34話『間違え、た』
一歩、一歩、
踏み出すたび、僅かばかり残っていた未練
進みながら手に収まる温かい掌の感触を味わいつつ──今、カインの胸中を滾らせ続けていた感情はただひとつ。
──◾️◾️してやる。
何も知らないあの能天気な顔を自らの手で歪めてやる。そう考えるカインの胸中に暗い喜びが生まれ、口元にはこれまで浮かべたことがない歪な類の微笑が宿る。
そうだ。突き刺し、殴りつけ、叩き潰して命乞いをさせるのだ。それを想像するだけで、喉の奥から堪え切れない笑いの衝動がこみ上げる。が、まだ時期ではないと、理性で抑制する。
(まだだ、まだ笑うな)
カインは享受している。──「殺意」という名の最大級の悪意を。
……………湿った風が森の中を吹き抜ける。
ここは薄暗い森の中。
仰ぎ見れば、木々の隙間からどんよりとした曇天が覗いていた。
森の茂みが辺りをすっかり覆い、光の残滓を連れ去っていく。仄暗い闇が容赦なく濃さを増し、カインとアベル自身も影と繋がり、その暗闇に浸かる。
見えない場所で鵺鳥たちがけたたましい笑い声を上げていた。
獣が現われるのではないかとアベルは内心でヒヤヒヤしながら、周囲をきょろきょろと眺め見ていた。一方のカインはまるで警戒をしていない。いや、確かに兄はあからさまな警戒を必要としないほどに狩猟に熟達した男ではある。それでも、それを加味したとしも、──ここは到底「散歩」には適さない道のりだった。
(兄さん、さっきからずっと黙ったままだ。迷ったわけでは、なさそうだけど)
カインに手を引かれ、粘着質な泥を踏みつけながら前へと進む。兄はこの森をよく知っているようだ。足取りに迷いはなく、アベルならきっと散々に迷うであろうこの森の出口を把握しているらしい。
先ほどから一言も交わさず、それどころかカインはアベルの事を視界にも入れない。耐えかねて先に沈黙を破ったのはアベルだった。
「......兄さん!」
とりあえず、呼びかけてみた。
どこに行くの、と続けてカインに尋ねようかとも思ったが、できなかった。彼は答えてくれないような気がした。不吉な気配が彼には確かにあったのだ。何も気づかないふりをするために、アベルはカインの手に繋がれたまま大人しくしていた。
だが内心はとても穏やかではいられなかった。目的地までの道程も所要時間も分からない。胸が騒いでいる。そう不安だった矢先、
「ああ。すまない。歩き疲れたか?だがもう少しだ。目的地はこの森を抜けた先にある。頑張ってついてこい」
カインは歩きながらこちらを振り返る。何かを押し殺した顔でカインは微笑みを向け、自分たちはちゃんと道のりに沿っているのだとやけに優しげな口調でゆっくりと教えてくれた。
それはまるで幼子に根気強く言い聞かせるような穏やかな声だった。それでもいくら表情を抑えようとも、やはりその内面のすべてを隠しきることはできない。貼り付けられた笑みの奥底からは黒い情念が滲み出ていて、間近で見たアベルの心を締め付けた。
手と手は繋がっているのに、その心は正反対の方を向いている。それを思い知らされた気分だった。
「どうした、アベルよ。最近やけに暗い顔をするのだな。幸先が悪くなるぞ」
「ごめん......僕って心配性だから、その、なんだか兄さんがどこか遠くへ行っちゃいそうな気がして......」
「────……、フン。変なことを言うやつだな。安心しろ。こんな森だが迷うことはない」
カインの、普段から変わらない表情。その表情に、──今この瞬間だけは、知らない感情が交えられている気がして。
アベルはしばし沈黙し、どういった態度を取るべきか悩むように視線をさまよわせていた。弟の煮え切らない態度を後押しするため、カインは改めて繋いだ手を強く握りしめた。
「ほら、行くぞ。俺がどこかに行きそうで不安なら、せいぜい置いていかれないようにしっかりと捕まえていくんだな」
「──うん。そうだね」
アベルはやや考えて、どうあっても伝わらない言葉の代わりに今まで一方的に繋がれた兄の硬い手をぎゅっと握り返すことにした。
