていた。
「“もう人間ではない”って……、」
そうして、その変化に息を詰めるアベルは、引っかかる単語を鸚鵡返しする。舌の上に乗せた言葉がひどく遠く、理解しがたいものに感じた。それはアベルの中で情報として処理されない。
「.....兄さん、何を言って──」
衝撃が、その後の疑問を続けさせなかった。
「……ぇ」
アベルは自分の下肢に発生した、丸ごと吹っ飛んだと錯覚するほどの不意打ちの威力にゆらりと、身体の均衡が崩れる。
「あ、ぐ……?」
無理解、理解、──直後、
「──ッ!? い“、だァッ! ああああああぁぁ!?」
喉が震えて、絶叫が野原に響く。
原始的で強烈な刺激に襲われた──それは痛みだった。堪え難い激痛に呻き、身を捩り、アベルは体を支えられずに草原の上で横倒しになった。
「ぐ…….あ、はぁっ、……..ぁぁ……っ」
荒い息と呻き声が間近で聞こえて、アベルは視線をさまよわせる。と、すぐに原因が見つかった。
右足だ。
見ればアベルの右足の下腿に鍬が突き刺さっていた。それはつい先ほどまでカインの腰にぶら下がっていたものだ。
すぐに指先を伸ばして、アベルは自分の右足の腿の外側を必死で抑える。無理だ。傷口が大きすぎて、アベルの掌では負傷を塞げない。
鍬の先端に括り付けてある鋭い刃はまるで獣の爪の如くアベルの下腿の皮膚を抉り、醜い傷口は桃色の肉を鮮やかに見せつけ、さらにはその奥にある腓骨にまで亀裂が入れられていた。鮮血は今さら遅れてどくどくと流れ出す。
人間の肉体が破壊されるグロテスクな光景を直視して、ようやくアベルは理解した。わかった。なにが起きたのか。そう。襲われたのだ。兄が愛用する農具で傷害を負わされた。人生で最大級の悪意を向けられたのだ。
「言っただろう。私はとっくに身も心もとっくに悪魔に捧げたのだと」
ひたひたと、一つでしかありえない足音が悶絶するアベルの鼓膜を捉えた。
「───だからこそ、今の私はどこまでも残酷になれるのだ」
アベルの惨状を無情に見下すのは、憎悪と憤怒の激情が入り混じった、殺意の炎が燃え盛る瞳だった。
嗚呼、そうだ。その顔。
傷ついたその顔が、自分は一番好きだと言ったら──君は笑ってくれるだろうか。