そして、今度は半歩後ろではなく、ちゃんとカインの隣に立つ。改めて並び立ちながら歩き出す二人。
「・・・・・・」
視線を向ければ、無言のカインが唇を引き結んで俯いている。じっと握った手を見つめながら歩く彼は不自然に口を固く閉じる。
その感情を意図的に排した表情を見れば、その内心がかえって穏やかならぬものであることが手に取るようにわかる。それでもアベルはそれを追及せず、素直に兄の歩みに速度を合わせる。
その代わり、
「ふふ、なんだか懐かしいね」
──。
────。
────────。
「────」
不意に、彼の鼓膜を震わせたのは、突然の、アベルの懐古──懐かしく、愛おしい記憶を呼び起こすような、そんな調子の思い出語りだった。
「……あ?」
その唐突で、脈絡のない言葉を受け、カインは無感動に、ただ肺の中の息を抜く。
このどこか沈んだ空気で何を言い出したのかと、その行いを嘲弄したり、馬鹿にするニュアンスは特にない。本気で、ただ、困惑とさせられた。
「ほら、子供のときも、よくこうして兄さんと手を繋いで、夜に抜け出して暗い森の中で冒険したり、畑仕事の帰り道に一緒に歩いていたね」
そんなカインの反応を余所に、アベルは指折り、記憶を蘇らせていた。
「兄さんってさ、ぶっきらぼうだけど、なんだかんだいつも僕がはぐれないようにちゃんと手を繋いでくれたよね。本当は人に触れるのが苦手なのに、ね。ほら、僕って鈍感だから、きっと、自分で自覚しないところたくさん、兄さんを困らせていたと思う」
思い出を語るアベルの声に、微かな震えが混じる。
それは喜びと悲しみと、不安と期待と、様々な相反する感情の混ざり合ったものであり、カインの脳裏にもこれまでの思い出が走馬灯のように過った。
しかし、追憶する度に、カインはひどく喉が渇くような感覚に襲われる。
それがひどく鬱陶しくて、アベルの思い出にもカインは「そうだったか」と曖昧な返事に留めた。
「うん。そうだよ。でも、僕にとって、兄さんと過ごした時間は楽しかったよ。兄さんといるといろんなことを知れて、話して、学んだり。確かにいろいろあったけど、それを含めて今の僕と兄さんがいると思うと、すべてが愛おしく思える。──忘れていい思い出なんて、一つもないと思うから」
最後に、アベルは穏やかに自分の思いを語る。最後に重ねられるアベルの言葉は、カインを慰めるようで逆の結果を生み続ける。
「こうして暗い森に二人で手を繋いで歩くのも、なんだか冒険みたいで、ワクワクするねっ!まるで、昔に戻ったかのようにさ」
その顔は、子供のころに何度か見たことのある表情だった。心底楽しくてたまらないという表情。
それを見て、反対にカインは暗澹たる気持ちになっていく。自分はこんなにも過去というものに振り回されているというのに、弟は自分が疎むその過去を嬉々と語っている。
「楽しかった、か」
本当にどこまでも能天気な弟だと、カインは内心嘲笑う。これまでお互いに傷つけ合い過去を『いろいろあった』と一言で済ませ、まるで今はそれを取るに足りないと言わんばかりにアベルは心の底から笑っていた。
想い出とはそういうものだ。渓流の流木や岩肌がツルツルであるように、長い月日を抱えた想い出もそれと同じように角がとれた、やさしい丸みを帯びた姿貌に美化される。
人生とは川の流れのようなもの。人はその流れで洗われ、磨かれる。その流れの中で、辛さや苦しさ、悲しさだけが洗い流され、都合よく綺麗な部分だけが残る…。だから、この期に及んでアベルは『楽しかった』と言えるのだ。
(だが、俺は......私は、決してそうはならない)
いつまでも引きずっていくつもりだ。この胸の中を支配する憎悪も、悪意も。なにせ、カインはもう、「人間」ではないのだから。
俯き、瞑目するカイン。
その口元がかすかに歪んでいたことには、ついに本人すら気付くこともなく。
カインの心はどこまでも暗く、澱み、深みへと深みへと魅入られていた。
前だけを突き進む二人の後ろの茂みが少し、揺れ動いた。




